2020/06/26

続 手をつなぎましょう もしくは、握手をするように


こんな時期だから、
手を取り合って、とか、手を携えて、とか
手を差し伸べて、とか
いろいろな文言があるけれど、
手を上げたり、手を下したり、手をこまねいたり、手を反したりと、
同時並行でいろいろな手を打ってくるから、
手を使った慣用句の中でなされる、人の行動の様々は、
いつもとても、忙しい。

手湿疹と激しい乾燥、日頃の不養生で、
もともと節だってごつごつしているのに
最近では手袋着用が義務なので、
アレルギーですっかり荒れ果てた私の手は、
手を差し出す行為には結構、観念的にも物理的にも
躊躇したりすることが多い。

こちらのCOVID-19予防のパンフレットには
ウェルカムコーヒーのカップは回し飲みしない、とか
挨拶にハグやキスをしない、というのと並んで
握手もしない、という記載がある。

日本人で握手をするのは、政治家か有名人。もしくは
商談でも成立した時にしたりするのかもしれない。
私は商談したことがないので、分からない。


握手は得意ではない。
こちらでは握手をするのが挨拶とセットなので
いい加減習慣には慣れたけれど、心の底では握手のたびに、
白魚のような手、という言葉を思い出し、
切ない気持ちになる。
完全に不養生は私のせいなのだけれど。

うちの近所の犬は、最近私の姿を認めると、
撫でて欲しさにところ構わず、ゴロリ、と横になるようになった。
撫でられている間に、前足を必ず私の膝に乗せてくる。
犬は飼ったことがないので、どういう意味なのか分からないけれど、
左手で犬の足を握りながら、右手で体を撫でる。
差し出されたら握手するのが、アラブ流だから。

足は汚くてなかなかごつい。でも、出されたら握手する。





先日、止むを得ぬ所用で、久々にアンマンの住宅地へ行った。
たくさん家庭訪問をした地域だったから、
過去に伺ったイラク人のご家庭の話を思い出したりしながら、
小さな路地でポツンと一人、先方を待つ。

マスクをつけると、アジア人であることが、ある程度消される感覚がある。
それは、とかく目立ってしまいがちな外見には
ありがたいことだった。

赤ちゃんの泣き声や子どものはしゃぐ声、
たくさんの家の中から漏れる、人の気配に満ちた平日の夕方の音。
もうしばらく、聞くこともなかった音と空気だった。
住宅地の音に、心ならずも日常の何たるか、を知らされる。




街路樹として植えられているオリーブの木では
もう実がふくらみ始めていた。
うちの近所にはオリーブはないから、
物珍しいものでも見るように、しげしげと観察する。

先方はマスクも手袋もせずにやってきて、
荷物を受け取るだけのはずだったのに、家の中へ私を招き入れる。
初対面の人に対して、断る勇気がなかったのも確かだった。
ただ何よりも、誰かのお宅へ伺うという、今まで普通にしてきたことから
すっかり遠のいてしまっていたせいで、
ふと、身体が自然と人の気配や温度に反応して、
考えるよりも前に、促されるままふらふらと、建物に入ってしまった。

6、7階建ての建物が所狭しと並ぶ典型的なアンマンの住宅地は
建物の入り口からもう、懐かしさにあふれていた。

アパートメントの入り口の、プラスティックのブランコや
その周りに散らばるおもちゃ。
手入れの中途半端なたくさんの植物たち。

玄関のドアのすぐ横で、おじいさんがソファにごろ寝をしていて、
私が入ったことにも気づかず、体を撫でているであろう夕涼みの風に
気持ち良さそうだった。
応接間に通される。そして、家族の中の女性ばかりが、
私のところにやってきて、挨拶をする。

躊躇することなどいくらもなく、ふわっとふくよかな手で
誰もが私に羽のように軽い、握手をしていった。
私に拒否権はない、だから、手袋を外して、
こちらの女性たちの優しく柔らかい手の感触を
ふわりと感じていく。


本当はもっと、聞きたい話があったのだけれど、
用事を済ませてそそくさと家を後にする。
建物にたっぷりと這う蔦の緑と、
住宅が醸し出す日常の空気に、後ろ髪ひかれた。


家に戻ってから、ごつごつした手を洗う。


在外で感染することは、日本で感染するよりも、おそらく事は重大だ。
単純に医療事情もあるけれど、それより
外国人が、日本人が、という括りの中で、
同じ括りに自動的に入ってしまうであろう他の人々に
かかる迷惑の方が、理由として大きい。

COVID-19なんてないんでしょ、そんなことを口にするような人もいるぐらい
今のところは蔓延を回避できているこの国で、
こちらの抱く目に見えないものへの警戒と、相手の無防備さを照らし合わせ
自分の行動を規制していくのは、思ったよりも難しかった。

だったら、もうどこへも出かけずに、
誰にも会わなければいい、というのが
こちらに残っている数少ない日本人の間では常識になっている。
もしくは日本に戻ればいい、と。
けれども、日本に戻ったら、今度は外国から帰ってきたからと
私も気を遣うし、警戒もされる。


一体いつまでこの状態のまま、
暮らしていかなくてはならないのだろう、と
屋上の家から街を見下ろし、途方に暮れた。




隔離生活期間、一番ありがたさを感じたのは、
家の立地だった。
屋上の家からの景色は、開放感があって
下を覗けば人々の営みが、幾らかでも垣間見れた。
見られている方は、私が上から眺めているなど、知る由もないけれど、
こちらは勝手に、慰められたりした。

色とりどりの洗濯物を干し、
三輪車で駆け回り、
ソファを持ち出しては夕涼みをする
たくさんの、四角い屋上が見える。

でも、それはあくまで眺めるものであって、
身体的に何かしらを感じられるものではない、ということを
薄々感づいてはいたけれど、知らないふりをしていた。


COVID-19のおかげで、ネット回線での電話の頻度は増えた。
電話口で、元気ですね、なんて言われたりする。
何せ、大体笑っているからだ。
笑ってないとやっていけないからなんだけどな、と
本当のところを理解してもらえない一抹の寂しさを感じつつ、
みな似たような状況なのだから、と相手の反応を受け入れる。


