2026/08/05

出荷される根菜の休日

 


たくさんの大小さまざまな鉄の芯が
曲げられもせずに通されているような、
どうしようもなく凝り固まった身体をどうにかすべく、
ハンマームへ久々に、行く。

随分と昔に行ったお店は、なにもかも、変わっていない。
ただ、お店の中には、従業員とわたしだけだった。
そうか、こんな暑い日にわざわざ、暑い場所へなど
行きたがる人はそんなにいないのだ、と
スチームサウナに入りながらやっと、合点がいく。

時々しか行かないけれど、ハンマームという言葉を聞く時、
わたしはいつも、ごぼうか大根か、にんじんか、
とにかく根菜の出荷を思う。
シリアの広大な畑で採れたにんじんを、
水と機械を駆使しして泥を落とす作業の映像を、
その鮮明な大量のオレンジとともに、思い出すのだ。

だから、硬くて冷たい石でできた台の上に横になる時、
ある程度の覚悟が、できるようになった。
うつ伏せから仰向けになる時、石に当たる骨盤が痛さに
注意しなくてはならなかったこと、などは
しばらく行っていないと忘れてしまっているのだけど。

雑に扱われて当たり前、それでも一生懸命他人の身体を
洗う仕事をしてくれている人々に、感謝をする。


どの土地においても変わらないことだと認識しているのだけど、
マッサージにしろ、身体を洗ってもらうにしろ、
誰が担当になってくれるのか、は運になる。
同じお店へ行っても、人が違えばパフォーマンスも異なり、
そのことについて、優劣をつけるのは、お店へ行く限り
野暮なことだ、という境地になるまで、
ベトナムにいる時さんざん、マッサージへは行った。
それでも、いつも心のどこかで期待は、する。


そのハンマームには、いつも強面のおばさんたちがいる。
お店へ入って、あぁ、そうだった、と思い出す。
強面に強面のサービス、とも限らないけれど、
にんじんの出荷は、このおばさんたちによってなされるという
一連には密接なつながりがある。

過去の経験では、いろいろな人たちに会った。
スーダン人、エジプト人、アルジェリア人。
どのような洗い方であっても、とりあえず
いいサービスを受けるため、コミュニケーションを取ることも
こちらの努力義務として課せられる。
だから、最低限の話をしながら、
懐の深さと人見知りの度合いを
測られていることを意識する。


けれども、今回は強面のおばさんたちの奥から、
にこやかでこまめに、気をかけてくれる人が
わたしの担当についてくれる。


こんなこともあるんだ、と思う。
こういう人の時には、無理にコミュニケーションを取る
必要もないから、随分とリラックスして
まな板の鯉、になることを楽しめる。

身体を洗ったり、マッサージをしてもらった後、
サウナの中でぐったりと寝転ぶ。

スチームサウナもあったかいお風呂もサウナも、
今のところわたしのためだけに稼働している。
それにかかるコストを思うと、だんだん
申し訳ない気持ちになってくる。
何せ暑くて、誰もこないのだ。


すべての工程を終え、身支度を整える。
ずっと面倒をみてくれた人と、最後に話をする。
マッサージがよかった、と伝える。
マッサージを勉強する機会があったようだ、
ということが判明する。
顔つきから、どこかアジア圏の人なのかも、と思う。
出身を尋ねてみると、シリアから来た人だった。



お店を出て、緑の木陰が揺れるテラスに出る。
暑いけれど、湿気はない気候の中で、
常に干からび気味な身体が、少しだけ水気を含む。
水に入れた時の、乾燥わかめみたいに。
身体中に埋め込まれた鉄が、アルミ棒ぐらいに
なったような気がした。





という出来事は、週末の話。
それから5日経った今はもうすっかり、
身体の中は鉄芯だらけで、乾燥わかめか、
ドライにんじんになっている。

他力本願、自助システムができていない、という
根本的な課題とまた、対峙することになる。





2026/08/01

言葉と停電とバケモノ


見事に、あらゆる知覚機能が感度を失っているのか、
単純に思考力が低下しているのか、よくわからないな、と
ぼんやり思いながらただひたすら、仕事をしていた。

久しぶりに真剣に、仕事の文章を書きながら、
ずっと、主語の名詞に合う動詞の使い方やら、
言葉の定義や適切な組み合わせやら、が
無駄に気になって、確認作業をする。

いろいろと、本当に確実には、
できるかできないかわからないものを、
持続したり、維持したり、
構築したり、整備したり、
機能したり、能動化したり、
実施したり、実践したり、
実装したり、運用したり。

