2023/02/27

戻れる場所をつくる


初めての出張だったな、と思い返している。

一度飛んだら、1年とか帰ってこれない生活を10数年続けていたから、

なんだか不思議な感じがする。


ヨルダンのわたしは、精神的には日本にいる時より、

ある意味リラックスしていたんだと思う。

もっとも滞在中には、ヨルダン独特の、日本では考えられないような

理不尽な事象や、言葉を失う出来事に遭遇していた。

失望の衝撃もいつも以上に大きく、ストレスも相当だった。


けれども、過去に幾度となくそんな状況を経験してきたから、

ものすごくブラックなジョークのパンチ力と

言葉のチョイスをいかに面白くするかに執心する。

人の目をじっと見て手振り大きめ、英語でもアラブ人っぽく話す。

大人には笑顔と真剣な表情を確実に使い分け、

子どもはとにかく笑って見守る。


自分のしたいことをする、

他人にどう思われるかは、気にしない。



基本引きこもりなので、仕事以外ではあまり人に会わないけれど、

近しい周囲の人はわたしがどんな人間かよく分かっていて、

ダメなところばかりだけれど、

いいとか悪いとかの判断はなく、

こういう人もいるよね、と思ってくれている。

だから、わたしも、いろんな人がいるよね、

と近くの、遠くの他者へ、そこはかとなくやさしくなれる。



ヨルダンへ着いた瞬間から、

自分でも呆れるぐらいすんなりと、

慣れ親しんてきたものは、身体に戻ってきていた。

そして、戻ってきた瞬間に思った。


あぁ、わたしは日本から逃避してる。




けれども、慣れ親しんだ安心感とは裏腹に、

ヨルダンにいる自分自身を咎める自分がいた。


他人の目を気にせず伸び伸びできる、という点で、日本よりも居心地はいい。

けれども、仕事や生活の文脈では

自分にできることの限界が見えてしまった。

冒険も挑戦をするにも、自分の立場からでは自由にできない、

その状況にもまた、慣れてしまっていた。


事業は粛々と求められる通り、続けていくことができる。

けれども、多少の波はあれ、ある程度出来試合の様相が濃く、

自分自身ももう、公私ともに、成長できなかった。

そんなヨルダン最後の数年間を、幾度となくまた、あらためて思い出す。




ヨルダンに住んでいた時、心のどこかでずっと、

「仕事がうまくいかなくなったら日本に帰ればいい」と思っていた。

逃げる場所があると。


なのに、いざ日本に本帰国したら、さっぱりうまく馴染めなかった。


すぐポリコレに成敗されるし、

相手が何を考えているか分からないし、

見知らぬ子どもは抱っこさせてくれない。

そして、人生楽しそうじゃない人が多い。


そんな批判的な視点ばかりを持ち、

人生に悲観的になった老人のように、

愚痴を心に溜めがちだったけれど、

でも、自分ではなにもそれに立ち向かう手段をもっていない。


そんな何もできない自分への居心地の悪さもまた、批判的な態度の理由となって、

ますます自分を馴染めなくさせていた。



それでも、仕事柄心底、思う。

自分の国があり、ほとんどの場合、排除されることもない、

そんな場所があるということは、ありがたいことなのだ。

特にこの束の間のヨルダンの暮らしに戻って、あらためて思った。




ヨルダンに住んでいた年月、わたしは心のどこかで、

所詮他人の国である、ということを、言い訳に使っていた。

だから、日本に帰ればいい、と思っていた。

そうやって、都合よく逃げ場所にしてきて、

今更批判するとは、そして

せっかくあるものを大切にできないとは、

随分と格好悪いことを、わたしはしている。



己の格好悪さを、心底認識した、2ヶ月弱の滞在だった。




自分の国の空気がいくらおかしくても、

冷たい人に遭遇しがちでも、

全然社会が寛容じゃなくても、

自分の戻れる場所、であるはずだ。


もし、戻れる場所が住みづらいのであれば、

馴染んだり、住みやすくしていかなくては、

ちょうど12年前、ヨルダンの暮らしを始めた時のように。






2023/02/09

この日のはなし ー 続く雨と、不機嫌さを陳列する棚



雨のアンマンは、冬にしかやってこない。
ブロックか石で作られている建物は、ただただ底冷えがする。
それは屋上に住んでいても変わらなくて、
ただひたすら、暗い空と、身体を震わせる鳩と、
雨や雹が屋根や窓を打つ音を、聴き続けることになる。





