2024/06/21

ワンピースの、重荷と記憶



自国で生産できるものの少ないヨルダンでは、
すべてのものに高い関税がかかるから、
どの国に行ってもあるような大手アパレルメーカーの服が
呆れるほど高かった。

日本へ年に一度しか帰れないかった時、新しい服など買えなくて、
金曜だけやっている古着市へ行くのが、
数少ない休日の楽しみの一つだった。


わたしには、自慢するのもずいぶんと恥ずかしい特技がある。

絹や上質な麻や綿、カシミヤ、アルパカなど、質のいい素材を
大量の古着をぱっと見つけることができる。
呆れるほど大量の店の、大量の服がかけられたラックを眺め、
無造作に袋の中から出された服たちの中から、
いいものだけを、見つけ出す目が備わっていた。
他のどの場所でも発揮できない、そのスーク(市場)でしか使えなかった特技。

母が布もので作品を作る仕事をしていて、
家に大量の、さまざまな色と素材の布や毛糸を持っていた。
微妙な色の違いや、生地の質感に馴染んでいたのも、
おそらくは、めざとい理由なのだろう。

いずれにしろ、さまざま貧しい人間のやることだ。





けれど、美しい絹のワンピースを買っても
それを着れる場所がヨルダンにはない。
ただ、その服を日本で着る場面を妄想し、いつくるとも知れない
そんな日を夢見ながら、箪笥の肥やしになっていった。
本帰国をするときに、ほとんど人にあげるか、捨てていった。
特にワンピースなど、現地の人々もまた着る機会がないから、
渡すのも申し訳なくて、捨てた。

妄想と夢と一緒に、手放すことになったわけだ。


日本に帰ってきたら、今度は多くの上質な服は高すぎて、手に入れられない。
そもそも、いい服を着る場面などほぼ皆無な日常の中で、
実用的な服たちだけが、生き残っていく。
結局、着たい服を着られるようには、ならない。





もう20年以上変わらず、好きな映画は?と訊かれたら
その一つに、「トニー滝谷」を挙げる。
音楽も、映像も美しい映画だ。

主題は、亡くなった妻の残した服に囚われる男の話だが、
服への想いに囚われすぎて、事故死してしまう主人公、トニー滝谷の妻の、
その服への執着に、ひどくわたしは惹かれる。
お金のかかる、上質な生地、特別な空気を身に纏うように
美しく服を身につけることができる、そんな
服を見つけてしまったら、手に入れずにはいられない女性。

わたしは残念ながら、そんなお金などさっぱりないので、
服への思いで死ぬことはない。



服をめぐる記憶は、膨大にある。

新品の白い服を、習字の墨で汚した記憶。
白いカーディガンを買ってもらった姉を羨んで駄々を捏ね、
同じ柄の赤い色違いのカーディガンを買ってもらった。
ピアノの発表会に、他の子たちと同じようにふわふわした
白やピンクのワンピースを着たかったのに、着させてもらえなかった。
自分がいいと思う服は、ことごとく母の趣味とは違った。



今までの人生の中で、
いくつかの、記憶に残る服たちがある。
思えば、自分で服を買うようになってからというもの、
そんな服たちは、わたしの夢と妄想と願いを託され、
もしくは、げんを担がされていた。





高校生の時に、ずいぶん苦労して作った襟付きのワンピースは
今でもその布の柄をよく、覚えている。
真っ赤な別珍のワンピースは、高校の誕生日
バイトでは着替えるのに、誕生日だからと着ていった。
大学生の頃着ていた淡く薄い色の花柄のワンピースは、
破れてしまって部分を切り取って似た色の生地を使って、作り直した。
自分で作った真っ黒な綿のワンピースは、
同じパターンの服を、ホーチミンでも作ってもらった。
ホーチミンの仕立て屋さんのディスプレイに飾られていた
ベージュのワンピースは、手に入れたけれど、その後
ほとんど着る機会がないまま、今も実家にある。


ヨルダンに行くと、長袖長い裾、肌を見せない服ばかり
着ることになって、それまで大事にしていた多くの服たちは
登場する場面がなくなった。

とにかく、地味で目立たない服を着るように心がけていたから、
いい服を着た記憶は、ヨルダンでほとんどない。
賀詞交換会や、大使館のレセプションでは、
毎回着る服に困っていた。
同僚やその親族の結婚式でも、行き道は公共交通機関を使うから、
結局、きれいなワンピースなど、ほとんど着ることはできなかった。

春か夏に一時帰国できる時には、ワンピースを必ず買っていた。
ヨルダンに持って帰るのだけれど、ただただ、それらは
日本での束の間の思い出とともに、眺める対象となる。



ひどく暑い夏のある夕方、キャンプからの帰り
着ていた首元まで隠れる長袖シャツとパンツが
砂塵で砂だらけになって、髪も触ったらキシキシしていた。
慣れているはずだったその状態が、その日は疲れとともに
不快で、顔にうっすらついた砂をぬぐいながら、
ヨルダンの田舎町のバスステーションで、思った。
あぁ、自分の着たいきれいなワンピースを着て、
外を歩きたいな、と。
舌が染まるような着色料の入った甘いスムージーを飲みながら、
呆然と、まっかな夕陽を見つめていた。





