2022/11/10

善い人、と、手のひらの小さなカード

 

カードの写真が連なるページをただひたすら
いたずらにページをめくりながら眺めていることが、何度かあった。
描かれているカードの顔や形だけではなく
カード全体にかけられている時間的な、作業的な重みと
その分だけ込められている思いが、
ただの写真でもなお、伝わってくる。

全体的に色合いが暗いのは、もちろんその色彩を好んでいたからだろうけれど、
対象となる絵の、やもすると軽妙な形や線と、
色のギャップが、そのまま
作り手の人柄と心のうちの明暗を描き出しているようで、
それらを嫌でも、伝わってしまう、そんな
切実さが滲み出ている。

ロベール・クートラスの、どこかイコンのようなカードたち。








このアーティストのことは、亡くなった友人が教えてくれた。
絶対私は好きになるから、と、十年ほど前、
「クートラスの思い出」という本を
プレゼントしてくれた。

そのアーティストの半生と作品の写真、
そして、客観的にも不遇に思える人生を近くで見てきた
日本人女性の記憶を綴る文章で構成されている
外国のハードカバーのような質感の紙の、本だ。

本人のことも、日本人女性の記憶についての記述も、
どこを切り取っても、生活と制作の狭間の鬱積とした思い
制作の苦しみと喜び、他者やものものへの
行くあてのない愛情ばかりが押し寄せてきて、
一度読んでから、その後あまり何度も、読もうとは思わなかった。
なんだか、辛かった。

その代わり、ただただ、カードの写真を眺めていた。




ロベール・クートラスは、パリで生まれ、パリで亡くなっている。
石工の職人となろうとして、叶わなかったのか、馴染めなかったのか、
画家として画廊との契約が取れても
幾らかでも商業的な匂いのするものに順応できなくて、
日中は求められる絵を描き、夜にカードを作り続けた。
結局は訪れる契約の機会を破棄しては、貧困の中を生きた。

カードのモチーフとなるものものを見れば感じ取れるけれど、
人々の営みや周囲の愛着を何より、大切にする作家だったのだと思う。
崇高さと下世話さ、悲哀と歓喜、
それらを日常の中から見つけ出す目にも、長けていた。




五感を研ぎ澄ませ、
作品の素材やスケールを体感しながらアートと向き合うことは、
他者や社会から与えられるのではない、
自分自身にとってのウェルビーイング、
すなわち「よく生きる」ことについて考えるきっかけになることでしょう。 」
森美術館の企画展「地球がまわる音を聴く」の紹介文の抜粋から。

実は、クートラスの作品があるとは、知らなかった。
ただ、この紹介文のコンセプトが気になって、
足を運んだ。




クートラスの軽く200点はくだらないカードたちは、
ガラスのケースの中に展示されていた。

普段、「お手を触れないでください」の表示に
そんなことはしないだろう、冷笑しているのだけれど、
この展示ほど、ガラスが忌々しく思えたことはない。
そんな私のような人間のために、その表示はあるのだろう。

手に取って、表面のガッシュや絵の具の跡をなぞりたい、
触ってみたい、という衝動に駆られる。
もしくは、ただ本来のカードという形状の習わしを
自分の手で再現して確かめてみたい、と。
おそらく、毎夜クートラスがしていたように。


写真で見たことのあるカードが並んでいる。
馬鹿みたいに、じっと見続ける。
ガラスケースの光の反射が邪魔だ。
すぐそこに、私が国外でただひたすら愛ていたものの
本物が、ある。

私ができることは、また馬鹿みたいに、
写真を撮ることだけだった。

カードの並ぶたった15メートルぐらいのスペースを
何度も往復し、やっと正気に戻って、
展示スペースを少し離れたところから、眺めた。

そこには、小さな小さなカードたちが
整然と、大量に並んでいる。
遠目からではほとんど識別できないカードたちだけれど、
その小さな一つ一つに込められた物語や思いが
塊となって、こちらへ押し寄せてくる。

ただただ、胸がいっぱいになった。









”もの”の表面が、私はずっと気になっている。
表象という言葉に置き換えたのならば、どちらかというと
重要ではなくなるのかもしれないけれど、
質感とか、色合いの曇りとか、汚れとか、
そういうものを含んだ、痕跡を見るのが好きだ。
ただの”もの”でもそうだし、作品でもそうだ。
物質として2次元でも3次元でも存在するものには
痕跡が欲しい。

そこには、触れた分だけの密度と愛着と情熱がある。


もちろん、ものを作る人たちの中には、
さらっと美しい形を、痕跡など残さずとも作れる人もいる。
そんな、天才的な作品にも圧倒される。
けれども、時間をかけて味わう物語は見出しづらい。


私自身は、できるだけ”もの”に、
執着しないようにしている。
失くした時の痛手に耐えられないからだ。
(無駄に、先々の心配ばかりをしている。
そんなことばかりしていると、本当に手のひらに納めたいものも
乗せる前から手放さなくてはならなくなったりも、する。)

その物体は失くしても、手に入らなくても、物語は記憶できるから、
感触の感覚や記憶や写真だけでも、満足すべきなのかもしれない。

自分自身で、手のひらに慈しむものを作っていけたら、素敵だ。
けれど、いざ何かを作るとなると、
慈しむことのできるような愛らしいものではなく、
もっと抽象度の高い、限りなく崇高な何かをテーマに、と願いがちで
結局作る作業まで行き着かなかったりしていた。
物語を含むものだと、どろっとしたものが出過ぎる気がして、
そういうものは極力、排除したかった。




中学2年生の時、美術の宿題で絵を描いていた。
何がテーマだったのか覚えていないのだけれど、
私はひどく思い入れ強く、真っ白な鳥の頭部だけを
丁寧に羽の一つ一つ、筆で描いていった。