地震のニュースが入った日、わたしも早朝に揺れを感じる。
明らかに、地震の揺れだったけれど、夢うつつの中、
地震など、この土地にはない、という頭が先行して、
長い揺れを感じながらも布団から出ることはなかった。


経験的に、地震の揺れがどのようなものなのか知っていると、
結果的には布団を出なかったけれど、地震なのではないか、と
思い当たることもあるだろう。
けれど、朝仕事場へ行くと、誰もが揺れなど感じなかった、と
口を揃えて言いつつ、不思議な表情でわたしを見ていた。

住宅の作り方だけで言ったら、ヨルダンよりトルコの方がいいだろう。

ベトナムに住んでいるとき、建設途中のマンションのコンクリが
ほとんど芯もないまま、板で仕切った隙間に流し込まれているのを見て、
信じられない、と目を疑った。

けれども、慣れというのは恐ろしいもので、
ヨルダンでも2、3階建であれば、細い鉄芯こそあれセメントをつなぎに、
ブロックが積み上げられていく様子を見ながら、
まあ、こんなものなのだろう、と驚くこともなくなった。

ただ、ベトナムでもヨルダンでもいつも、
子どもの頃によく読んだ、3匹の子豚の挿絵を、思い出すことになる。


ここでもこんなに寒いのだから、もっと雪が多く寒さの厳しい土地で、
家を失った人々のことを思うと、心の底から寒さが滲みてくる。

自分の仕事では被災地支援は実施しないので、
サイトでとにかく、寄付先を探す。
オペレーションを知っている身としては、
こんなとき、お金の大切さがよく、わかる。


なにせ、雨季は冬にやってくるヨルダン、
2月からの新学期は雨とともにやってきて、早々に学校が休校となる。
その決断が雨ばかりの日本からくると、大袈裟に思えて、
南の島のハメハメハ大王、の歌詞を思い出しては
雨で学校が休みになるたびに、その歌を歌っていたけれど、
実際には、降り続く雨の状況は、都心で雪が降るようなもので、
すっかり街中が混乱してしまう様子を経験して、
休校は致し方ないのかもしれない、と諦念とともに受け入れることになる。

昨日も今日も明日も、学校は休みになる。


確かに、先日のキャンプ、片方落としたサンダルを拾おうとしたら、
プラスティックのサンダルの踵にはすっかり、穴が空いていた。
これでは、学校へ行くのも寒くてたまらないだろう。




子どもの成長は早いから、いちいちサイズの合う靴を買う出費を思ったら、
サンダルの方が都合がいい、という考えらしい。
靴下があるのは、まだマシで、靴下もなく、サンダル履きの子も
少なからずいる。

こんな寒くて学校もない日、きっと子どもたちは部屋の中で
寒さとつまらなさに不機嫌になっていることだろう。
せめて、美味しい料理を食べられるおうちだったら、いいのだけれど。



わたしもまた、自宅勤務をする。
わたしこそ、寒さと仕事の進まなさに加え、
わかっていたけれども、地震の被害拡大のニュースに胸塞ぎ、
一人勝手に、不機嫌になっていた。

気をしっかり持たなくては、と、ホーチミンで毎朝聴いていた、
グールドが演奏するハイドンのピアノソナタ42番を流す。
さりげなく手をかして支えてくれる、朗らかな旧知のともだちのように
さっきまでの不機嫌さが、少しずつ形を成して制御可能になり、
不機嫌という名の棚に整理し、陳列し、眺められるようになる。


部屋は寒いけれど、電気代も高いので、
ハロゲンヒーターを机の足元に入れ、机に布団をかけ
簡易なこたつを作る。
けれども、上半身が寒くて鼻がつんとするので、
机の下、狭い空間に体とパソコンを入れ込む。

