2016/07/27

続・夜中の楽しみ もしくは、妄想


月の満ち欠けが、東と北東に面したふたつの窓から、
毎晩、きちんと確認できる。



もう半月も過ぎた、上がりかけの月は、
あまりに黄色くて、なんだかどこか、おいしそうで、
それから、どこか、つくりもののように、見える。
遠い街並の上の、巨大で大仰な飾りみたい。

だいたい、月がどんどんと天井近くに昇っていくのは
満月を過ぎると遅くなっていくから
それを目視できているということは、それなりに起きていることになる。

相変わらずの、夜更かしだ。


最近の、音楽事情には、久しぶりに聴くアルバムも多い。
夜のおともに、夜にしか合わない曲たち。



まだ日本に居た頃、味の濃い、おいしい黒ビールをちびちび飲みながら、
時々聴いていた。
アルバム全体が暗めなのだけれど、
1曲目のこの曲が、アルバム全体の空気を完全に支配している印象がある。

その頃住んでいた小さな安普請の小屋みたいな家の
冷えた11月初旬の深夜の、湿気のある、しんとした空気を思い出したりしていた。



安普請の寒い夜つながりで、
やはり、この頃よく聴いていた曲を、かけてみる。

これはまだ若い頃の写真だけれど、最近のRufusはすっかり、
とてもキュートな、でもちょっとおじさんなゲイになった。
この頃の甘い歌声は、いつまでも健在だ。

彼らは、とまとめて一括りにするのは失礼だけれども、
身勝手を心の奥に仕舞って、がんばって人を好きになる
本当に素敵な人たちが多い。


最近の、たるんだあごも、なんだか愛おしい。


からりとした空気は、夜の風を冷たくする。

きっと日本は、とてつもなく蒸し暑いのだろう。
窓からは、冷えて気持ちのいい風が入ってくる。

月は、窓枠の外へ、出ていってしまった。



なんだか日本の夏の始まりを思い出して、
この曲を聴いてみたりした。
田舎の青い田んぼの脇を、ジムニーで疾走する映像。


それから、ピアノの前に座ったりして
またコード遊びをする。
ネットで曲のコードは調べ放題。
耳では聴き取れないので、もっぱらネットで検索をかけ続ける。



この曲のコードは進行は、本当におしゃれで、ちょっとずつ難解だ。
コードをさらうだけでも、なんだか、
おしゃれと気怠さの片鱗が音にできたりする。


そういえば、ピアノの伴奏がきれいな曲だったんだよな、と
とまた、ネットで検索をかける。


随分若い頃のFionaが出てくる。
この顔の造りがあまりに好きで、
学生の頃、テラコッタで彼女のお面を作ったりしていた。

久しぶりに聴くと、やっぱり曲も若いな、と思う。
これは、まだまだ心も身体も繊細な年頃に歌う曲だ、と
コードを軽くさらって、やめにする。

アラブ人相手に、作成した契約書の説明に腐心して、
心底こころを消耗するような日々の中では
もう、こういう曲は歌えない。




ピアノの伴奏とメロディで腐心した、といえば、この曲だ。
何度弾いても、楽譜通り弾けていると思えない。
でも、何度か聴くと、癖になる不思議な曲だ。

やはり、なんだかうまく音が拾えなくて、呆然と夜の街を眺める。


もう一度ソファに座り直し、ituneで買ったアルバムを
しっかり聴き込もうとする。
昨今、フルアルバムがもうネットに載っていたりするけれど
Jamesに最大限の敬意を表し、きちんと買う。

声がとても近い。
それはとてもどこか安心することのような気がする。



曲にもよるが、打ち込みで作り出す音の深さで云ったら、
前作の方がいい、というのが、このアルバムの感想だ。

反対に、シンプルな造りのいくつかの曲は
圧倒的にこのアルバムの中でも重さが違って、
微細な粒のように質量を持った音が、しっかり身体に沁みていく。


前のアルバムの1曲目の、きちんと、予感があるものが聴きたくなる。



突然、そうだ、雪だ、と、思う。


ものすごい着込んでいるのにもなお、身体の芯に響く寒さと湿度に似ている。

雪の中で、このアルバムを聴いてみたい。
針葉樹の林の中とか、何にもない真っ白な平原とかで。

想像するしか、ない。

目を閉じて、雪の感覚を思い出そうとするのに
窓から波のように形を持って流れてくる、さわやかな空気に
断念を余儀なくされる。

寝なくては。鶏の啼き声を聞く前に。



2016/07/09

夜中の楽しみ


 ラマダンが終わって、イードというお休みの日ができる。
 バングラの事件の余波で、アンマンに留まる。

 夜、窓から見えるアンマンの街は、
 いつも通り、無数の街灯と点在するモスクと、それから窓から漏れる光で
 黒い丘のシルエットに、オレンジ、緑、白にきらめく。

 お宅にお邪魔したり、家に人を招いたりして、
 それとなく、イードらしい暮らしができている。
 ありがたいことだ。

 相変わらず夜は長くて
 これでは仕事が始まったら大変だと、がんばって眠ろうとするのだけれど
 外が心地よく騒がしくて、眠れない。

 久しぶりにピアノでコード進行をさらってみたりする。
 窓際に置かれたピアノを弾きながら、モスクの緑と
 遠い街並の灯りをみる。

 和音の面白さを、今更知る。
 
 調によって、性格というのがあるのだろうか、と時々思う。
 この調はこういう独自の色味や特徴がある、というようなもの。

 基本はずらしていくだけだから、均一であるはずなのに
 例えばクラシック音楽には
 作曲家の好みの調があって
 どうしてこんなにフラットばかりつけるのだろう、と
 譜読みに時間のかかる私は、頭を抱える。

