2021/02/26

自分の髪を愛せない人間の末路

 
小さな頃、少女漫画に描かれるふわふわの髪をした主人公に
羨望の念を抱きながら、あぁ、大人になったら
自分でこんなふわふわした髪にするんだ、と思った。

量も多く、太くて立派な私の髪は、
大人になって、どれだけお金をかけても、
思ったような髪型になど、一度としてなったことがない。
もっとも、美容師さんからしてみたら、
無理難題とかやめてほしい、という次元なのだろう。


日本にいた頃は、それなりに諦めず、さまざま試してみたけれど、
海外暮らしも長引く頃には、髪に対する意欲も削がれていった。

ベトナムに住んでいた時には、韓国人の方がやっている美容院にお世話になっていた。
韓国のバラエティがテレビから流れている。
サラサラストレートか、ふわふわの髪をした
美しい女性たちを見つめる時間だ。

そのお店には何度か通って、韓国のバラエティが楽しみになったりした。

年中暑いし、よく走っていたので、
ある日思い立って、柴犬みたいなおじさんのやっているローカルなお店で、
加藤登紀子みたいなショートカットにした。
あまりに加藤登紀子だったので、途中で茶色くしてみたら
どこかで見たことのある、お猿になった。

ローカルのお店に一度行ってみたかった、というのも、ある。
何事も、自分で経験してみないと気が済まない性格が、災いする。

短髪はそれはそれで、気持ちよかったけれど、
日本にはあまり適応できなさそうな髪型だったので、
その後、懸命に伸ばすことに注力した。

ベトナムからまたすぐ、ヨルダンにくる。

ヨルダンの美容院事情は、ベトナムのローカルなどとはまた、
全く違う凄みがあった。


男女で人生の一大イベント結婚式も葬式も別々に行うヨルダンでは、
女性の美容院は外からは決して、見えないようになっている。
ヒジャーブで髪を覆っているぐらいだから、外から見えてはまずいのだ。
店の中ではおそらく、男性の想像もつかないような世界が広がっている。


アラブ人にとって、美容院や床屋は社交場でもある。
男性たちが床屋に出かけたまま2、3時間話をして戻ってこない、
などという話はよく耳にする。
秘密警察はまず、床屋に潜入するという話を聞いたのも
一度や二度だけではない。

女性たちもまた、旦那や子ども、姑やご近所との
さまざまな愚痴や心配ごとを携えて美容院にやってくる。
結婚式の時には一家で美容院を貸切にして、
髪のセットからメイクまで、女親族総出で準備していく。
(思い返してみたら、ベトナムの韓国人のお店も、
 韓国人の方たちが用もなく、出たり入ったりしていた)


ヨルダンで最初に行ったのは、同僚の先生から紹介してもらったお店だった。
UNRWAのマンモス女子校には60人ぐらいの教員がいたけれど、
ヒジャーブを被っていない人は二人しかいなかった。
そのうちの一人に紹介されたお店の売りは、
ヨルダン人ではなく、ルーマニア人がやっている、というところだった。

家にでも招かれない限り、ヒジャーブの下の髪の毛を見ることはない世界では、
確実にルーマニア人の方が信用できる気がした。

アラビア語で半泣きになりながら予約をして出向いてみると、
残念ながら、ルーマニア人の店主はいなかった。
でも、随分と歓迎されたのは、私がアジア人で、
従業員のほとんどフィリピン人だったからだ。

なんだか本当に嬉しそうな顔をしたフィリピン人の女の子たちが
望みの髪型をプリントした紙を渡すと、
楽しそうに回し見て、いきなり買い物に出かけてしまった。
なぜなら、彼らの判断では、私のしたいパーマにできる
ロットの数が足りなかったからだ。

終始彼らは楽しそうだったし、そんな彼らの姿を見ている私も
何だか、久しぶりにアジア人に囲まれて、嬉しかった。

他の客が揃いも揃って、大仰なヨルダン人ばかりだから、
きっといつも、理不尽な注文や威張った態度を取られて
嫌だったのだろうな、といろいろ想像してみたりした。


ただ、出来上がりは、持参した写真とは似ても似つかぬものだった。
ぐりぐりになった髪でアパートメントに戻ってきて、
同じ建物に住む友人たちに、写真と仕上がりの違いについて訴えていた。
陽気で楽しそうなフィリピン人の女の子たちには、言えなかったから。


ヨルダンの初めの5、6年は、日本に帰れるのが年に一度かそれ以下だった。
懲りずに、現地の美容院へ行き続けた、単純な理由だ。

ある日、猛烈に髪型を変えたくなる、そうするともう、
居ても立っても居られなくなる。
それは、どうしても豚骨ラーメンを食べたい、とか、
どうしても銭湯に入りたい、とか、
その手のものによく似ている気がする。


二度目にそんな衝動に駆られた時、
アパートメントの並びにあるお店が気になったのは、
単純に中がどうなっているのか、見てみたかったからだ。
その頃住んでいた地域が、日本人は基本的に、住まないような
かなりローカル色の強い地域だったことを忘れていた。

中は、場末のバーみたいなところだった。
スポンジの出た椅子、絞首刑台みたいな洗面台、汚い鏡、
そこらへんに散らばった誰かの髪の毛。

美容院へ入ると、女たちはヒジャーブを脱ぐ。
すると、赤とか黄色とか、オランダのチューリップ畑みたいに
色とりどりだったりする。
店の女主人は、ひたすらタバコを吸いながら、ものすごくめんどくさそうに
私の髪にロットを巻いていった。

