2019/12/10

走りながら、生き死について、ぼんやり考える


ヨルダンで一番注意しなくてはならないのは、交通事故だ、
そう、いつも走りながら、思う。
とにかく気をつけろ、と、自分に云い聞かせている。



でも同時に、考えるうる死に至る可能性とその状況の詳細について、
想像しながら、走ったりする。
備えあれば、憂いなし、などと思い、
いや、こういう思考回路に当てはまらないな、と
走りながら、鼻で笑ったら、鼻水が出る。


決して、健康志向で走っているわけではない。
一見、健全に見える行為をしているのは、
精神のみ、消耗する日々の中で、
走るのも悪くないだろう、と思い直したからだ。

けれども、結局こんなことを考えているのだから、
性の根がとことん、腐っているのだろう。

ついでに、気づいたら、
不慮の事故か、自ら命を絶った人たちの音楽ばかり聴いていて、
なんだかな、と思いつつ、
走りながら、ある程度冷静に、
記憶している彼らの死に様について、
あぁ、もう走りたくないな、と身体の声を聞きつつ、
思い出したりしていた。

彼らは、いい音楽を作ったから、
その死に様を思い出す私のような赤の他人が、存在する。


人さまには、それなりにまともな仕事のように思われることを
器でもないのにしている。
他人には、描き得る、幸せな生き方をしてほしいと
心から思う。特に、子どもたちには。
それは、本心だ。
ついでに、犬猫、小鳥にネズミまで、
命は大切にしなさい、と子どもたちには、云い聞かせている。

けれども、自分に関しては、
あえて語弊を気にせず、正直なところを云うならば、
そこまで、生きることに消極的でもないけれど、
取り立てて積極的でもないのかな、と
かなり信憑性高く、思っていることを、
最近、実感したりした

その事実を、なんとか肯定的に捉えようとして、
ある意味、思考とは逆説的に、結構必死で、走っているわけだ。


理不尽と不平等ばかりしか見えない世界の中で
無視され、抹殺される死もある。
それから、どうしてこんな目に遭ってしまったのだろう、と
偶然と不幸が重なる死もある。
どちらも、私の周辺ではかなり当たり前に、ある。

命の価値は同じだ、とか、命は平等にある、
ということが、揺るぎない世界の信条であるならば、
自分の命もまた、同じ世界の、同じだけの運を持つ状況下で、
本来、語られるべきものである。

でも、実際は違う。
殊、生きる世界については、決定的に異なる。
たぶんよほどお気楽な人か、傲慢な人でもない限り、
違う、ということにもまた、
うっすらと、もしくは、骨身にしみて、感じている。

まともな世界にいる人たちは、
あぁ、良かった、こんなちゃんとした世界の中に生きているのだから、とか
それでも、この社会のここに、改善の余地があると思う、とか
彼らはもっと、問題意識を持って声を上げなくてはならない、とか
お金に困らない暮らしができているのだから、
そんな理不尽な状況にいる人たちを助けなくては、とか
思ったりするのだろう。

そして、骨身にしみている人たちは、
理不尽な社会への悪態もつき切って、疲れ果てている。
なぜなら、あまりにもどうにもできない荒野が、
彼らの前には山の縁も見えないぐらい、広大なのだけは、
わかっているから、もしくは
悪態をつく前に、行動に起こし、
何かを変えようとして、亡くなる人たちを見てきたから、もしくは
理不尽でもいいと思っていたのに、戦いに飲まれて
亡くなった人たちを見てきたから、だ。

(私もまた、大きな社会の構造を俯瞰し、たくさん話を聞き、
あまりにも理不尽であることの、どうにもならなさと、
それに翻弄される人たちの疲ればかりを、感じ取って、
何もかも徒労に終わる、と思ったりする。)

それでも、彼らが、人としてきちんと生きよう、と
日々の暮らしを続けるとき、
何が彼らを支えているものは、ものすごく小さな、
日々の喜びだったり、する。

子どもの咳がやっと止まった、とか
畑でもらったブドウがよく売れた、とか
自転車につけるかっこいい飾りが手に入った、とか
いい点数が取れて、先生に褒められた、とか
チャージができて家族と電話できた、とか
居なくなった鳩が帰ってきた、とか
今年もオリーブを漬けてしばらく食べられる、とか
おばあちゃんの服を褒めたら、すごく嬉しそうだった、とか
手作りのプレゼントをもらってほしい人に手渡せた、とか
赤ちゃんがはいはいし出した、とか。

それらは、いくらも社会の理不尽を解決する手立てにはならない。

でも、それらを喜ぶ心は、もしかしたら、
まともな社会にいる人たちよりも、よほど
たっぷり持っていて、
理不尽でも不平等でも、暮らしていけることが
どれほど価値のあるものなのか、知っていたり、する。

二本足で歩き出した、知り合いの子どもと、
私の命が同じぐらい大切ならば、
赤ちゃんの未来に広がる可能性と同じだけの、一体何を、
持って生きたらいいのだろう、とふと、
走りながら考えたのは、先週。

走りながら、今日、
授業なんてさっぱり聞かず、
一生懸命こちらの気を引こうとしている女の子のまつ毛が
すごくクルンとしていてかわいいな、と思って、
ふっと、カメラに収めたことを、思い出す。
目が合うだけで、嬉しそうな顔をする子。

私もまた、授業はきちんと聞いてほしいけれど、
嬉しそうな顔に、こちらもふわっとした気持ちになったな、
と、思い返す。

そして、それが今日一日のうちで、
一番なんだか、よかったことだったと
認識したところで、家のあるアパートメントに続く
一番きつい坂のふもとに着く。

一気に駆け上がって、走るのを止める。
もうすこし、走れたかもしれないのに、
止めてしまうところに、自分への甘さがあるな、と思う。

足の付け根が二重になった、太ったぶち猫が通り過ぎる。

何を持って暮らしていけばいいのか、
うまく、指標は持てない。
いずれにしろ、すべてが中途半端なのだ。

それでも、今日いいことがあったのは、
確実に救いだった。
ぶち猫の写真を撮りそびれた携帯で、
かわいいまつ毛を、見返す。



2019/11/16

マリアさま、もしくは、美しいもの


世界は、美しいもので溢れている。
そうである、と今でも、思っていたい。

美しいもの、とは、例えば
線は細いけれど、響きに奥行きのある歌声であったり、
子どもがマジックペンで描き殴った落書きだったり、
ふっくらと艶のあるザクロであったり、
北の窓から差し込む、淡い光に浮き立つ形いいコップであったり、
ネットで見る、ジョージアの紅葉であったり、
まだ眠る街を覆う朝焼けだったり。