谷川俊太郎が同じ業界にいたら、
素敵に皮肉な詩を作ったことだろう。

もっとも、こんな仕事に俊太郎がいたらきっと、
詩を作ろうとする魂など、とっくに消えてしまっているだろうけど。


同じような状況の人たちと話をしていて、
違う言葉を連呼している事例などを聞くと、
あぁ、全然、寄与していないな、とか、
還元していないな、とか、
字面の中から、ストーリーの行方や方向性の違いに、
反省したりする。


言葉の正確さを思う時、
随分とぼやぼやしたものを毎日無意識に
使っている、と思う。
巨大に引き伸ばされた一つの言葉を
都合よく文脈に合わせ、都合よく相手の想像力に任せ、
乱暴に使っていることを認識する。

日常の会話となると、どこかで、きちんと表したい、という欲が出るから、
うまい喩えはないだろうか、と頭のどこかで考えていたりする。
平易な言葉を使っていても、うまく喩えができるならば、
一言の的確らしい言葉選びよりも、言い当てられたりもする。


日本にいると、冗長だと言われる。
Redundant、英語の語源などわからないけれど、
文字の並びだけでも、冗長さが伝わってきて、
日常では滅多に使わないけれど、妙に鮮明に覚えている単語だ。

なぜ、冗長という言葉を使わないかと言ったら、
こちらの多く人は基本的に、冗長だからだ。
おしゃべり好きが多いし、そうではない人でも、
仕事であれば、説明や報告や言い訳になる。
分からないことを細かく聞けば聞くほど、
話は長くなり、新たな問題が出てきたりして、
当初の要点が何だったかこちらも、見失う現象に陥る。

日本の賢い人と話をしていて、
つまりこういうことですね、と端的に整理されると、
顔が真っ赤になるほど恥ずかしいのは、
一応、自覚があるからだ。


日常の会話が、共通の地平や知識、認識の上で
成り立っている時とそうでない時では、
また、勝手が違う。
例えば、ある面白い出来事について話をしている時、
その背後にどんな文脈があるのか知らない人に
話をしようと思ったりするともう、果てしなくなり、
結局何も面白さが伝わらない現象は、よくある。

もしくは、面白いこと、として話しているのに、
聞き手が真面目で、深刻な表情をしてしまう。
中東あるある、だ。

そして、共通の視座を持っている人でもまた、
思い出せる状況の細部の取捨選択をしたとして、
話のパンチラインは、これとあれを抜いては成立しない、などと
積み上げにかかったりする。
結果長すぎて、うっすら笑えるけど、
狙いははずしてしまったりするわけだ。

地域や職種や、ステイタスという共通項の中でのみ
成立する会話の、背景や一つ一つの言葉には、
大量の隠れた情報と感情、感覚がある。
それらをすべて言葉にする、という作業も興味深そうだ。

誰と話していても、冗長ではなく上手に伝えられる人は
隠されたさまざまの中から、誰もが思うであろう感情を伴う情報を
話しながら的確に選んでいける人なのだと思う。


日常的な話ではなく、仕事で説明となると、
いかに簡潔に、的確な言葉を使って、
必要なできるかぎりのことを書けるか、という
能力が必要になってくる。

冗長に書いた書面を見ながら、同じことを言っている部分を消し、
骨子を整理し、文章を入れ替え、筋を通す。
この作業をしている時、わたしはいつも、
筋を通して、論理的にする、という行為は
時としてなかなか暴力的だと思う。
これについては、日常生活においても同じだと言えるけど。

消された文章の中に入れていた、たぶん重要ではないけれど、
実在する物事や、それに伴う小さな困りごとや不満や不安や美点もまた、
一掃してしまうという事実に、
結局いつも、ごめんなさい、と謝っている。
もっと端的に表して入れられたら、と努力はするけれど、
大方のものは、客観的に見て必要ではない、と判断されるのは、
書き方が悪いからだ。