それでも、つながっているのはありがたい。

だから、物理的には不可能だけれど、
慣用句的に手を使ってつながれる方法を
できるだけ持っておくことに、一縷の望みを抱く。

笑うのに疲れたのか、この状態に疲れたのか、
すっかり疎かになっていたけれども、
それこそ、握手をする時の身体的な温かみを感じられるような
言葉を探しながら伝える作業が、普段以上に大切なのだろう。

それは、思った以上に難しく、心砕くものだ。

会って顔を見る方が、人それぞれの気配から立ち上がる空気感を察知する方が、
握手をする方が、正直、よほど楽だ。

COVID-19が去った後には、握手への苦手意識が
いくらか軽減されるのかもしれない。


2020/06/01

今、リリィ・シュシュのすべて



相変わらず金曜日だけは、完全外出禁止、

さっぱり出られないヨルダンの休日は、長い。

久しぶりに映画が観たくなった。
しかも、こともあろうに、邦画が無性に観たかった。
昔観たやつを。

違法を重々承知で、検索をかけたら

昔いくつか観に行っていた、岩井俊二の映画がいくつか載っていた。

四月物語が上映された年、同じく

一人暮らしを始めた私は、
桜並木にも人の息遣いがある映画の中の街と、
移り住んだ先に待っていた、ただ無機質で人工的な桜並木との
えも云われぬギャップから、
その先に続くであろう学生生活に、不安を抱いた記憶がある。

当然、松たか子のように、可愛らしい笑顔も瑞々しさもなく、

かっこいい先輩も待っていなかった学生生活の始まりを思い、
映画というのは、残酷なものだな、とその時ひどく
感じたものだ。


おそらく、私の世代ではありがちな話だけれど、

美術系の学生だったら大体、観るもののリストに入っていた。
スワロウテイルとか、PiCNiCとか、庵野秀明だけれど、式日とか。

ただ考えてみたら、リリィ・シュシュのすべて、だけは

観たことがなかった。
結構、周りの人たちは観ていたはずだったのだけれど、
どうしても、観る気になれなかった。おそらく、
普通に、怖そうだったからなのだと、思う。

田舎で隔離に近い環境で育った私には、

同世代の間にリアルタイムで起きているのであろう、
援交とか、暴力的ないじめとか、万引きとか、自殺とか、
ネットという架空の空間でのやり取りとかを
どう捉えたらいいのか、
考えのベースになる軸を持つ準備ができていなかった。

もしくは、単純に、映画の中では

美しいものを観ていたい、と思っていた節もある。
単館映画しか基本的に観にいかず、その大方が
映像の美しいヨーロッパ映画だったし、
借りる映画もほとんどが、北欧かイランかアジア映画だった。


限りなく、甘ちゃんだった。

あまり今も変わっていないけれど。






断片的だけれど、丁寧に緻密に描かれている話の展開と、
架空の居場所の中で語られる音楽にまつわる言葉の幾つかが、
交わったり、解離したり、解放されたり、重なったりする。
身体的にも、精神的にも、どこかで痛みばかりを抱える
映画の中の10代たちは、とにかく、ひりひりする。

そして、どこか個を明示したいと欲求しながら、でも、
とろけるような恍惚感を感じられる、居場所を探す感覚には、
青臭くて、裏若いのに、決して馬鹿にはできない、
あの年頃独特の、鋭敏な感性がある。


好きなアーティストについて、そのひそやかな高揚感や興奮を

言葉で共有する、匿名が許されたコミュニティ。
身体の底からもわもわと立ち上がる、懐かしさだった。

青くてちくちくする痛み、
煙の中を射す光の、奇妙な透明感のような、
背をそっと撫でられるように密やかな感覚を、
思い出したりした。

その感覚を思い出させる映画を構成するすべてが、
ただただ見事だった。

上映していた時期に観ていたのなら、一体

どんな感想を抱いたのだろう。


ちょうど、この映画の頃、ネットの中でのコミュニティが
同世代の間で、広まりつつあった。


匿名性とは、そういえば、もっと密やかで内に向かうものだった。


映画の中のネットコミュニティは、
ある時点まで、共通した”好きなもの”を軸に、
親密で、だけれども適度に距離が確保されていた。
微妙な空気感を保とうとする、
客観的にはどうしようもなくバランスには欠けるけど、
繊細で脆くて優しい場所のように見える。

自分だと知られるのは恥ずかしいけれど、
何かを誰かに伝えたり、共感したりしたい。
たくさんの刺や気負い、もしくは、さり気なさや可愛らしさ、
仮名にありったけの思いを込めたりして、
閉ざされた、自分の思いを理解してくれる世界の中で、
共感を求め、差異に敏感になり、でも心のどこかで感心したりして、
繊細さに、痛み、傷つけながらも、
そこに自分の居場所があることで、
自分や他者を癒していく手段としての、匿名性。

そこに居られなくなったのならば、匿名であることを捨てる時だ。
そう考えるのは、未だに、私が甘ちゃんだからなのだろうか。



匿名を使って向かう先が、好きなものではなく、嫌いなものへと

真逆になりつつある今だけれど、
結局、手に入れたいもう一つの世界は、
実のところ、同じようなものに見える。

もしそうだとしたら、弱さや恥ずかしさや脆さや優しさが

うまく出せない大人のような子どもや、子どものような大人が、
ずっと彷徨い続けていることになる。



リアルタイムではこの映画を観ようとせず、
立派なスケルトンのMacは持っていたけれど、
ネットのコミュニティにも縁がなかった私は、
身近な人たちの中に、好きな音楽を共有する人を
見つけられなかったりして、
うまく言語化も、共有もできないまま
ただひたすら、音楽に没入しながら
一人全身で感じ続けるしかなかった。

アウトプットできなかったからこそ、
あの感覚をひどく、鮮明に思い出すことができるのかもしれない。


もはや、匿名性に頼り、ひた隠しに没入できる何かを
持ち合わせることもなくなった。

ただ、今でも音楽は、逃げ場であり居場所でもあるから、
その空間での孤独に耐えられなくなった時には、
その弱や脆さを引き受け、共感してくれる場があって欲しい、と
いい歳にになっても未だに、どこかで切に、願っている。