ものや景色の美しさが、貴重なものとなった。
おかげで、初めはいくらも好きにはなれなかった
土漠や拾った石にも、美しさを見出せるようになった。
景色やものに関しては、仙人並みに、
美しさを見出す能力を養いつつ、ある。

そう、つらつらと、美しいものを挙げていきながら、
私にとっての美しいもの、には、
あまり、子ども以外の人の営みは含まれない、
ということを、知る。

根本的に、あまり人には美しいものの要素を見出せないのかもしれない。
そういう点では、子どもを相手にした仕事をしていて
幸いだった、と思う。
子どもには、まだ、行為の一つ一つに
ある純粋性が残っていて、
おそらくは、純粋な何かしら、は
美しさの条件と、なっているのかもしれない。

自分で作品を作り、自己完結するのであれば、
自分の思う美しさを追求することが、誰かに邪魔されることは、ない。
そう考えると、彫刻を作るなんて、
なんとも、幸せなことをさせていただいていた。
ただ、食べてはいけなかった、わけだけれど。

世の中の人の営みのなかに、純粋なものは、そう多くはない。
発端は純粋なものでも、
形にしようとした時には、手垢まみれになる。
いつまでも、純粋なものを抱き続けると、
どこかで、社会と衝突が起きたりする。
妥協が求められ、交渉が求められ、
気がついた時には、抱いていたはずのものは、
磨耗し、曇ってしまう。

美しさは、混沌の中にも存在する、と
美学では、謳われている。
つまり、人が作り出す混沌としたものにも、
美しさがある。
ただ、それは私にとっては、
俯瞰からしか見出せない美しさであって、
渦中で美しさを見出すことは、容易ではない。
(稀にあるけれど、実に稀、で、
それを美しい、と感じることが本来、
倫理的に憚れることである事象だったり、する。)



いしいしんじの作品を読む時、
その、容易ではない作業を、
文字の連なりで作り上げる離れ業を体感する。
善意も理不尽も、幻想も心身の痛みも、
ごちゃ混ぜになっている。


こんな風に、人を、犬を、山を、海を
見ることができるならば、
私の周りももっと、美しさに溢れているだろう、と。

「海と山のピアノ」は、美しい話たちだった。


こちらに来る人に買ってきてもらって、
イラクを経由してここまでやってきた新刊は、
「マリアさま」というタイトルの本だった。

混沌の美しさという観点からすると、
美しさを見出すための、ドリルのような、短編だった。
それから、「見える」幅を広げ、
想像力を養うための、ドリルのようなもの。

一つ目の話から、いつも通り、
箱に入った、世にも美味しいチョコレートを食べるように、
一つずつ、読んでいった。

最後の話まで読んで、
タイトル作品がないことに、気づく。

当然のことながら、疑問が浮かんでくる。
どうして、「マリアさま」だったのだろう、と。

紀伊国屋のカバーがついていたので、
外して、表紙を見る。
金色の箔入れを施した太陽みたいな絵。
帯には、「光さす」と、書かれている。

安直に、ベトナムの教会で見た、
後光を従えたマリア像を頭に思い浮かべる。
それから、ブローディガンの「シンガポールの高い建物」を
ふと、思い出す。

光、か。

紫外線たっぷりの鋭い光は、嫌というほど、
浴びているし、見てもいるのだけれど。

雨が降ったあとの、深夜の街を見る。

モスクと、街灯と窓から漏れる灯りで、
濡れた道路がところどころ、光る。
猫が通る、ゴミの影が浮かび上がる、
黄色い葉が落ちる、男が走っていく。

美しいと思えるものを、増やしていきたい、
そう切望するならば、
マリアさまは、いろいろ途方なさすぎるから、
光を照らして、見えるようにする作業から、
していくことに、するしか、ないようだ。




2019/10/31

ブーゲンビリアと、口をつく唄



沖縄に関する幼い頃の記憶は、あまり楽しくない。
連れて行ってもらえると思っていた、かの島には、
結局姉と母親しか行けなくて、
とことん愚図った。

大学生の時には、小さな学部の同じ専攻に、
沖縄出身の子がいた。
私のあだ名を口にするその子の発音は、他の子と、違っていた。
よく台湾に遊びに行くらしい。
近いんだよぉ、行ってみたら、と云う。

学祭の最後の夜は毎年、沖縄出身の学生が総出で、
エイサーを踊っていた。
何事も斜めにしかものを見ないのが、美術学部のあるべき姿だと信じて、
学祭なんて、などと思っていたけれど、
同級生が話していたから、見に行った。

自殺の名所を背後に構える、
コンクリートだらけの建物に囲まれた大学の広場で
たっぷりの照明の中、艶やかな黄、赤、紫の服を着た
呆れるほどたくさんの学生たちが、
歌い、踊っていた。
今でも何がそれほど、響いたのか、うまく言葉にはできないけれど、
涙が出てきた。


その時も、懸命に踊る見知った姿を目で追いながら、
思い出す唄が、あった。


高校2年の修学旅行は、その頃の流行りにもれず、沖縄だった。
毎年11月はまだ、台風が来る、とわかっているのに、
11月に行って、しっかり台風に当たった。

だから、突風の向かい風に髪が飛んでいきそうな
浜辺の集合写真の図と、
目に鮮やかなブーゲンビリアのショッキングピンク、
そして、深く濃い緑しか、
自分の目で見た記憶の絵は、残っていない。

とにかく、修学旅行には行きたくなかった。
サボろうかどうしようか、さんざん迷って、
サボる勇気もないまま結局、参加した。

行くからには、見られるものはすべて、
記憶に収めておこうと思ったはずなのに、
修学旅行でお決まりのコースのほとんどもまた、
どんなところだったか、断片的にしか、覚えていない。

ただ、バスの添乗員さんが唄ってくれた唄だけは、
鮮明に覚えている。
そして、今でも、しっかりしなくては、と思う時には、
この唄を思い出し、小さく唄ったり、する。






どういう文脈で唄うことになったのか。
他の添乗員さんに比べて、生真面目さが漂う
うちのクラスの添乗員さんは、
沖縄の民謡、という紹介で、
マイクを手に、朗々と唄ってくれた。

本土からやってきた、浮かれた気分の高校生たちに、
もっと有名な沖縄民謡ではなく、
この曲を選んだ添乗員さんには、
どんな思いがあって、
何を伝えたかったのだろう。