 そんなことをしていたら、また夜は更けていって
 アザーンが流れる。

 こちらの人は、絶対アザーンを音楽とは、云わない。
 でも、アザーンの声をピアノで拾うことができる。
 夜中のアザーンをこそこそと、弾いてみる。
 調はないのだけれど、旋律に独特の響きがあって、面白い。

 眠れない夜中の、内緒の楽しみ。


2016/07/02

ラマダンの夜と、冴えてしまう身体


もうそろそろ、今年のラマダンも終わる
今年は先週まで真夏のように暑くて
日没はさっぱり来なくて、朝日はあっという間に昇る
なかなか苦しい年だった。

日没、ベランダからアザーンを聴き、家々を眺める。
イフタールの時間になると、車も人も、景色から消えて
食器の擦れる音と、ごくわずかだけれど、会話の断片が、聞こえてくる。

ラマダン中で一番好きな瞬間だ。

なんだかんだ一日一食だけになるので
日中の空腹が災いしてか、幸いしてか、
夜になると、めっきり元気になる。

そして、長い夜が待っている。




仕方ないので、データだけ持っていてiTuneに落としていなかった音楽をまた、聴いたりして
随分とたくさんの音楽に久しぶりに、聴きいった。
Youtubeも馬鹿みたいにたくさん、見た。

音楽が身体に入ってくる時期は、意外と多くない。
どこかでこの感覚を喜んでいる。


どうしようもなくノリのいい曲を数曲聴いて、踊ってしまったりする。
22:00頃。





おっと、と我に返る。
23:00頃。

落ち着こう、もういい歳だ。

騒がしい夜には、部屋を閉め切ってのradioheadのライブはいい。





ちょうどイスタンブールの暴動がニュースに挙っていた。
イスタンブールは、もはや東西の文化が混ざり合う土壌を喪ってしまったのかしら。

ボスポラス海峡から吹き上げるの湿気が混じった、気持ちのいい夜風を思い出し、窓を開ける。


Kings of Convenienceを初めて聴いたのは、スタバだった。
スタバでいい曲がかかっていると、お店の人に訊けば曲名を教えてもらえた。
アルバム全体に、湿度のある音と声が広がる。
いつまでも、飽きずに聴くことのできる静かで、落ち着いたアルバムだ。






外ではアラビー音楽がやまない。
01:30を過ぎても、大音量で生演奏が続くのだ。
対抗してみよう、とあまり多くないアラブ音楽から引っぱり出してきた。



しっとりした、落ち着いたアレンジで、気に入っていた。
この曲は、ウードの先生から教えてもらった。
夫婦で演奏をしてくれる素敵な先生で、
旦那さんのウードに合わせて、奥さんがタールをたたきながら歌っていた。
奥さんは影があって、少しかすれた何とも素敵な声を持っていた。





ハンバートハンバートは3枚も持っていたのに、きちんと聴いたことがなかったことに気がつく。
男女ペアで、男性が歌っている曲もあるのだけれど、女性の声が気になる。
こんな声はどうしたら出るのだろう、とこの曲を初めて聴いたときに思った。
澄んでいるのに、震えている。
随分と沁み入る、歌詞と声だ。

歌を聴いて泣き出してしまった人たちの顔が、ふいに見える。
帰国する人たちに、よく歌っていたのを思い出した。



眠れないから、そんなこと、あんなことが蘇り
次から次へ曲をかけていくと、よけいに眠れなくなる。
03:30頃。朝のアザーンを聴きながら、これはいよいよまずい、と思いつつ
iTuneで眠れそうな曲がないか、探しはじめる。

そこで、タイトル通りの効果を期待して、久しぶりにかけてみる。




兄がよく、寝る前に聴いていた。
久しぶりに聴くと、時代がかって聞こえる。
それでも、途中に盛り上がりもあって、新たな発見があったりした。
誤算だった。
目と耳が、冴え渡る。

04:30頃、いよいよ腹をくくって、白んでゆく空を見ながら、
朝の冷えた空気を吸い込み、ピアノに向かう。
明け方に向く曲のレパートリーなどなくて、結局グリーグの小品をぽろぽろ弾く。
愛らしい、かわいらしい、まとまりのある曲たち。


一通り弾いて飽きる頃には、日が昇ってしまったりする。

鶏の声が響き、小鳥のさえずりが絶え間なくあちこちの窓から入ってくる。

朝日を拝み、眠れなかったことに失望する。

ラマダンの朝は、とても静かだ。
ゴミを回収する車の他は、ほとんど車も走っていない。

もうだめだ、と観念して、いつもの曲を聴く。
ここ最近、ずっとどうにも頭から離れない。
やさしいけれど、芯があるよく響く声と
終止音に納まってくれないギターの和音に耳を傾けながらやっと、ベッドに横になる。






という日も、あったりした、今年のラマダンだった。


もうそろそろラマダンも終わりかと思うと、急に少し寂しくなる。
過去5年、一度もなかった感情に、自分で驚く。

目抜き通りに面した屋上の小屋からは
夜3時を過ぎてもタブレの音が響いていたりした。
眼下の道に人の気配がして、
ラマダン飾りの電飾が、街をいつもより明るくしていた。

断食のせいか敏感になってしまった五感が
夜更けの世界がいつもと少し違うことを教えてくる。


私の部屋である小屋のなかは、
相変わらず、外から見放されたようにぽっかりと真空なのだけれど
いつもよりくすんで厳しさの和らいだ、ぬくもりのある夜が
その果てしない空白を、こちらの気分などおかまいなしに、
好き勝手に浸食しようと
開け放した窓から入ってくる。


ラマダン月のそんな、傍若無人な夜の空気が、なんだかんだ好きだったのだと、気づく。