そして、どんどん単語が抽象的になっていく。
詳細は具体性につながり、そういうものの多くは
必要とされていないからだ。

自分が書いたはずのものが、バケモノみたいに見えてくる。
もしくは、つるつるに無機質な、巨大な建物のように。
おかしな現象だと、思う。
私の書いていたものは、人を相手にしているはずなのに。




一連の仕事に期限がやってくる。
まだ見ぬ、巨大な何かの影が、それでも、
収まるところに収まり、ふと、日常がやってくる。

大きく成長した、それこそバケモノみたいな、
ブーゲンビリアを見上げる。
これは電線にきっとそのうち触って、ショートの原因になるだろう、
水のあげすぎなのだ、けれどもとにかく、
立派にのびのびと育っている。
今まで気にも留めなかったものものが見えてくる。

電気のこない真夜中の暗闇を想像する。

暗闇の、そこはかとない不安や恐怖や不満を
読み手もまた、感じることがあるのだろうか。
人のことについて書いたものを、読む人々の、
思考回路と想像力を思う。









バケモノにはバケモノを、と一瞬でもわたしは
思っていなかっただろうか、と思う。
必死で言葉の正確さを確認していたけれど、
何かもっと根本的に大切なものを、
もっと素直に書くべきだったのかもしれない。
突き詰めればきっと、言葉の正確さと人間の間に、
納得のいくバランスがあったのかもしれない。


新しくリリースされた内田光子のベートヴェン最後の3つのソナタを
やっとゆっくり、聴く。
構造、構成、構築。
音楽の世界では、これらはとても大事な要素た。
内田光子の過去の解説などを聞くと、本人自身はそれほどこのことに、
言及はしていない。
けれども演奏からは明確な構造への意識が、透けて見える。

なのに、彼女はいつも、違う話をしていた。

構造はあくまで土台、という認識なのだろう。
その上に表したいこと、についてのみ
彼女は憑かれたように話していた。

何かを極めるとは、絵画にしろ、彫刻にしろ、
そういうことだったなんて、身を持ってよく知っていたはずなのに、
こんなに忘れやすいものなのだろうか、と
自分の汎用性のなさに、呆然とする。


おかしなほどに、ブーゲンビリアと内田光子は合わない。
そして、昼間のアンマンは久々の猛暑、
使いすぎが原因で、電気が止まる。

わたしはしばらく、この暑さと向き合うのだろう。


追記;
アラビア語でブーゲンビリアは、頭の狂ったもの(人)と
名付けられている。
馬鹿みたいに成長してどんどんと蔦を伸ばしていくからだ。
でも、よく植えられているし、人々はその
濃いピンク色の花を愛でている。
おかしなもの、への隔たりのなさ、を時々思う。



2026/05/03

川を眺め、石を凝視する

 





濃い緑の常緑樹、4月なのに黄色い葉を落とす巨大な街路樹、
高い建物の間から、少し埃をかぶった緑色が見える景色、
ジャカランダの薄紫の花びらに覆われた道路、
ほんの少し湿った、涼しい風。

ひどく懐かしいものを見るように、黄土の色の建物と緑の合間を、
ずっと少し、見上げながら歩く。
図らずも、仕事の調整がうまくいかず、
たっぷりと観光にばかり時間ができたカイロの街を、
随分と気に入るに十分な、よい季節だ。

ホーチミンの街を思い出すのは、
景色もそうだけれど、川があるからだろう。

川が好きなのは、単純に、実家の近くにも大きな川があったから。
川の流れを眺めるのが、当たり前だったから、
どこかいつも、豊かな水に飢えている。

ナイル川は見慣れていたどの川よりも深く、
水流に水辺の植物を浮かせて、時にゆっくりと、
時に渦を巻き、ひたすらに流れる。


橋を歩いて渡るのも、久しぶりだった。
川から吹き上がる風と、開けた景観を見つめる時の気持ちよさを、
何度も求めて、歩き続ける。

街を歩くのが楽しかったのは、
とにかく建物の意匠が見事だったからだ。
窓やドアにしつらえられた鉄の稜線が面白く、
看板のアラビア語も、会社や団体のデザインも、
一つ一つ見物するに足る良さがあった。
それもまた、ホーチミンに似ている。

