2010/09/09

いくらかの焦りとともに

0月に例年参加させていただいている絵本展がある
唯一今、作品の締め切りを意識する展示で
本当に、あらゆる意味で、貴重な機会になっている

どうも、そういうときばかり、仕事先も忙しくて
思うように作業も制作も進まず
欲求不満が溜まっている

しょうがないので
疲れきって家へ帰っても仕事ができない日は
せめて心持ちだけでも再生させたいと
音楽を聴く
切り替えができないからだ

つい最近までほぼ5ヶ月
ブラームスのピアノコンチェルトばかり聴いていたが

なぜか今は
くるりのアルバムがいいようで
それこそ、岸田繁の大好きな電車のように
通り過ぎてゆくものものの潔さ
爽快感のようなもが、心地よい
ちょうど、欲しているもののようだ

通過していってしまうのに
しっかりどこかで残っているものがあるのは
歌詞が私には、しっくりくるからなのかもしれない
歌詞についていろいろ云うことは危険なのだけど
少なくともくるりは
音楽全体の印象と歌詞が
私の中で
ちょうどいい具合に合致するようだ

そんなことをぼんやり考えていると
制作はさっぱり続かない
でも、私には今
そういう音を聴く時間がありがたい
文字通り、有り難い

2010/08/29

写真を撮る




例えば、観光でどこかへ出かけるとする
初めて見るものがたくさんありすぎて
見るのに真剣になる
だけど、写真にも収めておきたい
結果的に、どちらも中途半端になる

撮らなかったら撮らなかったで
後悔する

どうせならば
写真を撮るのを目的として
出かけるのが、いい

思い返してみると、ホーチミンへ来て
そんな時間がさっぱりなかった

あまり使わない1眼レフを持って
写真の小旅行

2010/08/17

熱帯の病気


あまり話の種にするようなことではないのだけど


先週1週間、デング熱で完全にすべてのものが休止していた
熱帯の病気の恐ろしさを、知る

とにかく、起き上がるのもままならない1週間で
世の中にはこんな痛い病気があるのかと
眠っていることもできず、まんじりともできず
耐える日々だった

残念ながら、幻覚も見られないほど痛くて
それまでにしてきた自分の悪い行いをことごとく後悔し
それでもよくなりそうにないので
おとなしくレモン汁を飲んだりしていた

break bone feverという別名もついているけれど
デングは英語でdengueという綴り
語源はいろいろな説があるそうだが
1説にはスペイン語のdengueroからきているというのもある
この単語、dandyという意味で
あまりの関節の痛みに
よろけながら歩く姿が洒落ものに似ているので
こんな名前になった、というもの

文字通り、うぅ、うぅ、とうなされながら
では、歩かなければ洒落ものにはなれないな、
とくだらないことを考えていた

完治するのに1ヶ月かかるらしい

熱帯の病気は、熱帯の気候のように、終わりがない

2010/08/08

最後のディ・ボで




いつもの通り、住んでいる人があきれるほど
ダラットの街の中を歩いた

最後に、少しだけ手に入れた時間
市場の近くを歩いていて見つけた

おじさんたちばかりが話に興じている
小さな椅子ばかりの店で
小さなおばあさんがコーヒーを淹れていた

ネルで淹れたコーヒーは
小さなガラスのコップに注がれる
本当においしかった

2010/08/06

探しもの


今、ダラットにいる
夜は虫が鳴く、日本の10月初旬の気候の土地だ
涼しいのではなく、もう寒くて
でもその感覚が、限りなく懐かしい

ここへ来た理由は一つだけだった

須賀敦子の随筆の中に
若き日の須賀敦子のよき話し相手となった
修道女のことが書かれている
その、マリ・ノエルという人が
べトナムが独立するまで
この土地の修道院にいた、という記述があった

だから、なんだ、と、自分でも思う
だけれど、来なかったならば、後悔しただろう

ダラットには2つの教会がある
一つは、街の中心にほど近い
湖から見える教会
ゴシック建築で、塔のてっぺんに風見鶏があるので
みなChicken Churchと呼んでいる
ステンドグラスがきれいで、町の喧噪の中なのに
どこか静けさがある教会だ