他人に向けて、言葉をふりかざすのではなく、
浸透性の高い液体のような言葉に満ちた、
傷を癒していく力を感じられる場所があるのなら、
匿名のまま、もぐり込みたい。

2020/05/08

近所のおいちゃんの話


アンマンがロックダウンの間、
屋上から見える、路地という路地から、見事に
人の姿が消えた。
部屋の窓から、近所の目抜き通りに人影が一切消えてしまったのを
毎日毎日、不思議な気分で眺めていた。


その通の脇にはベンチがあって、
ずっといつもおいちゃんが座っている。

おいちゃん、と私が勝手に呼んでいる人は、
脳に障害がある。
おいちゃんは、たぶん家がない。
もしくは、家があっても、家にあまり居ない。
いつも同じような服を着ているし、
皮膚病なのか、右足を引きずっていて、だからよく転ぶのか、
顔の頬からおでこまで、丸い痣やかさぶたがある。
いつも、痣もかさぶたも、そのままだ。
目はいつも、充血して真っ赤で、鋭い。

ずっとこの辺りに住んでいるから、
何度か、そのおいちゃんが、
ものすごい怒って大声を出したり、ばんばん近くの人を叩いたりするのを、
そんな時ばかりは、遠巻きに見ていたことがあった。

時々、裏通りの商店街のおじさんたちが、
足の悪いおいちゃんが歩くのを、支えてあげたりしていた。
それから、時々同じおじさんたちが
おいちゃんの脇に座って、話し相手になったりしている。

でも、普段はじっとベンチに座っていて、通りを見ている。

だから、目が合ったら必ず、挨拶をするようにしている。
私はいつも胸に手を当てて、こんにちは、と言う。
そうすると、おいちゃんは必ず真顔で、
エンティ チャイナ?(あんた中国人?)と
訊いてくる。大きな声で。
だから、いつも私は、いや、日本人なんです、と
アラビア語で答える。
もうこのやりとりを、軽く100回以上、やってきた。

必ず挨拶するし、必ず同じ返しをしてくれるけど、
若者などがいると、アジア人の私は冷やかされて、
ついでにおいちゃんを馬鹿にされてしまうので、
おいちゃんとは、挨拶しか、したことがなかった。

おいちゃんに挨拶をするのには、いくつかの理由がたぶん、ある。
一つには、とりあえず見知った顔には挨拶して、礼儀は重んじる、ということ。
もう一つ挙げるなら、同情心とか憐憫とかではなくて、
どちらかというと、親近感に近い、感情があるからだ。

おいちゃんも、それほど存在を歓迎されているわけではなさそうだし、
だいたい、いつも一人で座っている。
私の方もまた、だいたい一人だし、
歩いている時まで、自分が日本人で一応仕事があります、なんて
提示する方法はないから、
根本的にはかなり閉鎖的なヨルダン社会の中で、
似た者同士なのではないかな、と勝手に思っている。
おいちゃんにとっては、全くいらない親近感かもしれないけど。


ロックダウンが始まって、どの道にも人影が消え、
時々、あのおいちゃんはどうしているのかな、と思いつつ
買い物の用事もなくて、外へしばらく、出なかった。

久しぶりに、目抜き通りを越えて買い物に出た。
おいちゃんの姿は普段通り、ベンチにあった。
人がいないから、おいちゃんの大きな猫背の身体は
何だかいつもよりぽつん、としている。
思わず日本語で、あぁ、おいちゃん、と口にしてしまい、
その後、いつも通り挨拶をした。
私自身、日常で会っていた人と再会するのは久しぶりだったから、
いつも以上に声が弾んでいたと思う。
おいちゃんはどことなく、嬉しそうだった。
おいちゃんの笑顔は見たことがなかったので、
こちらも何だか、嬉しくなる。
おいちゃんのいつもの返しを、心待ちにする自分がいたりする。

エンティ バングラデーッシュ?
おいちゃんは唐突に、中国人ではなく、バングラディッシュ人か
訊いてきた。
思わず笑ってしまった。
いや、いつも言ってますよね、私、日本人なんです、
中国人でもなく、韓国人でもなく、日本人なんですよ、
そう言うと、そっか、と呟くには大きな声を出すと、
私が前を通り過ぎるのをじっと、見ていた。

どうも私はいつも、
おいちゃんにからかわれていたのかもしれない、と思う。
それでも、あまり悪い気はしない。
なんで今日ばかりはバングラディッシュ人と訊いてきたんだろう、と
ロックダウン中のおいちゃんの思考について、考えてみようとした。
ロックダウンで人通りがなくなると、
おいちゃんの質問のレパートリーも変わってくる。
いつもと違う日々が、こんな形で影響してくることもあるようだ。


その後も何度か、ロックダウン中においちゃんに挨拶をした。
おいちゃんは何か言いたげな様子で、私が通り過ぎるのをじっと見ていた。
きっと、話し相手がいなくて、誰でもいいから話したいのだろう。

先日も、買い物前に、おいちゃんに会った。
雨が降ると予報が出ていたので、慌てていた。
挨拶をすると、何かを早口で言ってくる。
なんですか?聞き返すと、おいちゃんは
今から仕事に行くのか?と、英語で訊いてきた。

おいちゃんが英語を話すのも知らなかったし、
おいちゃんが何かを私に尋ねてくることもなかったから、
驚いて、立ち止まってしまった。
いや、仕事じゃなくて、買い物なんです、と言うと、
そっか、とまたアラビア語で、大きく呟く。
そして、何かを話したそうだったけれど、
ぐっと言葉を飲み込んでいるようだった。

おいちゃんの前を通り過ぎてすぐに、
財布を忘れたことに気がつく。
また、おいちゃんの前を、罰が悪い思い満載で、足早に通り過ぎると、
買い物、早いね、とまた、英語で声をかけてきた。
財布を忘れたんです、と答える。

おいちゃんはもしかしたら、冗談好きなのかもしれない。

アパートメントに戻る道すがら、
一体おいちゃんは、どうして今のおいちゃんになったのだろう、と
考えていた。
仕事柄、障害の種類のいくつかはなんとなく知っているけど
私は、おいちゃんの問題の種類を、誤解していた。
俄然おいちゃんに、興味が出てくる。


おいちゃんはいつも、アラビア語も英語も早口で、
口がモゴモゴしているので、
何を話しているのか、うまく聞き取れない。
男の人に声をかけるのは、
外国人でもあまり文化的に良くない。
でも、おいちゃんの近くに今度、座ってみようかな、と思ったりもする。
けれどもやはり、少しハードルが高い。