子どもの頃、家のカーテンを椅子にひっかけてテントの形にして
キャンプごっこをしたのを、思い出す。

こんな日は、まさに美味しい食事でも作っていただくに限る。
下味をつけておいたラムチョップを焼き、
野菜を蒸して付け合わせにする。

調理をすると、コンロの火で部屋が暖かくなる。
窓を覆う結露は、部屋が暖かくなった証拠だ。
今日という一日、仕事は進まず、現場にも行けず、
大していい思考も働かず、何もできていない役立たずのわたしでも、
料理を完成させることはできた。
料理の偉大なところは、生産性が高く、さらに
時間をそこまで費やさなくても、きちんと完成すること。




ラムは塩麹につけた下味がよく染みていたし、野菜は甘い。


それから、パーヴォ・ヤルヴィの指揮する
ハイドンの主題のための変奏曲を聴く。
ティンパニの軽やかさと弾力、テンポの緩急とその適切さ、
弾けるような明るさにあふれた最後の方など、思わず笑みが漏れる。

夜もすっかり更ける頃、やっと、
いくらか心持ちが悪くなくなる。
寒さは心底染みるし、ハロゲンヒーターに当たっている
身体の一部しか温かくない状況にも慣れて、
電気があることのありがたみを心底感じながら、
一つずつ、不機嫌なものが何だったかをあらためて、眺める。

まずは寄付先を決めてクラファンに参加し、
明日の仕事の整理をし、ある程度当たりをつけて文書を作り、
きちんと乾かせる洗濯物の干し方について、
あらゆる想像に頭を働かせる。



2023/02/05

砂塵と鳩の舞う土地 ー 変わっていくもの 変わらないもの

 

朝から落ち着かなかった。

東の窓から見える空は、燃えるように稜線だけ、赤い。



久々のキャンプには、不安材料がいくつかあって、
それらはわたしがどうにかしたら、克服できるものでもなかった。

心を凪のように鎮めるために、何度か繰り返し
亡き王女のためのパヴァーヌを聴いていた。
サロネンが指揮するオーケストラ編成には
旋律の美しさだけではなく、和音の膨らみと翳りがある。
弦のピッチカート、オーボエの乾きと潤い、
フルートの煌めき、ハープのみずみずしさ、
ホルンの丸み、上質な絹をそっと撫でるような、曲の終わり。
その音の一つ一つを愛でる作業をすることで、
すこしずつ、不安が薄らいでいく。


約1年ぶりのキャンプの景色は、
ほとんどわたしの見知っているものと変わらなかった。
雨にぬかるんだ空き地、泥の跡が線を引くコンクリートの道、
老朽化して疲れたキャラバン、空を舞う鳩、開けた空。

ロバ車を彩る模様には、見慣れないものもあった。
色鮮やかな花々を彩った、かわいらしい荷馬車。
プレハブの家々には青いプレートで番号がふられ、
通りを示す緑色の標識も立てられていた。
けれども、その他に目新しい変化は、見つけられない。


変わらないことが、けっしていいわけではないことを
わたし自身が自分の生活の中で、ひどく腑に落ちてわかっているだけに、
明るい空の下、まるで、
変化というものに見放されてしまったかのような情景を、
どのような思いで見つめたらいいのか、戸惑う。



学校へ行くと、新学期を迎えて久々に会う顔ぶれに
顔を輝かせながら話に花を咲かせる女生徒と女性の先生であふれていた。
新学期の始まりは、挨拶から、そう決まっている。


点在するプレハブの教室の間を歩いていくと、
子どもたちが挨拶をしてくれる。
丁寧に話をしてくれる子、10歳ぐらいですでに
おばさんみたいに腕を叩いてくる子、
韓国語で話してくれるけれど、分からなかったり、
早口で矢継ぎ早に質問をされたり、
根っこから抜き取ったマリーゴールドをプレゼントしてくれたり、
腕を組んでこようとしきたり、
こちらの話をただじっと、遠巻きから見つめられたり。





よく知っている男の子にそっくりの女の子がいたら、
兄弟だから、とりあえず、お兄さんは元気か尋ね、
大人びた振る舞いに変わった女の子には、
きれいになったね、と声をかける。

新しく配布されたバックパックには、もう
UNICEFもサウジアラビアもロゴを入れていなかった。
とても、いいことだ。


6年生の子たちのほとんどを、わたしは知らない。
6年生の教室に入ると、みんな興味深そうに
穴でも開けん勢いで、こちらを見つめてくる。
この視線もまた、随分久しぶりで、これは
日本にはないものだった、と頭の片隅で思う。

