見事に、あらゆる知覚機能が感度を失っているのか、
単純に思考力が低下しているのか、よくわからないな、と
ぼんやり思いながらただひたすら、仕事をしていた。
久しぶりに真剣に、仕事の文章を書きながら、
ずっと、主語の名詞に合う動詞の使い方やら、
言葉の定義や適切な組み合わせやら、が
無駄に気になって、確認作業をする。
いろいろと、本当に確実には、
できるかできないかわからないものを、
持続したり、維持したり、
構築したり、整備したり、
機能したり、能動化したり、
実施したり、実践したり、
実装したり、運用したり。
谷川俊太郎が同じ業界にいたら、
素敵に皮肉な詩を作ったことだろう。
もっとも、こんな仕事に俊太郎がいたらきっと、
詩を作ろうとする魂など、とっくに消えてしまっているだろうけど。
同じような状況の人たちと話をしていて、
違う言葉を連呼している事例などを聞くと、
あぁ、全然、寄与していないな、とか、
還元していないな、とか、
字面の中から、ストーリーの行方や方向性の違いに、
反省したりする。
言葉の正確さを思う時、
随分とぼやぼやしたものを毎日無意識に
使っているな、と思う。
巨大に引き伸ばされた一つの言葉を
都合よく文脈に合わせ、都合よく相手の想像力に任せ、
乱暴に使っていることを認識する。
日常の会話となると、どこかで、きちんと表したい、という欲が出るから、
うまい喩えはないだろうか、と頭のどこかで考えていたりする。
平易な言葉を使っていても、うまく喩えができるならば、
一言の的確らしい言葉選びよりも、言い当てられたりもする。
日本にいると、冗長だと言われる。
Redundant、英語の語源などわからないけれど、
文字の並びだけでも、冗長さが伝わってきて、
日常では滅多に使わないけれど、妙に鮮明に覚えている単語だ。
なぜ、冗長という言葉を使わないかと言ったら、
こちらの多く人は基本的に、冗長だからだ。
おしゃべり好きが多いし、そうではない人でも、
仕事であれば、説明や報告や言い訳になる。
分からないことを細かく聞けば聞くほど、
話は長くなり、新たな問題が出てきたりして、
当初の要点が何だったかこちらも、見失う現象に陥る。
日本の賢い人と話をしていて、
つまりこういうことですね、と端的に整理されると、
顔が真っ赤になるほど恥ずかしいのは、
一応、自覚があるからだ。
日常の会話が、共通の地平や知識、認識の上で
成り立っている時とそうでない時では、
また、勝手が違う。
例えば、ある面白い出来事について話をしている時、
その背後にどんな文脈があるのか知らない人に
話をしようと思ったりするともう、果てしなくなり、
結局何も面白さが伝わらない現象は、よくある。
もしくは、面白いこと、として話しているのに、
聞き手が真面目で、深刻な表情をしてしまう。
中東あるある、だ。
そして、共通の視座を持っている人でもまた、
思い出せる状況の細部の取捨選択をしたとして、
話のパンチラインは、これとあれを抜いては成立しない、などと
積み上げにかかったりする。
結果長すぎて、うっすら笑えるけど、
狙いははずしてしまったりするわけだ。
地域や職種や、ステイタスという共通項の中でのみ
成立する会話の、背景や一つ一つの言葉には、
大量の隠れた情報と感情、感覚がある。
それらをすべて言葉にする、という作業も興味深そうだ。
誰と話していても、冗長ではなく上手に伝えられる人は
隠されたさまざまの中から、誰もが思うであろう感情を伴う情報を
話しながら的確に選んでいける人なのだと思う。
日常的な話ではなく、仕事で説明となると、
いかに簡潔に、的確な言葉を使って、
必要なできるかぎりのことを書けるか、という
能力が必要になってくる。
冗長に書いた書面を見ながら、同じことを言っている部分を消し、
骨子を整理し、文章を入れ替え、筋を通す。
この作業をしている時、わたしはいつも、
筋を通して、論理的にする、という行為は
時としてなかなか暴力的だと思う。
これについては、日常生活においても同じだと言えるけど。
消された文章の中に入れていた、たぶん重要ではないけれど、
実在する物事や、それに伴う小さな困りごとや不満や不安や美点もまた、
一掃してしまうという事実に、
結局いつも、ごめんなさい、と謝っている。
もっと端的に表して入れられたら、と努力はするけれど、
大方のものは、客観的に見て必要ではない、と判断されるのは、
書き方が悪いからだ。
そして、どんどん単語が抽象的になっていく。
詳細は具体性につながり、そういうものの多くは
必要とされていないからだ。
自分が書いたはずのものが、バケモノみたいに見えてくる。
もしくは、つるつるに無機質な、巨大な建物のように。
おかしな現象だと、思う。
私の書いていたものは、人を相手にしているはずなのに。
一連の仕事に期限がやってくる。
まだ見ぬ、巨大な何かの影が、それでも、
収まるところに収まり、ふと、日常がやってくる。
大きく成長した、それこそバケモノみたいな、
ブーゲンビリアを見上げる。
これは電線にきっとそのうち触って、ショートの原因になるだろう、
水のあげすぎなのだ、けれどもとにかく、
立派にのびのびと育っている。
今まで気にも留めなかったものものが見えてくる。
電気のこない真夜中の暗闇を想像する。
暗闇の、そこはかとない不安や恐怖や不満を
読み手もまた、感じることがあるのだろうか。
人のことについて書いたものを、読む人々の、
思考回路と想像力を思う。
バケモノにはバケモノを、と一瞬でもわたしは
思っていなかっただろうか、と思う。
必死で言葉の正確さを確認していたけれど、
何かもっと根本的に大切なものを、
もっと素直に書くべきだったのかもしれない。
突き詰めればきっと、言葉の正確さと人間の間に、
納得のいくバランスがあったのかもしれない。
新しくリリースされた内田光子のベートヴェン最後の3つのソナタを
やっとゆっくり、聴く。
構造、構成、構築。
音楽の世界では、これらはとても大事な要素た。
内田光子の過去の解説などを聞くと、本人自身はそれほどこのことに、
言及はしていない。
けれども演奏からは明確な意識が、透けて見える。
なのに、彼女はいつも、違う話をしていた。
構造はあくまで土台、という認識なのだろう。
その上に表したいこと、についてのみ
彼女は憑かれたように話していた。
何かを極めるとは、絵画にしろ、彫刻にしろ、
そういうことだったなんて、身を持ってよく知っていたはずなのに、
こんなに忘れやすいものなのだろうか、と
自分の汎用性のなさに、呆然とする。
おかしなほどに、ブーゲンビリアと内田光子は合わない。
そして、昼間のアンマンは久々の猛暑、
使いすぎが原因で、電気が止まる。
わたしはしばらく、この暑さと向き合うのだろう。
追記;
アラビア語でブーゲンビリアは、頭の狂ったもの(人)と
名付けられている。
馬鹿みたいに成長してどんどんと蔦を伸ばしていくからだ。
でも、よく植えられているし、人々はその
濃いピンク色の花を愛でている。
おかしなもの、への隔たりのなさ、を時々思う。
0 件のコメント:
コメントを投稿