城を見る、というのは、どうも
生まれた時からの習性のようだ。
私の今のアパートメントからアンマン城までの距離と
実家から山城までの距離が、直線でちょうど同じぐらいだ。
実家の台所から西に見える山城は
夕日をバックに黒い輪郭を描いていた。
そして、アンマンのアパートメントから南東に見えるアンマン城は、
遠い夕日に色が黄色く、赤く、染まる。
冬になるとなぜか、アンマン城に往きたくなる。
小春日和にはもう遅い、初冬のアンマンで
穏やかな冬の、傾いた日射しを享受するには
アンマン城が一番、いい。
残念ながら、緩やかな坂道ばかりの山城への道のりと
丘を下って登る、アンマン城への道のりでは
疲労具合が違う。
それでも、自分の足で下って登る、というのは
決まり事になっている。
最近疲れきっているせいか、足が重い。
だから、ダウンタウンの入り口の、墓場の横の階段が何だか、長い。
うつむく青年、詩のタイトルを思い出す。
でも、城壁が見えてくると、足取りが軽くなる。
入り口への最後のスロープの手前の、いつもの店で濃いコーヒーを買って
鬱陶しいガイドを適当にあしらって
西の端っこへ、往く。
初めてアンマン城に来た時から
ここで休む、と決めている場所がある。
奇しくも、その後アンマン城好きが高じたせいで
その場所から自分のフラットがよく、見える。
遺跡の残骸の、石の壁に、すぽっと身体を納めて
夕日が落ちていくのを、鳩が旋回するのを、見る。
旋回の角度と道筋を決める群れの一羽が、
随分と大回りをしながら、随分と気持ち良さそうに先頭を飛ぶ。
何もない、ということを色にした、
どこまでも澄んだ、濃い青い空を
小さな鳩の姿が粒になって突っ切っていく。
私も、あの、何にもない空間に、身を置いてみたくなる。
もしくは、
あそこを立方体に切り取って、ずっと心のどこかに取っておきたい。
そして、ずっと、いつまでも、宝石みたいに、眺めていたい。
空を見ると、身体が少し、伸びる。
そして、肩こりにちょうどいい。
でも、首周りがすっと寒くなって、またきゅっと首をすくめる。
亀みたいだ、と思う。
頭も空みたいに真空にしたい時には、馴染んだ曲を聴くのが、いい。
金太郎あめみたいだ、と村上春樹が評した
内田光子のシューベルトの21番を
最後まで、夕日をみながら集中して、聴く。
日が落ちると、急に寒くなる。
そして、家に帰らなくては、と思う。
帰りに人に溢れたダウンタウンを歩きながら
また、Water Water Camelを聴く。
「あなたは ずっとちいさな にんげんだったのよ
うつわじゃなかったの でも なんだっていうの」
知らない人ばかりの道なのに、
1人で、でも、親密な空気の中に居るような、気分になる。
「よろこびは しょくたくに かなしみはといれに」
お伊勢参りの帰りに買う生姜糖みたいに、
アンマン城からの下るとあるダウンタウンのお菓子屋さんで
オスマンリーエを、買う。
暖かい家履きのスリッパが必要だ、とか、思いつき
あやしい古着屋さんでスリッパを買う。
買ったあとで、そう云えば前も買ったんだった、と思い出す。
たぶん、何度も何度も、似たようなことを毎年、している。
アンマン城参りは、私にとって、
儀式のようなものなのだろう。
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