朝から落ち着かなかった。
東の窓から見える空は、燃えるように稜線だけ、赤い。
久々のキャンプには、不安材料がいくつかあって、
それらはわたしがどうにかしたら、克服できるものでもなかった。
心を凪のように鎮めるために、何度か繰り返し
亡き王女のためのパヴァーヌを聴いていた。
サロネンが指揮するオーケストラ編成には、
旋律の美しさだけではなく、和音の膨らみと翳りがある。
弦のピッチカート、オーボエの乾きと潤い、
フルートの煌めき、ハープのみずみずしさ、
ホルンの丸み、上質な絹をそっと撫でるような、曲の終わり。
その音の一つ一つを愛でる作業をすることで、
すこしずつ、不安が薄らいでいく。
約1年ぶりのキャンプの景色は、
ほとんどわたしの見知っているものと変わらなかった。
雨にぬかるんだ空き地、泥の跡が線を引くコンクリートの道、
老朽化して疲れたキャラバン、空を舞う鳩、開けた空。
ロバ車を彩る模様には、見慣れないものもあった。
色鮮やかな花々を彩った、かわいらしい荷馬車。
プレハブの家々には青いプレートで番号がふられ、
通りを示す緑色の標識も立てられていた。
けれども、その他に目新しい変化は、見つけられない。
変わらないことが、けっしていいわけではないことを
わたし自身が自分の生活の中で、ひどく腑に落ちてわかっているだけに、
明るい空の下、まるで、
変化というものに見放されてしまったかのような情景を、
どのような思いで見つめたらいいのか、戸惑う。
学校へ行くと、新学期を迎えて久々に会う顔ぶれに
顔を輝かせながら話に花を咲かせる女生徒と女性の先生であふれていた。
新学期の始まりは、挨拶から、そう決まっている。
点在するプレハブの教室の間を歩いていくと、
子どもたちが挨拶をしてくれる。
丁寧に話をしてくれる子、10歳ぐらいですでに
おばさんみたいに腕を叩いてくる子、
韓国語で話してくれるけれど、分からなかったり、
早口で矢継ぎ早に質問をされたり、
根っこから抜き取ったマリーゴールドをプレゼントしてくれたり、
腕を組んでこようとしきたり、
こちらの話をただじっと、遠巻きから見つめられたり。
よく知っている男の子にそっくりの女の子がいたら、
兄弟だから、とりあえず、お兄さんは元気か尋ね、
大人びた振る舞いに変わった女の子には、
きれいになったね、と声をかける。
新しく配布されたバックパックには、もう
UNICEFもサウジアラビアもロゴを入れていなかった。
とても、いいことだ。
6年生の子たちのほとんどを、わたしは知らない。
6年生の教室に入ると、みんな興味深そうに
穴でも開けん勢いで、こちらを見つめてくる。
この視線もまた、随分久しぶりで、これは
日本にはないものだった、と頭の片隅で思う。
先生たちも元気そうだった。
家族の様子を一通り尋ね、
いつも通り、仕事の話を少しして、それから、
ぽつりぽつりと、近況を聞く。
胸塞ぐものもあれば、ふわりと心温まるものもある。
おしゃべり好きな人は話し続け、
物静かな人は笑いながら話を聞く。
女性たちの会話の雰囲気は、以前より良くなった気がする。
いくらか心配していたことが、
ただの杞憂に過ぎなかったことに、安堵する。
勤務時間が終わると、だれもがあっさりと帰っていき、
入れ替わりに男の子たちがやってくる。
男の子たちの方が、午後でモニタリングする時間が長かったので、
こちらもよく、顔と名前を覚えていたりする。
久々の顔が、けれども、記憶していた面影から
すっかり大人っぽくなってしまったのに、
ただただ、感心する。
こちらはさっぱり成長もせず、ただ年をとっていくだけだけれど、
子どもたちは見えない力を体に溜め込みながら
どんどんと大きくなっていく。
髭が伸びたり、にきびが出てきたり、
髪にジェルをつけたり、奇抜なジャケットを着たり、