本帰国をしてから買った新しい服など、それほどないけれど、
新しい服には、白い服が多かった。
白い服はすぐ汚れるからと、ヨルダンでは着られなかった。

そして、新たに加わったワンピースもすこしだけ、あった。
それらには、10年以上のワンピースへの思いと
その服たちが着られるであろう場面が、想定されていた。

わたしにとって、日常とは少し異なる大切な場面は、けれども、
ほとんどその場面で抱く、ひどくささやかな期待や願いでさえ、
叶えることはない。
だから、わずかなワンピースたちは、うっすらとした失望とジンクスを背負って、
結局、ほとんど着られることはなくなった。

結局、ヨルダンから持って帰ってきた、いくつかと
同じく普段使いに、と買った綿の、化繊の
ワンピースたちだけが、生き残っている。




なぜ、そんなことを今さら書いているのかと言えば、
素敵な、ずいぶんと素敵なワンピースを見つけたからだ。

その生地の色と質感を、わたしはおそらく、
トニー滝谷の、亡くなった妻ぐらいは鮮明に、思い描くことができる。


切ないのは、自分自身が、
その服を着る、大切な場面が想定できないこと、
もしくは、その場面が来たとしても、その時間が
良いものにできる確信が持てないこと、のようだ。

素敵なワンピースのことを思い出しながら、
わたしは過去の服たちにも思いを馳せる。
ずいぶんと、重荷を背負わせてきた、と。

見せたい自分、や、なりたい自分、が
服を着ただけでは当然、なれるわけがないのに、
身に纏うもので変えられるのではないか、と
他力本願で思い続けてきたことを、知る。





雰囲気があるよね、そう、亡くなった友人が、
わたしの姿を見て言ったことを思い出す。
いつも、地味だけれどとても趣味も生地もいい服を着ていた彼女は、
核心をついていた。

ふわっと、雰囲気はあっても、その実はどうかわからない。

彼女は、少しも意地悪な人ではないから、
そんな意を含んではいなかっただろうけれど、
言葉はそのままを、意味していた。


身に纏う、という言葉からは、身体にふわりと布を巻いた
人の姿が立ち上がる。
身体からほんのわずかに拡張した布が、
ほんのわずかに、わたし、も拡張させてくれる気がする。




けれども、質もデザインもいい服は、その服を着た人間が、
その服の持つ空気と合致しているときにこそ、本領を発揮する。

そして、そんな服を生かすには、
その服に似合う人間であろうと、心がける。
それが、魅力のある服であり、
魅力のある人間であるのかもしれない。


着る機会を失ったワンピースたちは、
それらにまつわる記憶が苦々しいのであれば、
その記憶を凌駕できるよう、着る人間が変わることを
望んでいるのかもしれない。

もしくは、切なさに埋もれる記憶を捨て去らずに、
その記憶も愛しんで、纏うだけの度量を持つことを、
望んでいるのかもしれない。







追記;
書きながら、マリア・ジョアン・ピリスのピアノを聴いていた。
彼女は、あまり煌びやかな、いわゆるコンサート衣装、のような
服を着ては、決して演奏をしない。
わたしは、演奏だけではなく、彼女の服装も含めて、
彼女のことがとても好きだ。

同じく、とても好きな演奏家の内田光子は、
なんとも独特な服を着て演奏している。
色こそ異なるけれど、その服の傾向は同じだ。
違う演奏会で、過去に見たことのあるシャツを着ていることもある。
気に入った服を変わらず着続けるそのスタンスは、
根っこで、彼女の演奏スタイルにもつながっているように、思える。

当たり前といえばその通りなのだけど、
特に人前に出てパフォーマンスをする人々の服装には、
その人となりが、あらわれている。



二人とも、服に何かを過度に負わせようとは、していない。
実があるのならば必要がない、ということを
端的に表現している。

こんなにたらたらと服について書いている自分が、
ひどく卑小な人間だと、思い知らされる。


ピアノの発表会の時、決してフリルのついたワンピースなど
着させなかった母の意向の理由が、今なら少しわかる気がする。











2024/05/07

詩を読み、絵を描き、人間性を保つ


タールが破れた時、一瞬凍りつく。
調子にのって、叩きすぎていた。
何か不吉な影を見たような気がした。

タールを力一杯叩いていたのは、
パレスチナのデモに参加している時だった。


部屋の畳の上に置かれた、デモのあとの破れたタールを眺める。
楽器が壊れる、というのは単純に、とても悲しい。

よく晴れた連休の朝、タールを久々に手に取り、
窓際に持って行く。
よく伸ばされた動物の皮の先にうっすらと、
青い空が透けて見えた。





ガザ、ラファからの連絡はいつも、生活の苦しさと
地上侵略への恐怖と、経済的な支援のお願い。
どれも受け止めるだけで、何もできることはない。
上空をゆくヘリコプターのような小型の戦闘機が
銃を乱射して去って行く映像が送られてくる。


絵に描いたような、美しい5月初旬の連休、
久々の友人・知人に会い、昔の同僚の結婚式に出て、
外へ出るたびに、緑の色の豊かさを確認する。

けれども、時間があって携帯を手に取れば、
ずっと海外ニュースを確認し続ける。
せめて、ラファから連絡があった時、何が起きているのか
先に知っておくことが、最低限の礼節だと、思っているからだ。


