2009/05/22

トラン・アン・ユンのこと 村上春樹のこと

ネットニュースをチェックしていて
以前の見出しでは
ふん、そうなの、ぐらいにしか思っていなかった項目が
とても気になりはじめてしまった


日本のニュースとこちらの日本人向けニュースを見ることが多い
こちらの日本人向けニュースの中に
トラン・アン・ユンとのインタビューの記事があった
「ノルウェイの森」のこと


今まで多くの人に公言してきた

35を過ぎて「ノルウェイの森」が好きだと
向かいの女の人に云う男の人には気をつけたほうがいい

もっともその中には
本当に読み込んで好きな人も居るだろう
あの、赤と緑の本を
ファッションのように持っていた人の話

実際何人も見てきた


世の中には村上春樹を絶対的に信望している人が多いから
わたしが村上春樹に関して何かを話すと
顔をしかめられてしまうことが多い

中学生の頃「世界の終りとハードボイルドワンダーランド」を読んで
なんだかわかるようなわからないような、だけれども
部分部分に印象深い画面、というのか
組み合わせ、のようなものがあって
その詳細や部分の蓄積が新鮮だった

読み終わったあとの余韻に
今までにない感覚があったことをよく、覚えている

他の作品もかなり読んだけれど
たぶん「世界の終りとハードボイルドワンダーランド」が
私の中では一番
短編での凝縮された世界観の結晶のようなものがあって、好きなものも多い

ただ、どうしても長編になると、部分や詳細の蓄積、にしかならなかった
だから、いつも余韻、止まり、になってしまう


その中で、「ノルウェイの森」は
まだ、掴みどころのある筋道だったし
共感のしどころ、というのがはっきりしていた
今度はその分、物足りなかった
その筋道だったら、戦前の小説でもあったし
そこにいくら生々しい要素をいれたとしても
結局逝ってしまったものの幻影を追うようにもとれる話の展開は
ある意味、しみったれていた

しみったれていない小説など
恋愛が絡んだ話の中にはないのだけれど
もっと別のところで
しみったれていた方が、らしい、と思った

ただ、「ノルウェイの森」が流れてくる場面
状況と曲の組み合わせなど、美しくて
何かが、としか云いようがない
小説を形づくる上での何かが、完璧だったのだけれど



しみったれの要素を抜くと
それはたぶん時代性、ということが出てくる
もがきながら無気力、という印象がある小説の時代は
どうにもつらかった
それはちょうど村上春樹が好んで翻訳をしている
「ライ麦畑」や「ギャッツビー」などでもそうで
わたしはいまだに「ライ麦畑」を、読めない

ぐだぐだと書いてしまったのだけど
いろいろな意味で
「ノルウェイの森」はひっかかるものだった


さて、トラン・アン・ユンのことを

たぶん今、わたしがここにいる
ひとつの大きなきっかけは
この監督の映画を随分見たから、だったと云える

わたしのベトナムは、映画からはじまる

「夏至」などは何度も見たし
姉妹で唄を唄うシーンなど大好きだった
「夏至」がホーチミンではなくハノイだと知って
正直がっかりしたぐらいだ
「青いパパイアの香り」は
フランスでセットを作って撮られているけれど
舞台はホーチミンだった

映像も美しいけれど
映像から立ち上がる監督の視点が好きだった
細部へのクローズアップなど
近視眼的なシーンが多くて
そのどれもに愛着のようなものを感じたし
つい、目がいってしまう、というものものを
一つ一つ丁寧にひろい上げていっているような感じがあった

もう少しでに日本では公開になる
「I come with the rain」も本当はとても見てみたい
ベトナムではないところでの映像に、
どういう細部を見せてゆくの、気になっている



小説を読んだ時の余韻、を
新聞の記事を読みながら思い出していた
あまり色が豊かではなかったけれど
色の浅い京都の山奥での静かな空気感が
映画の映像として見えてくるような気がした

本を読んでから映画を見てはいけないという原則を思うと
少し気が重いのだけど
たぶんトラン・アン・ユンは
小説の叙情性を昇華させる視点を
見せてくれるのではないか、と
もう、今から期待している



















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