昨日の夜は、満月だった。
いつも通り、満月を写真に納めようと、窓からカメラを構える。
相変わらず6時以降は外出禁止で、
さらに、ラマダン中のイフタール(断食明けの食事)を食べているであろう時間帯、
街はすっかり静まり返っていた。

突然、人の叫び声がする。
お腹が空いたんだ、お腹が空いたんだ、お腹が空いたんだよ、
がなるような喚き声が、高台からワディ(谷間)に響く。

おいちゃんがベンチに座ったまま、
通りを挟んだ観光警察の小さな小屋の警察官たちに、
小さな子が駄々をこねるように、叫び続けていた。

警察官の人たちもおそらく、困り果てているようだった。
しばらくしてたまりかねたのか、あんた、頭おかしいよ、という
警察官の怒鳴り声も聞こえた。


本当にお腹が空いていたのか、食べ物はあるのに言い出してしまったのか
よく分からない。
お腹が空いたのなら、何か差し入れてもいいのだけれど、
もう外には出られない時間だから、それもできない。
でもきっと、外国人の私が作ったものなんて、
おいちゃんは食べないだろうな、とも思う。
おいちゃんは私が異人種であることをよく、分かっている。

おいちゃんは、外に居ても注意されないし、
叫んでも、しょうがないよ、おいちゃんだから、と
近所の人たちに黙認されているのだろう。
こんなに身体から目一杯の声を振り絞って叫んでいる声は
やはり、切なかった。

ただ、大声で訴えられるのは、いつも黙認されているおいちゃんだからで、
きっと、おいちゃんみたいに夜は外出禁止で、
イフタールにもありつけない空の下の住人はたくさん、いる。

ダウンタウンや幹線道路で物乞いをする人たちを思い出しながら、
満月を見つめつつ、おいちゃんの悲痛な声を聞き続けた。




しばらくして声が聞こえなくなった。
でも、おいちゃんの姿はまだ、ベンチにじっと固まったままだった。


もしかして、この通りの周りに住んでいる人なら、
おいちゃんがどうやって今のおいちゃんになったのか、
知っているのかもしれない。
お店に人が戻ってきたら、訊いてみよう、と思っている。


2020/05/01

素直で冷静なlessons learnedを





ヨルダンは、一番美しい春の季節を一瞬で駆け抜けて、
そろそろ空の色も、突き抜けるような濃い青色に変わりつつある。
毎年桜が見られない代わりに、何としても出かけていた
国花のブラックアイリス探しも、
ちょうど花が咲き始めた頃に外出禁止となって、
見られず仕舞いのまま、青々とした季節を見逃しつつ、ある。

それでも、約1ヶ月半の厳しい外出規制の末に、
やっと日常に戻す動きが、始まった。
自家用車が規定を守れば使用できるようになり、バスやタクシーも走り出した。

この状況を、国外で過ごしながら、
本当に、いろいろと考えるところがあった。


まだ、現在進行形で進むさまざまな事象や、
その先に待っているかもしれない不確定なことを、
言葉にすることは、あまり意味がない。
根拠のない希望にもなれば、呪詛にもなるだろう。

ただ、今まで起きたことと、それについて考えたこと、については
書き残しておいてもいいかと、思いたつ。
自分の整理のために。


おそらく、地域に関わらず、他の国に住むと、
刺激のある面白い日々も、辛酸なめる苦しい日々も
少なからず経験することになる。
自分が持っていた偏見に気づかされることもあるし、
自分に向けられた偏見に過敏になることも、ある。
私のように、もう結構長く同じ国にいれば、
ある程度の諦めと慣れで、なんとかやり過ごすことができるようにも、なる。

ただ、今回のように日常がじわじわと見えない何かに脅かされる時、
人が抱く不安や恐怖は、攻撃となって出てくるのだ、ということを
2月頭あたりから身をもって、体験することになった。
今までもうっすらとあった、偏見や排除が、
はっきりと目に見える形で、立ち現れる瞬間だった。

まさに私は、根拠のない恐怖の対象だった。

その時点で、ある意味、腹を括った。
人が、恐怖と不安でおかしくなってしまう様子を、
この目でしっかりと見届けてみよう、
自分が正気を保つ方法を、冷静になって考えられるだけの頭だけは
必死に留めておこう、と。
もう、そう思っている時点でかなり、参っていたのだけれど。

国民性を知るものとして、すでに差別は受けてきたから、
大方覚悟していたのにも関わらず
なかなか堪えるものだった。
何よりも、教育現場だけで9年間仕事をしてきて、
自分の回すプログラムの子どもたちから、
私の姿に口を塞いだり、なんでこの人が来ているの?と言われたりした時、
シリア難民へのいじめや偏見を取り除くための相互理解を促す
プログラムをやってきた身として、
一体、自分が今までやってきたことは何だったのだろう、と
無力感とともに、途方に暮れたし、
言いようもない焦りもあった。

このまま有耶無耶にして終わらせてはいけない、
そう思うと同時に、
自分が関わることで、今まで事業を助けてくださってきた人たちが
アジア出身である私と関わることで
周囲の人から非難されたり、排除される可能性も捨てきれなかった。
どう身動きを取ればいいのか、分からなかった。

それでも、自分がウィルスを持っていないことを、一人ずつ丁寧に話をし、
衛生教育など、国や状況に関わらず、必要である基本的な指導を
判断するのには十分な時間がない中、
半ば無理やりにでもプログラムに無理入れていった。

ウィルスへの、その時点で分かっていた情報が欠けていたことが気になった。
だから、活動の中で必要な知識を提供したこと、
それに付随してニーズのある衛生用品を配布したことは、
いくらかでも意味があったと思う。

徐々に現実味を帯びてやってくるウィルスに対して
ヨルダンでも、誰もが共通認識を持っているわけではなかったから、
自分たちでできる予防に注力を注ぎ、
地に足のついたことを中心に、幾らかでも日々のルーティーンとして
実行していけるような活動をした。

半ば、意地のようなものだった。
何もせずにやり過ごすには、
個人的にも、あまりに情けなかったし、
アジア人だからと何をされ、言われようとも、
ここの人たちに必要なことは冷静に判断して提供する、という
当たり前のことが、できなければ、
仕事をするためにヨルダンに居る意味がない、と感じていた。