美術の先生に出来上がった絵を見せる。
先生は、その絵に鋭い視線を送ると、
おもむろにエアブラシを手に取って、
紫色の絵の具を入れて、白い鳥の顔に紫色の細かな粒を吹きかけた。

たぶん、私の目は怒りに満ちていたのだと思う。
けれど、先生は何の躊躇もなく絵の具を吹き付けると
こっちの方がいい、と言った。

あまりにも強烈な体験だったからか、時折今でも
白い鳥の頭部が色に染まっていく様子を思い出す。

なぜ白い鳥に色を吹きつけたのか、
今ならどこか、分かる気がする。



詳細はほとんど覚えていないのだけれど、
小学校の卒業文集の、将来の夢について、各々が書き記した文集で
自分が書いた主題だけは、はっきり記憶している。

私は、音楽の先生にもなりたかったけれど、
何よりもとにかく、善い人になりたかった。
だから、成長したら、善い人になりたい、と書いた。
たぶん、シンプルに他者を傷つけない、善良な人間であることが
私の中でとても大切なことだったのだと思う。


小学6年生が考える善い人の定義は、ずっと跡を引き続ける。


究極的には、善良で他者を傷つけない人など、ほとんどいないだろう。
それでも、そう心がけることが大切だと、信じ続けていたし、
まったくできないことに苦しみながらも、
いつか私自身が体現したいと、望み続けていた。

けれども、少しずつ、周囲のさまざまな物事と人の背景が
ひどくはっきりと見えてくる。
私が思っていた、いい人、が例えば、
素晴らしい音楽や絵画や彫刻や文章や世の中の仕組みを
作れるわけではない。

より確度の高い、善い人、は、人のあらゆる業や混沌を分かっていてもなお、
他者を、そして自分を、そのまま受け入れる愛情を持てる人、
ということのようだと、いつからか、気づき始める。
好きな本や音楽とそれを作り出す人々の姿から、知らされる。
人物の周辺で起きる事象とは切り離して、人そのものを見られる、
核心を見極める優しい視座を持てたなら、
より、善い人、に近づけるのだろう、とも。

そう分かりながらも、なお
今まで信じてきたものを容易に捨てられないまま、歳を取るまで、
必死にありたいていな道徳心に、しがみついていたのかもしれない。
そのために、さまざまな思いに、時に目を瞑り、時に諦め、
そんな自分自身の選択が良かったのだ、と、
納得させようとしていた気がする。
だから、他者に対してそこそこ寛容なふりをしていても、
その実、どこかで頑なに内に引きこもる自分がいた。



素晴らしいと思うものを作り出す人たちの多くは
崇高な理想を抱いていても、同時に、
果てしない懐の深さを、持ち合わせている。
その懐は、他者だけではなく
自分自身の痛みや後悔を含み、悲哀と歓喜、を含む
物語できっと、埋め尽くされていて、だから
汚れて、手垢に塗れ、でもその奥に切実な理想や思いを
隠し持っている。




白い鳥が真っ白なまま描かれていても
もしその鳥が、何かしらの理想や崇高さの表れであるならば、
その存在のみがある、という状態は、
ある種矛盾のようなものを孕んでいる。
美術の先生は、その事実を見透かしていたに違いない。


白い鳥にスプレーを吹き付ける作業を、その時は気づかず、
今までの自分の人生の中で何度も、自分の手でし続けている。

けれど、私自身はその作業をする自分を、
きちんと認めて、大切にできなかった。
ただひたすら、その作業から生み出される小さく、大きく
薄汚れて卑小で、偏屈で些細な、でも時には
愛おしい幾つかの、もしくはたくさんの物語だけを
どこにもやり場なく、身体に溜めつづけてきた。


だからこそたぶん、汚れや手垢や、
くすんだ色への愛着や愛おしさに、随分と心惹かれている。




クートラスのカードのようなもの、を作れるものならば
作りたいと思ってきた。
カードというサイズに似合った、
偏屈で些細で、でも、手のひらで愛でられるようなものを。

才能やセンスには目を瞑るしかないけれど、
クートラスがカードに込めた思いの片鱗だけでも、
見出せるような、
身体に溜めた物語を少しずつ出していく作業を
やっと心から、できるようになりたい、と
思えるようになった気がする。

ちゃんと自分の持つ物語を見つめ直し、
周囲の、遠くの人々の物語にも思いを寄せる作業と
作る行為にかかる時間の中で、向き合う。

やはり、いくらかでも善い人になりたいと、
切に願っている。



展示作品の写真のすべては、「クリエイティブ・コモンズ表示 - 非営利 - 改変禁止 4.0 国際」ライセンスの下で許諾されています。



2022/10/23

どこか遠巻きの視点、感情の深みに共鳴する音

 

話の展開の、短編らしい場面の切り取り方に、
狙いがうっすら透けて見えたから、
もし主題が違っていたならば、騙されないぞ、
と身構える作家だったかもしれない。

けれど、前評判の良かった「紙の動物園」、
公園のベンチで読み終わる前から、
マスクが濡れるほど泣いてしまった。

緑深い公園では、子どもたちが駆け回る。
絵に描いたような、穏やかな秋の日。
みっともないな、と思いつつ、空を見上げる。




ヤホンのバッテリーが切れる。
曲の途中で右のイヤホンが音を出さなくなって、
仕方なしに外すと、Kiroroの歌声が耳に入ってくる。

人懐っこそうな男の人が、目の前のあづま屋で開かれている
小さなパーティーに声をかけてくれた。
フィリピンのある街、名前を訊いても分からなかったのだけれど、
マニラから3時間ぐらいの南部に位置する、
クリスチャンの街の、聖ラファエロの何かを祝う
集まりだった。


遠目からでも、フィリピン料理が机の上に乗っているのが見えた。



ヨルダンにいる時、フィリピン人街のすぐ近くに住んでいた。
本当に彼らの存在がありがたかったのは、
アジア食材が近くで容易に手に入るから、だけではなかった。

外へ出ては、何かに身構えなくてはならないのは
自分の見た目が360度アジア人の女性だからで、
それは、10年以上住んで、生活にいい加減慣れてもなお、
時に、うまく制御できないようなストレスだった。
けれども、そんなストレスを、
フィリピンの人たちが集まる場所では感じずにすんだ。