もう一つが修道院も併設された
Domaine De Marieだ
街中からは離れた、小高い丘の上にある
手入れのよく往き届いた花畑のある
雰囲気の温かい教会だった

修道女たちが作ったレース編みの服や食べ物を売るための
土産屋もある
べトナム人の観光客がたくさんいた
クリスチャンもそうでない人も
多くのべトナム人がそうであるように
写真を撮り、話をし、よく買い物をしていた


フランス語が話せないので
少しでも何か手がかりがないかと思ったが
聞き出すことができなかった

しばらくミサの賛美歌を聴いていた

何が知りたいのかもはっきりわからないことに気がついて
やっとあきらめがついて、立ち上がる

教会の敷地のすぐ外にも土産物屋が並んでいた
昔実家でよく見たのとそっくりなイチゴのジャムが
大きな鍋に入っていた
イチゴのスープみたいなもの
食べてみたかったけれど
今度はベトナム語が話せなかった
じっと鍋の中のとろけそうなイチゴを見て
それからやっと、今度こそ丘を降りた


2010/07/27

島とクジラと女をめぐる断片

イタリア語のタイトルは
Donna di Porto Pim
題名だけでも、もう十分なぐらいのこの本を
4、5年前に読んで、もう一度読みたいと思った時には
どこかへ往ってしまって
どうしても見つからなかった

アントニオ・タブッキの作品を須賀敦子が翻訳している
言葉が、水面の煌めきのように、どこまでも繊細で
美しい作品だ

序文にあたるタブッキ自身の作品に関する解説が興味深かった
この本を書くにあたって
アソーレスの島々で過ごした日々を
どのように小説の中に織り込んでいったのかが、書かれている
どこかの土地、クジラ、捕鯨のような
いくつかの鍵になるものを
どのようにして一つの本に作り上げてゆくのか、という
過程や規律、のようなものを感じた

クジラの生体、アソーレスを訪れる男女
捕鯨の歴史、捕鯨に携わる人々
ある捕鯨手の人生
それから、クジラの目から見た人間

確かに、断片なのだけど
そのかけらのようなものが
でも、最後に一つの絵になることはなくて
すきまがたくさんあって
すきまに漂う空気が、そのままかけらの上を覆っている


2010/07/19

川を渡るのに、三百年 枕を共にするのに、三千年






飛行機の中で、映画を観る
「アリス イン ワンダーランド」でもみたいような、気分だった
つまり、少し疲れていた

なぜか案内のパンフレットに載っていたアリスをはじめ
映画たちのほとんどはなく
その代わりに、題名だけはよく慣れ親しんでいるものを見つける

イーユン・リーの「千年の祈り」
クレストの新書の表紙はいつも素敵だが
静物が、言葉としてとても適切な静物として、映っているその表紙に
いつも本屋で後ろ髪ひかれていた

静かな映画だった
室内の場面が多いせいか、影が濃い
ちょうど淡い色の壁がほんの少し翳るように
澄んだ影が室内を司る

ちょうどどことなく大学街が舞台で
つくばの景色にも似ていて
主人公の親子の小さくて深い溝も近しい何かだった

百世修来同舟渡、千世修来共枕眠

共に川を渡ろうと思ったら、三百年は祈らなければ
その思いは果たされない
枕を共にしたいと思ったら、三千年は祈らなければ
その思いは果たされない

親子ならば千年

アメリカで暮らす娘に会いにくる父親は
律儀でまじめで、静かだ
言葉が少ないことの重さに
親子は共に、耐えきれていない

ただ、きっと、そんなところから絞り出される
言葉のいくつかはもっと重くて
でも、だからこそ、本当に祈りのようで
口にすることの意味を、思い知らされる

映画を観た後、しばらく
最後の場面から、彼らはどこまで理解できたのだろうと
ぼんやりと、思った
本当に思いが通じるのであれば
本当に理解しきることができるのであれば
千年という年月は長くはないのかもしれない

そして、そのまま寝てしまった