本当は、ウィルスそのものより、それについての情報や
それらをうまく精査できない人たちの行動の方が怖かった。
知らずに行為として滲み出てしまった
偏見や差別を認識し、修正する力を身につける活動もまた、
ウィルスについて知ることと同じぐらい重要だと考えていたけれど、
学校が休校となって、時間切れとなった。



ずっと、気になっていた言葉があった。

当初、日本での対策スローガンのように、しばしば目にしたのが、
「正しく恐れる」という言葉だった。

何となく耳障りが肯定的だ、というだけで
実体が分からない言葉。
個人的に、「正しく」も、「恐れる」も
あまり使いたくない言葉だ。

私が散々こちらで恐怖に苛まれた人たちを目にして
恐れる、ことが引き起こす行動が多様で必ずしも
文字から想像する、屈んで身を震わせるような状況だけではないということを
体験したことも、原因かもしれない。

恐怖は人の行動をコントロールするに、一番手っ取り早い感情だ。
叩かれるかもしれない恐怖、叱られるかもしれない恐怖、
いじめられるかもしれない恐怖、無視されるかもしれない恐怖。
恐怖は行動を規制する。
でも、恐怖は行動を規制することもあれば、
その恐怖を払拭するために、攻撃をしてくることもある。
まさに、私が2月3月に受けてきたことだ。

「正しく恐れる」という言葉は、
寺田寅彦が随筆の中からの引用とのこと。
どの作品に入っているのか、記憶にないのだけれど
天災についての著作もあるから、その文脈で出てきたのかもしれない。
おそらく、過度に恐れるのではなく、
恐れる対象を正確に知り、適切な加減で
恐れを抱いて行動する、というところだろうか。

でも、恐れを予防行動の動機にしなくてはならないのか、
他に、最善の行動を取れるように促す言葉はないのだろうか、と
私はしばらく考えていた。
少なくとも、正しく、の詳細が分からなければ、
それこそ恐ろしい言葉だ、と感じた。

その正しさを確証するのに必要な情報は、
もしくは、その時々で分かりうる最善の行動するための情報は
果たして、どこまであったのだろうか。

何が正しいのか、を説明する記事もたくさんあったし、
それらの情報に意図的に、もしくは無意識にアクセスしない人たちの間の
情報格差を指摘している記事もあった。

ただそもそも、日本で出回っている情報自体に、不足があるように見えた。


2月下旬に一時帰国するつもりだった。
結局、日本に帰ったら、
ヨルダンに再入国できない可能性があったので、帰国を取りやめたが、
帰国するために日本の状況についてかなり仔細に追っていた。
それから、海外の大手のニュースをずっと同時並行で確認していた。

日本が、どのような空気だったのか、
私にははっきりとは、分からない。

ただ、日本のニュースサイトを見ていると、
データや確かな情報に基づいた記事と
そうではないもの、もしくはそれほど重要ではない、と思われる記事が
同じような比率、重さで扱われているように思えた。
明らかに、世界中で起きている同じウィルスへの対応に関する
フェアで均等な情報が欠けているように見受けられた。
結果的に、全体像が見えづらくなっていたし、
かなり確度高く、その先に待っていること、を提示していた情報が
その他の、さして重要ではないニュースに消されているように見えた。

海外のニュースにアクセスできる人はすでに、きちんと確認していただろう。
でも、ウィルスという共通の問題を扱う外国の動きについて知るため
日本語で情報を得ようと思っても、
目立つ事象の他は、よほど積極的に探さない限り見つけづらかった。

Al Jazeeraでは毎日トップで、
数字や政策が目立つものばかりだけではなく、ある程度均等に、
様々な国の状況と政策についての情報を
タイムラインに沿ってまとめて載せていた。
でも、似たようなものを開示している番組もサイトも、
私が確認する限り、日本にはなかった。

どんどんと他の国が結局、先を越して行く中、
自分の国で一日先も見えないまま、正しく恐れろ、と言われても
限界があるだろう、と思った。

3月初めごろにでさえ、すでに明日の生活にも困る方々がたくさんいらっしゃる中で、
それらの問題の方が大きく取り上げられ、
海外の細かな記事にまで目を向ける余裕など
なかったとしても、仕方がないのかもしれない。

ただ、状況が悪化する国ばかりの報道ではなく、
先手を打った国の決断の根拠やジレンマもまた、
頻度高く丁寧に扱われていたのなら、
いくらか生活に見通しがついている人たちにとって、
自分自身で考えるために必要な材料を手に入れることは、
もっとできたはずだと、考えている。

もっとも、不安を煽ってはいけない空気とか、同調圧力もまた、
情報の選別に大きく影響していただろうけれど。


気がついたら、いつの間にか「正しく恐れる」という言葉より
3密という言葉が頻繁に使われるようになってきたように見える。



そして、私が経験した偏見や差別が
日本国内でも広がっていること、
外国人だけではなく、医療従事者の方々や不特定の人と接触する機会の多い人、
また、その家族にも及んでいることに
ただただ、胸が痛んだ。
恐怖や不安は、正義感や倫理観など一瞬で吹き飛ばしてしまうものなんだ、と
再度、見せつけられることになる。

そして、それらを行動にしてしまう側の理由も洗い出されると、
様々な立場で結局のところ、同じような不安と恐怖を抱いていることが、わかる。

おそらく、一番に冷静さが、求められている。
特に、リスクの高いところで働いてらっしゃる方々に対しては、
自分や周囲のリスクを高めない冷静な行動を取り、
それと同時に、感謝を込めた心ある言葉を伝えられるか。

速やかに、偏見や差別の広がりを抑えようと、
様々な記事やサイトができていて、
そこは、さすがきめ細かな日本だ、と思った。

たぶん、ヨルダンではそんな差別があったことなど、
みんなすっかり忘れているだろう。
少なくとも外国人に関しては、早々に国境を閉め
みながこの状況をともに過ごしてきたから、
今のところは差別も何も、いつの間にかなくなってしまった。