ニュースでは見えてこない恐怖と悲しみの詳細を
Whatsappのメッセージは補ってくれる。
政治的な思惑、世界中で起こる抗議活動、
どれも誰かにとっては甚大なニュースで、けれども
俯瞰で見ることに慣れてはいけない類の話だ。
そんなニュースとメッセージを交互に読みながら、
無償に腹が立ってくる。

その俯瞰的な視点に、その的外れな見解に、
その背景にある権力と金に、
人間なんてそんなものだ、と達観するふりをして
考えようとしない人たちに、そして
何もできない自分に、無性に腹が立つ。




腹立ちまぎれに、絵を描いていた。



流れては消費していくニュースの中で、
記憶に残っていた女性の顔だ。
瓦礫の脇で座り込み、呆然としている、
おそらく彼女の周りには、瓦礫しかなく、
何か目の前のものを見ているのか、目を伏せているのか、
はっきりとしない視線と、固くつぐんだ口。
えくぼができるほどきつく結んだ口元と、そして瞼は
きっと小刻みに震えているだろう。


真っ赤なヒジャーブの鮮やかさとともに、
その表情が、記憶に残る。
報道で使われる写真に姿を見せる女性たちは
疲れているか、泣き崩れているか、怒っているか、
子どもたちを見守っているものが、ほとんどだ。
感情が分かりやすいアラブ人が被写体で、
さらに報道用写真に求められるインパクトの乱立する中、
赤いヒジャーブの女性は、
サイトの中で、静かに佇んでいた。

ものを作る時には、ずっと音楽を聴くのが習慣だったし、
音楽を聴く時間を心置きなく作るために、ものを作っているようなものだった。

けれども、なにも、聴く気になれない。
ただ、どうしたら、このわずかな頬の震えが伝わるのだろうか、
一体彼女は何を見ていたのだろうか、考えていた。

皮は美しい色合いだけれど、それを活かして、
色を乗せて透明度を保つためには、絵の具を使えない。
鉛筆はざらりとした皮の表面で滑り、反射してしまう。









”戦争は終わるだろう
指導者たちが握手し
老女は戦死した息子を待ち続け、
その娘は愛する夫を待ち、
そして、その子どもたちは英雄なる父を待つだろう

わたしは祖国を売った人を知らない
ただ、代償を負った人々を知っている”


最後の行の原文は、
ولكننى رأيت من دفع الثمن
額を支払った人、という言葉の、
その額が代償を指すならば、値がつけられるわけもなく、
あまりにも、大きい。


マハムード・ダルウィーシュの詩を読みながら
指導者たちが握手し合うことはないだろう、と思う。
それはただの、わたしの予見や代弁なのかもしれない。
そんなに簡単に、建前だけでも融和できるような許しなど
どこにも存在しないように、見える。

オスロ合意後に書かれたこの詩の中に、
エドワード・サイードとともに、オスロ合意にも
ファタハとハマスの動きにも批判的な立場を撮り続けた
ダルウィーシュの静かな視座を読み取る。

”戦争はおわるだろう”この、終わる、という動詞につく
未来を表すسが動詞は、willのような意味合いを持つ。
それがどれほど確かにやってくる未来なのか、
willもسも、その度合いは示してくれない。





何かを作りたいのではなく、
何かを作る時間を経たいのだ、と気づく。

あなたのことを祈っている、そう、わたしは繰り返し
ガザの知人に書いてきた。
だから、祈りを形にしなくてはならない。

外からただ、事象を追い続けるわたしには、
このダルウィーシュの詩の表すものと、
あの女性の佇まいが、親和性を持つ。
きっと、当事者たちには、的外れなのだろうけれど。

長くある土地に住み続けると、そこの文化に
知らぬ間、侵食される。
絵に文字が入った作品を、どちらかというと
白々しい視線で見てきたのに、どうしても、
この絵にはあの詩が必要だ、と思えてくる。

ヒジャーブのさまざまな赤を何度も塗り重ね、
その度に、文字を削り出し続けていた。
おかげで、原文に馴染みなどなかったのに、
すっかり記憶してしまった。




ダルヴィッシュの詩の、
老女にも、娘にも、その子どもにもなりうる、もしくは
そのすべてであるのが、赤いヒジャーブの女性であり、
そして、そこに住む人々でもある。

常に壊されたものものと未来に埋もれる、という
代償を引き受けなくてはならない人々だ。
ひどく静かな詩の中の、怒りを受け取る。

けれども、同時にわたしは、アラブの人々の
子どもまで、孫まで、連綿と続く家族の血の流れの
確固たる営みの力強さもまた、感じ取る。
それは、わたしがよく知っているアラブという世界で、
彼らが何よりも大切にしているものを、
彼らを誰よりも強くするものを、表していもいる。


それがたとえ、理不尽な代償を引き受け続ける未来でも、
そんな未来が待っていることを予感していても、なお、
生きて行くことが、肯定的な生として当たり前に待っている。
そんな人々の姿が、
赤いヒジャーブの女性の視線の先にあってほしい。


稚拙な絵を描く行為も、詩を読む行為も、どちらも、
ひどく人間的な行為であることを、確認する。
それは、この致命的に何かが狂っている世界で、
自分が血の通った人間でありたい、と願う
大切な作業であり、工程になる。



2024/05/01

属する、ということ

 

