楽器があると、それをいじってみたくなる衝動がある。
だから、ウードを見たら弾いてみたい、とすぐ、思ってしまった。
ヨルダンではウードを少しだけ、習っていたことがある。
チェロを彫刻のモチーフに使っていた時、
どこの誰が作ったのかもわからないチェロを中古で買って、
モチーフの参考にするため、と言い訳をしながら
チェロをいじっていたこともある。
ベトナムに住んでいた時には、ホーチミンのコンサヴァトリーの先生に
チェロを教えていただいていた、ロシア語の楽譜を使って。
どこまでもクラシカルな楽器であるチェロを
他のジャンルに絡ませ、土着の音楽と絡ませ、
土の匂いのする音にするソッリマの演奏には、
シンプルに、好奇心を刺激する面白さがある。
先日、ジョバンニ・ソッリマの演奏を聴く機会に恵まれた。
正直、弦楽器のソロの演奏会はよほどの思い入れがない限り、
チケットを買わない。
どれだけアルバムが良くても、
生の演奏の質を慮ることは容易ではない、と思っていた。
たまたま譲っていただいたチケットに、
仕事の都合を無理やりつけて、演奏の2分前にホールに駆け込む。
想像をはるかに超えるバッハ、ジミヘン、アルバニアの民族音楽。
音楽という表現方法の懐の広さを、一人で体現する
ソッリマの姿に、ひどく魅了される演奏だった。
視覚的にも面白くて、舞台に流木のような木が飾られ、
曲とその場面に合わせて、照明が彩りを変える。
歩きながらチェロを弾く姿を見ながら、
出っぱったお腹にウードの基部を乗せて演奏する。
バカアパレスチナキャンプでお世話になった、
ムハンマドおじを思い出す。
一つの楽器を通じた表現方法の幅も、
そのパフォーマンスの在り方も、
自己が望み、挑戦する限り、自由な広がりがある、
ということを明示してくれる演奏だった。
アンコールの一つが、The Last Emperorだった。
立場や社会の流れに、抗おうとして、抗えなかった一人の人間の
人生を音で表している楽曲だ。
弦楽器、特に弓を使って演奏する楽器には、
弦と弓の摩擦のうちに、ひどく繊細な震えと共振と、攻防がある。
緊張して張りつめる弦と、それを揺るがす弓の
身体に響く物理的な震えが、音という
私たちの多くが享受できる感性の究極的なせめぎ合いを
耳を通して体感する装置。
その攻防を、教授の大好きな楽曲を通じて聴くことのできる
生の演奏のありがたみに、涙が滲む。
The Last Emperorは、在外のお正月に、必ず見る映画だった。
なぜかと問われたら、返答はできないけれど、
とにかく、壮大な時間と映像と、音楽を心いっぱい
享受するのに足る映像だと、認識している。
THREEというアルバムの中のこの楽曲は、
特に、人間の因果と業を音にしている、と思っている。
教授の弾くピアノの音には、どこまでも含みと間という余白がある。
弦楽器という、音色で共振を表す楽器と、
ピアノという、ハンマーで太い弦を打ちつけて音を響かせる楽器が
混じり合う時、その音の成り立ちの違いを超え、
震えの壊れそうに繊細な感覚と、
打ちつけてもなお、響きの余韻に音の存在を
他の音と共鳴できるのだと示す、
トリオの美しさ危うさを追随する。
人の営みの中に、そんな相互扶助は可能なのかな、と
あてどもないことを、思う。
仕事で送られてくるメールには、
人の持てる良心という信念を、いとも簡単に崩壊させる
思想を体現した規制に、どうやったらしなやかに立ち向かえるのか、
戸惑い、逡巡するINGOの苦しさを示す事象が、書かれている。
もし、教授が今、生きてこの世の中を見ていたら、と思う。
教授よ、一体私たちは、何を信念として抱き、
生きていったらいいのだろう。
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