そして、一回めの液体を塗布した後、アラビア語で
「子ども迎えに行くから、一度家戻ってちょうだい」と言い捨てる。
自分のアラビア語力に全く自信がないので、
聞き間違いだと思った。
でも、お店にある汚いタオルを頭に巻かれると
車の鍵を手にして、さぁ、と入り口へ促された。
ストーブの前に座っていること、そして、2時間後に
店へ戻ってくること、と女主人から言い渡される。

寒い冬空の下、頭の液体が首筋を流れていく不快感に苛まれながら、
徒歩でとぼとぼと家へ帰る。
女性は基本的にヒジャーブを被っているから、
タオルを巻いたアジア人が歩いているところで、誰も気にしなかった。

そういえば、あのお店の洗面台のシャワーは固定式で、お湯が出なかった。


その後も、何度となく美容院へ行き、敗北し続けてきた。

ある時は、もう美容院に行くのをやめて、
日本から来る人にパーマ液を買ってきてもらい、
自分でパーマをかけたこともあった。
同僚や知人に髪の毛に小さな丸をたくさん作ってもらって
めでたくアフロになった。
奇跡的に、作った小さな丸の数は、百八つだった。
煩悩とストレスは髪に込めて、心は幾らかでも健やかにしておきたい、
という、結構切なる願いがあった。


当然、日本に戻って美容院へ行くと、
これはもう、髪ではありません、などと言われた。
時として、髪をいじることは私の場合、
一種の自傷行為なのだ、と知ったのはその時だ。

いい歳して、こんなことするものじゃないと思った頃には、
事業のドナーも変わって、年に2度ほど、日本に戻れるようになった。
だから、ここ数年、ヨルダンの美容院に足を向けることはなかった。


残念ながら、日本の美容院もまた私にとって、恐ろしい場所だ。
ヨルダンは強度の硬水なので、どれだけいいシャンプーやトリートメントを使っても
髪が藁みたいな感触になる。
なぜそうなっているのか、なぜ半年以上髪を放置していたのか
理由を話したいけれど、ヨルダンってどこですか?、から始まる
見知らぬ人との会話を楽しむほど、社交的ではない。
なんだったら、そもそも男性が女性の美容院にいることは
ヨルダンに絶対ないことなので、その時点で、緊張する。

そして、頭にタオルを巻かれた自分のまんまるな顔を
じっと正視しなくてはならないのも、苦痛だったりする。



今回も帰国中一度、美容院へ行った。
コロナで誰もが抱いているストレスを髪に込めて、
アフロにしたかったけれども、長時間滞在しなくてはならないのは
コロナだからよくないのか、と我慢した。
それに、髪をいじめるのはやめた方がいい、と
やっと分かったつもりでいた。


でも、ヨルダンに戻ってくると、早々に
また週末のロックダウンアナウンスが出る。
あぁ、また唯一と言っていい、ヨルダンの美しい季節に
出かけることができなくなるのか、と思うと、
何だか心底、悲しくなってしまった。

フィールドで学校回りをした後、道端までもが緑で覆われる
春真っ盛りの光景を目にしながら、また、髪型変えたい病が疼いてくる。
一緒に乗っていたスタッフが最近髪の色を変えたと聞いていたから、
その店へ電話をしてもらって、仕事終わりに出かけてしまった。


女主人と、おばさまと、若い女の子。
美容院の中では、誰しも自由にタバコを吸っていい、という
暗黙のルールでもあるのだろう。
どの工程の前後にも、タバコの匂いが店中に漂う。

折に触れて、各工程の始めや最後に、
「ビスミッラ(アッラーの名の元に)」と口にするので、
何だか、大層なことをするのではないかと、不安になる。




そして、燃えるように頭が熱くなったり、
熱いのにさらにドライヤーをかけられたりして、
2時間ぐらいだと聞いていた工程が、4時間近くになった頃には、
終わるのを待つ店主の娘と孫、若い女の子のお母さん、
おばさまとその娘さんが勢揃いして、身の縮む思いをする。
そして、待ちくたびれた人々が、ヒジャーブを巻いて、帰ってゆく。

おばさまと彼女の娘さんだけが、最後まで残ってくれた。

今週の給与の額が不当であること、
さっきまでいた店の店主が実はほとんど働かないこと、
でも、困った時には猫撫で声で何でもお願いしてくること、
などを、ドライヤーをかけながら大声で娘さんに話しかけている。

そこのお店のシャワーはお湯も出たけれど、
盛大にゴシゴシ洗われて、背中がぐっしょりと濡れる。
おばさまは暑いのか、半袖から逞しい腕を見せていたけど、
私のためにストーブをつけてくれた。
きれいにブローをして、FBに載せたいから、
と写真を撮って、全工程が終了した。


薄々気がついていたけれど、アラブ人には縮毛が多く
パーマではなく、ストパーの需要が高いから、
パーマは得意ではないらしい。
でも、ヒジャーブの下にはめくるめく色を隠し持っている人たちだから、
カラーリングは結構、上手なのだと思う。
もっとも、頭からは湯気が出ていたし、
カラー剤が顔について、私のこめかみは火傷の跡みたいになっているけれど、
それなりにおばさまは、誇りを持って仕上げてくれていた。




私はいつも、くすんだ鏡越しに女たちを見ながら
途切れ途切れの会話を耳にするだけだけれど、
かなり興味深くて、少しドキドキする。
どうせ外国人だから、と相手にされない感じも、
私にとってはちょうどいい。