自分自身は、そこまで反省が先に立たない、どうしようもない人間だけれど、
それでも、自分のした行動の振り返りは
それなりに意味を成す、と思っている。

この一連がある程度収まった時、
例えば、教育の中で今の状況を客観的に振り返る
プログラムがあってもいいのではないか、と
ぼんやり思っている。
政策や全体の流れや他人の行動ではなく、
自分自身の恐怖について、不安について、
それらがどうしてやってきたのか、
どんな情報を好んで取り入れ、どんな情報は無意識で排除し、
周りの状況をどう把握し、
自分をどんな行動に導いたのか、
一つ一つ、丁寧に見つめ、振り返る。
先に役立つ、lessons learnedとして。

時間が経つと、美化されたり、歪められたりするから、
それほど時間を置かず、心に負担をかけず、
でも、素直に冷静に見つめる時間を。




2020/03/08

やさしさの先に


やさしさ、美しく穏やかに見えるこの言葉について
それなりに考えたりしたことがある人は、
少なからずいるのではないか、と思っている。
語感にあたたかさを保つから、
文脈によっては、字面を見ただけで、
私も、時に安心したりする。

谷川俊太郎の「これが私の優しさです」とか、
フィリップ・マーローの名言、
「タフじゃなければ生きていけない、やさしくなければ生きてる資格がない」
みたいな、いろんなやさしさが、あるもの。

もし、やさしい人、が、心温かい親切な人であるならば、
そういう人に、私もなりたい。

やさしさは欲しい。自分にも、他者へも。
やさしさが溢れる時のあの、感情の緩やかな高まりや、
心が温まる感覚を抜きに、暮らしていくのは辛い。

でも時に、罠が潜んでいたりする。
やさしさに溺れ、甘え、
やさしさを押し付け、売ったりする。
感情に訴えるところの多い使い方が、あったりするのを考えると、
実のところ、かなり配慮して使わなくてはならない言葉だった。

なぜこんなことを書いているかというと、
広義に使い過ぎてしまったな、もしくは、
感情に訴える要素を出して使いすぎてしまったな、と思い当たる節があるからだ。

仕事の文脈の中で、共感について考えることが多々あるのだけれど、
やはり、共感もまた、感情的な部分に留まることが多い、というのを、
人との会話や自分の経験の中から、実感してきた。

だから、分かりやすく心動かされるものには、共感していただけても、
イメージがつきづらい場面になると、
さっぱり何にも、反応してもらえない、などということも少なからずあった。

そんなに共感がほしいわけではないけど、
分かち合う感情がないと、私も含め、人は動かなかったりする。

それから、やさしさがないと、
共感は負の感情からしか、もしくは、
自分の経験したことのある感情からしか、生まれてこないことになるだろう。

やさしさのない世界の共感は、窮屈だ。


日本語には、思いやり、という言葉もある。
どちらかというと、この言葉の方が
私が頭の中で漠然と持つ、やさしさのイメージに近い。
けれども、子どもの時分に道徳の授業で、
「重い槍」という字面を見てから、
使うのを躊躇してしまう傾向にある。


先日、日本語の教育関連の資料を英語にしながら、
thoughtfulとか、considerateの方が、
少なくとも思いやり、という語感には合っていることに、
ひどく納得する。
日本語にすると、思いやり、やさしさ、であると同時に
思慮深い、とか、熟考した、という意味。

あくまで言葉からのイメージと、私なりの認識だけれど、
なんとなく、一般的にやさしさは、ベクトルが自分発信、
considerateは他者の立場から考える、という
違いがあるように思える。

ただ、誰かの立場を想像できたとして、
完全にその人になることなどありえないし、
思いやる私、という存在を、徹頭徹尾消し去ることなど、
私を含めほとんどの人にとって、不可能だ。

そんなことはない、と言う人ほど、危険だと思っている。
あなたの気持ちがとてもよく分かる、と言う人とか、
寄り添いたいんです、と言う人とかも。

私は性格が悪いので、私のことを知らない人や、
伝えていることをよく分かっていない人が
そういうことを言うと、ふむ、と思う。

そういう人は、元々はやさしい人たちだ。
だから、究極的に分かり合えないし、寄り添い続けられないという事実を、
よく考えずに、言ってしまうのだと思う。
そして、そう口にすることで、嘘つきになってしまう。
だから、そのやさしさだけは感謝し、
結局あとは、こちらが口を閉ざすことになる。


あなたと同じ視点や立場に重ねて熟考(consider)し、
それでも、あなたの必要なことを私ができるならば、
手を差し伸べるのでも、助言をするのでも、
たとえ傍観するだけでも、行為にするのが
本来、思いやり、になるのかな、などと、
いくつかの言葉をこねくり回していた。

もっともこの場合、思いやりは、相手の性格や置かれた状況を
よく把握していてこそ、成立する。
相手が話したくなければ、ほわっとしたやさしさは届けられても、
思いやりは、本来、届けられないはずだ。


落ち込んでいる時、察してくれた知人たちが、
ロバート秋山のクリエーターズファイルを送ってくれたり
高木正勝のサントラを送ってくれたりして、
そんな、ふわっとした感覚的なやさしさの方が、
実は、抱える確信に触れるよりも、ありがたかったりすることもある。


でも、本当に思いやりという助けが必要なときには、
こちらも、詳細を冷静にきちんと、伝えなくてはならない。

やさしさの先に、
知りたい、分かりたいという思いが出てきて、
その次に、その素材を使って考える作業があって、
もう一度、自分のできる思いやりを、考える。
そして、自分の持てるやさしさを、見つめ、抱き直す。
相手が、社会がやさしさ以上のものを求めているのであれば、
感情的なやさしさから、
核のようなソリッドな思いやりを生み出すプロセスを
持っておくべきだった、と反省している。





「やさしさに溢れた世界」を、夢見ないわけではない。
ほわっとしていたって、いい。
特に、こんな時だから、よく正体の見えないやさしさでさえ、
あってくれたらいい、と思う。

でも、だからこそ、やさしさの先には、
considerateな姿勢で、頭をクリアにした、
適度に冷静な思考が、必要だ。

やさしくない私が、あまりやさしくない世界、という地平に立って、
でも、どうにかならないものか、とか、
自分自身、変われないものか、とか、
何が分かりうる、できうる最善の行為なのか、
悪い頭を掻きむしり、想像し、もがけ、
そういうことなのだと、思う。

2020/02/12

身体の中に、静かな湖を抱く


チェーンスモーカーだった大学生の頃、
よく休憩中、一緒にタバコを吸っていたモデルさんがいた。
すらりとした立ち姿のきれいな人で、
仕事としてきっちり、何時間でも
同じポーズを取ってくれる人だった。