たまたま、先日wikiで、唄の所以を調べていた。
私の大学の同級生は、この曲を知らなかったのを思い出し、
一体、どのような位置付けなのか、気になったからだった。

戦前、勤労奨励のために、歌詞を公募して出来上がった唄のようだった。
なるほど、いわゆる、身近に耳にし、
根付いた唄とは、違う位置付けなのかもしれない。


あしみじゆながち はたらちゅるひとぅぬ
〈汗水流し働く人の〉
くくるうりしさや ゆすぬしゆみ
〈その心の嬉しさは 働かない者は知ることがない〉
しゅらーよー しゅらーよー 働かな
しゅらーよー しゅらーよー 働かな
二.
いちにちにぐんじゅ ひゃくにちにぐくゎん
〈一日一厘 百日に十銭〉
まむてぃすくなるな んかしくとぅば
〈守って忘れるな 昔の言葉〉
ユイヤーサーサー 昔言葉

三.
あさゆはたらちょてぃ ちみたてぃるじんや
〈朝から晩まで働いて 貯まっていくお金は〉
わかまちのむてい とぅしとぅとぅむに
〈あたかも若松の盛りが年を追う様だ〉
ユイヤサーサー 年と共に
     
四.
くくるわかわかとぅ あさゆはたらきば
〈心を若くして朝から晩まで働けば〉
ぐるくじゅになてぃん はたちさらみ
〈五十歳六十歳になっても二十歳のようだ〉
ユイヤサーサー 二十歳さらみ
  
五.
ゆゆるとぅしわしてぃ すだてぃたるなしぐゎ
〈年を忘れて育ててきた我が子〉
てぃしみがくむんや ひるくしらし
〈学問を広げる者になって欲しいものだ〉
ユイヤサーサー 汎く知らし
  
六.
うまんちゅぬたみん わがたみとぅうむてぃ
〈全ての人のためも 自分のためと思って〉
むむいさみいさでぃ ちくしみしょり
〈勇気を奮って力を尽くしてください〉
ユイヤサーサー 尽くしみしょり

もしかしたら、本土からの倫理観や思想を
美徳としようとした唄なのかもしれない。
けれどその前、すでに、ひめゆりの塔を訪れていたからか、
その、地に足ついた、
誰しもが、しみじみいいと思える、暮らし方を
たおやかな伸びのある旋律に乗せて、語る唄が、
無残に踏みしだかれる歴史と交差して、
いつまでも、耳に残った。

城へ向かう同級生たちを尻目に、
添乗員さんから、歌詞を教えてもらって、
ノートに書き残していた。
譜も自分で書き起こして、
家に帰ってから、ピアノで弾いて、復唱した。

だから、youtubeで聴く唄と
私の記憶の旋律は、少し違う。
自分の記憶の旋律の方が好きだから、
唄が下手になった今では、時々、チェロで弾く。
弾くと、何だか、心落ち着いて、
あぁ、人は、私は、しっかり働くものなんだと、
自分に云いきかせる。
過不足なく、しっくりと、腑に落ちる。

お金を貯めて、いつまでも元気で、
子どもたちが学を身につけ、
力を尽くして働きたい、と願う。
それはでも、どの土地でも、堅実な生き方を望む人ならば、
同じように、抱く願いと姿勢だろう。

何か、大それたものを願っている訳では、ない。
ささやかとも云える、その願いを、
阻むものがあまりにも、多すぎるのは、何故なんだろう。


旋律と言葉遣いがあまりにも特徴的だから、
沖縄と切り離して、この唄を聴くことも、唄うことも、できない。
だから、いつも沖縄に関するニュースを目にするとき、
この唄を思い出しながら、
その土地で、それでも粛々と働き、暮らす人々の姿を、思う。

2019/10/28

その輪郭を作り出すもの


禁断のiTunesに手を出したのは、
前回の帰国時、もう10年ぐらい使っていたipodを
実家に忘れてしまったからだった。

曲を探す時に出る、カリカリと鳴る音が
この上なく好きだったのに。
そして、走る時には必ず、一緒だったのに。

走り出しは必ず、この曲からだった。



歩く時の定番は、Dollar BrandのKaramatだった。
これこそ、問題だった。







過去に手に入れ、大事に保存してある音楽データは
これもまた、8年目の瀕死のmacに繋がれている。
家ではいいけれど、外には持ち出せない。
すでに、8年目のmacは、新しいosが入らなくて
iTunesに同期できない。

死活問題が浮上したことと、なる。

今までの、大事な大事なデータを、
どうしたらいいのだろうか。

仕方がないので、一つ一つ、iTunesで探しては
入れていく作業になる。
でも、当然iTunesには入っていない曲もあって、
心の中で悲鳴をあげる、不毛な夜がやってくる。


所蔵する本と、音楽データは、まさに、
その人をかたちづくるもの、だ。

殊、娯楽などない海外暮らしで、
まったく不適合な仕事をしながら、
音楽と本にしか、鋭敏にセンサーが働かない人間にとって
ほぼ唯一、自分が何者なのか、ということを
輪郭だけでも留めておくための、
ツールだということを、改めて認識する。

一通り、確実に必要なアルバムだけ、入れていく。
radiohead, Asgeir, James blake, Jose Gonzalez, Nick Drake
Jeff Buckley, Elliot Smith, Bon Iver, Beirut
キリンジ、スガシカオ、くるり、大橋トリオ


それにしても、こんな暗いアルバムをよく聴いていた、
というものも、ある。
どちらかというと、縁起担ぎに、
憑き物でも落とすような気分で、
入れないでおこうか、と思ったりする。



そして結局、それでさえも惜しいと躊躇するのは、
もしかしたら、その音楽とともに残る記憶そのものに、
まだ心残りがあるからなのかもしれない。

というのが、この曲。





記憶は、しんと冷えた初冬の夜と、
日本で暮らしていた、小さな平屋の板間だったりする。
曲自体はいいのに、記憶がしみったれ過ぎている。

そういうものを、一つ一つ整理していく作業になってくる。

マリのアーティストもいくつか持っていたのに、
最近聴いていなかった。


これは、西アフリカへ行けってことなんだろうか、とか
どうでもいいことを思ったりする。
歩みの感覚。小さなトランス。
やっぱりいいな、と思い、結局リストに入れる。

そして、違うアルバムを視聴してみたりして、
結局、増えていく。

同じく、こちらも捨てがたく、リストに入る。


何にもないところを、ひたすら歩きたくなる。

これも久しぶりに聴いた。
聴いた時の、衝撃を思い出す。




まだ、Aから先に進めない。
一体この作業は、いつまで続くのだろうか。

寄り道が、止まらない。

そして、すっかり秋も深まったアンマンは、
毎年のように、音楽を身体に、染み込ませていく。



2019/09/06

”獏”力の、低下


4冊の本が、机の上にずっと乗っている、
一時帰国から帰ってきてからの3ヶ月だった。

米原万里のエッセイ集と、いしいしんじの短編と、
石牟礼道子の食をめぐる随筆と、カフカの短編集

全く属性の違うものたちの共通点といったら、
長編を読む気力がないから、一話読んで、本を閉じられる、
というぐらいしか、ない。


米原万里のエッセイは、もう何度も読んでいたのだけれど、
小気味良い書きぶりと、
ご本人の経験の豊富さとその、面白おかしく、
同時に示唆に富んだ省察を、
いつでも、楽しめる。