きっとアラブ人だったなら、彼らの文化の中で
女性だけの守られた世界である美容院という場所をもっと楽しめただろうし、
そもそも、こんな髪質じゃなかっただろう。

かくして、私の髪の毛は今、白っぽいメッシュになった。
相変わらず、硬水に馴染めない生粋の日本人の髪は、文字通り藁になった。

また、しばらく日本には帰れない。



2021/02/20

生きながらえるための、本と紙の束


帰国中の本屋は、早く閉まりはするものの、いつでもどこでも
私を温かく迎えてくれる、大事な場所だった。

いつも通り、日本でたくさんの本を買った。
Kindleこそ、私のような人間のためにあるようなもののはずなのに、
どうしても本という形態から離れられない。
本たちが、先の見えない次の帰国までの
食料や日用雑貨のバラエティを制限する原因になっている。
トランクの重さを測る吊り下げ式の重量計が、いつも命綱となる。

アンマンの家に戻ってきて、本をトランクから出して、
あぁ、また買ってきてしまった、とほんの少し、後悔する。
いつかアンマンを引き払う日がきたら、この本たちをどうすればいいのだろう。






物語が私を救う、と書くと大仰なのかもしれない。
けれど、どうにも事実がとかく辛くなりがちな場所にいると、
目に見える範囲の世界で、処理しきれないものごとの中から、
何か美しいものごとや感情だけを、切り取って保存したがるらしい。
そして、凄惨なものごとや感情の中にある、
優しさや煌めきの片鱗を見つけ、大切に抱いておける
装置を、欲しがるらしい。

事実は、ただそこらへんにある石ころのように、
ポロポロと転がっていて、それだけでしかない。
ただ、石ころでつまづきながら、石ころそのものを憎まぬように、
石ころにまつわる話について、思いを巡らせなくてはならない。



それから、本とともに持って帰ってきた、
美術館のパンフレットを並べる。


何に自分が興味を持つのか、久々に美術館をはしごしながら、考えた。
それから、いわゆる芸術というものに、私は何を求めているのだろう、と。

新たな視点を気づかせるもの、が面白いと思えるようになった。

もともと、ひどくアカデミックな考え方の畑で美術を学んでいたものとしては
ものをつくること、そのものへの探究心が制作の動機になり得たし、
とかく彫刻を専攻していたから、物理的に制作に時間がかかることで
その時間に耐えうる恒久的なテーマ設定が必要だった。

ものをつくることで培われる技術は呪縛にもなりうる。
すっかりその呪縛に囚われている私には、多くの作品が
自由でのびのびとして、見えた。

結局いろいろな分野の作品を見たけれど、
今のところうまく、整理できていない。
ただ、瞬発性と恒久性の間で揺らぐものの、に惹かれるものがあった。

イメージが欲しい。
ぱっと一瞬で核心が伝わるようなイメージの共有ができたら、と思う。
初めて会った人の印象が切り取られて残るように
初見で残るような、すっと心に入るこめるようなイメージを。

でも、同時に、どうも事実の集積から立ち上がるものに、
ひどく慣れ親しんでいることにも、気づく。
写真美術館の展示で、同じテーマ、ほぼ同様の構図で、
ひたすら撮り溜められた写真が並ぶ様が、
ひどく心に馴染むのを感じた。

趣向は習慣と共鳴するものなのだろう。

何事にも鈍くて時間のかかる私は、どうにも
牛のように反芻し続けなくてはならない。

戦利品のように、アンマンのアパートに戻ってすぐ
本とパンフレットを並べて
美味しいものでもちびちびと食べるように、手に取っては戻す。

次の帰国まで、なんとかこの本と紙の束で、
やり過ごさなくてはならない。

こんな時には、自分の鈍さが結構、幸いだったりする。
残念ながら、どうも、瞬発性からは縁遠いらしい。
鈍重さをもって、生きながらえるより他、なさそうだ。



2020/11/14

天国のはなし


考えてみたら、4日間の完全ロックダウンは3月以来だった。

久々のロックダウンで、
仕事とプライベートを分ける方法を忘れてしまって、
中途半端にずっと仕事をしてしまった。
ここ数週間週末もずっと
なんだかんだ、だらだらと仕事をしていた。


気分転換に映画でも見ようと思って、
日本にいなくて見られなかったけど、ずっと気になっていた
「ヘブンズストーリー」を観る。
2010年の映画。

なんで見始めちゃったんだろう、と初めの数十分は後悔する。
分かってはいたけれど、まったく気分転換にならない映画だった。
9話で編成されている映画の最初の1話目、
柄本明が孫を探すシーンで、胸を梳かれる。
そして結局、集中して最後まで観てしまった。
4時間半。


妻子を殺された男と、その男を愛する女と、
愛する家族を殺され、その男をヒーローと崇める少女と、
その妻子を殺した青年と、その青年を引き取る女と、
殺人を副職とする男と、そんな父親を持つ少年と、
その男に好意を抱く女と、その男から金をもらう女が
すれ違い、絡んで話が展開していく。

倫理が意味を為さなくなるほどの事象が起きうること、
人の心の冷ややかな場所と
熱く血の通う場所を、
きれいに整然と分けることなどできないこと、
遺恨を消し去る方法を探し当てるのは、
時として恐ろしく困難なこと、
復讐が生きる目的になりうること、
でもその先には、空白が待っていること、を
4時間半分の、精緻で丁寧な工程を持って、
描いている映画だった。

岩手の炭鉱廃墟の、冬と夏の景色と、
浦賀の団地のカモメと空と、
桜の並木が、美しかった。




戦争という恨みを生み出すシステムの渦中から逃れ、
それでもなお、強弱はあれど
難民として何かを恨み続けて仕方がない暮らしを
強いられる人々と接する機会が多いから、
一体、それを次世代に継がれないようにするには、
どうしたらいいのか、などと
壮大なことを、漠然と考えることがある。