休憩時間をともに過ごして仲良くなったからか、
学生で貧乏だからシケモクも厭わない私を不憫に思ったのか、
モデルさんが大学に来る最後の日、
かっこいい油紙の袋に入った
30種類以上のタバコをプレゼントしてくれた。
池袋のタバコ専門店で、
棚の端から一つずつ取って、とお願いしたらしい。
いつも通りの、いくらかアンニュイで重めの声、
ニヤッと笑いながら、密やかに興奮する私の顔を眺めつつ、言う。

なんだか、静かな感じがしたのよね。
しん、とした湖みたいな感じ。

モデル台の正面が私のところに来ると、
他の同級生がバシバシ粘土を叩きながら、一生懸命作っている様子とは、
どこか違う空気があった、らしい。

不真面目に仕事をしていたわけではなかったし、
むしろ恐ろしく不出来な学生だったから、必死だったはずだ。

ただ元来、動的なものよりも、静的なものの方に、
より魅力を感じていた私には、
なんだか、とてもありがたい言葉のように思えた。

それから制作の時には、身体の中の静かな湖、を夢想して
時折、ひっそりとした湖畔で眺めたりしていた。
あくまで、近視眼的で、凪いだ湖面の映像。

そこは、例えば彫刻を一つ作るのにかかる、膨大な時間を支えるだけの
表現対象への真理を冷静に、でも、温度を持って模索するための
大事な場所だった。




ありがたいことに、ここは全く変わらず安定しているけれど、
年が明ける頃から、近くも遠くも、ざわつく。
目を疑うニュースが飛び交い、
心塞ぐ言葉を浴びせかけられ、
理不尽な事象を、苦しみと涙の滲む話を、
見聞きし、体感する。


こちらへ来て、5年ぐらいは、
怒りが、仕事の原動力だった。

理不尽な思いをし続ける
弱者と言われる人たちがいて、
その人たちを蔑む人たちがいて、
でも弱者と言われる人たちも、時に嘘をつき、
その嘘は理不尽が言わせていて、その理不尽はすべて、
例えば、わたしや、あなたや、弱者と言われる人たちや、
わたしのごく近くにいる周りの人や、会ったこともない人や、
国や民族の、小さな保身と欲の積み重ねから、きている。

構造がぼんやりと形をなして立ち現れる。

誰にお願いされているわけでもないのに、
怒りに任せて正義を振りかざしながら、
仕事を続ける私が闘う相手は、
ありたいていな表現だけれど、
途方もなく巨大な何か、もしくは、自分自身だった。

頭が悪くて地図も読めないまま、ふらふら歩いていて、
気がついたら、底の見えない崖の淵に立っていた。
こんなところで、言いようもない怒りと諦めに疲弊しながら、
立ち続けるなど、気が小さくて、すぐ心折れるのに、
耐えられる気がしない。

もし、仕事を続けるのであれば、怒りではなく、
違う何かを手に入れなくてはならない。
その何かが分からないのであれば、辞めた方がいい。

それから、ある意味逃げでしかないことは、分かっていたけれど、
とにかくよく、笑うように心がけた。
たぶん、過去の自分を知っている人ならば、驚くほど、
よく笑うようになった。
笑い飛ばしたり、笑ってごまかしたりすることは、
昔からよくしていたし、今でも、せずにはいられない。

けれどそうではない、心を善的な何かで埋める作業が、必要だった。
自身にも、世の中にも、黒い影がちらつくならば、
せめて自分の中の影と同じだけの、優しさが必要だった。
だから、近くにいる慈しむ対象にはできる限り、笑いかけることにした。

不思議なもので、そうすると本当に、
何かを慈しみ、愛しむ感情が、でてくる。

自分が優しさを抱くことで、見える世界も、幾分変わってくる。
些細なことにも、優しさを見つけられるようになったし、
怒りを散らすことが、できるようになる。

理不尽を生きる人々からの優しさは、
殊、怒りではない何かへの転換方法を、
示唆してくれた。

冷静に見れば、当たり前のことだけれど、
怒りから救ってくれる、人の優しさは、
一過性でしか、ない。
悲観的な話ではなく、事実としてシンプルに、
消費し、消費されるものだ。
人の優しさに永遠はない。

たぶん、きらめく草の曲線や、
季節が巡るたびに、愛でることのできる花や、
不動の石や景色の方がよほど、
変わらぬ優しさを持っている。

それでも、自分が持ち得る限りの優しさを、いつまでもいつまでも、
誰かへ与え続けなければ、
誰かから生み出される優しさを敏感に感じ取り、
しばらく餌にありつけなかった猫のように、貪らなくては、
暮らしていけなくなってしまった。


たぶん他の人はとっくに知っている、いくつかの事実と、
それを受け止めてきちんと、胸に納めてこなかった自分の怠慢に、
最近ようやっと気づいて、
いくらか動揺し、その波も去った後、
客観的に、思った。

一体、私はこんな世界で、何を携えて生きていけばいいのだろう。




先週の深夜、調子の悪いパソコンの整理をしていて、

昔作った話を、見つける。






口にしたことは本心のはずだったのに、
言った瞬間、その言葉がいつかはおそらく
嘘になってしまうことを悟った男が、
森の中の静かな湖を、心の中に見る、という話。


とっくに忘れ去っていた湖のことを、
ふと、思い出す。


そして、いろいろ見聞きし、体感したけれど、
ただ混沌に身を置いているだけだな、と思う。
きっと、世の中はいつも、混沌としているのだろう。


たとえそれが、酷なものであっても、光あるものであっても、
あらゆる事象の中に存在するはずの、
欲でも保身でも、一過性の優しさでもない
芯のようなものを、見極めたい。

それこそ、雲を摑むような話だけれど。

今、携えられるものはその、湖ぐらいだ。

凪いだ水面を、懸命に思い描きながら、
できるならば、幾らかでも落ち着いて、
自分と自分の周囲が抱える混沌と、静かに向き合う場所を、
大切に、取っておくことにする。





