2009/12/31

シャンドライの恋


ベトナムの正月は2月で、テトと云う
だから、日本のような正月を迎える空気は全く、ない

外に出ても、例えば6月の気候のいい時期のようで
冬を想うような情景はない

だから、今日も普段と変わらない一日だった

仕事はでも、短い休暇に入った

久しぶりに映画を観る

こちらではCD同様DVDもほぼすべてがコピーだ
新しい売れ筋のものが多いが
監督ごとにまとめられたものもある

ベルナルド・ベルトルッチの作品の入ったDVDを買う
「シャンドライの恋」を観る
本当に気に入っている映画の一つだ

音楽の入り方がたまらなくよくて
ただ、曲を聴くためにDVDを流しておくのも、いい


映画の要素をストーリーと音楽と映像に置いて
その3つが、あるバランスと趣向で
織り交ぜられているものが好きだ

どうも、そういうものは、でも
強いメッセージ性を持ちづらい
訴えるものを主眼に置くと
音楽や映像が強すぎれば
ただ邪魔になってしまうことが往々にしてあるからだ

例えば、世に出る作品というものに
何かしらの教訓や訴えたいものがなければならないのであれば
この映画の作品としての価値は、決して高くないという人も、居るだろう

でも、だからこそ
どこまでもよく、美しく
この映画は自分の目には映っているようだ



2009/12/12

インターネットのないくらしについて

これを更新しているぐらいだから
ネットを使っているのだけれど
今は仕事場に来ているから使えている

家のネットの調子が悪い
住んでいる地区に規制がかかったのか
つい先日までは仕事場でyoutubeも開けなかった

そうなると、一日のサイクルが変わってくる
朝、メールのチェックや簡単な情報チェックをすることもできず
でも起きる時間は変わらないので
出かけるまでの間
本を読んだりする
ねこと遊んだりする

帰ってきたらきたで
パソコンはもっぱら音楽の再生機器になる

情報のほとんどは
実はそんなに大切なものではないことがわかってくる

もちろん
知っていた方が
例えば、はなしの種になったりするし
実際に使えたりするし、何かと便利だ
何よりも、載せられている情報はすべて
人が書いたり選んだりするものだから
間接的に、直接的に
人と繋がっている

だけれども
たぶん、ぐるりの中に
自分から見つけられるものがたくさんある
考えるべきものがある
繋がりの必要な人がいる

そんなことを思い
でも、漠然としすぎて
その”考えるべきこと”がよく見えず
結局、朝からぼんやりする




2009/12/06

ペンギンの絵




久しぶりに絵を描く
人にあげるためのものだった
木炭を手に入れたので
木炭の感触を楽しみながら
クロッキーをした

色を入れてゆきながら
絵具の処理の仕方など
忘れていたことを思い出したり
思い描くものと
絵となって立ち現われるものとの差に
愕然としていらいらしたりした
それでも
ものを作る、という行為をすることで
何かしらを形に残すことの大切さを、あらためて知る

2009/11/22

秋などというものを


ここのところ、涼しい
今日など、半袖で少し寒いぐらいの風が吹いている
空一面曇っていて
雲間から漏れる光が柔らかい
運動会の朝を、思い出す

ここには秋がない
乾季が始まっている
初めて経験する、初めての季節だ
季節は、感覚として身体に残ってゆく
この季節が、
いつかとても恋しく感じる時がくるのかもしれない

2009/11/15

心の均衡をつかさどるもの



ここのところ
家にブーレがいるせいで
朝食をゆっくり食べられない
仕事場へ往ってから
他の人の迷惑にならない裏口のスペースで
小さなお菓子やパンを食べている

外は気持ちがいい
たとえ、目の前には焼却炉と
その先にはくさっぱら
それだけしかなかったとしても
何となく、気持ちがいい

空を見上げ、草を眺め
それから、ほんの少しだけれど本を読む
また、須賀敦子を読む
ヒヤシンスのはなし
電車道のはなし
彫刻家のはなし
トリエステのはなし
ソレント近くの遺跡のはなし

最後までは読めなくて
だいたいは途中で止めてしまうのだけど
朝に、少しだけ違う国へ往き
ものごとの感じ方について
柔らかで透徹した視点について
これも、ほんの少しだけれど、考える