雨が止まない。
雨粒がベランダの屋根にあたり続ける音を聴く。
気圧のせいで、膝は痛むけれど、
雨音を聴いていると、心は落ち着く。

それは、おそらく習慣的なもので、
雨のほとんど降らない世界にしばらく住んでいたからか、
とてもとても、貴重なもののように感じる。

雨が降っても、強く降っても、日常生活が当たり前のように
淡々とすぎていく国に戻ってくると、
雨を理由に、すべてが滞りがちな国の、
雨の時間が懐かしく思い出される。
休日に雨が降ったら、ずっとずっと、大きな窓から、
雨の降る、灰色の空を眺めていた時間。
鳩たちが身体を膨らませ、じっとする様を、
雲が流れていく様を、雲が切れる様を、
雨の粒の大きさの変化を、観察し続けていた。

随分と贅沢な時間だったことを、今さら、実感する。



イノン・バルナタンのアルバムを聴きながら、
移動をしていた。
日本の人たちは、傘の扱いが上手だな、と
電車で傘の行き場に腐心しつつ、感心する。
何もかもが、うまく順応できていない、と感じる瞬間。


ふいに、クープランの墓、ピアノ曲の第4楽章が
ヘッドホンから流れ込んでくる。
とたんに、雨降りの日が少しだけ煌めいて見える。
ほんの少しだけ、気持ちが晴れる。
そして、何よりも安心する。






ただ自由になりたくて、今日から仕事を減らす。
それが、こんなに心許ないものなのかと、
新しい契約書の入った仕事用のバックを膝の上で掴む。
自分で選んだとはいえ、いい選択だったのか、
いくらの自信は持てないまま、正直途方に暮れている。



Sense of Belongingは大事なのです、
そう仕事の中ではずっと、教育の文脈で語り続けていた。
どこかに自分の属性があることが、心の安定につながり、
その土地やコミュニティに愛着と関心を持つきっかけになる。

心の安定のため、自分が何者で、どこに所属しているのか、を
常に認識つづけていたいのが、人間の本能らしい。


子どもの教育に関して言えば、確かにそうなのだけれど、
わたし自身は海外にいる間ずっと、”ここはわたしがずっとい続ける場所ではない”
そう思い続けながら、長らく生きてきた。

悲観なのではない、ただ単純に、その国の国民ではない、という
明白な事実から生まれた感覚だった。
だから、ものは増えがちだったけれど、同時に執着はあまりなかった。
いつ出なくてはならなくなっても、心の準備ができている、
それが、とても大事なことだった。

そして、執着しないことは、人についてもそうだった。
ほとんどの日本人は仕事でやってきて、赴任期間が終わったら
その国から去っていく。
だから、2年で、3年で居なくなる人々を
何度も何度も見送りながら、それまで
過ごしてきたその人々との時間がなくなることを
仕方のないことだと、諦念とともに、受け入れる。

現地の人々に対してもまた、わたしは違う国籍の人間である、ということを
多くの場面で方便に使ってきたのだろう。
できるだけ馴染むように、目立たないように暮らしてきたけれど、
仔細な、そして甚大な違いについて、相手やわたしが気づいても
それは生まれ育った環境が異なるからだ、という言い訳で
流してきたし、目を瞑ってもらっていた。

それは時にありがたくもある、そして、申し訳なくもある。
どう頑張ったところで、見た目も違えば
文化風習の背景も異なる人間が、完全に
同化することは不可能である、という事実もまた、
ある種、諦念とともに、受け入れてきた。


ここはわたしの居場所ではない、という感覚を持ち続けると、
居場所を作ることが下手くそになる。
転校を繰り返す子のように、リセットされる時にそなえて
身構える姿勢が自然と身に付くからなのかもしれない。


ただ、残念ながらわたし自身は、もともと
育っていく中で土地を移動し続けることはなかったから、
定住することに、この上ない安心感を抱く性質を持つ。
だから、常に胃の軋む音が聞こえるようなストレスと不安も
感じ続けてきた。


心も感覚も対人も環境も反目し続けていた。
そんな矛盾を受け入れる作業に慣れて、けれども
慣れたこと自体へ疑問を抱く、そして、なにより
ひどく疲れていた、だから、日本に戻ってきたのだった。





なにもかもが、どうしようもなく鈍くて遅い。

やっと、最近腹づもりができて、
日本にちゃんと住むためにはどうしたらいいのか、
考えるようになる。

そうしたら、またにわかに、不安でいっぱいになるのだ。
果たして、どこかに住み続けることなど、できるのだろうか、と。

そんな感情に飲み込まれる自分に、唖然とする。
今日はじめて、はっきりとした。
うまくいかなかったら、他の国に行けばいい、
そう心のどこかでずっと、思ってきたのだと。




そして、出会ったたくさんの、シリア人の、イラク人の、スーダン人の
お母さんたちを思い出して、自分に心底嫌気がさす。
子どもたちを抱えて、自分の国に帰らない、帰れない
あの人たちは、あんなに懸命に暮らしていたのに。


それでも、自分の国にいるわたしは、不安で仕方がない。




2024/04/22

本を読む体験と、身体感覚



その前の週末もずっと、本を読んでいた。
「戦中・戦後の暮らしの記録」
タイトルの通り、戦中戦後の人々の営みを記した
100編以上もの手記が編纂されている、
暮しの手帖社から出版された本。






