2025/09/27

かろみ、と、My favorite things

 
雲が出てきた。
深夜の静かな部屋に、冷たい空気が流れ込む。
随分久しぶりに、ほんのわずかな湿気を感じる。




仕事が忙しいから、というのは言い訳にならないほど、
周囲にあるものものを、深く味わう心持ちが抱けなくなる。
自動的に、音楽を聴く状態に、あまり身を置けなくなった。

ある意味、死活問題だ。


かろみ、という言葉を最近よく思い浮かべている。
軽やかさをうまく持てないからだ。
一体その言葉がわたしにとって、どんな重要な意味があり、
それを携えて暮らすことがどのような状態なのか、
思い出せない。

かろみ、という言葉が文字通り、かろやかに宙に浮かぶ。

額のすぐ先あたりに、かろみ、と書かれたプレートが、
馬にとってのにんじんのように、ぶらぶらしている。
いつまでたっても、手に入れられないのに、
テーマだけが、概念だけが、目の上でちらつく。






Raindrops on roses and whiskers on kittensBright copper kettles and warm woolen mittensBrown paper packages tied up with stringsThese are a few of my favorite things


小さい頃に字幕で見た日本語の歌詞は、
昔の映画にありがちな、白くいくらか丸い文字で訳された言葉の列で、
読めたり読めなかったりする漢字があったはずだから、
歌詞に愛着を持ち始めたのは、英語の歌が歌えるぐらい
随分と大きくなってからだった。

歌詞だけではなく、ストーリーもどこまで分かっていたのか
実に怪しい。
ナチスを逃れて亡命をする背景も理由もわかっていなかったから、
So long Farewellを歌いながら一人づつ抜けていくシーンも、
一緒に旋律や間奏部分を鼻歌でなぞりながら見ていた。



小さい頃、家にあった数少ない子ども向けのビデオの中に、
Sound of Musicがあった。
実にある意味、教育的な選択を親は積極的にしていたわけだ。
合唱やらピアノやらを習っている子どもたちに、
ちょうどいいと思ったのだろう。


ジュリー・アンドリュースの伸びやかで曇りのない歌声は、
教科書のようにわたしの歌声の基本となる。

その後、大きくなってから紙タバコを吸いまくり、
どれだけ、黒人のジャズシンガーたちの声音に憧れても、
うたのおねえさんのような音しか、喉からは出てこなくて、
ついに1ミリも、声音の深みを手に入れられなかったのは、
このビデオのせいだと、思っている。

聴いていた声音が乗り移ることなどないのだけれど、
子どもの頃に刷り込まれた正しさ、のようなものが
見事に声帯を作り上げた、残念な例。


Sound of Musicの映画の中の曲たちの旋律の多くは、
決してシンプルではなく
伴奏の和音も含めて、随分凝っている。
けれども子どもの時分には、
ドレミの歌やエーデルワイスのように、
旋律にも「道徳的」という言葉を使えるのであれば、
まさにそんな、旋律の正当性を塊にしたような
子どもの耳にも触りのいい曲を歌いがちだった。


その中で、My favorite thingsは少し、毛色が異なっていた。
では小さい頃からどうして、この曲を気に入っていたか。
あの、納まらない、不可思議な旋律にあったのだと思う。

雷の夜、怖がる子どもたちに向かって、
ジュリーが歌い始める。

青いサテンの帯のついた白いドレス、
鼻とまつげにかかる白い粉雪、
暖かな毛糸のミトン、
月に羽を広げて羽ばたくグース、
の歌詞から広がる想像だけは、うっすらと記憶にある。
特に、青いサテンの帯、
家の壁に貼ってあったルノワールのポスターの、
ふっくらかわいらしい少女の着ていた服と、重なる。

けれども、子どもながらに可愛らしい、うらやましいと思えたものものと
旋律にうまく折り合いがつかなかった。







サラ・ヴォーンのMy favorite thingsも有名だけれど、
彼女のかすかにざらつく声音、時折低音でほんの少し屈む、
すっと背中を撫でられるような瞬間など、
当然、再現できるはずもない。







わたしのこの歌への印象に一番近いのは、
羊毛とおはなのヴァージョンだったりする。
朗朗と歌うには、あまりに小さきものものに溢れているこの歌詞に、
子音が耳に心地いいあの歌声が、すっぽりと納まる。



大方、この歌を歌う時は、気分のすぐれない時だった。

好きだと歌う一つずつ、を想像しながら、
その小さきものものを愛でる時の感覚を、思い出そうとする。
好きなものの羅列が、心をいくらかでも軽くしてくれる、
そんなことも時には、あっていいはず。

I simply remember my favorite things
And then I don't feel so bad.

けれども大体、そんなにうまくいくはずもない。

それでもこの歌の歌詞は、とてもいいと思う。
青いサテンのリボンのついた服を着たいとはもう、思わないけれど、
取り上げているものの小ささと、形容詞の選び方、
”わたしはただ、好きなものを思い出して”
”そんなに悪い気分でもなくなる”
この、なんとも控えめな表現が、随分と正確に
心持ちを言い当てているな、と思う。

その妙な具合に、しっくりくる易しい言葉の並びだけに、
たとえ歌ったとて気分が晴れなくとも、
ただ単純に、感心する。






先日初めて、ヨルダンのジャズフェスへ行った。
ピアノ、ドラム、ベースのトリオが演奏するMy favorite thingsに
歌そのものを思い出し、帰り道に口づさもうとして、
2番の途中から歌詞を思い出せなくなって、頓挫する。

携帯で歌詞を読みながら、小さく歌う。
羅列されるものものの、多くの人にとって
ひどくtrivialであることが、
浮遊感のある旋律の中で混じり合い、
ふと、かろみ、を思い出す。



よくジャズを聴いていた頃、
My favorite thingsのアレンジで、セッションやバンドが
自分の好みと合っているか判断する傾向があった。
久しぶりの生バンドが、心底気に入ったかと言ったら、
そうでもないけれど、
My favorite thingsを演奏してくれただけでも、
聴きに行った甲斐があった。






それから、ベタではあるけれどやっぱり大好きな
ジョン・コルトレーンのMy favorite thingsを時々、
朝っぱらから聴きつつ、通勤をしている。

ぱりっとしたピアノとドラムのイントロに続く
枯れたサックスの音は、
純白の冬が溶けて春になる様も、
素敵なプレゼントの入った茶色い包み紙も
想起させてくれたりはしない。

乾いたドラムの地味なGrooveと旋律のわだかまりの中を、
感傷の影など微塵も感じさせまい、という意志的な
サックスの音が突き抜ける。
えも言われぬ開放感を感じさせる組み合わせが
ヘッドホンから脳みそに流れ込んでくる。

そんなに簡単に、かろみなど手に入れられない、
それでももしかしたら、I don't feel so badであれるかもしれない、
そう思って、1日を始めることにしている。











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