2009/10/23

「君たちはどう生きるか」を読む


シンプルで、でも印象に残るこのタイトルは
もう長らく気になっていたものだった
確か、中学のときに読んだ気がするのだが
途中で止めてしまった
本の背景が持つ時代性が
どうにもなじめなかったからだった


でも、本屋でみれば、気にかかる
でも、見えない敷居のある本だった
こちらで、古本を見つける
大きくマジックペンで名前の書かれたもので
92年の出版のものだった
初版が82年なのも、
手に取ってみて初めて知った

主人公の中学生の学校での出来事
そのおじさんとの会話などから
成長の過程で一度は考える
人としてどうあるべきかの思考の断片を
提示している

実に道徳的なせいか
あとがきにも書かれていたが
理想主義的な昔の本、という印象を受けてしまうのは仕方がないのかもしれない
ただ、道徳的であるにはどうしたらいいのか
いい人間とはどういう人間なのか
という命題に真摯に取り組む純粋な歳の頃に
何かしらの光を入れるのは確かな気がする

この歳になり
その頃に描いた、人としての理想が
いくらか心ざわめかせつつ、でも
今はもう、手にすることのない明るく澄んだ色をもって
もう一度、少しの間だったが、立ち現れたような気がした

2009/10/15

名前をつけるということ


猫には名前をつけないことにしていた

名前をつけることは
たくさんの猫の中の一匹、ではなく
その、一匹しか居ない、そいつ、になる、ということを意味する
一気に、親密で、かけがえのないものになってしまう

それに、名前をつけると
猫をその名前で呼ぶようになる
呼ぶことが、日常になってしまう
日常は、ずっと続くから日常で
呼ぶことが日常になることは
命あるものならばどんなものでも
愛情を含む何かになることだし
だから、居なくなることを考えると
どうにも怖くなってしまう

それなのに
ひょんなことからついてしまう
bourreeという
どうにもスノッブで
上品な風のある名前

でも、実際には
踊りにくそうな、2拍子の舞曲のことを指すようだ

確かに、ブーレは毎日
不可思議でどたばたな踊りでも踊るように
わたしの足だけではなく
いろんなものものと、戯れている

2009/10/10

Faureを聴く



たまたま、話をしていた人が
FaureのRequiemはいい、と云った

無性に聴きたくなる
が、こちらへ持ってファイルを血眼になって探しても
見つからない

あれほど聴いていたのに、と
自分に失望する

仕方がないから合唱曲を
一人で唄ったりしながら
単純で荘厳で
だから美しい
一曲目の始まりの和音を思い返していた

Pie Jesusの楽譜を持っていたのを思い出し
引っ張り出して
ピアノを弾きながら唄ったりした

でも、やはり、聴きたい
youtubeで音源だけ落とす

聴くと、どこにいてもどんなときでも
ある、同じ心持ちになるような気がする

静まり返る鏡のような湖の水面をみる




いつかと変わらなくて


通り道に、ときどき子犬や子猫が踞っていたり、捨てられたりしていた
日本での話

日本ではうさぎを飼っていたし
学生の頃は
こどもが生まれるシーズンになると必ず
誰かが子猫を拾ってきた
こいつなら育ててくれるだろうと
私の仕事場に猫を置いていった人もいた

休日、仕事場への往き道
自転車で走る3車線道路に、居た
見つけたら、拾うしかない

結局日本に居るときと何ら変わりなく
また、子猫を育てることになる

ただ、今回はもう
飼い主が決まってしまった

単純なエゴで
今まだ、我が家に居る
だけれど
名前はつけないことにしている

よくよく、人の指を噛み
よく跳ね、よく遊び、あまり寝ない
青い目の、賢い猫だ

2009/09/16

ことばの壁とおかしみ




単純に努力不足なのだが
この国の言葉がさっぱり話せない
最低限でどうにかしようと思っている
そして、無理矢理どうにかしてきたような気がする

多くの事は、その、最低限の語彙と英語で
今まで何とかなった
と云っても
何かを伝えたい、という意思は
日常会話のような高等次元ではなく
例えば買い物のときのように
互いの目的がはっきりしているような場面での話



