2025/09/05

カフカと、心の中の装置

 


カフカの寓話集の中でも、ひどく印象に残っているのが
「巣穴」という話だ。
地下に住む動物が、自分を守るための最上の空間を作ろうと腐心する。
巣穴の構造は最上のもの、自分を守り、自分にとって快適で、静謐で、
子どものように転げ回れるような場であるはずだった。
けれども、敵が侵入してくるかもしれない、
食糧の貯蔵場所に問題があるかもしれない、自らの頭を擡げる不安や疑心から、
安全な場である巣穴から出て、
巣穴の入り口が他の動物に知られていないかひたすら監視したり、
巣穴の中でわずかに聞こえる、誰かが穴を掘る音がひどく気になり始めたり、する。

自分を守るために作ったはずの巣穴が、
入り口を監視することにより、守る対象に変わり、
巣穴のわずかな綻びのせいで、自分の思慮の深さを疑い、
完璧には直せない忍耐力の衰えに、自分の老いを自覚する。

カフカの短編の中でもとりわけ、
人の心のうちの不安や疑心や恐怖の変遷が、丹念に描かれている。
初めてこの短編を読んだ時、見事な心理描写だと、舌を巻いた。



なぜその本を手に取ってしまったかと言えば、
なけなしの、そして鼻につく、絵に描いたような理想を、
いくらかでも自分の中で体現させたかったからだ。

他者への理解を深める努力を怠らないこと。

この作業が、これほどまで疲弊させ、虚しいものだとは知らなかった。
本の選択そのものが、ナメてたのだ、と指摘されるだろう、
あらゆる方面から。









小柄で若い女性が、その職務を全うしようとして、私の前にいる。
わたしをわざわざ目の前に立たせる、犬と飼い主みたいに。

けれども、わたしはその人の職務が何なのか、
途中まで真に理解していない。
あるいは、途中から彼女の職務の内容は変わったのかもしれない。
スキャニングから、排除への移行を、見定められなかったのは、
にこやかに質問に答えようとした表情の下で、
矢継ぎ早にくる脈絡のない質問への回答と、彼女の心のうちを、
同時に考える余裕がなかったからだ。

苛立つ相手を目の前にして、確かに心中は焦っていた。
そして、最後にわたしにとっては当たり前の、
けれども、彼女の理屈では好都合な致命的な欠点を、見せてしまう。

そして、質問は終了する。
もしこれが試合ならば、わたしはただ完敗しただけだ。
たとえどれほど卑怯な、合理の伴わないルールの試合であったとしても、
その試合に臨まなければ先に進めないのならば、やるしかなかった。



たくさんの人々が列になり、時々弾かれたりしつつ、
ほとんどが先へ進んでいく様子を見つめる。
意気揚々とした小さな子どもたちがいたり、
疲弊しきった顔の大人がいたりする。
それぞれが人としての尊厳を携えて、並んでいる。

いつか見た映画のワンシーン、強制収容所へ向かう人々の列を思い出す。


最後の質問と、短い宣告のあと、
待てと言われて待っていたその時間は、すでに30分以上経過していた。

ゲームオーバーなのはわかっている、
その事実と向き合うだけで精一杯で、ただ茫然と
さっき起きたできごとと、目の前の人々を
見つめ続ける。
いやなものだ、試合の敗北の詳細を、見つめ続けるというものは。


わたしの目の前を、質問し続け、ゲームオーバーを宣告した女性が通っていく。
同僚とかろやかに挨拶をし、わたしに目を向ける。

あなたはもう行けないってわかっているのに、どうしてここにいるの?
振り返りざまに、そう言った。

その質問に対して、丁寧に返答したつもりだけれど、
それまで我慢していた分だけ、語気は明らかに強かった。
高い天井に、たくさんの人々の会話と、巨大な空調機械、
音の膨れ上がるような場所だったから、大きな声、
思わず言いながら立ち上がったわたしは、
心底、その質問に腹が立っていた。

いや、あなたがここで待っていろと言ったから、ここで待っている。

ふと、彼女の表情が一瞬、怯えたようにひよる。
一瞬だけだ。
けれども、わたしだって見逃さない。
そして、その表情にわたしは、
今までの人生で抱いたことのない、怒りと困惑と絶望を覚える。










40度を超える熱い大地を生き延びる灌木と、
淡い黄土色の砂が混じる、人のいない土地を走るバスの中で、
疲れ切った脳みそはそれでもなお、働き続ける。
今起きたことを、わたしの中で処理をしなくてはならない。

彼女の日常について、想像する。
家族がいて、友人たちがいて、仕事が終わったら
食事をしたり、街で遊ぶ、クラブへ行ったり、バーへ行ったり、
笑い合う人々がいて、楽しい時間がきっと、ある、だろう。

彼女はおそらく、とても真面目で優秀で、
もし彼女がわたしが何者かわからず、
例えば、バーで隣の席にたまたま座ったならば、
いくらかアジア人差別はあったとしても、それなりにBe niceであろうとする
分別と礼儀正しさを持った人だろう。

ごくありふれた普通の若い女性の日常、
それなりに会ったことのある、白人の人物像。

職務はあっても、それは仕事の時だけのものであって、
他の時間と混同、混在することはない。
混在させない方法を、彼女は知っている。
必ずあるはずの、他者の尊厳を
彼女の意識の中で潜在的に奪うことによって。





わたしは篩い落とされる。

それは、壮大な装置のように見える。
人間が人間の良心を持たず、
それゆえに、人間を介していないように無機質な
巨大な工場のようなものだ。
全貌はまったく見えないし、見たいとも思わないけれど、
確実にこの世界には存在している。
人間の膨れ上がったさまざまな類の恐怖心を
あらゆる手を尽くして結晶化させた物質で作り上げられている。
しかもその巨大な工場が、国の中にも社会にも組織の中にも、
そして人一人の心の中にも存在している。


その中で、わたしはものになり、篩い落とされる。
篩い落とされる経験も、したくないものだが、
何より、その装置を持った一人の人間と対峙したことが
信じられないほどに、哀しい。


そんな経験をしなくてはならない場面に、
幸いなことに今までそれほど、遭ったことはなかった。
日本にだって、その工場は存在し、わたしのように
人権も尊厳もなく、篩い落とされる人がいる。
わたしはたまたま、日本に生まれ、運がよかっただけだ。


カフカが生きていたら、今の状況をどう捉えるだろう。
カフカは篩い落とされる人間たちの姿も描き、
自らの民族性への情熱もまた、晩年は心の中に温めていた。

本来、真の意味でコレクティブトラウマの全貌を理解しているならば
反目しうるはずのないものが、異常なまでに反目している、
そんな断片であったはずの世界が、どんどんと全貌へと変容しつつある。

どんな見当違いな言い訳でもいいから、今のこの世界を
カフカがカフカなりに処理し、整理した短編が出たのならば、
わたしはその話を、ぜひ読んでみたい。




追記;
わたしが大好きだった演奏家たちと、作曲家たちと、
指揮者たちの演奏をしばらく、再生できないでいる。
カフカと同様に、すべての過去の、現在の音楽家たちの
首根っこを掴んで今の状況をどう捉えているのか、
音楽でも言葉でもなんでもいいから、説明しろ、と
訴えたい。

民族や血族に括られる側の苦しさもあるだろう。
けれども、一流の表現者ならば、なおさら、目を背けてはならない。
もし、今起きていることもまた、人間の生み出していることであり、
そんな人間がまた、創り出すものが音楽であり、
その美しさもおぞましさも表現するのに、おそらく
あなたたち民族は今のところ、一番長けているだろうから。



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