週末時々、フィリピン料理屋さんへ行った。
日本人だと分かると、知り合いや親族で、
日本に行ったことがある人の話を、してくれる。
簡易なお皿と、米と舌に馴染みのある味が
ふんわりとお腹を満たしてくれる。

金曜日には、路上で食材やお菓子を売っていた。
黒縁メガネの小柄な、目尻が皺いっぱいのおばさんから、
いつも緑豆のパイを買っていた。
あのおばさんは元気だろうか。



周囲はスノッブそうな、休日でも身綺麗な大人と
身綺麗な子どもたちに溢れていて、
フィリピンの人たちはどこか、あづま屋の中でぽっかり浮いていた。
それでも構わず、声をかけてくれるのも、彼ららしい。

思わず、引き寄せられるようにあづま屋へ足を向ける。


大好きなアドボはなかったけれど、似たような味のお料理にありつけて、
ご飯と一緒に食べながら、近くにいる人たちと話をしていた。
フィリピン英語とタガログ語も懐かしかった。

ひとり、男の子がふわふわと遊んでいた。
お母さんと話をしてみたら、Autismのある子だった。
日本で生まれたから、特別支援学級に入ったこともあるけれど、
今は公立の特別支援学校に行っているらしい。

言葉がうまく出ないから、ずっとその子は唸っている。
話し方を教えてもらえる学校は、なかなかない。
日本の学校に行っているから、
日本語も英語もタガログ語も理解できるけれど、
言葉の練習には、3つもの言語は混乱の素のように見える。

言語は1つ減らしたほうがいいかもしれない、などと話をしていると、
なかなか日本では見ないような、
巨大なマフィンを食べたがって、子どもが持ってくる。
お母さんがマフィンを小さくちぎると、
小鳥のようにその子の口に入れる。
どこかへふわふわと遊びに行き、また戻ってくると、
時折せがむような唸り声を出し、
次のマフィンを口に入れてもらっていた。

その様子をしばらくぼんやりと見ていた。

話している間も、さっき読んだ本の余韻と
聴いていた音楽が身体の中で巣食っていて、ぼんやりしがちだった。
お腹がいっぱいになってしまったからかもしれない。

お皿が空になると、どんどん勧めてくるのはヨルダン人と同じだけれど、
本当にお腹がいっぱいだったし、どんどんとどこからともなく
フィリピンの同郷の人たちがやってくるので、
お礼を一人一人に言って、その場を離れた。

なんだか、初めて会う日本人よりもよほど、
話しやすくて居心地がよかったな、と思う。
この感覚は久しぶりで、心がどことなく温かくなる。

その国出身ではない人たちの集まりが
とてつもなく愛おしく思える。
自分の国の文化の何かしらを持ち寄って、
享受する様子は、どこにいても、ひどく大切な時間で、
国外に出る前から、そんな場所にいるのが好きだった。


けれど、その場にいてもなお、どこか遠巻きに見ていることが多い。
もしくは、その集まりを遠巻きに見つめて、
誘ってもらうのを、ただ待っている。
誘ってもらえなかったら、飽きるまでその様子を、見ていた。

誘ってもらえたら、どこかで場違いだろうと、頭の片隅で思いながら、
でも、嬉しくて顔が綻ぶ。
遠くで、近くで子どもたちを見守りながら、
子どもたちのことと、生活のことを、女性たちと話す。

結局のところ、どの土地にいてもやっていることは
あまり変わらないのだろう。
帰ってきても何にも変わっていない。
どこかで自分に失望しながら、また音楽に戻った。




最近ずっと、ブルックナーを聴いている。

「紙の動物園」を読んでいる間も、
ずっとブルックナーは流れ続けていた。
その時聴いていた音源には、熱が入りすぎて、
演奏家たちの心身の中のフォルテを呼び起こそうとする
指揮者の唸り声が、しっかり入っていた。

音楽を作り上げるのだと、
懸命に演奏家たちを鼓舞するその演奏は、
黄色味がかった秋の明るい日差しと、
嬉々として走り回る子どもたちと、
おしゃれな出立で泥を避けながら歩くカップルたちと、
白いイーゼルと向かい合う初老の老人と、
真っ白なウェディングドレスで写真スポットを探そうと
彷徨うカメラマンと新郎新婦、という休日の公園の情景には
あまり、似つかわしくなかった。


けれど、異郷の地で、母国語と自分自身を
誰にも理解してもらえない中、
子どもを授かり、母国語を正確に発音する息子の声に涙し、
息子の顔に亡くなった両親の面影を見つけ、
命を吹き込んだ折り紙の動物たちと戯れる息子を眺め、
次第に、社会生活をアメリカ人らしく生きるため、
英語を強要しはじめる息子の
心離れていくのを感じながらも、話しかけられもできぬまま、
病に冒されて亡くなる母親の人生と、
息子の果てしない後悔に、ひどくその音楽は、
親和性が高かった。

どちらかというと、重くならないようにごく断片だけを切り取り、
からりとした文章で、30ページほどしかない。
そして、書かれている話もまた、ある意味
ある人の人生の断片でしかなかった。

