李禹煥の展覧会へ行って、大学の時の
もの派の作品を作る教授のことから、
先月携帯に収めた、大学の頃の写真を思い出していた。
外へ出ると、金木犀の香りがどこからともなく、流れてくる。
実に、10年以上嗅ぐことのなかった香りだ。
この香りは必ず、大学の窯芸室を思いださせる。
薄ら寒くなったコンクリ敷の部屋の、僅かに開けた窓から
すうっと流れ込んでいた。
薄曇りで空気に湿度のある、秋らしい日和。
先月、亡くなった友人の遺影に挨拶をし、お墓参りに行った。
申し訳ない、2年以上うかがえなかった。
会ったらいくらでも話すことのある友人だったから、
お墓にたくさん話をしようと思っていた。
けれど、お宅へ伺い、遺影を見た時に、
頭の中にどんな言葉を思い浮かばなかった。
写真に収まる友人の、よく見慣れた顔を見るのが精一杯だった。
もう居ないのだ、という事実を腑に落ちて理解しようとし、
当たり前のはずの、でも理不尽な何かと、しばらく向き合っていた。
随分と天気の良い日だった。
彼女のお墓のあるところは、ベトナムのダラットの山の上や
ヨルダンのイラク・アル・アミール近くの墓地のように
日当たりが良くて、景色もいい、明るい場所だった。
遺影の飾られているお仏壇は、
桜の木でできていて、シンプルで美しかった。
友人が結婚する時、注文した棚と同じ職人に、
旦那さんが頼んで、作ってもらっていた。
そのお仏壇の傍には、小さな丸椅子があった。
そして、その椅子の上には、小さなブリキの箱があって、
見覚えのあるぬいぐるみがいくつか、入っていた。
懐かしい、と、いくつかのぬいぐるみの中の、
毛糸でできたペンギンを手に取る。
糸がしまっていて、適度な硬さのある小さなぬいぐるみを
私はもう、20年以上前に、握ったことがある。
友人が亡くなってから、ふと気がつくと、頭の片隅で
今思っていることや、感じていることを
亡くなった友人に話したら、どんな反応を示されるのか、
考えていたりしている。
私のうわつきや中途半端な調子の良さと甘さを、
よく知っている友人だから、
心の中をすっかり見透かしているのに、違いない。
同時に、感覚の中に携えていなくてはならない、
ある種の厳しさと柔らかさもまた、
よく分かっている人だから、
それらに私が気づいていれさえすれば、
話をよく、理解してくれるだろう。
いい感情にしろ、悪い感情にしろ、とかく情動的な私が
波に飲み込まれそうになった時、
欠かせないそれらの感覚という舫綱を離さないように、と
意識させてくれていた。
日本に戻ってきて、読みたい本は手に入り、
行きたい展覧会に足を運べて、
ほんの時折だけ、だけれど、真にいい音楽を聴く機会を
持てるようになった。
そして、感度高く、それらを享受しようとする時、
その背後にある、良さの真髄は何なのか、
分からないなりに、考えるようになった。
良さには、個々人の好き嫌いが多分に反映されはするけれど、
一貫して私が良い、と思うものには、
突き放すこともない愛情のようなものを含む
厳しさがある。
この類の厳しさを表現するのには
聡明さと冷静さが必要であることに、うっすらと気づいてはいた。
なるほど、もしかしたら、何かを作れるかもしれないけれど、
自分の納得いくものが作れないだろう、と思うのには
聡明さと冷静さがない、という理由があることを自覚する。
友人が編集してくれたアルバムを、
お墓参りの後、久々に通して聴いていた。
Edward Sharp and Magnetic ZerosのUp from Belowのアルバムを最後まで、
そしてエンリコ・カルーソーのSei Morta Nella Vita MIA、
シューベルトの弦楽四重奏Op.163第2楽章、
最後は、アン・サリーの「椰子の実」。
(NPRのTiny Desk Concertの
ボーカルの女の人が、以前アンマンの向かいの部屋に住んでいた
レバノン人の女の子に雰囲気がそっくり。)
この並びを、確信をもって選んだ友人は、
本当にセンスがいい。
友人の好きだったものものを思い出しながら、
見事な並びだな、とあらためて感心していた。
Edward Sharp and Magnetic Zerosは、一見ゆるそうなのだけど、
彼らの描く世界観を音にしようとする真剣さ、のようなものが好きだ。
そして、ゆるさと真剣さのバランスが、まさに、
友人の大切にしていたものだったのかもしれない、と
すっと合致する瞬間があった。
厳しさと柔らかさの組み合わせ、と同質のものかもしれない。
世界観を描こうとする、という行為自体は、きっと
表現する過程で必ず通る作業なのだろうけれど、