恨み、について私個人に当てはめてみると、
恨む対象はシステムになることがあっても、
個人であってはいけない、と考えている。
あくまで、私個人の対処法だけれど。

ただ、周囲にいる人々にとっても、私にとっても、
恨むべきシステムの果ての戦争や独裁を
変革させるのにかかる労力は果てしないし、
システム変革へ、同じ方向に誰もを向かわせるのは
個々人では不可能に限りなく近い。
人のあらゆる欲は限りないからだ。


一方で、個人への恨みについては、対処の方法がないわけではない。

個人にもまた、恨む対象になる行為へ行き着くまでに
さまざまな事情がある。
もっとも、そんな事情など持ち合わせない、
徹頭徹尾、血も涙もない人もいるけれど、
そんな人はごくごく、わずかだ。

だから、その事情を丁寧に見て、理解していくしかないと、
考えている。
平たく、穏やかで和やかな心の状態が平和なら、
その作業にしか、心の中の平和はない。
恨むのに費やす労力は、途方もないから。


対象の事情をいくらか知ってもなお、
恨みが消せない時には、破滅が待っていることを
映画の最後の展開は示している。
最後の方の展開には、幾分解せないところがあったけれど。
そして、それでも、混沌としたまま
生死の混じり合う世界は続く。

個人の背景を丹念に見ようとしなければ、
もしくは、垣間見た背景を受け入れられなければ、
その先には物理的に、もしくは精神的に、
暴力的な行為が待っている。
映画の中の、その暴力性を消化も昇華もできず、
行き場もなくなってしまった人たち。


映画の中では、究極的な状況におかれた個人の話が絡み合っている。
その個人、に私がなる瞬間が、もしかしたらあるかもしれない。

少なくとも、日常の中にいくつも転がる事象として、
私が加害者になる瞬間、
そして逆になる瞬間もまた、いくらでもある。


誰しも、その人の心のうちを見つめ、把握し切るのは、
本人にとってでさえ難しい。
それでも、自分自身についても、相手についても、
その全貌を見ようと努力しなくてはならない。
相手のため、ではなく、自分自身のために。
自分が誰かを傷つけず、もしくは傷つけられてもなお
心の中に平和を抱きたいのであれば。



その丹念で骨の折れる作業を放棄した瞬間、
そんな暴力性を自分は持っていない、
とは言い切れなくなる時代に生きている。


かくして、さっぱり気分転換にならない。




あと、頭を真っ白にしたくて、
ずっとこのバージョンの新世界のアルバムを
無駄に高性能なイヤホンで聴いていた。

アラン・ギルバートの指揮を見ていると、
どうしてだか、とてもとても、心が温まる。
なんでだろう。




2020/10/25

友人の記憶


友人は、自分のことをこんな風に、
ネット上に載せられるのなんて、
絶対嫌だと思う。
でも書かずにはいられないので、記録して、残すことにする。

私は愛おしくて、悲しい。

私は、私の記憶を書く。
過去にしか存在しない記憶であり、
この先更新されることはない。




大学に入ったばかりの1学期のデッサンの授業。
講評で明らかに、一つだけ際立つデッサンがあった。
光と影を包み込むような、正確で、
でも柔らかでたおやかなデッサンだった。

その前から友人を知っていたかどうか、記憶ははっきりしない。
でも、あの石膏デッサンは今でも鮮明に思い出せる。

長い髪にスパイラルパーマをかけてきたことがあった。
アフリカのお面みたいでいいでしょう、と。
細い身体に髪のボリュームが不釣り合いで、
でも、とても格好よかった。

私のことをちょうさん、と呼んだ。
いつも髪をひっつめていたので、
中国からの留学生によく間違えられる話をしたら、
友人達と一緒に、そう、あだ名をつけてくれた。

日当たりの良い、2階建てのアパートメントに住んでいた。
自分で白いカーテンに付け替えていて、
少し色あせた畳がよく似合う、柔らかな色で統一された
落ち着く小さな部屋だった。
炊飯器のお釜の底に水がついたままスイッチを入れたら、叱られた。
私はがさつで、友人はどんなものでも
丁寧に扱う人だった。

知り合いの彫刻家のお宅へ、一緒に遊びに行ったこともあった。
とても尊敬する人を目の前にすると、
きちんとその敬意を、眼差しと態度で示した。
その家であったことの感動を、
言葉にする作業もまた、丁寧だった。

言葉を大事にする人だった。
小さくて、少し心許ないけれど、
フォントにしたいぐらい、滋味の滲むような
形のいい文字を書いた。
文字の形も書かれる言葉も、とても友人らしくて、
その人となりを、よく表していた。

犬みたいなマークが、名前の隣に描かれた葉書を
いつかもらったことがある。
犬みたいな、と書いたことに、きっと彼女は
わかってないなと、思うだろう。


猪熊弦一郎が好きだった。
大竹伸朗について、興奮して語っていた。
プリミティブな形態に、大学の頃は傾倒していた。
シンプルであること、その強さと生命力のようなものへの
憧れのようなものがあった。

陶芸に専攻を変えてからは、
彫刻の隣が窯芸の部屋だったから、
友人がロクロを引く姿を
よく眺めていた。

なんでもよく壊す私は、分厚くて安定感のいいコップが好きだった。
薄くて繊細な陶器の良さを教えてくれたのも、友人だった。

窯芸の部屋の裏には金木犀の木があって、
ちょうど今の季節、網戸ごしに金木犀の香りが
うっすらと部屋の中へ流れてきた。

時々、どことなく話したかったり、人寂しかったりすると、
窯芸の部屋の畳の上で、
友人が仕事を終えるまで、じっと本を読んだりして、
私は待っていた。

窯芸のおじいちゃん教授のことを
愛おしいおじいちゃんとして、よく楽しそうに話していた。
実家に遊びにきた時、なぜかうちの父親を気に入っていた。
枯れた学者のようでいい感じだ、と。