けれど、その言葉と言葉の余白の中に埋もれる感情を
音楽が一つ一つ、掬い上げてもう一度、
経験させようとしているようだった。



いい音楽というのは、人間の抱く感情の深みである限り、
それがどんな種類のものであったとしても、
しっかりと共鳴するものなのだな、とひどく納得する。

ただ、壮大で深遠で、
ひたすら自分を埋没させたいと思わせる音楽だ、とだけ
思っていた私は、よく理解していなかったようだ。





英語でラブと口にするときには、唇に
中国語で愛を口にするときには、心臓に、
その言葉の意味を感じる、と母親が息子に伝える場面がある。
とてもとても、よく分かる。



違う言語の国で、深海の底にいるような、
しんと寂しい思いをしていた時から、幾らか話せるようになった。
それでも、伝わることと伝わらないことがある。

休日の公園の断片的な情景を眺めているだけでは、
人見知りで遠くから眺めているスタンスのままでは、
人の深みに触れる機会に恵まれない。
だから母語の国に戻ってきて、せっかく同じ言語の土地にいるのに。


足りないものを補うために、やたらと本を読み、音楽を聴いている。

けれどまだ、そこにあるのに感じ取れきれていない事象や
気づかない真実が、たくさんあることに、
薄々気づいていたけれど、再度確認させられる。

もっともっと、本も音楽も、深く堪能したい欲に駆られる。
実地が足りない。



〜 追記 〜

次の短編も良かった。
難民申請をする人々には相応の理由があったとしても、
法的に認められるための言い訳が時に、矛盾を孕み
何が本当で何が嘘なのか、見極めが求められることがある。

枝の先から月の世界に入り、そこでは
事実ではなく、ある真実だけが本当になる。
そんな夢想のような世界を抱く依頼者と、
「高い理想の信念と方針で」
複雑な法的主張を作り上げるのは得意だけれど、
民事の実務にはまったく対応できない弁護士の話。

ケン・リュウはSF作家の括りなのだけど、
そんなことは忘れてしまうほど、扱っている内容に
身に迫った、切実な想像力と、人の感情がある。

SFではないけれど、SFよりもある意味奇怪な世界観を持つ
安部公房と一緒に買ったのだけれど、
安部公房を手にする前に、
新しいケン・リュウの短編を買ってしまいそうだ。





2022/10/11

金木犀の記憶と、手離しかけていた舫綱


李禹煥の展覧会へ行って、大学の時の
もの派の作品を作る教授のことから、
先月携帯に収めた、大学の頃の写真を思い出していた。

外へ出ると、金木犀の香りがどこからともなく、流れてくる。
実に、10年以上嗅ぐことのなかった香りだ。

この香りは必ず、大学の窯芸室を思いださせる。
薄ら寒くなったコンクリ敷の部屋の、僅かに開けた窓から
すうっと流れ込んでいた。

薄曇りで空気に湿度のある、秋らしい日和。





先月、亡くなった友人の遺影に挨拶をし、お墓参りに行った。
申し訳ない、2年以上うかがえなかった。

会ったらいくらでも話すことのある友人だったから、
お墓にたくさん話をしようと思っていた。
けれど、お宅へ伺い、遺影を見た時に、
頭の中にどんな言葉を思い浮かばなかった。
写真に収まる友人の、よく見慣れた顔を見るのが精一杯だった。
もう居ないのだ、という事実を腑に落ちて理解しようとし、
当たり前のはずの、でも理不尽な何かと、しばらく向き合っていた。


随分と天気の良い日だった。
彼女のお墓のあるところは、ベトナムのダラットの山の上や
ヨルダンのイラク・アル・アミール近くの墓地のように
日当たりが良くて、景色もいい、明るい場所だった。

遺影の飾られているお仏壇は、
桜の木でできていて、シンプルで美しかった。
友人が結婚する時、注文した棚と同じ職人に、
旦那さんが頼んで、作ってもらっていた。

そのお仏壇の傍には、小さな丸椅子があった。
そして、その椅子の上には、小さなブリキの箱があって、
見覚えのあるぬいぐるみがいくつか、入っていた。
懐かしい、と、いくつかのぬいぐるみの中の、
毛糸でできたペンギンを手に取る。
糸がしまっていて、適度な硬さのある小さなぬいぐるみを
私はもう、20年以上前に、握ったことがある。






友人が亡くなってから、ふと気がつくと、頭の片隅で
今思っていることや、感じていることを
亡くなった友人に話したら、どんな反応を示されるのか、
考えていたりしている。

私のうわつきや中途半端な調子の良さと甘さを、
よく知っている友人だから、
心の中をすっかり見透かしているのに、違いない。

同時に、感覚の中に携えていなくてはならない、
ある種の厳しさと柔らかさもまた、
よく分かっている人だから、
それらに私が気づいていれさえすれば、
話をよく、理解してくれるだろう。


いい感情にしろ、悪い感情にしろ、とかく情動的な私が
波に飲み込まれそうになった時、
欠かせないそれらの感覚という舫綱を離さないように、と
意識させてくれていた。



日本に戻ってきて、読みたい本は手に入り、
行きたい展覧会に足を運べて、
ほんの時折だけ、だけれど、真にいい音楽を聴く機会を
持てるようになった。

そして、感度高く、それらを享受しようとする時、
その背後にある、良さの真髄は何なのか、
分からないなりに、考えるようになった。

良さには、個々人の好き嫌いが多分に反映されはするけれど、
一貫して私が良い、と思うものには、
突き放すこともない愛情のようなものを含む
厳しさがある。

この類の厳しさを表現するのには
聡明さと冷静さが必要であることに、うっすらと気づいてはいた。

なるほど、もしかしたら、何かを作れるかもしれないけれど、
自分の納得いくものが作れないだろう、と思うのには
聡明さと冷静さがない、という理由があることを自覚する。



友人が編集してくれたアルバムを、
お墓参りの後、久々に通して聴いていた。
Edward Sharp and Magnetic ZerosのUp from Belowのアルバムを最後まで、
そしてエンリコ・カルーソーのSei Morta Nella Vita MIA、
シューベルトの弦楽四重奏Op.163第2楽章、
最後は、アン・サリーの「椰子の実」。

(NPRのTiny Desk Concertの
ボーカルの女の人が、以前アンマンの向かいの部屋に住んでいた
レバノン人の女の子に雰囲気がそっくり。)













