2012年3月、アンマンのスウェーレでは、それなりに雪が積る。
標高1180mぐらいの地域、丘の上のアパートメントの窓から、
雪雲がやってくるのを、湿気で曇った窓を何度も拭きながら
じっと眺めていた。
日本に戻ってきてから、あれ以上の雪を見ていない。
雪とともに暮らす人々にとって、時にひどく厄介なものも、
滅多に享受できない人間にとっては、特別になったりする。
それは、例えばヨルダンで見る、
味のついてない炊き立ての真っ白なお米や、
生で食べていいと確信を持てる卵や、
数ヶ月ぶりの、あらゆる埃を含んだ雨粒や、
例えば日本で見る、
川沿いの歩道のコンクリートを覆う真っ白な桜の花弁や、
24時間開いているコンビニの深夜の緑色の灯りや、
いろんな匂いが混じった、人に溢れる山手線の中、や。
店を出て空を見上げる、19:53。
空を見上げ、いつの間にか雨が牡丹雪に変わったことを確認する。
いくらかは心浮き立つはずだった。
けれど、午前中教育機関で耳にした心塞ぐ話、
現場の格闘と空を掴む理想が入り混じる、長いカンファレンス、
さっきまで考えていた難航する仕事の色々、
朝から仕事が立て込んで一口も摂れていない食事の都合、
そして、何よりもひどく寒いという身体感覚に、心散り散りになる。
とりあえずヘッドフォンをつけるのは、音楽を聴くからであり、
イヤーマフの代わりになるから、でもある。
5度から始まる歌声が始まった瞬間、曲に集中する。
まだいくらでも凝ることのできるコードと
ドラムを必要以上にいじらず、
でも、揺るぎない拍を携え、
ベースは自由に動き、キーボードで軽さのあるアクセントをつけながら
旋律の描き方を変えていく、
ポップスというフィールドで表現しうる最大限の妙は、ただ見事だ。
サカナクションの怪獣。
わたしだっていつか、怪獣になりたい。
そして、ステレオタイプな円谷プロ的怪獣を想像する。
口から火を吹き、建物をなぎ倒す、孤独な生き物。
山口一郎だって、前日まで私と同い年だったんだ、と
言い訳をしながら、この歌詞を旋律に乗せ、必死に歌う姿を思い出す。
アニメの主題歌だとか、そんな大人の事情は置いておいて、
世界がどんな姿だったとしても、それを知り、核を理解するために
吠えながらこの世の通念を疑う、怪獣になりたい。
もう一度聴こうとして、
”年甲斐もなく”、という言葉がよぎる。
常識という正義を振りかざすウルトラマン的誰かが、
至極真面目に、誠実そうな表情をして、
本気で怪獣を倒しにかかってきた。
電車の中でも大きなため息がおそらく、漏れ出ていただろう、
雪という事象を思い出し、アンスネスのグリークのピアノに移行する。
たぶん、雪の日に適切な、年相応な選択をした。
けれど、あんなに適度な慈しみと優しさと解釈を備えた旋律を聴いても、
頭の中では、怪獣が火を吹いていた。
最寄りの駅を降りて、いつもの道を帰路につく。
牡丹雪は触れた瞬間、水になる。
ひどく冷たい水に濡れそぶる沈丁花に、足を止める。
香木の沈香と、鼻をつくクローブの香りを併せ持つから、
その名がついたと言われる春の初めの花は、
冬の通念を覆す季節外れの雪の中、
忍耐強く、その香りをあらゆる水分に乗せる。
清冽な香りは瞬時に、人を正気にさせる。
たぶん、悪くない日だ、そう思わせてくれた。
3月末にヨルダンで雪が降った年があった。
雪が降れば、動くことが危険と隣り合わせなのは、
単純にスタッドレスとかチェーンとかがないヨルダンで
車の事故に見舞われる可能性が高くなるから。
秋に数ヶ月ぶりの雨が降れば必ず、玉突き事故が起こる長い坂を
粛々と1時間以上かけて、徒歩で登る。
春に浮かれる人情を具現化したような緑と赤と黄色の花々が
重い牡丹雪にうなだれる様子と、雪に不慣れで危険な車を
一つ一つ丁寧に見つめながら、歩いた。
そんなことを思い出したのは、東京の中心部。
週に2回も雪が降るなんて、アンマンで見たあの雪より、
心踊るかもしれない。
徒歩圏内に、普通の酒屋では滅多に見ることのない
フィンラガンが手に入る店がある都会のありがたさを、しみじみ感じる。
週末の日中、ほとんど陽の差さない寒空の下で立ち続け、
風呂に入っても身体の芯が凍結し続け、
それなのに、身体を温めるための大好きなシングルモルトを
切らしてしまった窮地を、脱するために歩いている時だった。
雨なのか牡丹雪なのか、判然としない無数の水分の塊を見ながら
マーラー交響曲7番を聴く。
さまざまな聴き方があるのだろうけれど、
私にとっては、何度見ても見飽きない映画のような楽曲だ。
いい映画が、見る者の人生の経験や理想をなぞり、
その後の人生に大なり小なり影響を与えるように、
目に映るものや、経験値が変わっても、その音楽が
聴く者へ自在に寄り添い、自ら惜しげもなく、
その時、その状態で、理解できる人間の核心を、
