2019/09/06

カフカと、手のひらのボール




カフカを手にしたのは、軽く20年以上ぶりだった。

一通り、過去の文豪で気に入った人は、
小作品まで全部読む癖があったのに、
なぜ、カフカをあまり読み込まなかったのか、
理由はあまり、思い出せない。

カフカよりも、と書くのも間違っているけれど、
昔は、安部公房をよく読んでいた。

カフカの代表作と短編のいくつかを読んですぐに、
Sカルマ氏の犯罪に戻ってしまったりしていた。
おそらくその頃は、非日常的な世界がどこまでも続く
奇怪な、ある意味形而上学的な、
でも、どこかで人の本質を突く話が、面白かったのだろう。

今でも、小説には、できれば目の前の
様々な問題を、一時的にでも忘れさせてくれて、
でも、新たな視点を知らしめてくれるもので、
あって欲しいと、願う気持ちは、ある。

現実には、私の手には追えない問題が、
山積みになっているから。



久々にカフカを読んでみる。
それから、なんだか、とても気に入る。
ただ、その楽しみ方が、いつもの小説のそれ、とは
異なっていることに、気づく。



短編集と寓話集しか手元にないので、
余計に、一つ一つの話のなかに、
カフカの凝縮された世界が、ある。


読み終わるたびに、同じ絵が浮かんだ。
手のひらに、日常の細やかな感情の、一つ一つが
ソフトボールよりも少し大きめの、
中途半端に柔らかい塊になって、
乗っかっている。
すぐ溢れて、ぽろぽろと落ちていくのを必死に、
指を広げて落ちまいと、する。

そして、それらをじっと、見つめているカフカ本人なのか、
私なのか、が、いる。

ボールの形状のものは、
猜疑心であったり、良心であったり、憐れみであったり、
疑念であったり、正義であったり、
怒りであったり、期待であったり、する。

その感情が生まれてくる経緯が、仔細に描かれている。
だから、いくつも思い当たる節が、ある。


カフカ本人が、地味で地道な仕事をしながら、
夜な夜な、今まで経験し、見聞きし、感じたことと、
その内省とその内省のさらなる疑念や分析を、
一つ一つ吟味して、話にしていく作業だったのではないか、
と勝手に、想像する。

それは、なかなか骨の折れる、とことん疲れる、
作業だったことだろう。
それでも、書きたいと思うところには、何があったのだろうか、
とまた、想像したり、する。


本人が、話の中の登場人物のような行動を、していたのか、
もしくは、他人がするのを見ていたのかは、分からない。
ただ、自分のしたことでさえ、
客観的に、生真面目に、別のところから
見つめている節も、見受けられる。

だから、ボールを見つめる絵を、思い描いてしまうのだろう。


カフカに関しては、ありとあらゆる読み方があるだろうし、
実在主義、ポストモダンの系譜や、フロイト的な精神分析やら、
様々な視点からの、評価と分析がなされている。

もちろん、学術的な見地から、読み解いていくのもまた、
面白いだろう、と思うが、
学が足りない。

ただ、どちらかというと、
したことや、見たことや、感じたことを、
一つ一つ思い出しては、自分で分析したり、反省したりしがちで、
でも、それらを結局、どう扱ったらいいのか
手に余っている人間には、どうも
小さく、でも本人にとっては、とても気にかかる、
他人の行動や、自分の行動や、それに伴う人の感情の克明な描写の末、
心の往き場の終焉を(時には往きつかないけれど)、
とりあえず、話にして見せてくれるということが、
意外と、慰めだったりする。


石炭も買えない貧乏人から、
高官の役人らしき人物、順風満帆な人生を送る青年、
市長に、工場員、中国の山村の男、
橋、オデュッセウス、哲学者。

様々な人物を主人公に置きながら、
社会への理不尽さも切り取っていた。
しがない労災保険を扱う事務所に勤めていたカフカ本人が、
皮肉だけで済ませようとせず、もっと内に対して、懸命な真摯さを持って、
描こうとしていた世界があることに、
本人の、戦いがあり、
野心と良心を見るような、気がする。




「徹底的なプラグマティズムに則っているんですね」
そう云われて、その単語の意味が分からず、
ふむ、と首を傾げたのは、
学者の方々と食事をしている時だった。

実際のものごとを基にのみ、重きを置く、というような
説明を受けた記憶がある。
なるほど、そうかもしれない、と、思った。

一時帰国中、仕事で見聞きしたものを、拙い言葉で必死に、
説明しようとしていた時の話だ。

あとでwikiを見てみたら、
行為、実験、経験や活動という意味の
プラグマというギリシャ語から来ているらしい。

概念や認識は、それらがあることで
出てくる客観的な結果によって、科学的に記述できる、という
主義の一つのようだ。

そもそも概念や認識は、何かがあってこそ生み出されるものだから、
目には見えない、ぼんやりとしたものを、定義づけすることで
さらにそれに、結果が生じる
という流れ自体が、なんだかよく、頭の悪い私には分からない。

とにかく、実際主義的なものなんだろう、と
哲学者が聞いたら血相を変えて怒るような、
短絡的な結論づけをしてしまった。

そもそも、なんとか主義、という言葉になった瞬間に
抽象化して、現実が伴わないから
経験から、、、、などという話そのものが、
宙に浮いてしまう、などと
一時帰国中、仮住まいのアパートメントの、お風呂の中で、
顔をしかめた。


ふと、そのお風呂に入っていた時のことを、
カフカを読んでいて、思い出す。

どうも最近、私がどんな偉大なものでも、
自分に引きつけて、
小さく矮小な、手のひらサイズにしてから
考えて、そして、吟味しているようだ。

どうにも、近視眼的で、即物的。

そして、また顔をしかめることに、なる。

学がないばかりに、勝手に自分に結びつけて、
こんな読み方をされたことを、
カフカが知ったならば、
いやいや、もっと壮大なことを描いているのに、
それが、読み取れないなんて、と
鼻であしらったり、するのだろうか。


それでも、おそらく、本人は、
それなりに、偏屈で暗かったのだろうけれど
いい人だったのだろう、と
私は勝手に、想像している。

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