先生たちも元気そうだった。
家族の様子を一通り尋ね、
いつも通り、仕事の話を少しして、それから、
ぽつりぽつりと、近況を聞く。
胸塞ぐものもあれば、ふわりと心温まるものもある。
おしゃべり好きな人は話し続け、
物静かな人は笑いながら話を聞く。

女性たちの会話の雰囲気は、以前より良くなった気がする。
いくらか心配していたことが、
ただの杞憂に過ぎなかったことに、安堵する。

勤務時間が終わると、だれもがあっさりと帰っていき、
入れ替わりに男の子たちがやってくる。


男の子たちの方が、午後でモニタリングする時間が長かったので、
こちらもよく、顔と名前を覚えていたりする。
久々の顔が、けれども、記憶していた面影から
すっかり大人っぽくなってしまったのに、
ただただ、感心する。
こちらはさっぱり成長もせず、ただ年をとっていくだけだけれど、
子どもたちは見えない力を体に溜め込みながら
どんどんと大きくなっていく。

髭が伸びたり、にきびが出てきたり、
髪にジェルをつけたり、奇抜なジャケットを着たり、
姿を変えた子たちが、でも、低い声で相変わらず、
少しアクセントのおかしなわたしの名前を連呼する。
見た目の変化には気づきやす。
きっと、心の中もまた、わたしには見えていない何か、
大切な変化があるだろう。

教室の落書きは数が増えたけれど、BTSの数は減り、
ビー玉を持っている子は見せてくれて、
多くの子はサンダル履きで、
小石を投げて遊び、調子に乗ると喧嘩になる。




よくわたしの相手をしてくれていた子が、校門からこちらに向かって、
走ってやってくる。
彼の中で、わたしの名前は、とぅぐどぅがぁ、だ。
なぜそうなったのか、さっぱり分からないけれど、
発音に難しさがあるその子には、この音の響きがちょうど
わたしらしい、ようだ。

なぜなのか本当に、会えたのが嬉しいようで、ずっと
そんな気持ちが、不自由な身体の全体からふわふわと出ていた。
あぁ、こうやって誰かの、他者と会った喜びが滲み出てしまうような様子を
見ていなかったな、と思う。
そんな人の様子が見られただけでも、ただただ、ありがたかった。

身長も声も目の輝きも、何一つ変わらない。
ただ、少しだけ走るのが上手になった。


ぼんやり教室の外にいると、人だかりができてしまう。
けれども、ここに来たのは子どもの様子を見るのが一番の目的だから、
迷惑は承知の上で、会う先生方に挨拶と詫びを繰り返しながら
とにかく子どもたちの様子を見ていた。

家に遊びにきて、と言ってくれる子どもや先生たちに、
いつ行けるのか、真剣に頭の中で予定を探りながら、
次にね、というと、本当に次には行かなくてはならないので
どうしようか思案をしていたら、いんしゃあっら、と同僚は言う。
なるほど、そういう用法だった、と気付かされた。


最後に会ったのはコロナ禍、外の畑で収穫の仕事をしていた子が
学校に来ていた。
学校にはもう来ていない、けれども、友達に会いに来た、という。
教室には留まれないほど、エネルギーで溢れかえっている学校に
彼がやってきても誰も、咎めたりしない。
開かれた場所を作り出している、この絶妙ないい加減さに
心のどこかで、胸打たれる。

友達とプレハブの入り口の手すりに座って、
じっくり話をする彼の後ろ姿を見ながら、帰路に着く。

どうにもお腹が空いていた。
キャンプの中の、大好きな鶏屋さんに寄ってもらって、
丸焼きの鶏を買う。
この店のソースは、どこの店とも違って、本当においしい。
魔法のソース、と勝手に名付けているこのソースが何でできているのか
どうしても知りたくて、しつこくお店に人に尋ねる。
言われた材料を復唱するたびに、あらたな材料が追加される。
これでは、いつまでたっても材料はそろわなさそうだった。