この並びを、確信をもって選んだ友人は、
本当にセンスがいい。
友人の好きだったものものを思い出しながら、
見事な並びだな、とあらためて感心していた。

Edward Sharp and Magnetic Zerosは、一見ゆるそうなのだけど、
彼らの描く世界観を音にしようとする真剣さ、のようなものが好きだ。
そして、ゆるさと真剣さのバランスが、まさに、
友人の大切にしていたものだったのかもしれない、と
すっと合致する瞬間があった。
厳しさと柔らかさの組み合わせ、と同質のものかもしれない。

世界観を描こうとする、という行為自体は、きっと
表現する過程で必ず通る作業なのだろうけれど、
その場面で生じる真剣さや必死さを、全面に出さないこともまた、
才能の大事な資質の一つである、ということに気づかせてくれる。

個人的には、どこまでも真剣さが全面に出ているものも、好きなのだけれど。

テノール歌手のエンリコ・カルーソーが朗々と歌い、
静謐さと和音の美しさが際立つシューベルト、
そして、温かさと芯の強さが旋律と相まった、
いつまでも聴いていたい、椰子の実。




ものを作る人たちの中には、
厳しさばかりが全面にあって、この作者はひどく偏屈なのかな、と
思わせる人もいる。
けれど、会ってみたらすごく柔和な人柄で、
作品と人、がセットでバランスが取れていたりする。

人柄も作品もすべてにおいて、
ウィットに富んで柔らかく、愛情に満ちた厳しさもまた、
溢れ出ている人がいる。

後者の方が、なんだかすごい、と思うのだけれど、
そんな人に会うのは、少なくともものを作る人において、
かなり稀だ。

なんか、苦しくて厳しいものの方がいい、というような
どこか歪んだ価値観を持ってしまっていたのかな、と思う。
そちらの方が、苦しいなりに容易だし、
周囲にそういう人が、多かったからかもしれない。
もしくは、彫刻を作る人は、先の例で言ったら、
前者に当たる人が圧倒的に多い。

そして、自分の今の仕事においても、
扱っているものが人の生き死にや、
生活に関わるようなことを含みシビアなだけに、
(そして不謹慎と言われがちだから)
いくらも柔らかさなど持てなくて、
それが当たり前だとも、しょうがない、とも思ってきた。


けれども、人の生き死にに関わることは、
文字通り、生きること、も含まれる。
ずっと苦しくて厳しいのが、良いのでも楽しいのでもない。
苦しく、そこに耐える厳しさを携えてもなお、
生きていくのには、おそらく
喜びを見出す感度を高くするしかなくて、
それは、厳しさによって、
自ら握り潰してしまう必要も、本来、なかったはずだった。



たくさん読む本や、たくさん聴く音楽の喜びを
仕事や表現に、どうやって落としていったらいいのだろう。
たぶん、答えなどないし、実践して失敗を重ねていくしかない。
フィールドが足りないな、と、今更だけれど、思う。



昔チェロが手元にあった頃、音楽を聴いている時、
それから、音で身体が震える時の、あの
身体に直接染み渡る高揚感と、形のない美しさを
立体造形に落とし込めないかと思い、作り続けていた。
目に見えないものから伝わる感覚と、
目に見えるものから感じ取るものを、
共鳴させる方法について。

そもそも、彫刻という物体を使って表現しようとする
その試み自体が、なかなか滑稽に見えるのかもしれないけれど、
それでも、私なりに真剣だった。


日本に帰ってきて久々に、ただひたすら美しく、
身体震える音楽を享受する機会を得た。
ずっと欲していたけれど、一度として私の住んでいた海外では
経験できなかったその感覚に浸り、
何度も何度も、音楽を浴びていた時のことを思い出していた。
そして、昔の私の真剣さには、
ただひたすら窮屈な厳しさしかなかった、と気づく。

厳しさを携えてもなお、
伸びやかで柔らかな表現の良さを、
心底は理解できていなかった。



私の友人がおそらく、常に意識し、形にしようとしていた、
もしくは、生活の中に染み渡らせようとしていたそれらには、
きっと、あのペンギンのぬいぐるみのような、
小さく柔らかく、愛おしいものもまた、含まれていた。

物理的なぬいぐるみは、あまり好きではないけれど、
毛糸のペンギンと、身体に染みる共振を持ち、
愛情の滲む厳しさと柔らかさを帯びた表現が
どうやったらできるのだろうか、と思い、苦笑する。

要素が多すぎる。
ひどく混沌とした人の、生き様のようだ。
私もまた、生き様だけは混沌としているけれど、
伸びやかさと愛情深い厳しさ、どちらの綱も手放してしまって、
ただひたすら、高い波に翻弄されているように見える。





先日、久々に会った大学の先輩が別れ際、
とにかく元気で、ちゃんと会えてよかった、と
なんの脈絡もなく、言う。
私は反射的に、友人のことを思い出し、
私に持てる時間を有効に使っているのか、
先輩が帰った後、一人じっと自問する。

足りない伸びやかさと厳しさを、埋めるだけたくさんの
喜びや愛情を見つけられていたら、
何も作れなくても、せめて、今享受できるものものを
限りなく精一杯、享受できたら、きっと、
友人に話すことが、次にはたっぷりできるだろう。

友人が、半ば呆れつつも私の話を、
嬉しそうに聞いてくれたら、とそこはかとなく、願う。







2022/09/18

抑圧と抵抗、格闘と葛藤の音楽


数週間ほど前、鼻歌でふと、昔歌った旋律が出てきた。
歌詞はなんだっただろうか、と気になってくる。
「森は深く 林は緑 森は深く 林は緑」
このフレーズしか、歌詞を覚えていなかった。
ショスタコーヴィッチの「森の歌」だった。
検索をかけてみる。