手元のエッセイは、様々な彼女のエッセイからの寄せ集め。

たまたま、鳥取へ仕事で行った時、
閑散とした市街の目抜き通りを走る、
一台の共産党車両を見つけた。

なかなか、印象的なその景色だったのを思い出したのは、
米原万里の父親が、鳥取から選出された
最初で最後の、国会議員だった、というのを知ったからだった。
彼女のロシア語歴は、共産党員だった父親が
仕事でプラハに駐在することから、始まる。
ソ連学校へ通っていたから、教育を一時期すべて、
ロシア語で受けている。

どんな短編にも、ソ連、もしくは共産圏への哀愁と愛着が見受けられる。


ただ、このエッセイ集の最後は、戦争のなんたるかを知らしめる
ロシアの雑誌の、翻訳だった。
イランイラク戦争時に取材に入ったジャーナリストが
バグダッドでインタビューした少年の語り。

戦争で父親を亡くした、靴磨きで生計を立てる思春期の少年。
美しい母親と、その母親に想いを寄せる、
一緒に住むことになった叔父への複雑な感情が
よく聞き取られていると思ったら、
最後には、しっかりと、皮肉なオチがある。

それまで楽しく読んでいて、最後の一つもまた、
美味しい上等なお菓子でも食べるように、読むつもりが
苦く渋い、薬を飲むことになってしまったような、
口の中にいつまでも残る、尾を引く後味があった。
あくまでロシアの小話風にまとめようとしたその話は、
だから返って、内容の凄惨さを引き立たせていた。

楽しいだけでは終わらせてくれないのだな、と
編纂が本人のものかは分からないけれど
彼女が伝えたかったことの本質を、見せられたような気がした。




いしいしんじは、すべてが海か山と、そこから生まれる
暗く、明るいおとぎ話のような、話だった。

どの話にも、共通して感じられたのは、
山や海と、もしくは、話の中に出てくる人や事柄と、
つながりたい、同化したい、という感覚だった。

恐ろしく感覚的なものを、描き切るには勢いがいる。
いしいしんじには、短編も長編も、
大きな波に乗るような感覚がある。

いいことも悪いことも、不幸も幸せも、
人を含む生き物のには、それなりにある、ということを
どれもこれも、同じぐらいの大きさで、書く。
そして、それらをすべて飲み込む、大きな懐を
感じられる話たちだった。

波に揺られて、とても温かい気持ちになって、本を閉じた後、
温かな気持ちが残っているからこそ、
でも、ぽつんと、また浜辺に置いていかれたような、
寂しさがあった。

すべてお話である、という当たり前の現実が、
寝そべって読んだソファの上に、蛍光灯の光の下に
ぽつん、と死んだ虫みたいに、残ったりする。




石牟礼道子の本も、ある意味、おとぎ話のようだった。
事細かに描かれた、調理や郷土料理と、
それらにまつわる、土地に根ざした記憶が
豊かに描かれている。
最初の数ページには、彼女が作った食事の様々が
美しく皿に盛られ、写真に収まっている。

水俣の景色や、そこに残る風土や伝統が
仔細に、彼女の視点で切り取られている。
その風土の描写がすでに、一つの物語のようでもあるけれど、
何よりも、鯛の豆腐詰や、干し野菜の煮付けが
すでに、私にとって、おとぎ話のように手に入らない、ものだったりする。

読んで悶絶する、駐在には全く、心にも身体にも毒で、
魅惑的な本だった。



どの本も、私にとってはある種の寓話性が、ある。

それこそが、本に求めるものではある。

けれども、カフカの話で書いたように、
話の中の、ある感覚や感情、感性には、
自分の中のそれらと、呼応する要素を持ち合わせている。
それらの要素の印象が、強ければ強いほど、
話自体は、突拍子もないものでも、
十二分に楽しめうる可能性を
持っていることに、なる。

でも、石牟礼道子を読みながら、
感性に惹かれつつも、どっぷりと浸かれず
そのズレが妙に気にかかった。

食を支える、話の一つ一つは
紛れもなく、地に足ついたものだった。
確固たる重みが、ある。

その安定感が、全くどうも、
欲しているけれど、遠いところにあるもののように、思えた。

どうも、昔のように話の中に身を置くことが
うまくできなくなっている、
苦しい感覚に、気づく。
以前だったら、石牟礼道子の文章も、
もっとすいすいと泳ぐように
話の流れに身を任せられたような、気がする。


基本的に、限りなく獏になりたい、もしくは
夢や幻想でも食べないと、
生きていくのも大変だ、と思っていたのに、
どうも、そうするにも、さっぱりと、立ちゆかないらしい。

夢見る力がなくなった、ということなのかもしれないし、
現実という基軸を、しっかりと自ら支えることの大切さを、
体感中、ということなのかもしれない。


心のどこかで、
あぁ、つまらない人間になったな、と
小さく嘆いている時点で、
まともな大人には、なれそうにない。

そして、石牟礼道子の安定感も、また
当分、手に入れられないという事実を、
腹を括りつつ、受け入れる。




カフカと、手のひらのボール




カフカを手にしたのは、軽く20年以上ぶりだった。

一通り、過去の文豪で気に入った人は、
小作品まで全部読む癖があったのに、
なぜ、カフカをあまり読み込まなかったのか、
理由はあまり、思い出せない。

カフカよりも、と書くのも間違っているけれど、
昔は、安部公房をよく読んでいた。

カフカの代表作と短編のいくつかを読んですぐに、
Sカルマ氏の犯罪に戻ってしまったりしていた。
おそらくその頃は、非日常的な世界がどこまでも続く
奇怪な、ある意味形而上学的な、
でも、どこかで人の本質を突く話が、面白かったのだろう。

今でも、小説には、できれば目の前の
様々な問題を、一時的にでも忘れさせてくれて、
でも、新たな視点を知らしめてくれるもので、
あって欲しいと、願う気持ちは、ある。