心いっぱい差し出してくれる。
狂気も善意も悪意も、
その個別を一つ一つ体現することに徹底していて、
そうかと思えば、狂気も善意も悪意うっすら理解しながら
すべてを適度な重みで操ることにも長けていて、
そうかと思えば、狂気に満ち、同時に彼らなりの善意も悪意も
一つの塊の中に満ちている、人間という生きものを
示しているようだと、勝手に思いながら聴いている。
というのも、楽曲全体を通じて、
統一感がないように思える毛色異なる旋律が出てきたかと思えば、
きちんと前の楽章にあった旋律が回収され、
ある幸福感に満ちた旋律が増倍し、ある不安に苛まれる旋律が細切れになり、
ある不穏な旋律が沈み、ある旋律が狂喜乱舞し、
そこにまったく別の、ひどく心揺るがすひどく感傷的でノスタルジックな
音の重なりが登場したり、基音に収まらない
不安を煽ぐ音が先を急がせている。
そして、色とりどりの旋律を奏でるいくつもの楽器の音色を、
最後の最後まで、さっぱり納まらない和音の波が支える。
わたしや、よく知っているアラブ人や、どこぞの大統領のように
考えていることや感じていることと、
顔の表情と発言がすべて身も蓋もなく一貫性のある人間だけではなく、
とても冷静で思慮深い人であったとしても、
時には心の中では、密やかにあらゆる感情が入り混じる様が
あるのだと、信じられるような気がして、それが
とても核心をついて、大切なことのように思えてくる。
個人的に気に入っているのは、
第1楽章の最終、第1ヴァイオリンの旋律、
BF♯C、CGDの1度づつずれた音が、
不協和音とも思える悲劇的な音の重なりを奏でた後に、
楽章の終焉を迎えるまでの流れ。
そして、4楽章の中盤、変ト長調の
BCDCBDCの旋律から始まり、マンドリンの音が呼応し、
同じ旋律がFGAGFAGに変換されて、深みを増すところ、まさに、
人間の業を感じる音だと、勝手に思っている。
人の生きる世界のための、万華鏡のような曲だ。
最近では空いている時間があれば、ここのところずっと聴き続けている、
飽かず、マーラー7番と怪獣を、交互に。
ちょうど、世界を把握するため、そして、
自分の指標を見極めるため、
ひどく都合よく、一般的にはまったく相容れないだろう曲たちを、
聴き合わせている。
バカアのパレスチナキャンプからスウェーレヘへ続く坂を登る時には、
この二つの、まったく異なる曲の掛け合わせなど知らず
(怪獣は生まれていなかったし)、雪が降るという事象のせいで、
ほんの少しだけ、暴走する車という死の恐怖を抱きながら、
歩道という観念もない道でただ、歩みを進めていた。
15年ほど経過して、
今やブランドも誇りも安売りしているようにしか見えない、
けれども正真正銘な都会である東京の真ん中で、
雪が降るという事象と、
寒さ対策のSonyのヘッドホンと、
At a regular rate で誰しも歳をとるという年月のおかげで、
世界と人間の在り様の断片を、ほんの少し知る。
ヨルダンでは封印していたシングルモルトを袋に入れ、
律儀に、慎重に、ムワッダブ(Polite)に走る車たちを見ながら、
白く無骨な水分の塊を見上げながら、
抱き続けたさまざまな願いへの諦めとともに、
それでも、今抱ける希望と、
自分なりに納得できるぐらいは、この世を把握したいという
貪欲さを認識する。
マーラーの最終楽章を聴きながら、
道路の真ん中で、怪獣みたいに叫びたくなる。
けれども、そんな欲望など微塵も見せず、
足早に駒沢通りを横断するまばらな人に紛れ、
高い建物に覆われた都会で、少しだけ視界の開けた大通りの真ん中を、
後ろ髪引かれながら、小走りするしかなかった。
追記
最近は、サイモン・ラトルとアラン・ギルバートのマーラー7番を
よく聴いている。
サイモン・ラトルはバイエルンとの演奏を生で聴いたことがある。
ひどい席だったのは経済力で自分のせいだとわかっていつつ
とても残念だったけれど、
そんな後悔を一蹴する見事な最後だった。
心の中の有象無象を抱きながら
生きていっていいんだ、と思わせてくれる
圧倒的包容力があった。
アルバムになると、楽曲に一貫する流れを決して止めない、という
音楽の基本が、これほど大事で素晴らしいものなのか、と
実感させてくれる、とてもすばらしい演奏で、
今のところ、マーラー7番では一番、気に入っている。
アラン・ギルバートはNDRとの演奏は、
曲のあらゆる部分で、ひどく複雑な骨組みを
黒を背景に色彩豊かな透明の柱で表しているようで、
俯瞰した時に時折、とんでもない建造物が見えたりする。
最後の最後で、こんな建物を作っていたんだ、とわかる感動も、ある。
きっと、7番のいい演奏はいくらでもあるのだろうけれど、
今のところはこの二つのアルバムで、
何度も何度も、いろんな人間の在り様を見ることに、執心している。