よく、この国で旅行者は服をオーダーメイドする

してはみるが、旅行者と同じような
価格と店構えではもたないので
ローカルなお店へお願いをしてきた

初めから、そこまで信用できる店ではない
そう、聞いていたが
何度かお願いをするうちに
だんだんと出来上がりの期限が守れないようになってきてしまう

住んでいるところから
バスやタクシー、もしくは徒歩で
軽く1時間以上をかけて往くのだけれど
何だか申し訳なさそうな顔の店員が
ショウウィンドウの向こうに見える回数も増えてきた

ないから、来週にして
今日できるって、云ったでしょ
ないの。(たぶんお針子さんが)風邪で寝込んでいるのよ
分かったよ、じゃあ来週ね、絶対よ

などと云う会話を
2週続けて繰り返した。
さすがに、3回目はないだろう
そう思って店の前に立つと
やはり、申し訳なさそうな顔の店員がこちらを見ながら立ち上がる

むむっと、怒りも湧いてくるが
この人に云ってもしょうがない
怒ってもそれはそれで、申し訳ない

今度は、どんな云い訳なのだろう
そう云う思考へと、転換してみる

お金と時間を費やしてやってきたのだから
ただでかえってやるものか、と
出来上がりの確約を取り付け、さらに少し、意味もなく粘ってみた
ことばがほとんど分からないもの同士
何とか互いの思いを伝えたいが
私も意志が弱く
相手は調子がいい

しばらくの沈黙の末に
3人いた店員のうち
店長らしき女の人が片言の英語で云った

お父さん ベトナム人
お母さん 日本人

にこにこしながら、そう云うのだ

そんな訳がない
と、つっこむ気も失せる

こちらも笑いながら、そうなの、と答える
結局笑ってしまった

決して失笑にさせないところが
何とも云いがたいけれど
すごい技だと思う

そして私は来週も、その店へ往く

2009/09/09

善人の顔立ちをめぐって



なぜか必ず、どこの学校でも
音楽室には作曲家の肖像画が飾ってある
正直あまり好きではないし
絵も残念ながら、素敵では、ない

でも、それらの絵を見て育っているから
それほど音楽に関心のない人でも
バッハの顔とベートーベンの顔の区別ぐらいは、なんとなくつく
それらの絵によれば
バッハは福耳を持っていそうだし
ベートーベンは前のめりでしか歩けなさそうだ
意外と、サン・サーンスなどは
そこら辺の家具職人、みたいな感じだし
リストは少し、意地の悪い金融家にも見える
どれもみな、真剣な顔で
当然、笑いかけている絵などはないから
どうも、一生そんな顔をして
苦しみにもだえながら曲を作っていたような感じが、する

ブラームスなどは大好きだけれど
どうにも険しい顔つきで
とても社交家には見えない
きっと、いい天気ですね、などと云ったら
一瞥を食らい、返事をしてもらえなさそうな気がする
もしくは、聴こえていない



先月にバルトークに関する本を読んだ
それから、バルトークが表紙の楽譜を手に入れた
弾く前に、必ずその顔を見る
くすりともしていない、至って真摯な顔つきなのだけど
どうも、人が良さそうな感じがする

実際にどうだったか、
残念ながらその本には詳しく書いていなかった
でも、どうにも曲の中には
独特の慣れない音の組み合わせや
飛び方があって
変に技巧的だったりというわけではないのだけど
そして、どちらかと云ったら、実直なものが多いのだけど
どこか不思議に凝り性なところがあって
さっぱりその底にあるものを
掴める気がしない

やはり、見た目の判断は
あてにならないのかもしれない

2009/09/08

空のようすのこと


昨日、朝から雨だった
こちらへ来てから、2度目の朝だった

今日も朝は曇っていて
いつもなら真っ青か、鰯雲のなびく空に
白や灰の雲が垂れこめていた



冬の入り口の空に、似ている

コートを着込んでも寒くて、首をすくめ
広がった襟元をぎゅっとつかんで
外を歩く
きりっとした空気が無性に懐かしくなる



身体の芯に透明で鋭い糸を、すっと張ったようなあの緊張感を
私は、無性に欲している

2009/08/13

ピアノの音について

いつも使うバス停のすぐ近くに
古本屋がある
洋書がほとんどなのだけど
少しだけ日本の本があって
バスを待つ少しの時間に本を見たりする
日本でもよくしたことなのだけど
この土地でそれができることはちょっとした楽しみになっている