そろそろ、想像力が限界に近づいてきている、そう思えていた。


頻繁に、戦地からは連絡がきて、
その惨状と状況の悪化が伝えられる。
受け取るたびに、申し訳なさと伝わらない苛立ちで、
心が真っ暗になっていた。

けれども、次第に麻痺してくる。
できることはした、今わたしができることはこれ以上ない、
そう頭の中で繰り返し
英語のメッセージをぼんやりと見つめる日々がやってくる。

ニュースを確認する、そこで国は、
色とりどりの枠に囲まれた塗り絵の一部となり、
関係する国々がどう立ち居振る舞ってきて、これから
どう見を振るのかを予見する記事であふれている。

必死でニュースを追うのが、せめてできることだ、
そう思ってしがみついていた、けれど、
物理的な距離の遠さは、情報の視座も遠くする。
人々の影形が見えなくなってくる。
心痛めることもなくなってしまった。

そのことに、ある時ふと、気がつく。




日本にいるのだから、日本の戦争の詳細からまず、
もう一度見つめるしかない、そう思い立ち、
手に取った本だった。


多くの場合、戦中戦後を経験した人々の手記や語りが
親族や知人の人々の手によって文章となり、投稿される。
それらがまとめられた本だった。
書いた、語ったご本人はもう、存命ではないこともある。
それでも、本州の都道府県、北海道、沖縄、満州、奉天、
場所と時は、特定されていた。

さまざまな年齢と性別と環境と境遇の人々の話だ。
随分小さな時の断片的な記憶もあれば、
まさに経験の記憶が頭から離れず、だから語ってこなかった話もある。
比較的裕福な環境もあれば、強烈な飢餓と貧困の環境にいる人もいる。

空襲の情景、生死を分ける偶然、肉親を探し彷徨う道、
戦中戦後の生業、ひもじさの度合い、食べ物と大切な持ち物の交換、
疎開先での肩身の狭さ、よそ者への冷たさ、戦地へ赴く人の見送り、
待ちわびる兵士となった肉親の帰り、逃げ惑う山の中。
中国の大地の寒さ、先の見えない引き上げへの道のり、
飢えた赤子を手放す母親、心を病む帰還兵、空襲の跡、
子どもを生かすための親の苦労、蔓延する病気の数々、
死に瀕した人々であふれた病院の情景、終わらない心の中の戦争、
亡くなった肉親が生きていたら、という仮定。


戦中戦後を経験した誰しもに
膨大な記憶、しかも、ひどく心を酷使した記憶に
溢れているはずだ。
その中から、この場面を、このことを伝えたい、そう厳選した話が
100編以上も続く本は、重い。
そして、その話の背後にもっとたくさんあったであろう
見たこと、聞いたこと、嗅いだこと、触れたものを想像する。

ひたすら続く戦争にまつわる体験を読み続けた。
週末の2日の空いている時間をその本に費やし、月曜日の朝、
最後の話を神社の境内で読み終えた。
わたしはコーヒーができるのを待っていて、周りには朝から
白人の観光客が何人も、席の順番を待っていた。

たくさんの人の経験がわたしの中で混じり合い、
詳細の断片が蓄積され、感情の澱が身体全体を漂い、
一つの体験として、残る。




そして、またやってきた週末に手に取ったのは、
どうにも払拭できない暗さが滲む夢の描写から始まる。
読むことへの覚悟を、要求される本だった。





ハン・ガンの「すべての、白いものたちの」は
映像と感覚の混じり合うさまが、生死にまつわるものごとと裏腹に
ひどく美しい、印象深い作品だった。
視覚で得られる情報の描写の一つ一つが丁寧で、常に
読み手にある情感を喚起させる。
形容詞では表しきることのできない、
身体の、哀しさを主る場所へ連れて行かれるような感覚に
何度も襲われた。




この新刊にもまた、背をそっとなでられて身体の芯が震えるような
美しい情景が何度も、出てくる。
同時に、物理的な痛みを表す場面も何度もやってきて、
その描写もまた、読み手の身体を貫く体験となる。
だから、精神の、そして身体の痛みと
視覚的な美しさが絶え間なく、交互に、同時に押し寄せてくる
ひどく特異に感覚的な、読書体験をした。



済州島4・3事件を経験した人々の記録と、
その事件を経験した肉親と人生をともにした女性と、
その女性と、夢の中のビジョンを分かち合ったもう一人の女性が
時間と場所のうつろいの中で、生きていくことを
再び手に入れようとする。


登場人物の一人は映像作家であることも、一つ
理由ではあるだろうが、精緻な物質と情景への描写と
史実の正確さと生々しさが一体となった時、
その人が、何を見て、何を感じているのか、
意識の底を這うたくさんの伏線を辿ることとなる。

その手法は、書き物としてのみとして読んでも、見事なものだった。



わたしの身体に直接感じられるような痛みを
いくつもやり過ごしながら、読み進める話は、
奇しくも、戦い、虐殺の文脈で
一つ前に読んだ100編のいくつかと、酷似する。
そして、5日ほど前に読んだ話の断片が、いくつもいくつも
より鮮明な、圧倒的な痛みをともなって
再生されていくさまを、もう一人のわたしが
わたしの身体の斜め上あたりで、見守っているような気がした。



読み終えた深夜、しばらく呆然としていた。
戦中の日本の占領下における植民地化に端を発する
済州島で起きたことの詳細を、読むまで知らなかった。
そんなわたしの中で、
小説の中の身体的で鋭利な痛みと、100以上の戦争の経験の断片と
無知であることの痛さが、深い泥沼をかきまわすように混じり合う。