姿を変えた子たちが、でも、低い声で相変わらず、
少しアクセントのおかしなわたしの名前を連呼する。
見た目の変化には気づきやす。
きっと、心の中もまた、わたしには見えていない何か、
大切な変化があるだろう。
教室の落書きは数が増えたけれど、BTSの数は減り、
ビー玉を持っている子は見せてくれて、
多くの子はサンダル履きで、
小石を投げて遊び、調子に乗ると喧嘩になる。
よくわたしの相手をしてくれていた子が、校門からこちらに向かって、
走ってやってくる。
彼の中で、わたしの名前は、とぅぐどぅがぁ、だ。
なぜそうなったのか、さっぱり分からないけれど、
発音に難しさがあるその子には、この音の響きがちょうど
わたしらしい、ようだ。
なぜなのか本当に、会えたのが嬉しいようで、ずっと
そんな気持ちが、不自由な身体の全体からふわふわと出ていた。
あぁ、こうやって誰かの、他者と会った喜びが滲み出てしまうような様子を
見ていなかったな、と思う。
そんな人の様子が見られただけでも、ただただ、ありがたかった。
身長も声も目の輝きも、何一つ変わらない。
ただ、少しだけ走るのが上手になった。
ぼんやり教室の外にいると、人だかりができてしまう。
けれども、ここに来たのは子どもの様子を見るのが一番の目的だから、
迷惑は承知の上で、会う先生方に挨拶と詫びを繰り返しながら
とにかく子どもたちの様子を見ていた。
家に遊びにきて、と言ってくれる子どもや先生たちに、
いつ行けるのか、真剣に頭の中で予定を探りながら、
次にね、というと、本当に次には行かなくてはならないので
どうしようか思案をしていたら、いんしゃあっら、と同僚は言う。
なるほど、そういう用法だった、と気付かされた。
最後に会ったのはコロナ禍、外の畑で収穫の仕事をしていた子が
学校に来ていた。
学校にはもう来ていない、けれども、友達に会いに来た、という。
教室には留まれないほど、エネルギーで溢れかえっている学校に
彼がやってきても誰も、咎めたりしない。
開かれた場所を作り出している、この絶妙ないい加減さに
心のどこかで、胸打たれる。
友達とプレハブの入り口の手すりに座って、
じっくり話をする彼の後ろ姿を見ながら、帰路に着く。
どうにもお腹が空いていた。
キャンプの中の、大好きな鶏屋さんに寄ってもらって、
丸焼きの鶏を買う。
この店のソースは、どこの店とも違って、本当においしい。
魔法のソース、と勝手に名付けているこのソースが何でできているのか
どうしても知りたくて、しつこくお店に人に尋ねる。
言われた材料を復唱するたびに、あらたな材料が追加される。
これでは、いつまでたっても材料はそろわなさそうだった。
帰りの車の中で待てずに食べてしまう。
味が違っていたらどうしよう、と、そんな必要もないのに、
なぜか急に不安になる。
けれども、ソースの味は、前よりもさらに、美味しく変化していた。
ぱりぱりの皮をほおばりながら、
この味の美味しさが変わっていなかったことに、満足する。
帰りの道に見える景色も変わらず荒涼としている。
その寂寥感の漂う景色にもまた、さまざまな思い出があるので、
何気なく、映像を回していた。
低い雲が地面に影を落としながら流れていく様子に、
けれども、今までよりもどこか肯定的な、愛着のようなものを感じる。
そんな自分の変化が、朝の不安から来ていることに気づき、
ひとり思わず、苦笑してしまった。
不安が消えれば、見える景色も違ってくるわけだ。
頭の中で再生される亡き王女のためのパヴァーヌだけは、
朝と変わらず、繊細でみずみずしく、
水分をすべて吐き出してしまった土漠の大地に、
ひどく不釣り合いだった。
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