表紙だけを見て洋書だと思っていたが
綴じが反対なので開いてみたら、クレストのシリーズだった

「The piano shop on the left bank」
パリに住むアメリカ人がピアノの修理工場に出入りをする
その工房では、さまざまなピアノが修理され、去ってゆく
ひとつひとつのピアノの音色や、ピアノの歴史、
それから、一台のピアノ自体が辿ってきた歴史まで
長編の随筆のような形で書かれている
著者自身が、久しぶりにピアノのレッスンを受ける過程もある
ピアノの工房に集う人々の様子も描かれていて
人とピアノの入り交じってつくられる
パリでの生活模様、のようなものも見られた気がする

アメリカ人らしい、健康的な文章だった

いろいろなピアノの話を読んで
実家のピアノことを思い出す

よくわからないメーカーだったので
さてどこだったか、と
さっそく実家に尋ねてみた

浜松のフローラルピアノという会社
earl windsorというロゴ
手作りのピアノだということだった
時々調律師の人が来て調律をしている時、
それから、内緒で蓋を開けた時の
少しすっぱいような匂いをよく覚えている

小さなころ
ピアノの音がきたない、よく云われていた
弾き方に問題がある
指の置き方が悪いのだ
自分でも音が汚いことがわかっていたから
どうにかならないものかと、腐心をしつつ
どうにもできずに悲しくなったのを
今改めて、ピアノを弾きながら感じている
いまだに、どうしようもできない

でも、同時に
指を下すだけで音が出る、という
あの、ピアノの音と同じぐらい
鮮やかな色の驚きや喜びを
今でもまだ、ピアノを弾く度に
感じられるということは、幸いだと思う

2009/08/08

夏を見る


一年中夏なのだから
今更夏の風物詩、というようなものは
ないのだろうと思っていた
例えば6月に満開になる火炎樹などは
季節を思い出させるものなのだろうけど
花の他は、
私の知る限り
この5ヶ月ずっと、緑で
大きな変化がない

でも、ここのところ風が強い
毎朝、窓から見える街路樹の葉が
のんびりと空を飛ぶ鳥の翼のように
ゆったりと揺れている

窓から木々を見下ろすと
新しい葉が出てきているので
緑が、手前にくるほど明るくなる濃淡になっていて
若い葉が撓るのを見るのが
朝の習慣になる



2009/07/25

音楽とペンギン


日本で見るようなノート、
例えばcampusだったり、無印のものだったり、というのを
こちらで見つけるのは、いくらか難しい

日本でもそうなのだけど
へんてこな写真や絵が表紙になっていたりする

音楽用のノートが欲しくて本屋へ往った
バイオリンと薔薇の花が組み合わされた
恐ろしくムードたっぷりな絵が表紙になったものと
それから
ペンギンの、ノートがあった
何故、ペンギンなのか