身体のどこかが、ずっとあれ以来、うっすらと痛い。





正直、読後になにかが癒される感覚はなかった。

痛みを通じてこそ回復に至れる、という信念をハン・ガンは持っていると
訳者の斎藤真理子は解説している。
作者自身は、「究極の愛の小説」とこの作品を表現していたが、
その中で描かれる愛は、小説の世界で経験しうる類では
本来表しきれないような想像を絶する痛みをともなう。

読書好きとしては、幸いなことなのだろう、
痛みを知りたい、とたぶん、無意識のうちに
2冊の本を読む前のわたしは願っていたのだから。

ただ、その感覚だけはをしっかりと認知しているわたしは、
それが何によるものなのか、見極められないでいる。




2024/04/18

戦争の時を往く音楽


キリル・ゲルシュタインの新譜の、モノクロのジャケットは美しい。
”Music in Time of War"

夜に飛ばされる、ミサイルの光の筋だ。
反射的に、さっき布団の中で見た映像を思い出す。





朝、目覚めにうとうとしたまま、携帯で仕事の連絡を確認する。
ラマダンのあとの祭日も終わり、仕事が再開する朝、
チャットには映像がいくつか共有されていた。

真っ黒な空に、花火のような火の玉がいくつも飛び、
赤い光が中空で散っていく。

意識が朦朧としたまま見た後に、急にはっとして
海外のニュースを確認する。
イランが飛ばしたミサイルを迎撃している映像だった。


暗澹たる気持ちでふとんから這い出て、ニュースの詳細を読む。
反撃の可能性を示唆する記事はそれまでにたくさん出ていたけれど、
実際に起きると、その先にある可能性についての悪いシナリオが
急に現実味を帯びて、頭の中をかけめぐる。
いい加減にしてくれ。せめて、他の国は介入するな。

なんてひどい、日曜日の朝なのだろう。



日曜の朝は、いつもより余裕を持って音楽が聴ける日のはずだった。
わたしがこんなところで、いくら悪いシナリオについて
思いを巡らせても意味がない。

Apple Classicを開いて、気になるものがないか確認する作業に徹しようと、
携帯を見つめる。
一番初めに出てきたのが、その二日前にリリースされた
ゲルシュタインのアルバムだった。












社会の動きに呼応する芸術家たちのアウトプットを
心から尊敬する。
自分が反応したところで表現する手段を持たないから、という前提もあるけれど、
殊、Fine Artやクラシカルな音楽に関しては、
そのジャンルの純粋性が社会との関連を希薄にしがちで、
さらに、その世界を好む人々の他には開かれない傾向があるから
なおさら、社会に向けた問いかけをしようとする試みそのものが
稀有でとても大切なもののように、思える。


さらに言うならば、録音はかなり前に終えていたとしても、
ロシア系ユダヤ人のゲルシュタインが
ウクライナで起きていることについてのみならず、
パレスチナで起きていることも包摂せざるを得ない
戦争というテーマを、このタイミングでタイトルに残し、
リリースしたこともまた、
個人的には、気持ちを寄せるきっかけとなった。


ただ、ドビュッシーとコミタスのピアノ曲や歌曲が交差する曲目を
戦争と関連づけることは、
フランス語もアルメニア語もわからないわたしにとって、ひどく難しい。

一見すると、ただ同時期を生きた作曲家二人の組み合わせ、としか
見えないこのアルバムを戦争と結びつけるには、コミタスの人生と、
選曲されたドビュッシーの曲目が作られた時代背景を
知らなくてはならない。




コミタスは、1869年生まれ、1916年に亡くなったアルメニアの音楽家で
比較音楽研究や作曲家として知られている。

と書いたが、わたしはこのアルバムを聴くまで、
コミタスの名を知らなかった。
アルメニア人である、ということと、アルメニアだけではなく
中東から東欧にかけて聴くことのできる、独特の旋律が
たっぷりと享受できるピアノ曲と歌曲を聴いて、
俄然興味が湧いて、調べたことを書いている。

(シリアをはじめヨルダンやパレスチナにも
アルメニア人は住み、コミュニティを形成している。
アレッポやダマスカスに住むアルメニア人たちが
クラシック音楽を牽引していること、そして、
好きなシリア人歌手のLena Chamamyanもアルメニア人で、
それだけあれば、わたしにとって調べるに十分な条件となる。)



アルバムの中に収録された曲は、どれも魅力的だけれど、
特に、このAntoniという曲の、
つかみづらい調に没入しながら
少ない音の中でたゆたう旋律に感じ取る美しさの余韻を
表現することがとても、できる気がしない。

途方もなく悲しい歌詞は、翻訳を読むまで想像がつかなかった。






トルコでアルメニア人の両親の間に生まれたコミタスは
早くに両親を亡くして孤児となり、親戚に育てられたのち、
12歳でアルメニアの地に初めて行き、
アルメニア正教のコーラス隊に入ることとなる。

キリスト教の聖歌の採譜に9世紀ごろから用いられたネウマ譜から
アルメニア音楽の表記法も学び、その後、
3000曲以上のアルメニア民族音楽をはじめ、
クルド音楽なども収集、採譜し、研究をしている。
(バルトークもまた、民族音楽の収集と研究をしていて
ルーマニアやハンガリーの民族音楽をもとに
曲を作っていることを思い出させる)