車もリキシャもバイクも馬も混在しているのは、
カイロの方が難易度が上級だけれど、
あまり道を渡るのに苦労しなかったのは、
ホーチミンで生活していたおかげだ。


私のアラビア語はさっぱり通じている気配がなかった。
挨拶が異なるらしいと知り、変えてみたら、なんだか少し
人々の笑顔が増えた気もする。
公共施設の職員たちは、無愛想と普通とが半々ぐらいで、
感覚をつかめば、それ相応にこちらも、心構えができる。

そういう、新しい土地への感覚を使うこともまた、
久しくしていなかったせいか、新鮮に感じる。

いろんな人が、思い思いに好きなように、
過ごしている姿も、久しぶりに見た気がする。

ヨルダンは行動様式がある程度、決まっている。
そんなに突拍子もないところでバスが客を乗せたり、
昼間から母子たちが川をぼんやり眺めていたり、
若者たちが仲のいいつがいの鳩みたいに至るところにいる様子は、
なかなか見られない。






色や線に願いを込めるのをよしとしなかったのか、
中学の美術の授業はひたすら、美術史だった。
特に、なぜだか美術の先生が熱を入れたのが、
古代エジプト美術だった。
王の名前はさっぱり覚えられなかったけれど、
なぜ、こんな巨大な建造物を作り続けたのか、
なぜ、あんなに立派な墓を作り続けたのか、
その理由だけはみっちりと叩き込まれた。

そんなに生まれ変わりたいのか、と心のどこかで呆れながら、
それでも、ひどく乾いた建造物の中に、
金と色鮮やかな装飾が隠れていることに、
不思議と命への執念と情熱と儚さを、
どこか畏怖を抱えながら、感じ続けた記憶。





そこへほどよく、昔身体で学んだ石の手強さが加わると、
死や生命を直接手に取るような表現と、
ひたすら石工として働き続けた職人たちの心持ちとの、
アンバランスさが奇妙に入り混じり、なんだか、
概念とか思想とか、そういうものを支えるのは結局、
とても物理的にソリッドなものなのだ、とか、
本当なのか嘘なのかわからないことが、啓示のように降りてくる。



随分と大量の棺桶を、随分と大量の石像を見る。
閃緑岩や玄武岩がつるつるに磨かれているのを見るたびに、
それを磨き続けることを仕事とした人々の、
単純で終わりのない作業を思う。
棺桶の意匠も、細工を作り続けた人々の、
眉間の皺を想像する。
そんなことに思いを馳せること自体が久しぶりで、
思わず、みながら笑みがこぼれていたのではないか、と恥ずかしい。




ウンム・カルトゥームのミュージアムへ行く。
フェイルーズほどの思い入れはないけれど、
とりあえずは毎晩どこかで耳にしている歌を歌った人が、
どんな人生だったかを見ておこう、と思った。

人の気配のない、小さく静かなミュージアムは、
特に解説などの説明文があるわけでもなく、
彼女が受け取った謝辞やメダルに溢れていて、
つまりはそういうものの蓄積で、彼女の人生を知るように、
できていた。

美空ひばりなら、同じ布で2着はつくれただろうな、と思えてくる
たっぷりとした衣装を見つめ、
若かった頃のサングラスなしの写真を眺め、出る。




隣には、Nilometerなるものが、あった。
脈絡なく、たまたま隣にあった。
入場料に、もうひとこえすると、地下まで降りられる。

過去に農業にかかる税金を決定し、
穀物の備蓄計画を立てるのに使われたその建物は、
おそらく、信じられないほどたくさんの人々の
生活を左右してきたのだろう。

水を取り入れていたその役割を果たす構造は見事なのだろうけれど、
1200年以上前からある、地下部分は意外と簡素で、
その上に、ぽこっと、近代に作られた金地に柄をちりばめた
天蓋が乗っかっていた。




どれだけの人々が、地上から地下に掘られた穴を覗き込んでいただろう、
期待や失望とともに。
地下へ続くすり減った石の階段を降りながら、
底まで降りる年がなかったことを今更遅いけれど、
願うことになった。




