2019/03/29

良心が食われる時



それなりに長く、一つの国にいると、
構造的に、その国の社会の成り立ちを体感する。
そこには大量の問題があるけれど、
基本的にどの問題も、私が口を出す話では、ない。

最低限の権利、特に子どもや、社会的に弱者に当たる
人々にまつわる権利には、
仕事のこともあり、問題があれば、
解決へ向けてのアプローチをしていく。
そのために私はここに居るので、
それは、仕事としてしっかり、しなくてはならない。

大人の価値観や、文化、宗教、習慣などに対して感じるギャップや問題は、
その国の人たちが、自ら変えたいと思わなければ、
解決へ向けて動かないことを、
さすがにいい加減、経験的に、学んだ。


日常の大小様々なフラストレーションの多くを、
解決しようとするのは、ほぼ、無理だ。
慣れることでやり過ごすより他に、
どうしようもないことが、多すぎる。

それでも、腹が立つことは多い。
そこで、仏マインドを手にいれるために、
とにかく、できる限り、笑顔で対応しようと、思ったのは、一昨年あたりから。
初めは、笑い飛ばそうとしていたけれど、
笑い飛ばすのだって、結構場合によっては、疲れる。

あとは、こちらの心の在りようだ、と
とにかく、ひたすら、全力で自分の良心を
引き出そうとしていた。
たぶん、疲れているから、
怒る労力を減らすための、何かしらを
本能的に模索した結果だと、思う。

もっとも、こちらで間近に私を見ている人は、
そんなことを本当に、しているんだろうか、と疑問に思うだろうけれど、
それでも、以前よりは、丸くなったと、思う。

丸くなっているのか、諦めているのか、ここには、
大きな差が、あったりする。
諦めの過程には、
腹を立てている相手の背景に、目を向ける作業がある。

何でこの人は、このタイミングでお金をせびってきたりするのか。
子どもが6人居て、未だパレスティナキャンプから出られない、とか、
仕事が安定していない、とか。

何でこの人は、私を知らないのにこんなに、バカにしてくるんだろうか。
今まで会ったアジア人が、もしかしたら彼にそうさせる、
言動があったのかもしれない、とか、
彼の家族や周りの人が、閉鎖された視点でしか、
ものを見られなかったから、とか。

この作業もまた、労力を費やすけれど、
腹をたてるよりは、生産性がある、と思っている。
ただ、ここには、哀れんでいるのではないか、という
疑問も出てくる。
そこのところは自分の心に、鋭敏でいなくては、ならない。
自分がその立場で、その環境で育ったらどうなっていたのか、もまた、
想像を巡らさなくてはならない。


そして最近、気がついたことが、ある。

心を開けば開くほど、
分かりあえる人たちも、居ると同時に、
ある一定数の人たちは、
開いた空間の中に入ってきて、
食いちらかそうとする、という事実。

良心に漬け込む、人々のことだ。

良心が、道徳心に照らし合わせて、正しい行動をしようとする
心の在りようを、指しているのであれば、
そもそも、食い散らかしにかかる人々と私には、
道徳心、や、正しい行動、というものへの
認識の違いがあるのかもしれない。
もしくは、良心は、赤の他人ではなく、
近しい人たちのためだけに、取っておくものなのかも、しれない。



ここで、また自分の身の振りを、考えさせられる。
ひたすら阿呆のように、知らないふりをして、
これ以上自分のなにかしらを、すり減らさないようにするのか。
やはりここは、自分の主張や尊厳を守るのか。
もしくは、もう、一生相手にしないのか。

気持ちの弱い私は、
その場では、阿呆になることを選択しがちだ。
もしくは、もう相手にしないために、
極力避ける。
そして、あとで日本人に散々、愚痴を云う。

何だか、みっともないな、と、思う。
みっともなくならないようにするために、
一体どうすればいいんだろうか、
このことを、もっと理性的に、考えるにはどうしたらいいのか、
結構長い間、ずっと、考えている。



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