トビシリやベルリンで音楽を勉強し、アルメニア音楽の演奏のため
ヨーロッパの国々も回ったのち、生まれ育ったトルコに住み、そこで
1915年のオスマン帝国によるアルメニア人大虐殺に巻き込まれた。
コミタス自身も逮捕、強制送還されるが、
著名な文化人たちの助けで解放される。
けれども、この間に見た、強烈な虐殺の記憶に神経を苛まれたまま
翌年、パリの精神病院でその生涯を終えた。


コミタスと同じ時代を生きたドビュッシーが、
コミタスの紹介するアルメニア音楽に感銘を受けた記録が残っている。
先のAntoniを聴いたドビュッシーは
”コミタスがこの一曲だけを作曲していたとしても、
偉大な作曲家とみなされたであろう”と言っている。


ドビュッシー自身も第1次世界大戦で、妻の連れ子を戦争に送っている。
また、アルメニア人虐殺の犠牲者をはじめ、
戦争の被害者に対するチャリティコンサートも開いていた。
だから、ドビュッシーの晩年の歌曲
「ホームレスの子どもたちのためのキャロル」も
このアルバムの中に入っている。

Antoniがアルメニア語でHomelessを意味することから、
ドビュッシーの「ホームレスの子どもたちのためのキャロル」が
シンクロすることをゲルシュタインはApple Classicのインタビューで語っていた。




"ぼくたちには家がない
敵軍がみんな奪って行った
僕の小さな寝床も
お父さんはもちろん戦争に行っている
かわいそうなお母さんは死んでしまった
このありさまを見る前に
ぼくたちはどうしたらいいのだろう”

「ホームレスの子どもたちのキャロル」の歌詞と
Antoniの歌詞は重なり合う。


”わたしの心は崩れ去った家のよう
ばらばらになった材木や柱は崩れ
鳥たちはその朽ちた土地に巣を作るだろう
飛ぶ魚たちのための餌になるよう
川にたどり着いたら、その中に飛び込めたらいいのに

あぁ、あなたの家は壊されている

白さをたたえた黒海をわたしは見ている
波は叩き合い、けれども、ともに混じり合うことはない
こんな皮肉な海を誰が見たことがあるだろうか
戻る家のない心は、狼狽えた国そのもの
お願いだから、これ以上わたしの心を暗くしないでくれ

あぁ、あなたの家は壊されている”







2台のピアノによる「白と黒」の、小さな、大きな無数の影の揺らぎも、
「6つの古代の墓碑銘」が作り出す、音と音の間に漂う余白も、
12のエチュードがそれぞれに持つ、豊かな色彩も、
コミタスの歌曲を担うルザン・マンタシャンの言葉と音が膨らむさまも、
どの演奏も、純粋に音楽として、素晴らしい。

このアルバムの中のドビュッシーの曲のほとんどは、
1914年から始まった第1次世界大戦の中で作られていることを知る。


すると、敏感に戦時下の空気を察知したドビュッシーが
癌と戦いながら、音楽家として表現しようとした
不穏と不安が、伝統的な調や和声から解放された
ドビュッシーらしい音色の中で時折、極まって響く。


それが、知識を得たのちの聴こえ方なのか、
何も知らなくても、うっすら感じられるものなのか、
もはやわからない。


知らなかった知識を携え、
知らなかった音階、旋法を使う楽曲を、注意深く味わいながら
このアルバムを何度も通して聴く。

わたしが見てきた、映像や写真、人の話が
時折、蘇ってくる。

そして、恐怖、不安、故郷への愛情、喪失感、
二人の作曲家がそれぞれに捉え、表現しようとした
人の為す凄惨な闘いの跡を往くという、体験を繰り返す。






「戦争とジェノサイドが私たちの暮らしに存在しうることを
ほとんど意識することはありませんでした」



ウクライナ、イスラエル、ガザ、そして、
多くのアルメニア人が命を落としたナゴルノ=カラバフでの紛争が
よりこのアルバムのテーマを重要なものにしている、という
流れをうけたゲルシュタインへのインタビューの最後は、
こう括られていた。


「2024年にアルバムを作るとは、どのような意味を持つのでしょう?
ニュースの文脈や重苦しい歴史の話や講義などではなく、
文化を通じて、聴き手がこれらの問題と向き合い、認識を新たにする
手助けをすることにあるのではないか、とわたしは考えています。
ここに、文化の高い価値があるのです。」






2024/04/08

大人になって知る、絵本からの学び

 

自分が子どもの時に読んでいた絵本を
見つけた時は、ひどく懐かしい幼い頃の友だちに会ったようで
無条件にうれしい。

子どもの頃を思い出し、自分の子どももきっと、
同じ読書経験をするだろう、そう思って親御さんたちは、
20年、30年前の絵本を買うだろう。
数多ある文芸作品でも、よほどの名著でなければ、
30年後には消えている本が多いだろうから、
絵本のロングセラーは、その母数に比べて、
もしかしたら、比率が高く、作品の寿命も長いのかもしれない。