先のフレーズの前、旋律だけ鼻でふんふん言っていたのが、
こんな歌詞だった。
「祖国の土を守るが如く 白樺しげる我らの大地」

ショスタコとこの歌詞の組み合わせだけでも、
社会主義の香りがほんのりする。
市の大人の合唱団とともに全曲を発表会で歌うから、と
小学校4、5年生の時に合唱団で練習していた曲は、
もしかしたら、ものすごいイデオロギーに満ち溢れていたのかもしれない。
何も知らない小学生にそんなものを歌わせるなんて
それは実に、納得いかない話だな、と思い、
森の歌の歌詞をめぐる歴史について検索していた。

結論から言うと、戦後に翻訳された歌詞は、
当初からスターリンの名前や社会主義の香りは消し去るよう
注意を払って訳されていたらしい。
ロシア語でさえ、スターリン死去後、
様々な単語や文章が、書き直されていた。


にわかに、どんな背景でこの曲ができたのか、気になってくる。
それから、子ども心に不思議な響きを持っていた旋律を作った
ショスタコーヴィッチ自身について、興味が湧いてきた。
個人的には、チェロソナタだけはよく聴いていたけれど、
あと知っているのは、交響曲5番、9番ぐらいだった。










注文した立派な本の厚さを確認して、
少し気負ったけれども、読み始める。
文章がやたらと魅力的だと思ったら、亀山郁夫は
有名なドストエフスキーの翻訳をはじめとする
ロシア文学研究者であることを人から指摘されて、初めて知った。

大体、カラマーゾフの兄弟は長すぎて、
修行のように読んだ記憶しかない。
ロシア文学といえば、ガルシンという作家の「赤い花」ぐらいしか、
印象に残っていなかった。
(おそらくもう、古本でしか見つからないであろうこの本は
精神を病んだ主人公が、幻影にうなされ、最後は自死する様を描いている。)

ショスタコーヴィッチの複雑でめんどくさそうな人柄が気になり、そして
毎回曲の解説が、随分と丁寧に書いてあるので、
必死に理解しようとして、読み進める。
交響曲はすべて解説付きだったおかげで、
夜な夜な、もしくは通勤途中の時間を使って、
結局のところ、ほぼ全部の交響曲を聴くこととなった。

読みがらは、音楽を聴かせてはくれなかった。
いちいち音や拍の取り方が不可思議すぎて、
気になって仕方がない曲ばかりだったからだ。
どんな精神状態でこんな曲を書くんだろうか、と気になり、
結局、聴いた後に解説をまた読み、を繰り返していた。
(どんな曲でも名盤で聴かせてくるApple Music万歳。)



序章ですでに、「トランス状態のやっつけ仕事」という批判を筆頭に、
ショスタコーヴィッチの楽曲に対する
否定的な見解が目一杯紹介されている。

そして、「マーラーの音楽が、十九世紀的なヒューマニズムの精神を体現し、
そこに生きる人間の高貴さのシンボルであったとすれば、
ショスタコーヴィッチの音楽は、それとは対極的な立場にあって、
死の恐怖に対する人々の不安、
愛や熱狂へのヒステリックな絶叫であり、
同時に鎮魂へのひ弱な願いのシンボルであった。」と評される。

非常に個の、生々しい感情に裏打ちされた音楽性があるのならば、
それがどんなものなのか、気になってくる。


基本的に、本はショスタコーヴィッチの人生に沿って書かれている。

それは、時代の流れと、生まれた国に翻弄され、
その中で作りたい音楽と在りたい自己と、
叶わなかった思いや自己の在り方との格闘の軌跡のようなものだった。
結果的に、まさにショスタコの楽曲の多くと同じような
一見、ひどく錯綜して複雑で、どう受け止めたらいいのか分からない、
けれども、その混乱の生々しさがひどく人間的である、という
もやもやした整理のつかないものを、どしん、と置いてくる。

心の内の混乱を、音楽で凌駕しようとする必死さと、
その必死ささえもどこかで俯瞰して、さらに音楽の中に落とし込もうとする
貪欲で狂気じみた何かしらが、終始感じられた。

と書いても、詳細は本を読んだ方がいいので、
本の中で紹介されていた興味深いものを挙げていく。


バレエの題材

ショスタコが手がけたバレエ音楽だから、というよりも、
バレエとなりうる題材にこんなストーリーがあったのか、という
驚きが勝っているという点で、紹介。

「黄金時代」
サッカーチームがある国の工業博覧会に招かれ、
そこでファシストたちが、選手を虜にしようと艶かしい舞を見せる。
しかし、サッカー選手たちは民族音楽を織り込んだ
「連隊の踊り」で対抗、そして、
ファシストたちの健康を宿する乾杯を拒絶したキャプテンが
ファシストたちに襲われる、、、。

「ボルト」
ある作業班の一人が、サボタージュを画策する
危険分子であることがわかり解雇するも、
その分子が少年を焚き付けて、工作機械にボルトを挟み事故を起こさせる。
事故がサボタージュの仕業であることが明らかになり、
新しい工作機械が購入され、工作機械の周辺で
賑やかな踊りが繰り広げられる、、、。

ショスタコは無類のサッカー好きだったらしい。
オペラになると、もっと愛憎劇に寄っていて世俗的だけれど
過去の有名なオペラにもありそうな話の展開となる。
棲み分けが面白い。


作品に対する評価コメント

作品を発表するたびに、さまざまな立場の人たちが
作品の評価をコメントしていて、それが著者の見解とともに
色々と紹介されている。

ピアノ協奏曲第1番
「この作品は、ぼくには未熟で、形式面でもばらばらに聞こえるね。
素材自体についていうと、、、このコンチェルトは、
様式的にちょっとけばけばしすぎているようだ。
いわゆる、いい趣味の要求にはあんまり合致していないってことだ」
(プロコーフィエフ)