その場面で生じる真剣さや必死さを、全面に出さないこともまた、
才能の大事な資質の一つである、ということに気づかせてくれる。
個人的には、どこまでも真剣さが全面に出ているものも、好きなのだけれど。
テノール歌手のエンリコ・カルーソーが朗々と歌い、
静謐さと和音の美しさが際立つシューベルト、
そして、温かさと芯の強さが旋律と相まった、
いつまでも聴いていたい、椰子の実。
ものを作る人たちの中には、
厳しさばかりが全面にあって、この作者はひどく偏屈なのかな、と
思わせる人もいる。
けれど、会ってみたらすごく柔和な人柄で、
作品と人、がセットでバランスが取れていたりする。
人柄も作品もすべてにおいて、
ウィットに富んで柔らかく、愛情に満ちた厳しさもまた、
溢れ出ている人がいる。
後者の方が、なんだかすごい、と思うのだけれど、
そんな人に会うのは、少なくともものを作る人において、
かなり稀だ。
なんか、苦しくて厳しいものの方がいい、というような
どこか歪んだ価値観を持ってしまっていたのかな、と思う。
そちらの方が、苦しいなりに容易だし、
周囲にそういう人が、多かったからかもしれない。
もしくは、彫刻を作る人は、先の例で言ったら、
前者に当たる人が圧倒的に多い。
そして、自分の今の仕事においても、
扱っているものが人の生き死にや、
生活に関わるようなことを含みシビアなだけに、
(そして不謹慎と言われがちだから)
いくらも柔らかさなど持てなくて、
それが当たり前だとも、しょうがない、とも思ってきた。
けれども、人の生き死にに関わることは、
文字通り、生きること、も含まれる。
ずっと苦しくて厳しいのが、良いのでも楽しいのでもない。
苦しく、そこに耐える厳しさを携えてもなお、
生きていくのには、おそらく
喜びを見出す感度を高くするしかなくて、
それは、厳しさによって、
自ら握り潰してしまう必要も、本来、なかったはずだった。
たくさん読む本や、たくさん聴く音楽の喜びを
仕事や表現に、どうやって落としていったらいいのだろう。
たぶん、答えなどないし、実践して失敗を重ねていくしかない。
フィールドが足りないな、と、今更だけれど、思う。
昔チェロが手元にあった頃、音楽を聴いている時、
それから、音で身体が震える時の、あの
身体に直接染み渡る高揚感と、形のない美しさを
立体造形に落とし込めないかと思い、作り続けていた。
目に見えないものから伝わる感覚と、
目に見えるものから感じ取るものを、
共鳴させる方法について。
そもそも、彫刻という物体を使って表現しようとする
その試み自体が、なかなか滑稽に見えるのかもしれないけれど、
それでも、私なりに真剣だった。
日本に帰ってきて久々に、ただひたすら美しく、
身体震える音楽を享受する機会を得た。
ずっと欲していたけれど、一度として私の住んでいた海外では
経験できなかったその感覚に浸り、
何度も何度も、音楽を浴びていた時のことを思い出していた。
そして、昔の私の真剣さには、
ただひたすら窮屈な厳しさしかなかった、と気づく。
厳しさを携えてもなお、
伸びやかで柔らかな表現の良さを、
心底は理解できていなかった。
私の友人がおそらく、常に意識し、形にしようとしていた、
もしくは、生活の中に染み渡らせようとしていたそれらには、
きっと、あのペンギンのぬいぐるみのような、
小さく柔らかく、愛おしいものもまた、含まれていた。
物理的なぬいぐるみは、あまり好きではないけれど、
毛糸のペンギンと、身体に染みる共振を持ち、
愛情の滲む厳しさと柔らかさを帯びた表現が
どうやったらできるのだろうか、と思い、苦笑する。
要素が多すぎる。
ひどく混沌とした人の、生き様のようだ。
私もまた、生き様だけは混沌としているけれど、
伸びやかさと愛情深い厳しさ、どちらの綱も手放してしまって、
ただひたすら、高い波に翻弄されているように見える。
先日、久々に会った大学の先輩が別れ際、
とにかく元気で、ちゃんと会えてよかった、と
なんの脈絡もなく、言う。
私は反射的に、友人のことを思い出し、
私に持てる時間を有効に使っているのか、
先輩が帰った後、一人じっと自問する。
足りない伸びやかさと厳しさを、埋めるだけたくさんの
喜びや愛情を見つけられていたら、
何も作れなくても、せめて、今享受できるものものを
限りなく精一杯、享受できたら、きっと、
友人に話すことが、次にはたっぷりできるだろう。
友人が、半ば呆れつつも私の話を、
嬉しそうに聞いてくれたら、とそこはかとなく、願う。
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