本人も学生の時は、少しいつも、猫背だった。
だから、真剣に猫背矯正ベルトの話をいつか、していたことがある。

家族の話も、たくさん聞いた。
お母さまが、いかに美しく優しい人か、
たくさんの逸話を話した。
お父さまが勤めていた日本の重機会社の車両を見るたびに
どこの国にいても、友人のお父さまの会社だ、と思い出す。
ユニックは会社名であることも、友人から教えてもらった。


興味のあるものを、深く探求する人だった。
感覚が鋭敏で、明らかに、圧倒的に、センスがいいのに、
それを論理的に裏打ちできるよう
自分なりに言葉にしようとすることを怠らない人だった。

それは、友人らしいけれど、私にはどこか、もったいなく思えた。
自信を持って、そのセンスがもっと自由に溢れていて
どこもおかしくなかったのに、
いつも慎重で、論理性を重じていた。

だから、本人は佇まいに雰囲気のある人だけれど、
雰囲気でごまかしてはいけない、というようなことを
いつか言っていた。


私は思慮が足りなくて、衝動的で、技術がなくて、
臆病で、そのくせコンセプトばかり壮大な作品を作りたがった。
友人は、深く考え、試行錯誤を繰り返し、
その思考と、自分の感覚の折り合えるギリギリを、
見極めようとしていた。

だから、作品も一見、素朴だったり、シンプルだったりした。
でも、その中には、果てしない計算があったり、
そんなものを一度放棄しようとする、格闘があった。

いしいしんじの本は好きだけれど、
「みずうみ」の書評は厳しかった。
いしいしんじらしくない、と。
おそらく、小説家だろうが、芸術家だろうが
音楽家だろうが、誰にでも好きな作家には、
友人なりの、あるべきスタンスがあった。



人生に明確な脈絡のない私は
専門のフィールドが変わってしまうと、
以前にいた世界の人々と、連絡を取らなくなる。
何を話したらいいのか、分からないからだ。
私は大してもう、美術の話ができない。
相手も、教育や支援の話など、興味がない。

でも、友人とは、会うことができた。
その人となりを形成する時期を幾らかだけでも、一緒に過ごしたから、
話がいくらでも、尽きず出てきた。

学生の時からそうだったけれど、
柔らかくて、いい素材の、淡い色の服をよく身に付けていた。
触れて、なでたくなるような服だった。
そういうものも、趣味がよかった。
服も靴も鞄も、肌も髪も指先も、丁寧に扱っていた。
私には真似できないけれど、だからこそ、
とても大切で、素敵なことだと、思った。

社会人になる頃には、
学生の頃に時折垣間見た厳しさは影をひそめ、
結婚した後は、ますます印象が柔らかくなって、
幸せであることが、ありきたりな言葉ではなく
佇まいから分かるのだということを、知った。


友人の住んでいた地方都市の、
とても美味しいコーヒーを出す喫茶店で、
私の紹介したRufus Wainwrightのコンサートへ行って、
Rufusがどれだけキュートだったかを、
目を輝かせて話していた。
私がその時付き合っていた、未来を描けない相手の話を、
呆れながら、でもおくびにも、どうしょうもない、
などという表情は見せずに、聞いてくれた。

ほっと落ち着く定食屋さんへも連れて行ってくれた。
日本食が恋しいという私への
彼女らしい、店選びだった。

ヨルダンへ行く時には、黒い薄手の綿の
レースの入った7分袖のカットソーをプレゼントしてくれた。
あっちのイメージはこんな感じだ、と。

たぶん、彼女は半ばおかしみを持って、
私の破綻した人生の文脈を、受け入れていた。



学生の頃、一緒に山中湖へ行ったことがあった。
湖畔に住む陶芸家の人の家へ向かう新宿駅の構内で
人をすり抜けてさっさと歩く私のバックパックに
友人は持っていた傘の柄をひっかけた。
「ちょうさんは歩くのが早すぎる」と言いながら。

その時、私が人をかき分けて進みながら、
「私は歩きながら死ぬんだ」と宣言した、らしい。
最後に会った2年前の冬、東京ミッドタウンのカフェで、
友人は十数年も前のことを、
おかしそうに笑いながら言う。
いつも通り、笑うとはにかんだようで、
眉毛がハの字になっていた。




今でも手元に、友人が作ってくれたアルバムがある。
Edward Sharpe & the Magnetic ZerosのUp from Below、
アルバム全曲の後に、Enrico CarusoのSei Morta Nella Vita MIA
シューベルトの弦楽四重奏D 956番第2楽章、
そして、最後に、アン・サリーの「椰子の実」。

この選曲も、センスがよくて、絶妙なバランスで、
最後に、すとんと、収まる。



亡くなることは、会えなくなることとも、
自分の世界から見えなくなることとも、違う。


人と関わってしか生きられないこの世の中で
私の目の前に存在する、亡くなった人についての果てしない真空が
どれほど、どこまでも、何もない未来なのか
私はよく、分かっていなかった。



まだ知らない、美しい音楽を聴くことを、
佇まいの落ち着いた皿の手触りを楽しむことを、
誰かの温かい手を握ることを、
しんと締った朝の空気から冬の気配に気づくことを、
心の中の何かをほどく映画を観ることを、
脳味噌を溶かすほどおいしいものを口にすることを、
曇りのない朝焼けを見ることを、
いくらでも、何度でも、
たった一度でも、
友人とまた、分かち合いたかった。