ムチェンスク郡のマクベス夫人(オペラ)
「打楽器と金管楽器がフォルテッシモを奏でるたびに、ジダーノフとミコヤンは
びっくりして笑いながらスターリンのほうを振り向いていた」
(ラダムスキー)
(荒唐無稽だと批判されたことへの擁護側の意見として)
「明らかなのは、だれかひどく強力なある人物が
たまたま劇場に立ち寄り、音楽をまったく理解せずに聴き、
こきおろしたということだ」(プラトーノフ)
「これから音楽に枯渇と幼稚さが君臨するのではないかと心配している」
(ミャコフスキー)

交響曲第5番
「われわれが今耳にしているのは、「社会主義の交響曲」です。
ラルゴは、地下で働く労働者、アチェレランドは地下鉄に対応している。
アレグロは、それぞれ、巨大な機会工場と、
自然に対する勝利を象徴している。」(ストラヴィンスキー)
「ショスタコーヴィッチは音楽が具体的に何かを
描いているとされることを嫌っていました。
本心を隠そうとしていたのです。
ただし、あのフィナーレの持つ不気味さは、
37年の恐怖の暗示と言って良いのかもしれません。
そして、5番、あれこそがイソップ語の見本なんです。」(バルシャイ)
「ショスタコーヴィッチは、自分の想像上の誤りを
、想像上での緊迫した精神内部の闘争を通じ、
根本的に有機的に克服するという最も抵抗がある道を、
唯一の真実の道を選択した。」(雑誌ソヴィエト音楽)

交響曲第6番
「フィナーレは限界的な輝きと達者な
オーケストレーション技法によって書かれている。
内面的な内容は、人生のすべてのものに対するシニカルな嘲りである。
人生は酒場であり、狼藉であり、
不埒であり、シニカルな淫蕩である、、、」(ゴリデンヴィゼル)

交響曲第8番
「聴衆はほとんど理解できないだろう」(ソレルチンスキー)
「幻滅したとは言わないが、なぜかあてにしていたほどに
魅了されなかった」(プロコーフィエフ)

交響曲第9番
「輝かしい人生肯定的な力の勝利に対する、
強い信念を感じさせる楽観的悲劇」(ハチャトゥリャーン)
「アイロニックな懐疑主義と様式化」(ネースチエフ)

(この楽曲ができた背景をまったく知らずに今まで聴いていたけれど、
ちょうど独ソ戦が終わった後に発表されていた。
交響曲第9番といえば、有名どころの作曲家が皆
特別な意味を持たせている。
特に第1楽章の軽めな感じはらしくないな、と思いながら
9番を思い出していたら、やはり意見様々だったよう)

交響曲第10番
「輝かしい人生肯定的な力の勝利に対する、
強い信念を感じさせる楽観的悲劇」(ハチャトゥリャーン)
「暗く、陰鬱な力と戦い、勝利することのできる
肯定的なヒーローのイメージを構築できなかった。」
「とくに器楽のジャンルに取りかかると、なぜ今もって、
濃厚な心理主義や陰鬱な思考に彩られたモダニスティックな世界観の影響に
作曲家が完全に屈服するという矛盾したプロセスが生じるのか」
(アポーストロフ)

その後、ソヴィエト音楽の権威の頂点に行きつき、
その時々の手厳しい評価の数は減っていったようだ。


DSCH

自分のイニシャルを音に当てはめて、
レミ♭ドシを多用する曲を結構作っている。
バッハのBACHは有名だけれど、そこを狙ってくるところに
さすが自意識高い感じがやはり、ある。
ついでに、自分の好きになった人のイニシャルを
音に転換して入れたりしていて、
文章を書くような、絵を描くような刻印を感じさせる。

本の中には、このイニシャルを含む楽曲が
密接にその時代背景や、その時代と自己、存在意義などとの葛藤の
表れであることの仔細な状況について、書かれている。

客観的に見て、やはり変質的な執着が感じられないわけでもなくて、
その執着のわけを一つ一つさらっていく解説が面白い。

時代の文学者たちが書く詩を題材にした曲も多く、
思考が非常に文学に寄っている人なのだろうと思うと、
音を音として捉えてアレンジするのと同時に、
音符に意味を付与するという行為も、どこか納得がいく気がする。



自分の作品についてのコメント

発言や新聞、ラジオへのコメントとともに、
ものすごい手紙魔だったようで、たくさんの書簡も残っている。

交響曲第6番
(「頭部のなユニークなトルソー」などと揶揄されたり、
多くの作曲家を憤らせたたのに対して)
「こういう状況にいきり立つまいとどんなに努めても、
子猫どもはやはり、心を軽く引っかくのです」

交響曲第8番
「非常に心配しています。思うに、ぼくがいつも心配するのは、
作曲家というものは、おおむねあまりにもわかりすぎているという
理由によるものです」

交響曲第9番
「あれは気に入ってもらえない、、、、
音楽家は満足して演奏するだろうけれど、批評家は罵倒するだろう」

交響曲第10番
「人間の感情と情熱を伝えたかった」

モスクワよ、チェリョームシキよ(オペレッタ)
「恥ずかしさで身の縮む思いです。、、、退屈で才覚を欠いた、愚かしい劇です」
「ぼくは大いに集中し、好奇心を持ってこの仕事にあたりました」

弦楽四重奏曲第8番
「やらなくては、と映画音楽のスケッチを書こうと、
いくらがんばっても全然書けないのです。
その代わりに、誰ももとめていない、イデオロギー的に欠陥もある
弦楽四重奏曲を書きました」

弦楽四重奏曲第9番
「創造上の下痢」

(書簡の中で)
「(62歳を迎え、普通の人ならまた、生まれ変わっても
同じ人生を送りたい、と答えるだろうけれど)
ぼくは、こう答えるでしょうね。
「そんなことはありません!千倍も違った生き方をします!」

