仕事の予算の関係で、なかなかフィールドに往けない。
久しぶりに子どもの顔がみたくなって
知り合いの家庭訪問に一緒についていった。
シリアに帰る、というメッセージを受け取った
この家庭をよく知っている人からのお願いで、
どんな事情なのかを訊いてきてほしい、と頼まれたのが、
家庭訪問の理由だった。
イード中に荷物を届けに往ったシリア人家庭も、
日本でお邪魔した留学生のシリア人家庭も、
この日訪問したシリア人家庭も、
苦悩の原因は同じだった。
先が見えない、保障してもらえることが、何もない。
随分来ていなかったお宅だった。
相変わらず青くて澄んだ空と
アンマンの中心部を遠景で見渡せる
丘の上のおうちに、お邪魔する。
マルカ・ジャヌビーエ
建物の入り口まで迎えにきてくれたお父さんの顔を見て
正直、言葉を失う。
ほぼ同い年のお父さんの表情は
最後に会った時よりも、よほど疲れていた。
遺伝だから他の兄弟もみんなすぐ白くなってしまうんだ、
と前回来た時に云っていた、
白髪の量も以前にまして、増えていた。
部屋に入って子どもたちの様子を見る。
大人が3人来たからか、どこか表情が固めだった。
本題から先に入った方がいい、と判断して
一通り挨拶を終えると、すぐに
生活の様子と、なぜシリアに帰りたいのか、という話題を振る。
それまでいなかったお母さんが
自宅用のてるてる坊主のようなかぶり物をして出てくると
そのくりくりした大きな目を見て、
やっと少し、どこか安心する。
ありとあらゆる支援団体に登録した。
でも、どこからもその後、連絡が来ない。
UNHCRの虹彩認証を待っているのだけれど
何度電話をしても、待っててと、云われる。
腰に痛みがあって、長い立ち仕事はできない。
病院の医療費も値上がりして、
治療も十分にできない。
違うシリア人のお宅にお邪魔したときも
UNHCRについて、似たような話を耳にした。
その家族の場合、引っ越しをして街が変わったから
その時に登録し直した手続きがうまくいっていないのではないか、
そう、家族は信じていた。
でも、実際のところは、
UNHCRの支援対象となるほど、暮らしが緊迫していない、
そう判断されたと、考える方が妥当だ。
どちらの家族も、はっきり
「お宅の家族は支援のレベルではないので、支援はありません」
と云われていなかった。
もしくは、云われていたとしても、
理解しようとしていないのかも、しれない。
だから、彼らはいつ、電話がかかってくるかと、
首を長くして待っているのだった。
家族と通訳の間で、アラビア語の会話が始まる。
その横で、一番下の男の子が、
持ってきたマリオネット、ハビーブの袋を見つけて、
袋の紐をいじっていた。
この中に何があるか覚えてる?と訊いてみる。
マリオネットのクマが居るよ、と答えてくる。
初めてこの家庭に来た時、子どもさんがいる、と聞いて、
ハビーブを連れて行ったことを、子どもたちはよく、覚えていた。
大人たちの会話は果てしがないから
子どもたちと遊ぶことにする。
少しずつハビーブのことを思い出し、
少しずつこちらにも慣れてくる。
家にあるクマのぬいぐるみは、全部で5個あった。
全部ソファの前に並べてくれる。
北極グマが2匹、パジャマ姿のクマが2匹、小さな小さなクマがひとつ。
たくさんの兄弟がいて、寂しくないね、というと
ハビーブはひとりなの?と訊かれる。
兄弟3人全員が遊んでいるのかと思っていたのに
ふと、長男を見ると、
少し離れたところから、大人たちの円陣を見つめ、
大人たちの会話をじっと、聞いていた。
一番上は8歳で、コーランもしっかり勉強している、賢い子だ。
大人の会話の何かしらを、理解している、もしくは、感じている。
恥ずかしがり屋のまん中の子がやっと、
ハビーブを踊らせてみるところまで慣れてきたところで
大人たちの会話に戻る。
やっとお父さんの表情も、いくらか柔んでいた。
でも、ずっとずっと、お金の話をしていた。
病院にかかる費用がいくら値上がりしたのか、
薬をどこでいくらで買ったのか、
他の地域の家賃はいくらが相場なのか、
病院までのタクシー代はいくらかかるのか、
