2018/08/03

苦海浄土—半ば憑依し、見続け、書き続ける




まだ高校の時、かいつまんで紹介されたこの本の記憶は
水俣病に苦しむ人々の姿を、
その苦しみに反して、
たおやかで、でもぎりぎりの
美しさと情緒を保ったことばで描いている、
いくつかの、情景だった。
それから不知火の、煌めく海。


授業で扱われたこの本には、
熊本出身の教師の思い入れがあった。
本の中の住人の独白は、徹底的に方言で記されていたから、
音読する教師の声には、はなし慣れた、何ものかがあった。
感情移入を排除してもなお残る、親密さのようなものを
淡々とした教師の音読から、なぜか敏感に感じ取ったのもまた、
よく記憶している。

方言での記述は、文字として起こされた時
理解がより困難になる。

ある者には限りなく親しく、
ある者には難解で、疎外感さえ感じさせる。


どうしたら、これほど文学的に、
目の前に居る苦しみ喘ぐ人たちを描けるのだろう、と
心の中でずっと、わだかまりながら、
この本を読んでいた。
だから、読みながら、頭の中で必死に理由を探していた。

石牟礼道子がその土地の出身だからなのか、
ひたすら家を訪れ続け、耳をかし続けたからなのか、
彼女の限りなく強い、人を見透す力なのか、
昇華にかけた時間なのか、、、、、。


実は、本を半分ほど読んだところで、
この本がフィクションである、という事実を
20数年ぶりに、知る。

正直、どこか興ざめした、とは云えなくもない。
よくよく考えれば、フィクションなのは当然のことなのかもしれないけれど、
石牟礼道子なら、そうではないのかもしれない、と思わせる
虚像があったのかもしれない。

そして、ノンフィクションではないという事実が
この本の読み方を、変える。

ある意味衝撃の、この事実は、
本の内容というよりも、
石牟礼道子という人に、より深く共感できる契機となる。

解説に書かれていた一説に、思い当たる節があった。
一度か二度しか、書かれている家庭には訪れていない。
「そんなに行けるもんじゃありません」
そう、云っていたいう。

既に亡くなってしまった人となりもよく存じ上げず、
全くおこがましく、失礼な話ではあるけれども、
フィクションであることが、どこか安堵感を抱かせてくれた。



病を背負ってしまった人と、その周囲の人たちの
終わりのない苦悩や、ささやかな喜び、
日常の些細なつまづきや、途方もない困難を
ひとり、語り続けるその描写は、
その人に成りきらなければ、書くことはできない。
もしくは、その人でなければ、書くことはできない。

実際に苦しむ人に成りきって書く、という作業には、
葛藤がつきまとうだろう。
どれだけその人の本当の語りを耳にしたとしても、
心の中まで耳を傾けるということは、もはや想像でしか、ない。

「だって、あの人の心の中で言っていることを文字にするとああなるんだもの」
そう云いきれることに、果てしない、想像を越えた共感がある。

その、共感と云う限界に、敢えて挑戦したのか、
もしくは、それらを拾わなければ
書き表したかったことが、書ききれなかったのか。
いずれにしろ、かなり危険な作業だ。

それでも、その手法を選択し、書ききっていることに、
ありきたりなことばだけれど、深く、感じ入った。



無謀ともいえる挑戦に、
土地の文化的背景や風土、歴史への深い造詣が相まって、
大きく、小さくうねるような、
壮大な叙事詩の様相を呈す。
そして、文学的に、読み物としての、美しさや面白さが、生まれてくる。
確実に、そこには深い愛情があって、
とことんまで対象に入り込む、覚悟がある。

そのようにして書かれたものには、
美しさがそこにあるからこそ、よけいにむごいたらしい現実が
はっきりとした明暗で浮き上がってくる。
だから、ひどく鮮明に、映像として、画像として
記憶に残ることになる。


主題には、社会との隔離や、それに伴うやり場のない無力感、
それでも、生き続け、暮らし続ける人々の姿がある。

もし、その画像や映像とともに、
会った人々のあらゆる思いを
読み手にくっきりとした輪郭を持って
思い描かせることが、書き手の狙いだったのならば、
成功している、と云えるだろう。




今の仕事ではよく、見たもの、聞いたものを書かなくてはならない。

語学の問題、私の体力や気力の問題がほとんどなのだけれど、
それを度外視しても、やはり難しいのは、
私がヨルダン人でもシリア人でもなくて、
そして、何かしらの問題の渦中にいるわけではない、からだ。

代弁する権利も資格もない。

彼らの云うことを伝えることはできる。
でも、多くのことばは、それだけを切り取っては意味が通じにくい。
それを都合良く、ヤフーニュースの見出しみたいに
いい感じに切り取ったり、書き換えたりする作業は、
絶対にしたくないし、できない。

そして、だいたい暗礁に乗り上げる。

意味が完璧に分かったり、状況がよく把握できたとしても、
また別の問題が出てくる。

細かいものが気になるので、そういう詳細を書こうとすると、
あっさり削られたり、無視されたりする。
でも、その中にしか、描けない
微細な人やものの様子と、それらが物語るなにものか、を
本当は、出来る限り事実に則って、書いていきたい、と
いつも思いつつ、叶わない。

そしてまた、暗唱に乗り上げる。

当たり前だけれど、描きたいと思うものが
私には不可能である、ということを思い知らされて、
どこか、すっきりとした、晴れやかな気持ちになる。


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