交響曲第14番
「きわめて迅速に作曲しました。14番の交響曲を書いている間じゅう、
私は自分の身に何か起きるのではないかと持続的に恐れていました。
私の右手が機能しなくなったり、突然目が見えなくなったりということです。
そういう思いで片時も心休まるときがありませんでした。」
「永遠のテーマ、永遠の問題があるということが、頭に浮かびました。
その中には、愛と死があります。
私の詩の選択はきわめて無作為のものです。
でも、私にはそれが、音楽を通して一貫性を与えられているように思えます」

弦楽四重奏曲第15番
「第1楽章は、ハエが空中で死んで落ちるように、
聴衆がまったく退屈してホールを去るように演奏してください」




この最後の弦楽四重奏曲第15番を聴いてみたら、
本当にほぼすべての部分が、深遠で、静的で、やもすると
確かに聴きどころを見失うような楽曲なのだけれど、
旧ソ連であるエストニア出身の
アルヴォ・ペルトの初期の作品に通じるものがあった。

ペルトを好んで聴いていた身としては、結局のところ
絢爛と狂気と沈痛が入り混じったそれまでの楽曲より、
亡くなる直前に書かれた、死にのみ意識が向かっている
ひたすら静謐な音楽が、図らずも気に入った。

レーニンの死、スターリンによる全体主義から
社会主義リアリズムに則り、
「形式においては民族的、内容においては社会主義的」であること、つまり

1;現実を、その革命的発展のもとで、
  正しくかつ歴史的な具体性を持って描写すること
2;その描写は、社会主義の精神に則った
  思想的改造と教育という課題と結びついていること

を音楽に求められ、文字通りの自分の命、と地位を守るため、
それらの命令に表面上では従っているように見せ、
楽曲の中に忍ばせた内心の裏切りは、近しい人たちにしか明かさなかった。

ショスタコーヴィッチが涙を流したのを
息子が見たのは二度だけだったいう。
一度目は、最初の妻が亡くなった時、そして
二度目は、共産党への入党を余儀なくされた時。



ひたすら交響曲を中心に聴き続けてきて、
正直なところ、少し疲れた。
本にはすでに書かれているのだけれど、
69年の人生で、こんな激しい曲ばかりを作り続ける原動力とは、
途方もない、と呆然とする。


今、まさに交響曲第7番を聴いている。

この楽曲は、レニングラードという名前がついている。
レニングラードでの初演は、
ドイツの包囲が始まって1年近く経った1942年のことだった。
食料もままならない状況でこんな楽曲が演奏できる気力などない、と
不平を口にする演奏家をなだめ、レニングラード出身の音楽家も集めた。
奇しくも、演奏の日は、ヒトラーは同じレニングラードのホテルで
祝賀晩餐会を開催することになっていたので、
戦略的な意味も多分に含まれたことになる。

コンサートが無事終えられるよう、ソ連軍は砲弾3千発を敵陣に打ち込み、
演奏中、砲声やサイレンによる空襲警報は
万が一の時のみとするよう指令が入った。
レニングラードのすべての街頭の拡声器のスイッチが入れられ、
市民は音楽を享受する。

その後、スコアはフィルムに写され、
鉛のボックスに入れられて、テヘランからイラク、
カイロからサハラ砂漠をこえ、アメリカへ渡った。

そんな逸話を読んだら、色々想像して否応なく
音楽の高まりに反応して、何かしらを鼓舞される自分がいたりする。



本のあとがきでは、ロシア文学研究者である著者が
ショスタコーヴィッチの音楽を聴く喜び、について書いている。
「ソヴィエト全体主義との対話が必然的に招き寄せる
ある種のいかがわしさを、一個の「個人文体」として受け入れ、
それを「愛する」ところから始まる。」

「作曲家が受けた長い抑圧を、わたしたちは彼の「異質」な音楽を通して
追体験し、そこに共通の空間が生まれる。
喜ばしいことに、詩神は最後まで彼を見捨てることはなかったし、
彼も見事にその期待に「応え」て見せた。
彼の栄光は、傷だらけというのが正しいだろうが、
21世紀に生きるわたしたちにとって、まさにその傷の共有こそが
かけがいのない価値を帯びているのである。」

私はショスタコーヴィッチの人となりと、音楽を
無条件に享受し、愛するところまで、まだ
辿り着いていない。


ただ、一人の表現者が、究極的な不自由の中で、
最大限自己に忠実でありたいと思いながら、
時に自らを欺き、けれども、在りたい自己の姿を追い求めた
その戦略と姿勢と苦悩、それらとただひたすら向き合ってきた真摯さには、
どこかしら、憧れるものがないわけではない。
(あんなに錯綜した人格は大変そうだし疲れそうだけど)

著者の抜粋にも通じるところだが、ソ連独特の全体主義ほどではなくとも、
今のこの時代、抑圧と抵抗を感じることはいくらでもある
自己との向き合い方、そして、その表出の方法について
自らを省みるための一つの、そして圧倒的な事例として
随分と、心奪われる人生であることは間違いない。



〜 追記 〜

さんざんショスタコの楽曲を聴いた後、
改めて森の歌を聴いてみると、
特に5楽章目の旋律や盛り上がりには
やはり、社会主義的な、もしくは軍歌的な匂いがしないわけでもないけれど、
総じて、他のショスタコの楽曲に比べて圧倒的に聴きやすいことがわかった。

そして、私がどこか社会主義的な、と感じる音作りそのものが
私の記憶の中のショスタコ経験によるものであり、
自分自身が知らず、ショスタコとソ連を結びつけて聴いていたのだと
気づいてしまった。

本によれば、森の歌を作った頃、ソ連の文化、芸術統制が行われていた。
すでに「ムチェンスク郡のマクベス夫人」で政府からの批判を受けていた
ショスタコーヴィッチは、スターリンの政策に媚び、肯定する楽曲を
作らざるを得ない状況に置かれていた。
迎合の極みのような位置付けの曲が、
結果的に聴きやすかったことは、
自我を入れ込んだ瞬間に混沌とする、という他の楽曲での現象を
裏付けるもののように聴こえる。