2018/08/09

彼らの暮らしと、話の断片 8月2週目-2


一見、何もかもが単一なヨルダンでは、
考え方も、国籍も、宗教も、文化も、
メジャーなものの他に、そもそもマジョリティの人々が、
興味を抱かないように、見える。
もしくは、あえて交流しようとはしない、と
決めているきらいが、私の周りのヨルダン人からは、伺える。

それは、陸続きの国であり、侵略と制圧ばかりが繰り返された
歴史の成せる結果なのかもしれない。

過度に排除する傾向にあるように見えるのは、
でも、日本も程度の差はあれ、あまり変わりが、ない。
だから、よく日本に戻る度に
そこはかとなく、ヨルダンと日本は似ているな、と
感じることがある。
もっとも、難民に関して云えば、
よほどヨルダンの方が、寛容だ。

360度、どこから見てもアジア人の女性である私は、
完全なるマイノリティとして、
ある社会の中でマイノリティとして生きることが、どういうものなのか、を
まざまざと体感する日々を送っている。

生活基盤も、庇護に溢れた、いわゆる駐在の人々よりは、
出稼ぎに来ているフィリピン人やインドネシア人の人々に、より、近い。
結果的にそうなっただけだし、
最終的には、日本人であることに、救われた機会は、何度となく、ある。
また、私の側に立って、助けてくれる人がいる時もある。
その時は、本当に、ありがたくて、
文字通り、涙が出てくる。

でも、見た目で判断するのは、全世界津々浦々変わらず、
あえて交流しない人々の間では、偏見がはびこり、
多くの場合、言語的にも、立場的にも、私に発言権は、ない。

圧倒的な理不尽を経験することが、
でも、本当に得難い経験だと思えるのは、
結局、そうならないと本当の意味で、
ある社会の中の、ある分類において、
マイノリティになるとは、どういうことなのかを理解することが、
少なくとも私には、難しかったからだ。
分かったつもり、では、想像の及ばないものものが、
あまりにもたくさん、ある。


ただ、マイノリティの生きづらさの種類もまた、
マイノリティになる所以によって、異なる。

時折、ヨルダン人との会話の中で、
他宗教について触れる時に見せる、頑なまでの否定が、
私に、恐怖心を抱かせる。
特に、同じイスラム教の中の、他の宗派には、厳しい。

普段、信仰が何なのか、こちらから訊くことは、ない。
八百万の神を何となく感じている、程度の私には、
触れることのできない、主題だと、
避けて通ってきた。

その日の訪問では、2件目の訪問先で
彼らが、自ら自分の宗教について、語ることになる。




1件目:ハシミ・シャマーリー

午後から出かけたフィールドで、
一番道が混んでいる時間にあたってしまう。
それなのに、電話口で場所を確認するスタッフは、
相手のことばがうまく聞き取れなくて、いらついていた。
建物の番号を聞き間違え、目印になる建物の名前が違い、
結局1時間ほど、道に迷う。

往き着いた建物の前には、あまり手入れのされていない
ヒノキが数本、立っていた。
でも、家の前に木があることが珍しいので、
何だか、気に入る。

ブロックがむき出しになった建物の中1階に、
訪問先はあった。
たった10段ほどの階段が、感覚が狂いそうになるほど、歪んでいる。




玄関の脇の居間に通されて、正直、困る。
置いてあるソファのどれも、張り布が破れて
どれを選んでいいのか、分からなかった。
西に向いた窓からは、ヒノキの幹が見える。
こちらでは珍しい、鉄枠で観音開きの窓に、ヒノキという組み合わせが
そこだけヨルダンらしくなくて、
しばらく窓とその先を、眺めていた。

お父さんには、大柄だけれど温和な人柄が、
表情ににじみ出ていた。
お母さんはヒジャーブを被っていなくて
少し染まった茶色い髪に、小さな水玉のシャツを着ている。

1年生と2年生の息子たちが、
わらわらとやってきて、空いているソファに座る。
物珍しいのか、私の顔と兄弟のお互いの顔を、
代わる代わる、見ていた。

男子校に通う子どもたちには、苦難が多い。
私でも分かる、発音や単語、アクセントの違いが、
同じアラビア語を話しているのに、
子どもたちを窮地に追い込んでいるようだった。