写真の合成の仕方もあんまりなので
思わず、買ってしまう
音楽の単語が書かれている文字の字体もおかしい

ノートを開いてみると
底の1辺だけが
成人雑誌の袋とじのようにくっついていた

何度見ても、云いようもなく気が抜ける

2009/07/18

楽器を持つということ




確かに彫刻が専攻だったけれども
表現、ということを思ったとき
わたしには音楽が本当は、心安い

でも、どの楽器も中途半端で
だからいつまでも飽きないのだけど
いつまでもろくに、ものにならない

それでも、楽器が手元にあったら
そこに、誰か近しい、あまり話さないけれど、
よく互いのことを知っている人が居るようで
安心する

ちょうど、ご近所から借りたギターもある
チェロもある
取り出すのにも、少し心構えがいる
どちらもろくに弾けない

でも、部屋に気配があって
その空気を、気に入っている

でも、練習しなくては・・・


2009/07/07

檸檬


ホーチミンの店先にレモンを見ることは少ない
ほとんど、見ないと云ってもいい
単純に需要がないのだと思う
すてきに酸味の強い柑橘類はたくさんあるからだ

でも、果物屋は美しい
特に、電球に照らされた果物屋
いまだ、珍しさに胸躍るたくさんの果物たちが並んでいる


夜の果物屋の情景を、「檸檬」の中にも見つけて、はっとする
バックパッカー通りで手に入れた戦利品
梶井基次郎を久しぶりに読んだ

もう、何度も読んでいるはずなのに
きっと初めて、と云ってしまうほど
「檸檬」は新鮮だった
話の始まりの心理や状況や、展開が
やっと、しっくりと心の中に染みていく

感情の色と、描写の色がちらちらと煌めいた
濃密な作品だった
この歳で初めて染み入るのも考えもの、なのかもしれないけれど
思いがけず、嬉しかった


2009/07/06

楽器屋へ往く



こちらへ来てから、ずっと楽器屋へ往きたいと思っていた
ここで楽器を始めるのだ、と心に決めていたから

初めて、通過するだけだった3区へ往く
街の様子が、住んでいるところとは全く違っていて
商いの匂いがするところ

初めにピアノがたくさん置いてある店に往って
相場を知る
ベトナム製のアコースティックギターで7500円ぐらい
安い

どうも、楽器屋が続く道もあるということで
そこへ往くことにする
その通りの入り口には早速、ギターを作っている店があった

教えてもらっていた店へ往く
ギターが吊ってあって
バイオリンやコンバスもある

チェロはないかお店の人に訊いてみた時
ちょうどお店の前で大きな車が止まった

降りてきた女の人がチェロを扱っているようだった

話をしていくうちに
どうも、私が近所の音楽学校へ習えないかを訊きにいった時
電話番号を紹介された女性だったことがわかった
とても、偶然のはなし

本当は電話をしたかったのだけど
英語かベトナム語、でしか会話ができないというので
諦めていたところだった

さらに、その女性はこちらの仕事先とも繋がりがあったので
安くしてもらう

ホーチミンも、狭い

もう一度、また往こうと思う
ギターがあると、家で弾きながら唄えて、いい


2009/06/28

ホーチミンCD事情 4 もしくは、久々の怒り



スコールの中歩いたバックパッカーの通りで
初めて、まともな品揃えのコピーCD屋を見つける
と云っても、本屋にくっついたCDコーナーなんかより
よほど少ないのだけど
文句は云えない

とりあえず、radioheadを買う
そんなに好きなのか、と訊かれたら
首をかしげる
でも、もう半ば、意地なのだと思う

さて、3枚買って読み込む
この瞬間、一番緊張感がある
kid A ,Pablo Honey, Amnesiac
奇跡的に、すべてのCDをmacは受け入れた

が、今回の驚きは、この後だった
Pablo HoneyというジャケットとCDのラベルがついていたのだが
中身はP.O.Dという
聞いたこともないバンドのCDだった
きちんと、macは馬鹿正直に曲目を表示する
今回ばかりは、もう一度店へ持ってゆくことが可能だろう
そう判断する
だって、ラベルと中身が明らかに違うから

まあ、でも試しに聴いてみようではないか
曲をかけてみる

Testifyというアルバム
うるさめの、そして単純なバックに
ラップ調の、なのにこれまた単純でメロディのはっきりした唄が入る

許せない

他の曲でもいいではないか
なぜ、radiohead にかぎって
こういう曲が入っているのか?

すぐに消去した

それでも、belle&sebastianもまともに入ったから
4枚中はずれが1枚だけ
(もっとも、なぜかKid Aは2回続けて入っているけれど)
というのは高打率だった

今度の休みにもう一度
同じCD屋へ乗り込もうと思う

ca


ベトナムのそこはかとない逞しさの、はなし

バックパッカーの集まる通りへ往く
そして、見つけた袋

豚やら鶏やら、人参やら
色々な柄のものがあった
描かれたものを入れる、袋なのだと思う
ビニールでできた麻袋調の生地に
きちんと裏地まで、ついている
スコールにやられて雨宿りした
お店にあった
きっと雨でも大丈夫なのだと思う

タイトルの文字
本当はaの上に^がつく
魚、という意味の単語で
袋にしっかりと書かれている
きっと、この文字を読めるベトナムの人々は
おかしなものを、持っているよ
半ば苦笑いしながら
袋を見つめるのだろう