現実には、私の手には追えない問題が、
山積みになっているから。



久々にカフカを読んでみる。
それから、なんだか、とても気に入る。
ただ、その楽しみ方が、いつもの小説のそれ、とは
異なっていることに、気づく。



短編集と寓話集しか手元にないので、
余計に、一つ一つの話のなかに、
カフカの凝縮された世界が、ある。


読み終わるたびに、同じ絵が浮かんだ。
手のひらに、日常の細やかな感情の、一つ一つが
ソフトボールよりも少し大きめの、
中途半端に柔らかい塊になって、
乗っかっている。
すぐ溢れて、ぽろぽろと落ちていくのを必死に、
指を広げて落ちまいと、する。

そして、それらをじっと、見つめているカフカ本人なのか、
私なのか、が、いる。

ボールの形状のものは、
猜疑心であったり、良心であったり、憐れみであったり、
疑念であったり、正義であったり、
怒りであったり、期待であったり、する。

その感情が生まれてくる経緯が、仔細に描かれている。
だから、いくつも思い当たる節が、ある。


カフカ本人が、地味で地道な仕事をしながら、
夜な夜な、今まで経験し、見聞きし、感じたことと、
その内省とその内省のさらなる疑念や分析を、
一つ一つ吟味して、話にしていく作業だったのではないか、
と勝手に、想像する。

それは、なかなか骨の折れる、とことん疲れる、
作業だったことだろう。
それでも、書きたいと思うところには、何があったのだろうか、
とまた、想像したり、する。


本人が、話の中の登場人物のような行動を、していたのか、
もしくは、他人がするのを見ていたのかは、分からない。
ただ、自分のしたことでさえ、
客観的に、生真面目に、別のところから
見つめている節も、見受けられる。

だから、ボールを見つめる絵を、思い描いてしまうのだろう。


カフカに関しては、ありとあらゆる読み方があるだろうし、
実在主義、ポストモダンの系譜や、フロイト的な精神分析やら、
様々な視点からの、評価と分析がなされている。

もちろん、学術的な見地から、読み解いていくのもまた、
面白いだろう、と思うが、
学が足りない。

ただ、どちらかというと、
したことや、見たことや、感じたことを、
一つ一つ思い出しては、自分で分析したり、反省したりしがちで、
でも、それらを結局、どう扱ったらいいのか
手に余っている人間には、どうも
小さく、でも本人にとっては、とても気にかかる、
他人の行動や、自分の行動や、それに伴う人の感情の克明な描写の末、
心の往き場の終焉を(時には往きつかないけれど)、
とりあえず、話にして見せてくれるということが、
意外と、慰めだったりする。


石炭も買えない貧乏人から、
高官の役人らしき人物、順風満帆な人生を送る青年、
市長に、工場員、中国の山村の男、
橋、オデュッセウス、哲学者。

様々な人物を主人公に置きながら、
社会への理不尽さも切り取っていた。
しがない労災保険を扱う事務所に勤めていたカフカ本人が、
皮肉だけで済ませようとせず、もっと内に対して、懸命な真摯さを持って、
描こうとしていた世界があることに、
本人の、戦いがあり、
野心と良心を見るような、気がする。




「徹底的なプラグマティズムに則っているんですね」
そう云われて、その単語の意味が分からず、
ふむ、と首を傾げたのは、
学者の方々と食事をしている時だった。

実際のものごとを基にのみ、重きを置く、というような
説明を受けた記憶がある。
なるほど、そうかもしれない、と、思った。

一時帰国中、仕事で見聞きしたものを、拙い言葉で必死に、
説明しようとしていた時の話だ。

あとでwikiを見てみたら、
行為、実験、経験や活動という意味の
プラグマというギリシャ語から来ているらしい。

概念や認識は、それらがあることで
出てくる客観的な結果によって、科学的に記述できる、という
主義の一つのようだ。

そもそも概念や認識は、何かがあってこそ生み出されるものだから、
目には見えない、ぼんやりとしたものを、定義づけすることで
さらにそれに、結果が生じる
という流れ自体が、なんだかよく、頭の悪い私には分からない。

とにかく、実際主義的なものなんだろう、と
哲学者が聞いたら血相を変えて怒るような、
短絡的な結論づけをしてしまった。

そもそも、なんとか主義、という言葉になった瞬間に
抽象化して、現実が伴わないから
経験から、、、、などという話そのものが、
宙に浮いてしまう、などと
一時帰国中、仮住まいのアパートメントの、お風呂の中で、
顔をしかめた。


ふと、そのお風呂に入っていた時のことを、
カフカを読んでいて、思い出す。

どうも最近、私がどんな偉大なものでも、
自分に引きつけて、
小さく矮小な、手のひらサイズにしてから
考えて、そして、吟味しているようだ。

どうにも、近視眼的で、即物的。

そして、また顔をしかめることに、なる。

学がないばかりに、勝手に自分に結びつけて、
こんな読み方をされたことを、
カフカが知ったならば、
いやいや、もっと壮大なことを描いているのに、
それが、読み取れないなんて、と
鼻であしらったり、するのだろうか。


それでも、おそらく、本人は、
それなりに、偏屈で暗かったのだろうけれど
いい人だったのだろう、と
私は勝手に、想像している。

2019/08/17

彼らの暮らしと、話の断片 8月 3週目


終戦の日を、そこはかとない違和感とともに
意識するようになったのは、
今の仕事を始めてからだった。

戦いが終わっても、その後に残される
目に見える、そして見えない変化と影響から
戦争のせいで、という、心の中の負の残滓がある限り、
本当の意味で、戦争が終わったとは、言えないのではないか。
ここ数年、毎年この日がやってくるたびに、
そうぼんやりと、思う。

近くに、その影響で暮らしを変えなくてはならなくなった
たくさんの人々がいて、
それぞれがそれぞれの背景の中で、
多かれ少なかれ、
失くしたものを嘆き、過去を恨んでいた。
前向きに未来を見る人たちも居るけれど、
だからと言って、
明るい未来や、慣れてきた新しい土地での暮らしが
戦争のあった事実を忘れさせてくれる、
なんてことはあり得ない、という
当たり前の現実の中を、彼らは生きている。


隣国では内戦、紛争、戦争、
どの表現が最も的確かは分からないけれど
そのようなものが実際に続いていて
そこから逃げてきた人たちの多くは、
戦いの何たるか、を経験し、見聞きし、体感している。