そういえば、過去の人々に思いを馳せることなど、
これもまた、久しくしていなかったと、気づく。

そもそも、あらゆるものごとへの想像力を
もはや働かせないようにしようと、制御しようとさえ、
していたのかもしれない。

目に映り通り過ぎていく人々の日常、
目の前の人のひそやかな感情の機微は、
見えるもの以上ではない、耳にした言葉以上ではない、
想像で補ってきた余地に、無理やり砂を詰め
さまざまな思いを生き埋めにしてきたような、気がしてくる。

遠い昔の人の方が、想像するには心やすく、より自由だ。
ディテールは消えて、都合よく、
感覚的な共通項を手繰り寄せる作業になる。

それでも、ものから、その語りを引き出す
物語の作業は、単純に楽しかった、と思い出す。
それが、では概念や思想までも広がりを持たせられるか、といったら
それほどの想像力も思考力もない。けれども、
そこに、ものがある、ということの意味と重みが、
不思議な広がりを持って魅力的に見えるという現象を、
久方ぶりに、いくらかでも経験できたのは、ありがたい。

きっと、どこに住もうともこういう経験は、
自分の感覚さえ開いていれば、いくらでもできるのだろう。

けれども、日常は慣れと消去の繰り返しで、できている。

だから、旅好きの人がいるのだろう。

旅のあまり好きではないわたしは、
今さらだけど、諦めと後悔と、ほんの少しの希望を持って、
悔い改められるかどうか、自分に問うている。








2025/12/07

復活する 音のある生活 

 
心底、漢字がよくできている、と思うものに、
忙しい、という文字がある。
心を亡なう、とは、まさにそうだな、と思う。

ひどくどうでもいい心配ごとに心奪われ、
よくよく空を見ることもなく、
無駄に疲れてしまう。
客観的視点で、どうでもいいことなのだ、と言われても、
それらをうまく消化できないのは、
もはや、歳のせいで、下らないこだわりなのかもしれない。

20歳そこそこで、「こだわりがないのがこだわりです」
と言った、昔の同僚の言葉が、今や身に沁みる。


いい音楽が聴きたい、と心底思いながら
壊れたスピーカーの入った箱を恨めしく眺める。
日本に居たら聴けたはずの、たくさんのいい演奏への
妬みが膨れ上がる。
随分大きいのに、無理して日本から持ってきたHarman /Kardon。
低音がぶよぶよしてしまったある日、
失望とともに箱にしまわれる。



昨日雨が降る、わたしがヨルダンにいる間で、
5月ぶりの、久しぶりの雨だ。

雨の日には、チェリビダッケのクープランの墓を聴く。
これは決まりごとで、この演奏を愛でるのに、
一番だと思っている。
味気ない高音だけが目立つiPadからの音に、
雨音が負ける。
そうじゃないんだよな、と思う。
けれども、Sonyのヘッドフォンでは、
雨音とクープランの墓を同時に愛でることはできない。

箱にしまっておいたスピーカーを取り出して、
恨めしさのあまり、裏側のコーンを押さえつける。
どうせ壊れているのだし、直せるお店もこの国にはない。

つよく押さえたら、スピーカーのコーンについていた
プラスティックのカバーが外れた。
こいつが、音をぶよぶよさせていたのかもしれない。




小さい頃、テレビの回線がおかしくなると、
テレビを叩いて直したのと同じ。
荒治療が功をなすこともあるなんて、忘れていた。
大学生の頃、壊れたステレオを
水洗いして乾かしていたことも、思い出す。


とりあえず、低音を確認するために、
James BlakeのUnluckを聴く。
タイトル通り、運がないことの反対を、
おまじないのように再生する。



正確に、ブーストされた電子音が、
少し不規則なりに、乱れなく、身体に響く。
初めてこの曲を新宿のTower Recordで視聴した時の、
衝撃が蘇る


ずっと、ヘッドフォンでしか聴けなかった
ジョン・コルトレーンのMy favorite thingsの
さびれたサックスが、小さな部屋で静かに弾ける。


マーラー7番、サイモン・ラトルとバイエルンの演奏を聴く。
全然いい席ではなかった、東京文化会館のホールで
それでも、何もかもが肯定されたような、
圧倒的な包摂の感覚を、ほんの少しだけだけれど、思い起こさせた。


バイエルンつながりで、チョン・ミョンフンの
ベートーヴェン3番が朗々と、でも、小気味良い拍を打って、
溢れ出す。

James BlakeのA Case of youの、徹頭徹尾、私小説的な
ひどく親密な音が、充満する。
I could drink a case of you
ワインを1ダースも飲めないけれど、ウィスキーが
いくばくか、身体を温かくしてくれる。