2009/06/27

tuna

こちらの時計はすぐに壊れる、と云う
実際に、1200円のオメガは1ヶ月経たないうちに
動かなくなってしまったようだ

それに加えて
どうしても時計がずれる、と云う
正確な時刻に合わせたはずの時計なのに
どうしてもずれていってしまうのだ
実際に仕事場にある無数の時計たちは
全てが微妙に違う時刻を指している

走るとき用の時計しか持ってこなかったので
違うのが欲しいと思いながら
もう数ヶ月経った

アナログの方が信用性が高いだろう
そう思い、古道具屋で手巻きの時計を買う
日本に居る時と変わらない
手巻き時計中毒の始まりだ

そして手に入れたのが、写真の時計
何が決め手かと云えば、
この、絵、だ
イルカのような絵が、気に入った
時計にイルカが居るのだ

買って帰り、よく見ると
ソ連製だった
調べてみると、cornavinというメーカー

ただ、どうも、早とちりをしたようだった

イルカではなくマグロだった

魚だけでも、すてきではないか
そう、日々思おうと努力をしている




2009/06/20

ホーチミンCD事情 3




音楽に餓えている
それはいつものことなのだけど
餓えを感じる一つの大きな理由は
どうも不完全燃焼のせいのようだ

ここ何週間か
休みの度に1区へ往ってはCDを探している
本当ならば、もう手に入ったはずの、
もしくは、実際手元にはあるのだけど
聴けないCDたちのせいで不満はたまるばかり

クラシックのCDについては以前触れた
確かにクラシックは好きだけれども
いわゆる有名な演奏家の有名な曲目が圧倒的に多い
それに、朝は景気よく往きたい時もある

こちらのCDには大きく3種類、ある
まず、正規のもの
つまりベトナムで作られたもの
これにはおそらく以前CDの話で
一番始めに載せたラベルのCDが該当する
それから、海賊版なのだけど比較的造りのしっかりしたもの
これが次にCDの話で載せたベートーベンで
これは書いた通り、CDがセットのはずなのに
なぜか読み込んだパソコンの画像は全部表紙が違っていた
まあ、でも中身はきちんとしていたのでいいだろう

そして、3番目に来るのが
今回の写真のものだ
薄いビニール袋に、
もう少しいい質のものもあるのではないか、とあきれるよりも
商売として心配になるようなコピーと
いわゆるコピー用のCDが入っている

いくら冒険だと分かっていても
どうしたって聴きたい時はあるけれど
例えば、イル・ディーボだったり
クリスティーナ・アギレラとかセリーヌ・ディオンだとか
マルーン5だとか、マドンナだとか
そんなものはさっぱり聴きたくない
ただ、圧倒的にこういう類いのものが並んでいて
そうではないものを見つけることはとても難しい
だから、あったら、つい、買ってしまうのだ

そして、Nirvana2枚とRadioheadとLed Zeppelinを買う
古くて、でも、やっぱりよくて、時々無性に聴きたくなる曲たち

まずNirvanaをmacに入れる
曲目が出る
最後まで読み込みが終わる
曲をかける・・・・
聴いたことのない、かなりどうでもいい類いの
さらさらなムード音楽的なものが流れる

愕然とする

気をとりなおしてLed Zeppelinを読み込む
何だかmacの中でへんな音がする
最後の4曲がどうしても入らない
itunes強制終了

そしてRadioheadに至っては
macの鈍くいやな音とともに
ディスクが軌道に乗ることもなく、パソコンから出てきた

懲りずに次の週も探しにいくが
もう、どこへいってもRadioheadは見つからない
その代わり、昔2枚だけ初期のものを聴いていた
Joan Osborneがあった
久しぶりに聴いてみるがあんまり、というところ
でもそういうCDに限って
最後まできちんと入る

しょうがないのでyoutubeで
不思議な頭の振り方をするトム・ヨークを毎晩見ている

そして、
今日も探しに往く
果たして、餓えが満たされる日は来るのだろうか?