2020/09/14

祈れ呪うな、では、どうにもならないこと


祈ったって、何が変わるわけでもないことを、
身に染みて体感している。
呪いたいことが山ほどある世界であることも
痛いほど聞いてきた。

それでも、ある物事の渦中を見つめながら、
呪わずに祈ること以外のスタンスを持てないことがある。
その時の無力感は底無しだったり、する。

特に、こちらへ来てから、
何周も逡巡して、事象や人に対して、
祈れ呪うな、と願うしかない、
という経験を何度となくしてきた。



だから、この曲を批判するつもりは毛頭ない。
まさに、私自身が、あらゆる困難について、
どちらかというと日常的に、祈れ呪うな、のスタンスだ。
時には、自虐に身をやつしながら。


それでいいのか、というのは
結構長い間、自問自答のテーマだったりしたので、
久々にキリンジのアルバムリストを見ていて、
急にこのタイトルが気になってくる。
ビートのしっかり重い、でもグルーブ感のあるこの曲を
何度も繰り返し聴き、歌詞の意味をこねくり回し
唸ったまま、考え込んでしまった。

キリンジ兄弟がこの、原発についての曲をリリースしたのは2012年。

何かしらを作り表現することを仕事としていた人たちにとって
おそらく、震災が及ぼした影響を
一体どうやって表現したらいいのか、苦しんでいた頃だっただろう。

情報も言論も混乱した状況の中で作った曲のタイトルが、
おそらく、究極の皮肉も込めて
祈れ呪うな、だったのだろうと想像している。

考えてみれば、何か訴えたいことがある人たちよりも
実は相当難しい。
よくこんな微妙なところを描いたな、と
心底、感心している。



キリンジはずっと好きで聴いているアーティストだ。
弟が抜けてしまってからのアルバムは聴いていないけれど、
20年ぐらい前のアルバムも、本当におしゃれで、
ものすごい変則的な拍子やコード、普通は持ってこない転調とか、
結構な力業を、さらりとやってのける曲作りなのに、
結構ギリギリポップス、という際どいところを
攻めている感じが、ずっと聴いていても飽きない。


この曲をひたすら何度も聴きながら、
何かが今さらひどく、引っかかるものがある。

開いてしまった地獄の窯と、それに起因する苦しみや不安を
見聞きした時、当事者ではない人の中には少なからず、
祈れ呪うな、という、ある意味突き放した、
諦めを含む願いを抱くしかできなかった人もいたはずだ。

原発が避けようもなく持っていた危険性について
ことが起こった後、多様な意見が出てきた。
原発にまつわるあらゆる発言を見聞きしつつ
様々な異なる立場の人々の意見や論争を
見守っていた大多数。
私もまさに、その一人だった。





ずっと、大多数、が気になっている。

こちらの学校でクラスの様子を観察していると、
とても利発で、先生に名前を覚えられている子が、クラスに2、3人
どうにも問題が多くて、先生に名前を覚えられている子が、2、3人
そして、その他の子どもたちが、30人ぐらい。

その構造と割合が結構、社会にも適用されていたりする。

問題が多くて名前を覚えられる方だったけれど、
ある年齢ぐらいから、30人に入る方法を覚えた身としては、
30人だって、それなりにいろいろ思うところ、
考えるところがあることは、知っている。

ただ、直接の当事者ではないから声を上げられなかったり、
考えがあっても見守るにしても、実のところ
多様な背景と多様な立場と多様な言い訳が、あったりする。

ある問題に対して、おかしいと感じながらも、
当事者と同じ地平には立ちきれなくて、
もしくは、自分の考えの正当性に自信がなくて、
どうにも身動きの仕方が分からない。



祈るのも、呪うのも、その対象は神でも自然でもなく、
本来、人か、社会の構造である。
そして、社会の構造はそのまま、自分たちの一つ一つの
選択と行動から出来上がっている。
だから、呪うのは己自身、ということになる。

でも、神か自然か運命という、どうにも手の下しようのない存在に対して、
呪ったり祈ったりする行為を通して、
責任の所在をうやむやにしてしまう傾向が
なかったわけではない。
少なくとも私は、身に覚えがある。


あの時、祈れ、呪うな、というスタンス以上の
強い語気が使えず、立場も明確にできなかった時期から、
ある程度時間が経った。

ただ、ひとつ分かったことは、
祈れ呪うな、で時には、
自分の気持ちを慰めることはできても、
問題は何も解決しない、ということだ。


その根本的な解決にならない行為に対する皮肉と批判、
あの無力感を思い出し、
いい加減、やめた方がいい、と自戒の念が巡る。




2020/08/07

しゃがんで、目を瞑らせる


乾燥の激しいこの国では、何もない荒野を歩くと
時々、羊かヤギの骨に出くわす。
その度に、デッサン用の牛骨を思い出す。
谷底にある骨は、崖から落ちた羊やヤギだ。
だから、肉が朽ちた後、骨と少しの毛だけが残っていたりする。

例えば、羊を絞めるシーンは、
何度見ても、小さく、大きく、衝撃を覚える。
生きていたものが、そのナイフのひとかきで、息絶える。

イードアルアドハーという祭日は、
羊や、場合によっては牛やヤギやラクダを捧げる。
預言者イブラヒムが、神への忠誠を誓って息子を生贄に差し出そうとした時、
息子の代わりに羊を差し出すように、と言う天使の言葉に従い
羊を絞めて捧げたという話に由来する。

絞めた羊を貧しい人々に分け与える日、ともなっている。

実際に、地域の羊肉を配る人もいるし、
羊肉を扱う業者にお金を寄付して、解体配布をお願いする人もいるし、
家族親族で分ける人もいるし、
隣の国のようにお金だけはたくさんある金持ちのいる国には、
大量に絞めて、結局食べられずに捨てたりする人もいる。