2020/01/21

手をつなぎましょう


東京というところは、本当にいろんな人が、いる。
こんなに寒いのに、道端で一人座り込む若者とか、
携帯を見ながらポテトを食べてるきれいな女の人とか、
図らずも蹴ってしまったら、ポンと飛んでいきそうな、
ボールみたいな小さな犬を散歩させてる西洋人とか、
駅の構内で足を投げ出して、泣きながら電話している女の子とか、
よくわからないことを、ずっと一人話し続けながら歩いている初老の人とか、
どんなすてきなことなのか分からないけれど、ずっと笑っているおばあちゃんとか、
金属をありったけじゃらじゃらさせながら歩く青年とか、
全身で云百万もする服や貴金属をつけたおばさんとか、
ずっと知らない言葉でチャットをしているアジアの外国人女性とか、
携帯ゲームに夢中になっている新入社員っぽいスーツの男性とか、
ずっと髪をかきむしりながら、携帯を見つめている中年男性とか。

かくいう私も、携帯をいじりながらとぼとぼ歩く。
大方いつも、場所が分からないからなのだけれど。

東京は、一人で居る人が、あまりにも、多い。
ヨルダンでも、私は大体一人で行動しているけれど、
周囲は二人か三人か、それ以上でつるんでいる人たちばかりだ。

だからか、私自身は変わらないのだけれど、
なんだかとても、さみしいところのように、思えてくる。


帰国時に一番温かいところは、コインランドリーだ。
ヨルダンにもコインランドリーがあったらいいのに。

借りた家の日当たりが恐ろしく悪くて、
朝なのか夜なのかも分からない。
洗濯物の乾く気配が全くしないので、
コインランドリーへ行く。
コインランドリーが近づいてくると、
生暖かい風の、いい匂いがする。






平日なのに、こんなに盛況にコインランドリーが回っているのか、
呆れながら、自分の順番を待っていた。
同じく乾燥機を待っていた先客の女性が、
終わった乾燥機の中身を取り出していた。

どうも、自分のものではないらしい。
あなたのじゃ、ないわよね、そう英語で、訊かれる。
私のは、これだから、と、巨大なバッグを見せる。
終わったら取りに来ないと、ダメよね、
そう言いながらアジア人の女性で、手慣れた風に洗濯物を折りたたみ、
かけられた袋に入れていく。

彼女はまだ3袋も持っていた。

ぽつぽつと、会話をする。

どこの国から?とか、仕事はどうですか?とか。
大量のシーツとタオルから、家政婦さんだと、分かる。

日本での仕事はいいですよ、きちんとしているし。
コミュニティはあるの?
ここらへんじゃ、あまりないけれど、
目黒の教会に日曜日行けば、
友達に会えるんです。

向こうも、なんでこんな時間にこんなところで、
話を続けようとする日本人がいるのか、
疑問なようだった。

今日はやっとお休みで、洗濯物を乾かしたくて。

ここに住んでいるんですか?
いや、普段は日本にいないんです。

どこに住んでいるんですか?
ヨルダン。フィリピン人の人もたくさん、働きに出てますよね。

ヨルダンにも、フィリピン人女性はたくさん
家政婦として働いている。
家の近くには、フィリピン人コミュニティがあるから、
私の買い物は、その中にあるスーパーで済ませている。

彼女たちは明るくて、みんな友達同士でつるんで、
買い物をする。
フィリピン人コミュニティ界隈へ行くのは、
なんだか、居心地がいいのを、思い出す。

でも、彼女たちの仕事環境は決して、良いわけではないない。
パスポートを取り上げられて、自由に行き来できなくされたり、
労働ビザ取得の手数料を、仲介屋から法外に取られたり、
勤め先の雇い主に乱暴をされたり、
乳幼児からやんちゃな年頃の子どもたちを
一気に任されたり、する。

それでも、自分の国で働くよりは稼ぎがいいから、
外へ出ていく。

そんな女性たちの話をしていたら、なんだか熱が入ってしまって、
必死に説明してしまっていた。

ところで、何の仕事をしているんですか?
NGOで働いていて、難民支援をしているんです。

違う国に住むって、難民の人たちも一緒ですね。
なんだか、大変ですよ。

おそらく、同い年ぐらいのその、フィリピン人の女性は、
ふっと、切なそうな表情で、笑う。

大変ですよね、と、答える。そう、大変。
でも日本もなんだか、大変な気がする。
そう言おうと思って、やめた。

コインランドリーの中は暖かいから、
扉が開くとすぐに、分かる。
冷たい風が目に見えるほど鮮明に、感じられる。

入ってきた人は、たまたまなのか、フィリピン人の男性だった。
おそらく、タガログ語であろう言葉で、会話が始まる。


コインランドリーがくるくる回るのを、見るのが好きだ。
いつのまにやら洗濯ネットが破れてしまって、
下着もくるくるぴらぴら、回っているのに気づく。
これは、隠すように、乾燥機の前に仁王立ちになるしか、ない。

背後では、聞き慣れた、とまではいかないけれど、
時折耳にする言葉がぽつぽつと、低く、高く、絶え間なく続く。

一通り話が終わったのか、フィリピン人男性は、
空の袋を手に取るのが、乾燥機のガラス越しに、見える。

振り向くと、店を出る前の男性が、
フィリピン女性の手をふっと握って、
じゃあ、と出ていった。

そんな文化はあったかしら、と、思う。
でも、なんだかすごく、自然な感じだった。
そして、コインランドリーに向きなおる彼女の顔は、
とても優しく、静かに微笑んでいた。

ちょうど、ぶらんこ乗りの話を読んでいた。
ずっと空中で暮らし続ける、サーカスのぶらんこ乗り夫婦は、
嵐の日、動物たちが啼き続ける声を聞く。
不安だから、手をつなぎましょう。
だけれど、ずっとブランコの上だから、
行ったり来たりしながら、一瞬手をつないで、
また離さなくてはならない。
だから、彼らは一晩中ずっと、ぶらんこを揺らし続ける。


結局私の方が、先に乾燥機が止まり、
必死で下着を隠しながら、袋の中に洗濯物を入れる。
じゃあ、と、一応フィリピン人女性に挨拶をする。
手を出したかったけれど、やっぱり違う気がして、やめる。

荷物を抱えながら、仮住まいへ戻る。

それから、フィリピン人っぽい人を見ると
別れ際に握手をするのか、気になってしまって、
やたら注目したり、している。
でも、今のところまだ、あれ以来、そんな様子を見ることはない。