 

2009/06/13

風邪

鼻風邪に始まり、鼻風邪に終わる冬の風邪は毎年のことで
本当に小さな頃からだった
鼻風邪は、一番面倒だ、そう思っている
熱は上がらず、鼻ばかりでて、赤い鼻は見た目にも、美しくない

でも、土地が違うせいなのか
こちらで、初めてただの鼻風邪のはずなのに熱が出た
インフルエンザの他で熱を出したことのない身としては
焦ってしまう

夜もいい時間に
病院へ往く

日本人のスタッフも時間外なのでいらっしゃらず
英語で説明を受ける

幸いインフルエンザではなく
それが分かればよかったのだが、
病院の先生は2日仕事を休めと云う
そんな話はないだろう?
困り果てたが、私の訴えも英語では説得力に決定的な欠落があり
敢えなく2日間の休みを宣告された診断書を渡された

でも、次の朝には熱は引いていて
もう一度病院に電話をかける
今度は日本人の方がいらしたので
事情を話し、再度病院へ往く

あっさり次の日からの出勤を許可していただけた

病院というところが本当に嫌いだったのを
でも、病院を出るまで忘れていた
事務が無愛想なのは万国共通として
外国人向けの病院だったのだが
そう云えば、消毒臭さがなかったような気がする
鼻が詰まっていたからだろうか
どことなく明るくて、普通だったのだ
市役所よりもよほど健康的だった

それでも、もうお世話にはなりたくない

元気な平日に、何もせず、
青い空を自宅の窓から見上げるのは
どうしようもなく後ろめたい
高校生ならば、授業中にでもぼんやり眺められたけれど
もう、残念ながらそう云う歳では、ないのだと、
改めて、知った。



展示のご案内



もう始まっているのだけど、
ご連絡できなかった、展示の話を。

今、牛久で開かれている絵本展
もう、9回目の絵本展にここ3回、出品させていただいていた。
遠方から、準備もお手伝いできず本当に心苦しかったのだけれど
出させていただいた。

たぶん、どこかに出すという目的がないと
だらだらと、仕事にかまけて作りきれないだろうから
こういう機会は、本当にありがたい。

以前載せた、こちらから4冊と、
むかしつくったものものを。

展示メンバーによるブログ
http://bookworms9.exblog.jp/

2009/06/05

季節のこと



ここには、あまり気候の大きな変化がないように思えた

少なくともここ2ヶ月の間
ほんの少し涼しい日もあるのだけど
毎日が30度を超える
毎日湿度も80%を超える

6月に入って
なぜか急に朝夕が涼しく感じる日が続いた
そう云えば、4月5月が一番暑いと
聞いたような気もする

ほんの少しの違い
結局日中はぐったりするほど暑いのだけど
それでも、この、ささやかな変化がうれしい

おそらく、いくらか敏感にもなっているのだろう

仕事の帰りや、夜、時々ジョギングをする
空気がまとわりつくような感覚が最近は減って
風が気持ちよくなってきた

例えば、どちらかと云うと湿気を助長させるように思えるradioheadなどを
散歩の途中で聴いていても
あまり気にならなくなってきた
新しい、季節感へのアプローチだと、
勝手に思っている
そして、また聴けなくなる季節がきっと、やってくる

そして
今日の朝は 土方の人の朝涼みと 鰯雲

2009/05/31

船便


やっと、船便がとどく
なんと2ヶ月半以上、私の荷物は旅をしていたことになる

ベトナムでは、この国についた時点で
必ず中身がチェックされる
だから、同封してあった手紙が消えていたり
化粧品が盗られてしまっていたり、なんて話は
日常茶飯事のようだ

ありがたいことに、
私の荷物は、何とか無事、全部届いたようだった
きっと本など、日本語で書かれたものをとる気にもなれなかったのだろう
仕事場に届いたので、周りの人たちが荷物を覗く

ぼろぼろでほこりっぽい本がいっぱい

食べ物を期待していたようで
なんだ、とつまらない顔をされる

でも、私にとってはとてもとても大切な本たちで
その中でも、「プラテーロとわたし」は、
手元にきて嬉しい本だった

ただ、
どうも、下巻をつめ忘れたよう

今度帰ったときに、下巻を持ってこなくては。

2009/05/25

制作を続ける





平日も休日もどこかしらで仕事のことを考えながら
制作をすることになる
今、本だから作れるけれど
彫刻だったら、できる気がしない

本は細部を語ることができるけれど
彫刻は存在自体が恒久的だと思っている
その存在のあり方に添えるような
思想がない

などと、思いながら
ちまちまと本をつくる

材料を調達するところから思わぬ困難があったけれど
何とか、できた

「くじらのドレミ」がお気に入りだ

2009/05/22

トラン・アン・ユンのこと 村上春樹のこと

ネットニュースをチェックしていて
以前の見出しでは
ふん、そうなの、ぐらいにしか思っていなかった項目が
とても気になりはじめてしまった


日本のニュースとこちらの日本人向けニュースを見ることが多い
こちらの日本人向けニュースの中に
トラン・アン・ユンとのインタビューの記事があった
「ノルウェイの森」のこと


