背表紙を見た瞬間に、買わなくちゃ、と手に取ったのが
「リチャード・ブローティガン」
好きな作家の多くがこの本を紹介していました。
気になっていて、でも本屋でさっぱり見かけなくて、
いつか会うだろう、と何となく思っていた本。
前も書いた通り、ブローティガンの作品をとても気に入っていました。
読んでいるときに立ち上がる情景、映像が
ずっと、私の中で消えずに残っています。
美しく、おかしみに富んでいて、どこか青い清々しさがあるもの、
暗いのだけど、ちょうど白っぽい抜け穴が
底にはちゃんとあるのではないか、と思わせるような、
不思議な明るさがあるもの。
何よりも、形容の言葉や、ものものの羅列や、発想の広がりが、
たまらなくすてきだと思っていました。例えば。
「貧乏人の墓場へいって芝を刈り、果物の瓶、ブリキの空缶、墓標、萎れた花、虫、雑草、土くれをとりあつめて持って帰ろう。それから万力に釣針を固定して、墓地から持ち帰ったものを残らず結わえつけて毛鉤をつくる。それができたら外へ出て、その毛鉤を空に投げあげるのだ。」
ブローティガンを読む時
不思議な映像や情景を
暗い室内でぱっぱっぱっと見ているような気になります。
抜粋の文章のように
たとえ、前後関係が分からなくても、
この発想は、何だか、かえがたい
奇跡のようなスパークを隠しているような気がする。
でも、
私が読んできたブローティガンの小説の、
根本的に視点が浮いている、のを
ただおもしろい、と思っていた私は
どうしようもなく、至らない、読み込めない奴だ、ということを
この自伝書は、語っていました。
視点が浮いているのは、空想の産物で
空想をしなくてはやっていけないブローティガンの
あまりにも辛い幼少から死ぬまでの人生が
書かれていたのでした。
どうしてその背景を読み取れなかったのか、私は愕然とする。
正確には、その背景について、何となく分かっていたけれど、
ことばの組み合わせから広がるおもしろさにかまけて、
その一見明るいように見えることばに、私がごまかされたい、
そう思って、読んでいたような気がします。
ただ、ブローティガンは同情を好むような人ではなかったし
感傷的な文章はそれほどありません。
だから私が、こう思うのはお門違いなのだけど、
無性に悲しくて、どうも読み終わっても引きずっています。
当然、はぶりもよくて
作家として、いい時期もあったし、
娘さんのことはとても大切にしていた。
ただ、ちょうど、どうしようもなく悲しい思いを明るい旋律にのせて唄うように
明るく見えた分だけ、暗さに底がないように思えました。
書いたのは、ずっとブローティガンの作品を翻訳していて
ブローティガンの友人でもあった藤本和子という人です。
タイトルの通り、
「リチャード・ブローティガン」という
本人がアメリカの「ちり」と呼んだ、生活の苦しい最下層に生まれ
想像力を武器に生き抜いて、
でも昔の記憶がぬぐえずにアルコール中毒で
でも子供の前ではいい父親になろうと心がけて
どこか俯瞰の視点を持って、自分とその周辺を醒めた視線で見つめながら
生ききれなくて、自分で死んでしまった
小説家が主人公として出てくる、
小説のようでした。
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