今年は、羊やヤギを飼いともに暮らしている
今ではいくらかヨルダンでも珍しくなってきた、
べドゥインの家庭で、羊を絞めて料理し、いただくところまでを
ご一緒させていただいた。

彼らが選んだ羊は、まだ6ヶ月の子羊だった。
まだ、身体つきも小さくて、毛もふわふわしていた。
家族や親族の子どもたちがまだ、跨って押さえておけるぐらいのサイズだ。

彼らがどれぐらいの頻度で羊を絞めるのか、分からない。
5歳から12歳ぐらいまでの子どもたちは、
父親と母親に頼まれて、逃げていかないように子羊を捕まえていて、
その様子は、羊と戯れる子どもの図とあまり変わりがなかった。
彼らは羊やヤギと一緒に暮らしている。

ただ、いよいよ絞めるために地面に寝かせようとした時、
子羊の動きと気配が、明らかに変わる。
それでも、抵抗するにはまだ小さすぎて、
奥さんと子どもが、前脚と後脚を掴んで寝かせ、
ご主人のナイフが首元にすっと入るまでに、
いくらの時間もかからなかった。

首と胴体が、皮一枚でつながった状態で、しばらく血抜きをする。
神経反射なのか、何度か体だけがバタバタと痙攣する。
それも、数回で、そのまま子羊は動かなくなる。
さっきまで生きていた子羊が、もの、に変わる瞬間だった。

周りで見ていた男の子たちは、少し静かになる。
でも、彼らはある程度慣れているのか、
もしくは、やはり見るのはあまり好きではないのか、
どこかへ遊びに行ってしまった。

8歳の女の子だけが一人、子羊の脇にしゃがんで、
一生懸命子羊の目を、閉じさせようと
何度も何度も、まぶたを手で押さえる。

本意ではないけれども、観ることになった
近隣国の広場に投げ出された首のない、もしくはひどい傷口を晒した
死体の映像を思い出す。

ぼうっと横たわる子羊を眺めていると、
奥さんが、悲しいのね、と言う。



毛皮を剥がす。
後脚の関節の皮を削ぐ。
肉と毛皮の境目が見えるように切ると、
そこから極力ナイフは使わず、手の力だけで
毛皮を剥がしていく。
掌を丸め、拳を境目に入れて押していく。

途中から塀に吊り下げて作業をする。
その方が明らかに、効率が良さそうだった。
夫婦は壁にかかった肉と向き合う。

奥さんの色鮮やかな服が、
肉を覆う白い膜と黄土色の壁の中で
随分と美しく見えた。

後脚から始まった毛皮を剥ぐ工程が
最後に首まで到達すると、毛皮を下へ引っ張る。
つるり、と首から毛皮が剥がされると、
全身の毛皮が逆さになって、抜け殻のようになった。

でも、内臓はまだ残っている。
逆さにつられて突き出た腹へ、縦にナイフを入れると
中身がどろり、と勢いよく出てくる。
胃袋と腸だけを除くと、
肺や心臓、腎臓や肝臓だけを丁寧に胴から外し、
金属のたらいに入れていった。
その頃には、吊るされた肉の塊はすでに、
肉屋で見慣れた姿になっている。

あっという間の手慣れた作業だった。

胴体の解体も吊されたまま手早く済ませ、
最後に、頭の皮を剥いだ。
頭だけは、胴体のようにすっと毛皮は剥げない。
飼料用のビニール袋の上で、
頭の毛皮が削がれていく。

毛を削ぐために角度を変えられる頭を見ていたら、
一瞬だけ、陽を受けて目が、様々な澄んだ青色に輝いた。
虹彩も働くなった目の内側で、瑠璃色の輝板が、
光を受けて反射するからだ。


時折力を込めなくてはならない場面がありつつも、
淡々とさばかれていく工程は
牛肉や鶏肉を食べる私にとって、誰かがいつも
自分の代わりにやってくれていることだ。

私ができるだけその工程を淡々と見続けていたのは
ただただ、彼らの手際のよさへの感心からでもあったし、
つぶさに見られる数少ない機会を逃すまいとする、欲深さからでもあったし、
この工程をしてくれる彼らへの敬意からでもあった。

けれども、一瞬見えた、あの青緑色の瞳には
羊が生きものだったことを不意に、強烈に思い出させる。
こちらの身体の深部をえぐるだけの、鋭い意思が残っていて、
いくらかなりとも、動揺した。

必死になって、目を閉ざそうとしていたあの子を思い出す。




内臓はそのまま、台所で細く切られる。
心臓が、随分小さく見えた。
腎臓と肺と心臓と肝臓と尻尾の脂を
玉ねぎと一緒に炒める。
塩とカレースパイスを入れて、味を整える。

肉も部位ごとに切られる。
水で洗うところだけ、手伝わせてもらう。
もう温度もなくて、ただの肉になった。
頭を洗おうとして、前歯を凝視してしまう。
半年ならば、春先の柔らかい草もたくさん、食べていただろう。
でも、もしかしたらその頃には、まだ
乳を吸うのに必死だったかもしれない。

肉もまた、あばら肉も腿肉も頭も一緒に
大きな鍋で煮る。
子羊の胴体は、そのほとんどが一つの鍋に入ってしまった。

この日は、臓物は炒め物に、肉はマンサフになった。
マンサフはヨルダン人の一番の好物で
羊肉と、その煮汁で炊いた米に
酸味のあるヨーグルトソースをかけていただく。

この過程のマンサフのソースは
ヤギのミルクを煮立てて常温で冷ます天然のヨーグルトを
煮汁とスパイスで溶いて作られていた。


臓物は、一つ一つ、臓器の種類を確認しながら食べる。
朝焼いた、薄い膜のようなパンのシートに包んでいただく。
肺はあまり味がなく、心臓は弾力があった。

マンサフもいただく。
頭蓋骨が容易に想像できる頭が乗った大きなお盆から
米と肉を皿に取り分ける。
他のところでいただく時には感じないのに、
その日は、臓物とマンサフの味に、どこか生々しさがあった。