幼稚園の月謝はいくらなのか。
本当にずっと、お金の話をしていた。
前回来た時には、ない話題だった。
もっとも前回は、子どもたちに会いにきたので、
そういう会話をするきっかけがなかっただけなのだけれど、
イード中に往ったお宅もそうだった。
お金の話ばかりだった。
どの家庭もお金がなくて、困っていた。
だから、この家も、シリアに帰る、と云いだしている。
意地悪だけれど、こころのどこかで、
ヨルダン人みたいだ、と思った。
彼らも常に、お金の話ばかりしているから。
そうやって、移り住んだ国の国民性に、
難民も移民も、似てくるのだろうか。
教育支援をしている、という話をすると
教育事情の話になる。
以前は幼稚園に往く学費を支援金で支払えていたけれど
支援金がなくなって、一番下の子を幼稚園に通わせることができない。
小学校の方はまずまずだけど、
学校のスペースがなくて、
上の兄弟はそれぞれ、シングルシフトとダブルシフトの
違う学校に往っている。
それでもまだ、交通費がいらない距離に住んでいるだけ、ましだ、と
また、心の中でどこか、安堵する。
結局のところ、話をまとめると、
子どもの教育が十分にしてやれないこと、
お父さんの体力や体調に合った就労の機会がないこと、
支援団体が急になくなってしまったこと、
これらの理由で、ヨルダンでの暮らしの限界を
感じ始めているようだった。
だからといって、シリアにもどってアテがきちんとあるわけではない。
出身地のホムスにはもう、親族は住んでいない。
アレッポの田舎に居るという。
連絡は取れているけれど、
そちらの生活だって、かなり厳しい。
シリアに戻ったら学校に子どもたちは往けるの?
そう尋ねると、
学校がどうなってるかは、わからないよ、
という返事が返ってくる。
帰っても軍で働かされるかもしれないし、
その時に家族への扶助はないだろう、と云う。
じゃあ、帰ったって、今よりよくなるか分からないじゃない。
そう云いたいけれど、
そう口にして、止める権利はない。
ただ、何もかもが不透明で、
何もかもに明確な希望が持てないのは、
ヨルダンに居てもシリアに居ても、
彼らにとって、変わらない。
支援をお願いされる。
日本人がひとり2ドルずつお金を寄付してくれれば
それでしばらく、きっと生活ができる。
そういうプロジェクトをしてくれないか?
この瞬間が一番つらい。
だから、家庭訪問には明確な理由が欲しい。
そうでないと、お金をくれる人がやってきた、と
彼らは勘違いするからだ。
そのお願いを、断る。
お金の支援は、私はできない。
その他にできることがあれば、すると。
結局、お金がすべてだからね。
そう、云われる。
この家族も通訳もいい人たちだから、あからさまに呆れたりはしない。
でも、きっと、この人間はアテにならない、と
判断されただろう。
現金の支援はきりがない。
すぐ使ってしまって、なくなるとまた、連絡が来る。
そうやって、次第に善意で助けようとしている人たちが遠ざかっていくことに、
彼らは気づかない。
体調に無理のない仕事が、家の近くで見つかるのが、最善の道だ。
だけれど、この地域に全く明るくない私には
それを探す伝手はない。
帰りに玄関の近くにある、
植物の説明をしてくれる。
お腹が痛くなった時に飲むと効く、レモンの香りのする葉っぱ。
実のなる木。
子どもたちが、屋上からジャスミンの花を摘んで
手に乗せてくれる。
ヤスミーン・シャーミーエ(ダマスカス・ジャスミン)だ。
今の季節には、どこの庭先でも
蔓を伸ばして、小さな花が、甘い香りをいっぱいに漂わせている。
どれぐらい真剣に、彼らはシリアに帰ることを考えていると思う?
そう、帰りのタクシーを待つ間に、通訳の女性に訊いてみる。
そんなの、分からないわ。
いつ、戻るか、戻れるのか、誰にも分からない。
私の質問は、そういう意図ではなかった。
おそらく、それは彼女の返答だ。
そして、それは同時に、多くの私の知らないシリア人の、
正直で切実な、返答のように、思える。
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