わたしもまた、懐かしい絵本から、手に取る傾向にある。
子どもの頃とは異なる印象に、その絵本の魅力を
再確認することもある。

大きくなってから読む小説や詩から知ることとなる
好きな作品の作者が、絵本の世界でも、
作者、翻訳家として、作品を残している。

子どもに向けた言葉は、シンプルに数が少ないからか、
その分、大切に丁寧に、選ばれているように見える。
愛情と気遣いと優しさに満ちている。

子どもだから感じる面白さを大事にしている
作品に出会うことができれば、大人と子どもの間の
フェアな視点の大切さに気づく。



どんなふうに日常を見つめるのか、
どんなふうに面白さを見つけるのか、
どんなふうにものごとを感じるのか、
どんなふうに世界を捉えるのか。






絵本というからには、絵も、とても大切な要素になる。

自分の小さな頃を思い返す時、
話の展開よりも、絵本に描かれている細かなものものを
一つ一つ確認していく作業が好きだったような気がする。
だから今でも、思い出す絵本の断片は、
窓に飾られた花の鉢植えだったり、猫の柄だったり、
海の色だったり、建物の亀裂だったりする。

それから、しかけのある絵本や、形に特徴のある絵本も好きだった。
ページをめくっていくと、丸い穴の向こう側が見えて、
トレーシングペーパーでぼやけた霧が晴れていく
ブルーノ・ナワーリの「きりのなかのサーカス」や
縦長で、高く昇る月と地上の両方が画面に入っている
イブ・スパング・オルセンの「つきのぼうや」や、
360度開くと、各々のページが半立体になる、
有名な童話のシリーズが、
絵本の形状とともにはっきりと、記憶に残っている。

何度も何度もめくったり、開いたりした絵本は
すっかりぼろぼろになって、テープの跡だらけになっていた。


個人的には、大人になって知らない絵本を読む時、
日常を丁寧に淡々と描いているものや、
子どもの想像力を刺激するもの、
言葉が面白いものを、好む。





先日、1冊の絵本を手に入れた。






初めて見る、長田弘が訳をしている絵本
「この世界いっぱい」
リズ・ガートン・スキャンロンが文章を
マーラ・フレイジーが絵を描いている。

詩人の翻訳はとりわけ、言葉が丁寧だ。
長田弘らしい、優しいけれど力強く平易な
少ない言葉と、絵本一面の絵。

この世界にある、海も嵐も畑も木も闇夜も
そこに暮らす人の営みも、すべてを享受できるのだ、と
伝えようとしている。

いい絵本だな、と素直に思って、選んだ1冊だった。






家に戻って絵本をじっくり見ていた時、ガザから連絡がくる。

送られてきた写真は、家の遠景だった。
家の前の瓦礫だらけの道と、何棟もの黒焦げたアパートメント。
前日にはついに、家が壊されたと動画が送られてきていた。
崩れたブロックの残骸だらけの階段を、ひたすら登り、
たどり着いた部屋には、人の暮らす部屋だったことの
いくらの残骸も見つからない。






イラストレーターのフレイジーは、カリフォルニア沿岸の景色を描く。
この世界のすべてを享受できると、十分に信じることができる
豊かな農作物と緑と海、暖かな室内、温かな窓の灯り。









今、ガザの友人がこの絵本を見たら、
一体何を思うのだろう。
アメリカのカリフォルニアの子どもたちには享受できるけれど、
彼の周りにいる子どもたちには、ガザにいる限りおそらく、
一生かかっても手に入らない豊かさを、この絵本は素敵な絵で
ページ一面に見せてくる。



ふいに、ひどく傲慢な何かを見せつけられたような気がして
反射的に、動揺が走る。
その動揺は、ついさっきまでこの絵本を見ながら、
心から素敵だ、と思った自分がいたからかもしれない。


「世界はうつくしいと」という本を長田弘は書いていた。
彼は亡くなるまで、この世界は誰にとっても美しい、
そう信じていたのかもしれない。
この詩集は、とてもいい、けれどそれは
希望を失くして生きることの辛さを心底味わった
大人に向けた言葉である時、きっと、一番響く。



世界のすべてを慶ぶことのできる、と
どんな状況に置かれた子どもたちにも、伝えたい。


けれども、それは本当なのだろうか。
わたしを含む大人たちの判断と選択の誤りの集積は、
そんな本来、当たり前にあって欲しいことを
あからさまに、不可能にしようとしている。

子どもに嘘をついている、もしくは
できない約束をしているような気持ちになる。






願いの強い絵本が抱くその信念は、時にひどく、
誰かを傷つけることになるのかもしれない、と思い至る。
だから、小さい頃のわたしはあまり、
願いに溢れた絵本があまり好きではなかった、と。



自分の子どもにはこうあってほしい、そう思って書かれたのだろう、
姿美しく心のきれいな人の話を読んで、心洗われたすぐあと、
身近な友人や兄弟へ、嫉妬や羨望を抱き、
鏡の前で自分の顔を見た時の、
自分への救いようのない失望を、思い出す。


もちろん、その願いに響鳴して、
希望を抱き続けることのできる子どももいるだろう。
だから、作者や作品が悪いわけではない、
合うか合わないか、の問題なのだと思う。


子どもと向き合う時、子どもの声を聞きそびれた大人は
身勝手になりがちなのかもしれない。
大人になって、絵本の好みの幅が広がったけれど、
それは、大人の視線で絵本を読むことを知ったからなのではないか、
そう、思い当たる。


込めたい願いが、子どもの願いではなく、
わたしの、わたしたち大人の願いなのではないか、と
問いながら、絵本を読むことを学ぶ。

それは、大人になったからやっと、できるようになった。