ベースラインの洒落っ気と、心地よいスケール、
鍵盤ハーモニカの哀愁と表現力を思う存分楽しませてくれる、
きちんと湿度があって、でも、無駄に拘泥しないインドネシアの
My favorite thingsが、自由に踊るピアノとドラムと
青く煌めく緑をバックに、調を色彩豊かな音を描く。




そして、いつでも、どこまでもやさしくあったかく、
身体を切り刻むように切なく、透徹した視点を携えた、
Jeff BuckleyのHallelujahを再生して、口遊む。



けれども、湿度は雨季のヨルダンだけで十分だから、
打ち込みがどこまでも緻密に作り込まれているけれど、
サティ的な突き放し、淡白さででも、重めの歌声の、
教授のPerspectiveで、均等を図ろうとする。



アルバム、/04/05のPerspectiveはとても淡々としているのに、
このヴァージョンは、危うい均衡の上で、
どうにも避けようのない、人の業をなぞる。


所詮、人間に生まれてきたということは、
正義や理性だけでは制御できないものごととの
闘いの中に生きるということだ。
明晰であろうとする脳みそも、業との
拮抗と葛藤の中に絡め取られる。

そして、何よりも単純に、身体的な寒さには勝てない。

だから、せめて親密な音を再生してくれるスピーカーが
復活してくれたことを喜んで、
いよいよ寒くなってきたアンマンを、
生き延びることとする。





2025/09/27

かろみ、と、My favorite things

 
雲が出てきた。
深夜の静かな部屋に、冷たい空気が流れ込む。
随分久しぶりに、ほんのわずかな湿気を感じる。




仕事が忙しいから、というのは言い訳にならないほど、
周囲にあるものものを、深く味わう心持ちが抱けなくなる。
自動的に、音楽を聴く状態に、あまり身を置けなくなった。

ある意味、死活問題だ。


かろみ、という言葉を最近よく思い浮かべている。
軽やかさをうまく持てないからだ。
一体その言葉がわたしにとって、どんな重要な意味があり、
それを携えて暮らすことがどのような状態なのか、
思い出せない。

かろみ、という言葉が文字通り、かろやかに宙に浮かぶ。

額のすぐ先あたりに、かろみ、と書かれたプレートが、
馬にとってのにんじんのように、ぶらぶらしている。
いつまでたっても、手に入れられないのに、
テーマだけが、概念だけが、目の上でちらつく。






Raindrops on roses and whiskers on kittensBright copper kettles and warm woolen mittensBrown paper packages tied up with stringsThese are a few of my favorite things


小さい頃に字幕で見た日本語の歌詞は、
昔の映画にありがちな、白くいくらか丸い文字で訳された言葉の列で、
読めたり読めなかったりする漢字があったはずだから、
歌詞に愛着を持ち始めたのは、英語の歌が歌えるぐらい
随分と大きくなってからだった。

歌詞だけではなく、ストーリーもどこまで分かっていたのか
実に怪しい。
ナチスを逃れて亡命をする背景も理由もわかっていなかったから、
So long Farewellを歌いながら一人づつ抜けていくシーンも、
一緒に旋律や間奏部分を鼻歌でなぞりながら見ていた。



小さい頃、家にあった数少ない子ども向けのビデオの中に、
Sound of Musicがあった。
実にある意味、教育的な選択を親は積極的にしていたわけだ。
合唱やらピアノやらを習っている子どもたちに、
ちょうどいいと思ったのだろう。


ジュリー・アンドリュースの伸びやかで曇りのない歌声は、
教科書のようにわたしの歌声の基本となる。

その後、大きくなってから紙タバコを吸いまくり、
どれだけ、黒人のジャズシンガーたちの声音に憧れても、
うたのおねえさんのような音しか、喉からは出てこなくて、
ついに1ミリも、声音の深みを手に入れられなかったのは、
このビデオのせいだと、思っている。