それらを私が、どこまで想像できているのか、自信がない。
けれど、少なくても、近くにあるものとして
認識せざるを得ない。

その反面、何かが私の中で、手に取るように分かる、
という経験は稀だ。
中途半端な位置にしか立てない私には、
おそらく、日本人として、
自分の国の戦争を振り返ることに、
より近くに感じられる糸口があるはずだ、
そう、うっすらと感じていた。

だから、8月15日という日は、
改めて考えるのには、いい日のはずだった。

何か考えたい時には、できるだけ、歩きたい。
だから、去年も、今年も、歩いていた。

ただ、今年に関しては、
最近の日本のニュースを少なからず気にしながら、
あの戦争をどう捉えるのか、ということが
多く語られているように見えて、
捉え方の違いから生まれる摩擦や、気持ちの通じなさ、
のようなものに、気をとられがちだった。

その結果、心塞ぐことが必ずしも、
私が知りたいことや、考えたいことの延長にはなかったので、
どうしたものか、とぼんやり、思っていた。


戦時中、中国にいて、終戦後しばらくしてから、
船に乗って日本に帰ってきた時の
祖父の話を、歩きながら
必死に思い出そうとしていた。

亡くなる年のお正月に、
突然、引揚船で海を渡った時の様子ばかりを
話そうとする祖父の異変に、
おじいちゃん、そろそろかな、と
帰りのタクシーの中で、家族の誰かがぼそっと呟いた。
もう20年近く前の話だ。

何で、こんなところで、
荒れた日本海の様子を、頭に描こうとしているのだろう、と
ふと、思う。

戦いによって生み出され、隣国に残された、
難民の人たちの住むキャンプは、
風が強くて、砂埃が遠くで、青い空の地平線近くを
茶色く染めていた。

眼の前では、走っていく小さな子どもたちがいて、
その日の朝ニュースサイトで見た、
戦後の町の様子を写した写真の、裸足の子どもと重なる。
綺麗とはお世辞にも言えない服を着て、
素足のまま、段ボールを引いていく
3、4歳の子どもたちのグループ。

私が目に映るものから分かり得ること、は
いつでも、子どもは遊び方を知っている、ということ
それから、戦いには終わりがあるかもしれないが、
この暮らしを続けなくてはならない人たちが、
現実として存在している、ということ、
この子たちが、どんな大人になるかは分からないけれど、
彼らの成長に、戦いの影響がない、など
おそらく、あり得ない、ということだった。

もちろん、そこからの成長に、明るい望みはある。
でも、もしも、あんなことさえなかったならば
ここに住まなくても良かった、という
不毛な仮定が、久々に頭をもたげる。

しなくてはならない仕事を終え、
ずっと、伺う約束をしていたお宅へ、
新年の挨拶をしに行く。


ザアタリ難民キャンプ District 8


道を一本間違えて、どっちだったか、と
十字路で立ち尽くしていたら、
小さな女の子が駆けてきた。

おうちに来てコーヒー飲んでいって、と言いながら
指差した先には、軒先に座るお母さんが居た。

行きたいおうちがあって、迷ってるのよ、と言うと、
急に関心がなくなってしまったのか、
そうなんだ、と言って、女の子は家へ駈けもどる。
でも、お母さんはにこやかに、こちらへ手を振っていた。


写真に収まった家の近辺をよく、記憶していた。
あの時は寒かった。

砂埃がひどいから、と扉をしっかり閉めた部屋の中は、
思ったよりも、涼しかった。
ソーラーパネルで扇風機が回っていたし、
コンクリート敷きの広い土間は、冷たい。

子どもたちはみんな、家の中にいたけれど、
奥さんがいなかった。
もう少しで帰ってくるから、と言うので、
どこに行っているのか尋ねる。
来月子どもがまた生まれるから、
検診で病院に行っている、とのことだった。

しばらくして、病院から戻ってきた奥さんは
うっすら顔に汗をかいていた。

一番下の子は、最後に見た時にはまだ、
赤ちゃんだった。
立ち歩いて、上の兄弟からぬいぐるみを奪い取ったり、
駄々っ子ぷりを発揮する様子は、
すっかり子どもだ。

とにかく、長女がよく、面倒を見ていた。
そろそろ眠たくなる時間なのか、
むずがり始めると、
床に足を伸ばし、その上にクッションを置くと、
末っ子を寝かせて、ゆりかごのように
体を揺らす。

まだ線の細い長女の足では、安定感がないのだろう、
結局、うまく寝付いてくれなかった。

土間は広い。
そこで、双子のような次女と三女は
何がおかしいのか、ずっとキュッキュと笑いながら
ぐるぐる回り続けていた。
よく目が回らないな、と感心して呆れるほど、
回り続けていた。

長男は、突然の客にどうしようか、少し戸惑っていた。
でも、サイコロゲームや勉強のノートとか、
家長であるお父さんに言われるがまま、見せられるものは全部、
見せてくれる。


実は、他の家にも行く予定があった。
だから、挨拶だけして、帰るつもりだった。

なのに、家長からの質問は、
「朝食を食べてから、昼食を食べるか、
昼食だけ食べるか」と言う選択肢だった。

事情を話しても受け入れてもらえず、
紅茶が出てきて、水タバコまで準備され、
シリアのご両親が人づてに送ってくれた、という
美味しいクッキーを出してくれる。

知らないうちに、鶏が丸々2羽、解体されていた。

腹をくくるには、理由が必要だった。
前回来た時に、美味しくてたくさんいただいた、
カプセの作り方を教えてもらうことにした。
鶏の出汁で炊いたご飯の上に、
スパイスの美味しい、柔らかな鶏が乗っている食べ物。

ここの家のカプセの鶏の味は、他にはない何かが、使われていた。
それを教えてもらうには、いいチャンスだった。

土間の先に小さく区切られた、台所に入れてもらう。

もともとは、小学校低学年の担任の先生だった、という奥さんは、
私の拙いアラビア語を、上手によく、理解してくれた。
なんだかとても、安心できる人だ。

狭くて、ガスを使えば一気に暑くなる狭い台所は、
でも、とてもきれいに整頓されていた。
壁に取り付けられた棚、その下のスペースには
大きさの順番に重ねられた鍋、同じサイズのデーツのパック。
スパイスの入った大きなかご、油類は、
カーテンの奥に整然と、並べられていた。
棚の食器も、同じ食器を2段で交互に置き、
コップも列乱すことなく、
お店のディスプレーのように、並べられていた。
砂塵のせいで一瞬でザラザラになるはずの建物の中なのに、
どこにも砂はない。

