新元号に沸き立つ日本を尻目に、
なんで日本は4月始まりなんだろう、なんて、
天邪鬼なことを思うのは、実は、
日本の4月の清々しさが、苦手だったりするからだ。4月始まりは、日本とパナマ、 インドネシアやペルーぐらいだ、と ネットで確認してみたり、する。
みんな一斉に、 何かを新しくしなきゃいけない、 心を入れ替えなきゃいけない、という 暗黙の空気が、怖かったりした。
大学生の頃、毎年キャンパス一面に広がる桜並木こそ、 心いっぱい愛でたけれど、 あとはいそいそと、連れてこられる捨て子猫や
捨て子犬を育てるのに、明け暮れていた。
桜を愛でるだけで、精一杯だったし、 春は、お別れをしなくてはならない人たちもいるのに、 知らない人が一緒の教室に来たり、 新しい目標を考えたりしなくてはならないのも、 とろいので、うまくこなせなかった。
4月1日の朝、出かけに、 シリアに帰った元同僚からボイスメッセージが来る。
大好きだ、いつも気にかけている、という 彼女の声は沈んでいて、 その日の、冬のようなどんよりした雲、 冷たい風がコートの隙間を縫って入ってくる感覚と、 彼女の声は、じわりと、身体に染み込んでくる。
4月が始まりだなんて、関係ない場所に居る。 置いてきぼりを食らうのは、いつものことだし、 嫌いならば、いいではないか、と思いつつも、 彼女の声に、いつかの記憶が、共鳴する。
とても、寂しいのだろうと、思う。 きっとあちらの国と同じ色の、小雨降る空を見上げる。 あんずの花も、散った花びらは、踏みしだかれて 空と同じような、灰色になる。
頭の週は、4月だなんて信じられないぐらい寒かったのに、 ある日、一気に暖かくなる。
そして、4月に入ってから一気に、仕事も忙しくなる。
朝、バスの窓から見る景色も、 次第に、色が薄くなっていく。
水気を含んで青々としていた、草はだんだんと 枯れる準備をし始める。 菜の花も盛りを過ぎて、 開き過ぎた花には、虫がたかり、 茎は見るからに、丈夫になっていく。 夏には文字通り、刺してくるアザミが、 じわじわと、その鋭利な葉先を、伸ばしていく。
ヨルダンでは、暖かくなることは、すなわち、 水分を失っていく、ということ。
柔らかさ、とか、しなやかさ、が 周りの草花から、感じ取れなくなってくる。
仕事の合間に、何気なく、キャンプの空き地の先を見る。
見事に茶色い、草一つ生えないような土地は、 どこにも春を愛でるような、景色などない、と思っていたのに、 そこでピクニックをする家族を、見つける。
ただ、暖かくなって、天気がいいから、というだけで、 空き地に出かけていく。 天気が良かったならば、外へいそいそ出かけて行って、 暖かな空気を、目一杯楽しむ。
ふと、彼らを羨ましいと思う、自分がいる。
近しい人たちがいなくなって、さみしい、とか、 新しい環境なんて、期待よりも不安でいっぱいだ、とか、 そんな後ろ向きな気持ちと、じっくり向き合いながら 馬鹿みたいに毎日、桜を愛でて、そして散っていくのを、 呆然と眺めるのが、春だった。
桜が散りきって、 色相からも相容れない、緑とピンクの、 どうにも気にかかる色合いの、葉桜になる頃、 やっと、仕方がない、と 新しくて、嬉々とした何ものか、に 向き合わなくてはならない現実を、見る。
春が、終わっていく。 それは、何とも、口惜しいことのように、思えてくる。
どれだけ、後ろ向きであっても、苦手だと思っても、 漫然とした、心の移ろいを、 次第に暖かくなる空気、桜の花とともに、見つめる。 その、年に一度の儀式を経て、 4月という新しさを、受け入れていく。
その、過程そのものを、結局のところ、 謳歌していたということに、気づかされる。
桜も草も、ないけれど、 陽の光を存分に浴びた彼らは、 まさに、私が今、したいことを、しているのではないか。
その様子に恨めしさでいっぱいになりながら、 キャンプの空き地の親子を、 フェンス越しに見やる。
すでに、日差しが強くて、南に向いた空き地を凝視などしていると、
顔がじりじりと焼けていくのを、感じる。
はっとして、仕事へ戻る。
一体いつになったら、
桜のつぼみから、散りゆくまでを
飽きるまで、見つめ続けることができるのだろう。
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