イラク人だから、できなくてもしょうがない、と云われる。
学校に往っているのに、アラビア語のアルファベットも
きちんと学習できていない。
外で遊んでいたら、近所の子どもから嫌がらせを受けた。
お父さんがその子どもの親に会いに往くと、
自分の子どもがしたけど、それが何なんだ、と開き直られる。
結局、外に子どもは出さないことにして、
時々、モールに一緒に、遊びに往くだけが
外でできる遊びになってしまった。

おそらく、少し自閉の傾向がある下の子が、
お父さんとお母さんの間を往き交い、
私たちに出されたお水を何度も飲んで、
座っては、また、立つ。
うまく、合わせようとしても視線が合わないのに、
時々じっと、こちらを見ていたりする。

この子、学校ではぎゅっとなっているのよ、と
お母さんは、身体全身、きゅっと屈める。

うまく、この子に適切な支援ができていないけれど、
どうしたらいいのか、おそらく、ご両親は分からない。

シリア人家庭では、よくカリキュラムの違いが問題になっていた。
イラクのカリキュラムを知らないので、
尋ねてみる。

英語は3年生から、そして、農業の授業が
5年生から、あるという。
家族がやってきたのは、ティグリス川の流れる、
イラク南部のメイサーン。
文化の発祥の地を支えた、豊かな土地を、思い描く。

イラクでは宿題がたくさん出ていたから、
宿題をやってこないと、叩かれたりしたな。
2012年にやってきているから、
この二人の子どもたちは、イラクで教育を受けていない。
お父さんの時代の、話のようだ。

ソファの背もたれの上に置かれた絵が、
ずっと気になっていた。
授業の内容の話になった時に、
この絵はこの子が描いたのよ、と
お母さんが絵を取り出す。
上の子は、絵を描くのが好きなのよ、と
子どもたちに描いた絵を、部屋の奥から取りに往かせる。




厚い板に描かれた絵は、自然の色合いだけが、
何ともいえず、美しかった。
板に描いたのが、偶然だったのかもしれないけれど、
ふわりと滲む、絵の具の色合いが、やさしい。

どうしたら絵が上手になりますか?と尋ねられる。
同じ質問を、ガザの子どもからも訊かれたことを、思い出す。

おそらく、ご両親の醸し出す空気だったのだろう、
かちゃかちゃと動き回る下の子が居るのに、
どこか落ち着いた、安心できる雰囲気があった。

訪問の後、歪んだ階段を降りて、振り向くと、
ちょこんと階段の上に立った下の子が、
はにかみながら、何度もこちらに、手を振っていた。



2件目

随分歩いて迎えにきてくれたことが、
お父さんの後をついていって、分かる。
道の片脇には、色鮮やかな壁画のある
子ども向けのセンターがあって、
その壁画の上には、小さく十字架が飾られていた。

お父さんは小柄で、ずんぐりしていて、
こちらのアラブ人とは、どこかが違っている。
ヨーロッパの田舎の牧師か神父みたいだな、と、思ったのは、
往き道に見た、その建物のせいなのかも、しれない。
歩く姿は、どこか、かたくなだった。

建物の階段を上がっていくと、
吹き抜けの階段から、小さな子どもの
執拗な泣き声が響いていた。
ドアを開けると、当の本人が、
もしゃもしゃの黒髪を顔の両側に垂らしながら、
ぐゎんぐゎん泣いていた。

上の二人の女の子は、学校に通っている。
この子たちが通っている学校は、
他の家庭でも耳にしたが、評判がいい。
校長先生が随分献身的に、学校を回しているらしい様子がうかがえた。

Asylum Seekerの紙には、上に大きな息子も二人、登録されている。
でも、息子の姿はなくて、仕事もしていないという息子たちが、
どこに居るのか、訊けずじまいだった。

上の子どもたちの名前を訊いたところで、
スタッフが、首をかしげる。
確かに、今まで一度も耳にしたことのない、名前だった。

その場に居た、一番上の娘の名前は、
天国にある、木の名前だという。
その天国が、誰にとっての天国なのか、分からない。
私も、おそらくスタッフも、聞いたことのない話だった。
でも、お父さんは、少し高めの、早口ではないのに
切羽詰まったような口調で、
一生懸命、説明をしていた。