使った食器やボールやまな板や包丁を
すぐ、丹念に洗っていた。
白くてふっくらとした、奥さんの手も、
その度に、泡だらけになる。

お腹が大きいので、水場に立つたびに、
お腹が水に濡れてしまう。
それでも、一生懸命、洗い続けていた。

手伝わせてくれないので、ただただ、
その無駄のない所作と、
手際よく鍋に入れられていく鶏やタマネギや
スパイスの数々を
大事な儀式でも見るように、ただ眺めていた。

土間は、セメントを敷いてツルツルになっている。
でも、そのセメントは、
ところどころ亀裂が入っていて、
それをまた、埋めていた。
埋めた部分もまた、ツルツルになっていて、
模様のようだった。

5、6年の間に、何度修繕したのだろう。

調理をしている奥さんの周りには、
私も台所に入ってしまったせいで、気になったのか
子どもたちが入れ替わり立ち代り、やってくる。

ガスを使い始める頃には、
一番下の子は立ち入り禁止にするのだけれど、
そんなのおかまいなしに、入ってきては外に出される。

名前を呼ばれて、末っ子を引き取りにやってくる長女、
ついでにやってきて、結局邪魔をしている次女と三女、
そして、粛々と進んでいく調理。

ふと、土間に目をやると、
砂がひどいから、と家長が箒で掃除をする。
末っ子が落としたクッキーのかけらも
掃除をする。

ツルツルの床はもっと、ツルツルになる。

仮住まいのはずの、プレハブの家を、
手間をかけて丁寧に、使っていた。
生活に必要なもの、そして、
生活を彩るものを、大事に使い、直す。
その繰り返しがなされた時間のうちに、愛着が湧いてくる。
そんな愛着が、清潔に保たれた、
薄暗い土間、台所、お手洗い、居間に、溢れていた。

食事をいただく頃、
末っ子はお昼寝を始める。
長女はお母さんの真似をしていたのだ、と分かる。
お母さんの足の上では、揺らし始めて2分もかからず、
あっという間に、眠りに落ちてしまった。
眠ってしまったら、動かしても起きない子だった。




カプセは、前回同様、美味しかった。

まだ小さい子どもたちは、そんなにたくさんは食べられない。
ヨーグルトやサラダを混ぜて、食べやすくした
皿をちょっとずつ、つついていた次女は
家長に叱られる。

たっぷりいただいて、お腹がいっぱいになった頃には、もう
お暇しなくては、ならない時間だった。

子どもたち一人一人に挨拶をして、
急ぎ足で、家を後にする。

車に乗ったところで、
無事出産できますように、と言うのを
忘れてしまったことに気づく。



埃は相変わらずひどくて、
どこかから結婚式のパーティーの音楽が
強い風と埃に乗って、どこかから流れてくる。

家の中の、静かで清潔で落ち着いた空間と、
外の砂埃と強い日差しのギャップに、頭が真っ白になる。

あの静かな空間が、
薄茶色に染まった、プレハブの一つ一つの中に存在する、
それは、静謐な秘密のように、思えてくる。


でも、いくつか伺ったキャンプの家の中には、
外見と同じぐらい、荒れ果てた家も、あった。
そのご家族は、家への愛着が抱けない、
心のあり様だったのかも、しれない。
ただ、家だけではなく、自分の子どもたちに対しても、
同様に、愛情が抱けなくなっている、家庭だった。
服が床の脇に散らばり、タバコの灰が舞い、
どこかの派閥の柄の入った細い襟巻きが、
だらりと、壁にひっかけられていた。

仮住まいでも、暮らしを少しでもよくしよう、
そう思えることそのものが、
実はとても、本来は困難なことのはずだ。

丁寧に洗ったり、並べたり、直したりする行為は、
何かを払拭しようとする、
もしくは、崩れかけた何かを、必死に元に戻そうとする
行為なのかもしれない。

おそらく、戦後間もない頃、
家や、それまで大切にしてきた物事を失った人々にも、
そんな行為を繰り返しがあり、
今の、日本の暮らしがある。

トタンを継ぎはぎしたバラック小屋の写真を、思い出す。
私にはまだ、その頃の詳細な暮らしの築き方に
想像の種が、足りない。

2019/08/09

彼らの暮らしと、話の断片 8月2週目


ヨルダンの夏休みは長い。
6月2週目あたりから、8月いっぱいまでお休み。
その間、キャンプではサマーアクティビティをしていた。
昨日が最終日で、発表会をする。

こじんまりとしていたけれど、
男の子たちが行儀よく椅子に座れないのも、日差しが強いのも、
女の子たちがよく手伝ってくれたのも、毎年通り。

今年も開けたことが、ありがたい。

オープンデーのために手伝いに来てくれていた、
キャンプの元同僚のお宅へ、帰りに少し、寄らせてもらう。



1件目:ザアタリキャンプ District 2


過去にも二度ほど伺ったことがあったけれど、
2年前に生まれた子に会ったことがない、ということは
2年以上、伺っていなかったことに、なる。


お宅へ入ると、スタッフのお母さんと
スタッフの奥さんのお母さんがいた。
小さな家族だから、毎日こうやって集まっているんだ、と。
確かにキャンプには、かなり大きな家族もいる。
一族郎党、という言葉が似合うような、巨大なファミリー。

でも、そういう家族に比べると、
2,3世帯しかない、彼の家は小さい。

いつも、彼はこちらの仕事のことを気遣ってくれる。
家族みたいなものだから、いつでも困ったら声をかけてくれ、
と言ってくれる。
そういうことを言ってくれる人は他にもいるけれど、
長く一緒に働いてくれていた彼の言葉は、
もっと重く、温かく感じられる。

彼が違う仕事を始める決心をした時、
残って欲しかった私は、恨めしそうに、
どうして転職したいのか、尋ねた。

キャンプの中でも、新しい能力や技術を学べる場があるのならば、
チャレンジしていきたい。
状況や環境はどうであれ、
自分を進歩させていかないとな、と思って。

そう話した彼を、私は心から尊敬している。

昔、ダマスカスで日本紹介の展覧会のようなものが、あったそうだ。
そこへまだ、小さかった彼を、ご家族が連れて行った。
日本人に顔が似ていてねぇ、と
おばあさんが面白そうに話す。
会場の椅子に座らせたら、日本の子みたいだった、と。

今はすっかり髭も濃くなって、キャンプの暮らしに肌の焼けた彼から、
いまいち上手く想像できないのが、顔に出てしまったのだろう。
子どもの頃の写真やら、過去の証明書の類を、
持ってきて見せてくれる。

