乗り物に乗れる機会が、最近あまりなかった。
旅が苦手なせいか、休みが続けて取れないせいか、
長距離の移動をすることもなかった。
日常的に歩くことも少ないので、
歩きながら考える、という
そう云えば大事だったことも、久しくできていない。
これはヨルダンの道の作りのせいなのだけれど、
そもそも、どこかへ往くことも、あまりなかった。
奇しくも、仕事の予算のせいで、最近バスによく、乗る。
合計、うまく乗り継げても2時間ほどかかる道のりを
バスやらセルビスやらを乗り継いで、サイトへ出かけなくてはならなくなった。
バスの思い出で一番鮮明なのは、大学に入ったばかりの6月の移動だった。
祖父が亡くなったという連絡を受けての帰郷だった。
学生でお金もないので、東京から実家近くの街まで、
バスで帰った。
東京から横浜までの小さい、大きい、建物ばかりの景色から
小田原から熱海にかけてのトンネルと、一瞬見える、海。
富士山を拝みながら、開けた平野と大きな川を越え、
見事に剪定された茶畑の濃い緑、みかん畑の中を抜けて、
また住宅が増えてくると、下車が近づく。
祖父についての記憶を辿りながら、
過ぎ去る景色をただ、一つも見逃すまい、と
バカみたいに真剣に窓の外を見ていた。
たまたまその時によく聴いていた、ショパンのピアノコンチェルトは
繊細だけれど潔い、甘くなりすぎることのない、ピリスの演奏だった。
大きなCDウォークマンを膝に載せて、聴く。
CDが終わってもまだ、ずっと頭の中を旋律が徒に駆巡るので
結局何度も、繰り返して聴くことになった。
その頃は常にノートを持ち歩いていたので、
思うことや感じることを、よく、ノートに書いた。
その後、ショパンのピアノコンチェルトを聴くと、反射的に、
日本平の穏やかな白っぽい海と、三ヶ日あたりの鮮やかな緑を
思い出すこととなった。
移動する時に音楽を聴くと、
まるで映画の1シーンのように、
目に映る景色が違って見えてくることがある。
その時の気持ちに合わせて、
その時の景色に合う音楽を選ぶ。
乗り物に乗る時の、楽しみでもある。
1人の移動には、欠かせない。
ヨルダンに住み始めた初めの2年、
毎朝10分ぐらいだけだけれど、バスに乗って出勤していた。
朝早い時間のバスの中では、コーランが流れていることが多くて、
坂道を転げ落ちるように下るその道のりでコーランを聞けると、
きっと、事故はないだろう、と妙に安心した。
今でもコーランが流れている時には、音楽は聴かないようにしている。
今月の頭、仕事でとてつもなく憔悴して帰った日があった。
その美しさを愛でるより他に、できることがなくて
進行方向に沈む夕日を見続けていた。
辺りは一面の土漠で、どこにも緑なんてない。
満員のバスは人いきれで暑いような、でも
空調のせいか冷たい風が頭をかするから、寒いような、
頭と同じぐらい感覚も混乱していて、
唇が乾燥していくのを、そういうものとして、感じながら、
ただただ、放心していた。
その時は、新世界を聴いていたけれど、
その音楽の壮大さと、自分の頭の中の混乱は、どうにも釣り合いが取れなくて
ただ、できるだけ違う何かへ意識を向けさせるためのものでしかなかった。
音楽と、景色と、心持ちがうまく合う瞬間があるバスの移動は、
つらつらとものを考えるのに、とてもいい。
どのみちそこで浮かんでくる考えに、
大したものなどないのだけれど、
どこか、大事な時間のように、思える。
今の移動時間では、まだ物足りない。
目的と手段が逆になってしまう滑稽さを持っても、
ただ考えるためだけに、ずっと長距離バスに乗っていたい。
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