サービア教を信仰している、ということが、分かる。

もじゃもじゃの一番下の子だけが、
私にも聞き覚えのある、名前だった。
この名前だったら、馴染みがあります、と
スタッフが、無理に明るい声を出して、場を取り繕う。

お父さんとお母さんは、大学を出ている。
僕たちだって、仕事もしたいし、勉強もしたい、
けれど、この国では無理だから、
第三国定住を申請している。

親戚には、アメリカやイスラエルに移住していたり、
まだ、イラクに残っている家族もいるようだった。

お父さんは、変わらず、どこかに切実さを感じる口調で、話し続ける。
コーランだって読むし、好きだけれど、
子どもたちは学校で、宗教のことを訊かれたりして、困っている。

メイサーンから出てくる時には、
出て往かなければ子どもたちをレイプする、殺す、
脅迫され続けた。
お父さんは、この背後にはイランが居て、
直接イランという国が手を下さずとも、
影響を及ぼせる状況にしている、と云う。
他宗派を排除しろ、と説法をしている、
見慣れたシーア派の冠物を身につけた男性の動画を、
私たちに、見せた。

私もスタッフどう反応したらいいのか、困る。
私がよくわからない、というふりをして、動画を終わらせてもらう。


ヨルダンでも、外に遊び往かせるのはとにかく怖くて、できない。
ほら、下の子はストレスで、よくかんしゃくを起こすんだ。

上の息子たちにも、問題は起こさないでくれ、と
いつも云って聞かせている。
ヨルダンでは宗教的な活動はできないし、
何か起こして大使館にでも往かなくてはならなくなったら、
いろいろと、問題だ。
静かに、目立たずに暮らして、
早く違う国へ、往きたい。


お父さんがこんな話をしている間、
一番下の子は、コーヒーを準備してくれているお母さんの後を
カルガモのあかちゃんみたいについて回り、
髪の毛を束ねてもらったり、抱っこをしてもらったりして、
いくらか満足しだす。

学校での授業以外のアクティビティ内容について、
一番上の女の子に訊いていたら、
放送委員会を選んでいる、という。
人前で話をするのは、きらいじゃないの、と
思慮深そうな、おとなしい印象だったけれども、
その話をしている時には、
子どもらしく、笑っていた。

お父さんの、息を殺すような暮らしへの危惧は、
まだ、この子にまでは、現実の何ものかとなっていなくて、
それは、たぶんこの家庭の、救いになっている。



家を出る時に、近所で学校に通っている家庭を紹介してもらうと、
同じ建物に、もう一家族、住んでいた。
時間がなかったので、次回訪問するために
電話番号をもらう。

スタッフが上の階で電話番号をもらっている間、
ついていった私の後を追って、
子どもたちが階段を上がってついてきた。
もじゃもじゃの頭をまとめようと、持っていたゴムには
すっかり塗装のはげた、
小さなプラスティックのハートの、飾り物がついていた。
どんなゴムか見せて、というと、
ためらいながら、でも、ゴムをこちらの手に、乗せてくれる。

そんなことをしている間に、
上の家族の子どもたちも廊下に出てきて、
4人の子どもたちが、手すりにしがみつきながら
こちらをじっと、見つめていた。
金属の、縦格子の手すりのせいなのか、
牢屋に入れられているように見えて、一瞬、ぞっとする。

手すりから離れて、下の階に往くことはできても、
この建物の外に出ることは、学校の他に、ないだろう。
そう考えると、でも、その図の印象は、
必ずしも間違っていないのかも、しれなかった。





おそらく、スタッフにとっても、他のこの宗派の話を聞くのは、
初めての体験だったのだと思う。
中立的で信頼の置けるスタッフだけれども、
たぶん、心の中ではひどく、動揺していたに違いなかった。

私も初めてムスリムの家庭に往った時には、
いろいろな話が初めてで、分からなくて困った、と
帰り道で、スタッフに話してみる。

いや、本当に、よく分からなくて、と云う彼女の声は、
いつもよりも早口になっていた。
坂を登っていたから、息が切れていたのか、
まだ何かに動揺しているのか、
私には見極められなかった。



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