むろん、調理方法のせいではなくて、食べ手の問題だ。

こちらで羊を絞める時には、
恐怖に慄いたまま死んでいくことのないように、
羊の目にナイフなどは見せないようにする。
苦しまずに死ねるように、首のどこを切ったらいいのか
子どもに教えている家族と一緒に、イードを過ごしたこともある。

あの映像の撮られた周辺の国々で、人を殺した人々もまた、
このイードには、羊にナイフを見せずに急所をついて
羊を絞めているのだろうか。
もしそうだとしたら、その行動は
どのような思考のもとになされるのだろうか、とふと、思う。



日差しはとても強いけれど、風のよく吹く日だった。
カメラを持ってきたので、写真を撮ろうと外へ出る。
そこへ、日本の過疎地なら複式学級ひとクラス分ぐらいはいる
近所の子どもたちがわらわらとついて来て、
カメラに興味を示す。

一人2回だけ、とルールを決める。
子どもたちは、他の場所でカメラを出す時の子どもたちの反応よりも
よほど大人しくて控えめで、よく話を聞いてくれた。
一番小さな、4歳ぐらいの女の子にも、
男の子たちはきちんと順番を回してあげていた。

久しく無人の別荘から、葡萄を一房ちょうだいして来た子たちは、
黄緑色のきらきらした葡萄を頬張る。
色が黒い方が甘いんだけどね、と女の子は言う。

子どもたちは、羊やヤギの説明をしてくれる。
あのヤギは主で名前がある、とか、あのヤギは何歳だ、とか。

子どもたちがゴロゴロできる小さな小屋は
高床式倉庫のような形をしていて、
下には、日差しを避けたがる力の強いヤギたちが
蹲って、涼をとっていた。
高床のスペースが気持ち良さそうなので、お邪魔してみると、
生後10ヶ月ぐらいの、みるからに丈夫そうな赤ちゃんが、
仰向けになって気持ち良さそうに寝ていた。




家に戻って、子どもたちの撮った写真を見る。
周りに急かされて、慌ててシャッターを切った写真がほとんどなのだけど、
どの写真にも、羊やヤギが、中途半端に見切れていて、
ヤギや羊を撮りたい、という意識はなかったのだ、と分かる。
おそらく、彼らの景色の中で、羊やヤギは
特別なものでは、ない。

私に、自分と近い地平にいる存在として、
家畜を見る視点を獲得できる環境はない。
だからなのか、彼らが子どものうちにしている
様々な生きものとともに暮らす、そして
生き死にを目にする経験が尊く思える。
子どもたちがその経験をどのように捉えているのか、
想像してみようと思ったけれど、うまくいかない。




パソコンの画面で見る
首を切られた直後の横たわる子羊の顔と、
たらいに乗った臓物に、
食べていた時には忘れていた、過去の残虐な映像が再度蘇り
どうして、都合よく思い出さなかったのかぼんやり考えた。


何もかもを一緒くたにしてはいけない。
羊は家畜であり、食糧であり、
私はビーガンでもなければ、動物のwellbeingについて
声高に訴える何かしらも持ち合わせてはいない。

ただ、ある時点で何も感じなくなること、
思考が止まることへの恐怖のようなものが、
じわりと心の中で、小さな黒い染のように滲む。

人も生き物である以上、
息の根を止めさせる方法は羊と変わりがなく、
場合によっては人を直接的に、間接的に、殺す人もいる。
憎しみや欲望や、もしくは、社会の構造や戦争により、
心を失ってしまったり、
想像を働かせる思考が止まる状況の中で。

都合よく、自分や近しい人、会ったことはないけど知っている人と、
自分には無関係な人たちを分ける能力を
身に付けていたりする。
その能力で、自分に無関係な人たちの死と
サバンナでライオンに急所をつかれるエンパラの死を、
同じように処理し、いくらの想像も遮断ているのではないか、
と思いが巡り、ぶるっと頭を振る。

もしも、そうだとしたら、
羊は儀式に則って、ナイフを見せずに静かに絞めるけれど、
ある原則や正義に則って人は残虐に殺せる人々と、ある意味で、
同じような思考停止機能を持っていることになる。

心を失い、想像が働かなくなるきっかけが
意外とそこらじゅうに溢れる情報と言葉の中に
転がっている。

だからこそ、誰かの、何かの死に対しての、
ひたすらな悲しみや喪失感から、
もしくはたとえ、息たえた誰かや何かへの
憎しみや欲望があったとしてもなお、
せめて、目を瞑らせてあげようという敬いが
自分にも他人にも、どこかで存在していてほしいと、切実に願う。


日本のように屠殺業者が担ってくれている社会の中では
生きているものの命がなくなることが、どのようなことなのか、
目にする機会など、少ない方がいい。

ただ、もし命がなくなる瞬間を目にしたならば、
生きることと死ぬことがどんなことなのか、という
とかく抽象的になりがちな事象の断片を
道徳とか、倫理観に照らし合わせるのではなく、
本能的な恐怖と混沌の中で、感覚的に知る機会なのだと思う。

そして、そこから生きていることの意味について、逆説的に、考える。

まぶたを閉じさせようとする女の子の、その反応が
羊であろうが人であろうが、死だけではなく、生に対しての、
根源的で純粋な姿勢だったはずだ。
尊び、敬うこと。

何も感じていないのではないかという不安で
怖くなった時には、せめて
あの女の子を思い出すことにする。