今まで多くの人に公言してきた

35を過ぎて「ノルウェイの森」が好きだと
向かいの女の人に云う男の人には気をつけたほうがいい

もっともその中には
本当に読み込んで好きな人も居るだろう
あの、赤と緑の本を
ファッションのように持っていた人の話

実際何人も見てきた


世の中には村上春樹を絶対的に信望している人が多いから
わたしが村上春樹に関して何かを話すと
顔をしかめられてしまうことが多い

中学生の頃「世界の終りとハードボイルドワンダーランド」を読んで
なんだかわかるようなわからないような、だけれども
部分部分に印象深い画面、というのか
組み合わせ、のようなものがあって
その詳細や部分の蓄積が新鮮だった

読み終わったあとの余韻に
今までにない感覚があったことをよく、覚えている

他の作品もかなり読んだけれど
たぶん「世界の終りとハードボイルドワンダーランド」が
私の中では一番
短編での凝縮された世界観の結晶のようなものがあって、好きなものも多い

ただ、どうしても長編になると、部分や詳細の蓄積、にしかならなかった
だから、いつも余韻、止まり、になってしまう


その中で、「ノルウェイの森」は
まだ、掴みどころのある筋道だったし
共感のしどころ、というのがはっきりしていた
今度はその分、物足りなかった
その筋道だったら、戦前の小説でもあったし
そこにいくら生々しい要素をいれたとしても
結局逝ってしまったものの幻影を追うようにもとれる話の展開は
ある意味、しみったれていた

しみったれていない小説など
恋愛が絡んだ話の中にはないのだけれど
もっと別のところで
しみったれていた方が、らしい、と思った

ただ、「ノルウェイの森」が流れてくる場面
状況と曲の組み合わせなど、美しくて
何かが、としか云いようがない
小説を形づくる上での何かが、完璧だったのだけれど



しみったれの要素を抜くと
それはたぶん時代性、ということが出てくる
もがきながら無気力、という印象がある小説の時代は
どうにもつらかった
それはちょうど村上春樹が好んで翻訳をしている
「ライ麦畑」や「ギャッツビー」などでもそうで
わたしはいまだに「ライ麦畑」を、読めない

ぐだぐだと書いてしまったのだけど
いろいろな意味で
「ノルウェイの森」はひっかかるものだった


さて、トラン・アン・ユンのことを

たぶん今、わたしがここにいる
ひとつの大きなきっかけは
この監督の映画を随分見たから、だったと云える

わたしのベトナムは、映画からはじまる

「夏至」などは何度も見たし
姉妹で唄を唄うシーンなど大好きだった
「夏至」がホーチミンではなくハノイだと知って
正直がっかりしたぐらいだ
「青いパパイアの香り」は
フランスでセットを作って撮られているけれど
舞台はホーチミンだった

映像も美しいけれど
映像から立ち上がる監督の視点が好きだった
細部へのクローズアップなど
近視眼的なシーンが多くて
そのどれもに愛着のようなものを感じたし
つい、目がいってしまう、というものものを
一つ一つ丁寧にひろい上げていっているような感じがあった

もう少しでに日本では公開になる
「I come with the rain」も本当はとても見てみたい
ベトナムではないところでの映像に、
どういう細部を見せてゆくの、気になっている



小説を読んだ時の余韻、を
新聞の記事を読みながら思い出していた
あまり色が豊かではなかったけれど
色の浅い京都の山奥での静かな空気感が
映画の映像として見えてくるような気がした

本を読んでから映画を見てはいけないという原則を思うと
少し気が重いのだけど
たぶんトラン・アン・ユンは
小説の叙情性を昇華させる視点を
見せてくれるのではないか、と
もう、今から期待している