聴いていた声音が乗り移ることなどないのだけれど、
子どもの頃に刷り込まれた正しさ、のようなものが
見事に声帯を作り上げた、残念な例。


Sound of Musicの映画の中の曲たちの旋律の多くは、
決してシンプルではなく
伴奏の和音も含めて、随分凝っている。
けれども子どもの時分には、
ドレミの歌やエーデルワイスのように、
旋律にも「道徳的」という言葉を使えるのであれば、
まさにそんな、旋律の正当性を塊にしたような
子どもの耳にも触りのいい曲を歌いがちだった。


その中で、My favorite thingsは少し、毛色が異なっていた。
では小さい頃からどうして、この曲を気に入っていたか。
あの、納まらない、不可思議な旋律にあったのだと思う。

雷の夜、怖がる子どもたちに向かって、
ジュリーが歌い始める。

青いサテンの帯のついた白いドレス、
鼻とまつげにかかる白い粉雪、
暖かな毛糸のミトン、
月に羽を広げて羽ばたくグース、
の歌詞から広がる想像だけは、うっすらと記憶にある。
特に、青いサテンの帯、
家の壁に貼ってあったルノワールのポスターの、
ふっくらかわいらしい少女の着ていた服と、重なる。

けれども、子どもながらに可愛らしい、うらやましいと思えたものものと
旋律にうまく折り合いがつかなかった。







サラ・ヴォーンのMy favorite thingsも有名だけれど、
彼女のかすかにざらつく声音、時折低音でほんの少し屈む、
すっと背中を撫でられるような瞬間など、
当然、再現できるはずもない。







わたしのこの歌への印象に一番近いのは、
羊毛とおはなのヴァージョンだったりする。
朗朗と歌うには、あまりに小さきものものに溢れているこの歌詞に、
子音が耳に心地いいあの歌声が、すっぽりと納まる。



大方、この歌を歌う時は、気分のすぐれない時だった。

好きだと歌う一つずつ、を想像しながら、
その小さきものものを愛でる時の感覚を、思い出そうとする。
好きなものの羅列が、心をいくらかでも軽くしてくれる、
そんなことも時には、あっていいはず。

I simply remember my favorite things
And then I don't feel so bad.

けれども大体、そんなにうまくいくはずもない。

それでもこの歌の歌詞は、とてもいいと思う。
青いサテンのリボンのついた服を着たいとはもう、思わないけれど、
取り上げているものの小ささと、形容詞の選び方、
”わたしはただ、好きなものを思い出して”
”そんなに悪い気分でもなくなる”
この、なんとも控えめな表現が、随分と正確に
心持ちを言い当てているな、と思う。

その妙な具合に、しっくりくる易しい言葉の並びだけに、
たとえ歌ったとて気分が晴れなくとも、
ただ単純に、感心する。






先日初めて、ヨルダンのジャズフェスへ行った。
ピアノ、ドラム、ベースのトリオが演奏するMy favorite thingsに
歌そのものを思い出し、帰り道に口づさもうとして、
2番の途中から歌詞を思い出せなくなって、頓挫する。

携帯で歌詞を読みながら、小さく歌う。
羅列されるものものの、多くの人にとって
ひどくtrivialであることが、
浮遊感のある旋律の中で混じり合い、
ふと、かろみ、を思い出す。



よくジャズを聴いていた頃、
My favorite thingsのアレンジで、セッションやバンドが
自分の好みと合っているか判断する傾向があった。
久しぶりの生バンドが、心底気に入ったかと言ったら、
そうでもないけれど、
My favorite thingsを演奏してくれただけでも、
聴きに行った甲斐があった。






それから、ベタではあるけれどやっぱり大好きな
ジョン・コルトレーンのMy favorite thingsを時々、
朝っぱらから聴きつつ、通勤をしている。

ぱりっとしたピアノとドラムのイントロに続く
枯れたサックスの音は、
純白の冬が溶けて春になる様も、
素敵なプレゼントの入った茶色い包み紙も
想起させてくれたりはしない。

乾いたドラムの地味なGrooveと旋律のわだかまりの中を、
感傷の影など微塵も感じさせまい、という意志的な
サックスの音が突き抜ける。
えも言われぬ開放感を感じさせる組み合わせが
ヘッドホンから脳みそに流れ込んでくる。

そんなに簡単に、かろみなど手に入れられない、
それでももしかしたら、I don't feel so badであれるかもしれない、
そう思って、1日を始めることにしている。