確かに、小さな頃の彼の顔は、
髪の色も顔の彫りも薄くて、真面目さが際立った、神妙な顔をしていた。

娘さんは二人とも、奥さんに似ている。
色が薄い奥さんに似て、良かったねぇ、などと
おばあさんたちは二人で、ニヤニヤしていた。

日本の奨学制度の話を聞いたんだけど、あれは行けるのかな、と
彼は尋ねてくる。
学位的には問題ないが、英語が必須なので、
まず英語を勉強してから、日本語も勉強しないといけない、と
説明をする。

そうかぁ、じゃあまずは英語なんだな、と
くしゃっと笑いながら言う。
彼のお姉さんは、カナダに第三国定住で移っている。
あと1年したら、カナダ国籍が取れるんだ、と
嬉しそうに話していた。

彼女が発ってから、もうそんなに時間が過ぎていたのか、と
思う。

私たちが話をしている脇で、
すっかりお姉さんになっているかと思いきや、
家の中でだけお転婆の感が出てきた、娘さんが
お皿のケーキを食べようとしたり、
遠くにあるジュースを取ろうとして、
行儀が悪いと、叱られる。
2歳の下の子は、携帯電話をいじっていて
それを上の子に取られて、半泣きになる。

久々にカメラを持ってきていたので、
写真を撮っていいか尋ねると、娘さんは
決めのポーズをいくつか、披露してくれた。


キャンプのキャラバンは、どこの家庭に伺っても
窓が小さくて、日中でも薄暗い。
最近では、ソーラーパネルやジェネレーターを持っている家もあるけれど、
最低限しか使わないから、
日中に部屋の明かりをつける家は少ない。

あとで確認してみたら、ブレている写真が多かった。





外は、白っぽい砂に反射して、空のほかは
どこも、明るすぎる。
いつも、キャラバンから出るたびに、
目がくらくらする。

家のある通りを、いい加減覚えたくて、
目抜き通りからどこを曲がればいいのか、
写真を撮っておく。
ウェディングドレスのお店が、路地の向かいにあった。
あの店の名前はなんて意味なの?と訊くと、
天国にある、花の溢れた美しい場所だ、と
教えてくれる。

今週末には、若いスタッフの婚約式もある。

花に溢れた、美しい場所は、
キャンプの中のどこにも、存在しない。

砂にまみれた看板とは異なり、
ウェディングドレスのお店の窓ガラスは
内側はきちんと掃除されていて、
赤、ピンク、黄色と、花のように鮮やかな色彩が
暗い店内で、着られるのを、待っている。

まだ小さな娘さんも、いつかあんなドレスを
着る日がやってくるだろう。

その時、彼女はどこにいるのだろう。




2019/07/19

犬と狂気


キャンプにちらほら、子犬が歩き始める。
子犬がぶらぶらしているのを見ると、
面倒を見たくなる、悪い癖を
一生懸命、自粛する、今日この頃。
子どもたちがいじめるので、
子犬の多くは、近づくと逃げていく。
大人な犬たちしか、画角に収まってくれない。





いしいしんじの、「ルル」という話。

久々に、途方もなくいい短編だと思った、一番の理由は、
犬を介して、心に傷を負った子どもたちが、
癒されていくその、とても抽象的で、言葉にはしずらい過程を、
見事に、描いていたからだった。
誰でも想像に難しくない、おばさんの愛情を
犬は思い出しながら、もらった愛情を、
夜な夜な子どもたちに、送り続ける。

でも、もう一つとても、いしいしんじらしくて、
どうにも素敵だと思ったのは、
その犬が、実はエアー犬だったのではないか、という
話の流れだ。

エアー犬の姿形、日々の様子は、
子どもたちによって、申し送りされる。
子どもたちの想像力が、犬を創り出す。

心身ともに、疲れ切って追い込まれた子どもたちが
生み出した幻想。
でも、時として、想像力は、現実にまさる力が、ある。




うちの向かいの部屋には、犬が2匹いる。
全力で尻尾を振り、全力で顔を舐めてくる
すこぶる愛想のいい、犬たちだ。

夏の間は、こちらがベランダにいると、
玄関がベランダだから、犬たちはご機嫌でやってくる。

他人の犬で遊べる特典付きの、家だ。


一度だけ、犬を買ったことがある。
子犬のラブラドールレトリバーは、
我が家にやってきてもずっと、お腹を下していて、
結局ブリーダーに返さなくてはならなくなった。
もう20年以上前の話。

今でも時々、
改築前の実家の廊下の奥で、
具合が悪そうにうずくまるあの犬の姿を
ふと思い出すことが、ある。

子犬も育てたし、可愛がっていた野良犬もいた。

ダニエルさん、という野良犬は、
私の車の助手席に乗るのが上手だった。
その頃乗っていた、ジムニーの助手席のドアを開けると、
当然のように、ひょいっと、乗ってきた。
ダニエルさん似の野良犬が、大量に居たところを見るに、
ぶいぶい言わせていたようだった。

ダニエルさんには、野良猫を追い立てるという、
悪趣味があった。
老いて具合が悪くなった冬、
いつもからかっていた猫たちに、たるんだ尻を噛まれていた。
元気が良かった頃、猫を追いかけ回すたびに、
捕まえて叱っていたけれど、
尻を噛まれても逃げることしかできない、
その様子が、あまりにも不憫だった。

その年のお正月を、4畳半の部屋で一緒に過ごしたけれど、
部屋を出ていく後ろ姿が、
ダニエルさんを見た、最後だった。

ぷりぷりの犬のお尻を見ると、いいことがある。

気分の問題かもしれないけれど、いい気分になるし、
実際いいことが、あったりする。

では、いいお尻の犬が、欲しいではないか。

でも、当然のことながら、
今の暮らしでは、犬も猫も、飼えない。
近い未来でさえ、決定できない、意志の弱い私は、
動物が自分の将来の身の振りを決めることに、
不安が先行してしまう。

エアー犬か、と、ふと、思う。

そこには、狂気の沙汰がある、とも言えるけれど、
もともと、想像力を持って生まれるのが人間だけならば、
その能力が備わっている時点で、
狂気と現実は、隣り合わせだ。

エアー犬を想像してみる。
でも、詳細が描ききれないことを知り、
まだまだ、究極的に追い詰められていないことに
ほっと胸をなでおろしたり、する。




手には入れられないけれど、
好きだったり気になったりするものがあると、
ずっとそれを、描く癖がある。
靴とか、猫とか、ロバとか。
だから、犬を描いてみる。
猫は骨格までよく、想像できるけれど、
犬はそうでもない、ということも、知る。

たぶん、しばらく犬の絵を、描き続けるのだと、思う。