帰りの車の中で待てずに食べてしまう。
味が違っていたらどうしよう、と、そんな必要もないのに、
なぜか急に不安になる。

けれども、ソースの味は、前よりもさらに、美味しく変化していた。
ぱりぱりの皮をほおばりながら、
この味の美味しさが変わっていなかったことに、満足する。


帰りの道に見える景色も変わらず荒涼としている。
その寂寥感の漂う景色にもまた、さまざまな思い出があるので、
何気なく、映像を回していた。

低い雲が地面に影を落としながら流れていく様子に、
けれども、今までよりもどこか肯定的な、愛着のようなものを感じる。
そんな自分の変化が、朝の不安から来ていることに気づき、
ひとり思わず、苦笑してしまった。
不安が消えれば、見える景色も違ってくるわけだ。

頭の中で再生される亡き王女のためのパヴァーヌだけは、
朝と変わらず、繊細でみずみずしく、
水分をすべて吐き出してしまった土漠の大地に、
ひどく不釣り合いだった。




心安めるための景色と、音楽という防波堤


7年住んでいた部屋に、戻ってきた。





この部屋の窓からの眺めが、この部屋に住もうと決めた一番の理由だし、
この眺めがあるから、大袈裟ではなく、長くこの土地で
なんとか、生きながらえることができた。
特に、コロナ禍で完全な外出禁止やロックダウンを課していたヨルダンで
もしこの部屋に住んでいなかったら、心が完全に折れていただろう。


日本ではもう、この景色を見ることはないだろうと、
頑なに思い出さないことを、自分へ課していた
懐かしいという感情では表しきれない、もっと切実な思いを抱いていたからこそ、
染みったれてしまうのが嫌だった。



けれど、部屋に移ってきたその日から、呆れるぐらい当たり前に、
見慣れた景色を享受する自分がいた。

変わったことと言ったら、
預かっていた猫が前足で扉を開けられるぐらい
締まりの悪かった冷蔵庫が新しくなっていたこと、
それから、しばらく電飾が切れていた
隣のモスクのミナレットが、煌々と緑の輝きを戻していることぐらい。
寝室のブラインドを閉めないと、部屋中がうっすらと緑色になる。




相変わらず、屋上のさらに2階だから、
水圧が弱くてタップを開いてもしばらく水は出てこないし、
停電になると水も出てこない。
窓が完全には閉まらないから、隙間風が身体を冷やし、
洗濯機は攻撃的な音を発している。

こちらではあまり見ることのない、テラコッタの瓦屋根に
雨粒の当たる音が、部屋の中に響く。
降り続く雨の音を聞いていると、まるで部屋の中が
水浸しになっていくようで、身体に湿気が染みる。



海外に住んでいた人は、旅行好きだと思われることが多い。
確かに、在外で会う人たちは、行動そのものがアクティブで
休暇にはさまざまな国へ出かけていた。

ただ、わたしに関しては、旅行そのものが嫌いなわけではないけれど、
余程思い入れのある土地か、その土地でしたいことがあるか、もしくは
知り合いのいる土地ではない限り、
自分から重い腰を上げることはほとんどなかった。

どこかへ行くときも、ただひたすら同じ街にとどまって、
ずっと歩いたりしている。

だから、一時帰国で東京にいたときも、ひたすら歩いて
土地勘を体得することに執心していた。
その癖は日本に居住を移しても同じで、
とにかく、歩く速度で見えるものから、ゆっくりと
目に見えるものを把握していく作業だけで、ある意味
いくらでも楽しめた。

アンマンもまた、とにかくたくさん歩いた街だ。
車の動きは予測できないし、歩道になぜか
背丈にひっかかるような街路樹があったり、
とにかく坂が多くて、登ったり降りたりを繰り返さなくてはならないから、
まったく歩くのには向かない土地だけれど、
それでも随分と、いろいろなところを歩いてきた。

坂はどこも急だから、建物と建物の間から見える景色に
はっとさせられたりする。
ずっと住んでいたアパートメントの脇にある
ダウンタウンに通じる階段からは、巨大な国旗がたなびいていた。
ちょうど、建物の縁が額縁のようになって、
特別な意味を持っているかのように、景色を切り取る。






そして、いくつもあるアンマンの丘の多くは高さに大差がないので、
高台からもまた、向かいの丘の人の営みを
見下ろすでもなく、見上げるのでもなく、同じ高さで見ることができる。



いろんな遺跡に何度も足を運んだし、
世界遺産のワディ・ラムも好きだけれど、
ヨルダンで何が一番好きかと訊かれたら、
慣れ親しんで愛で続けてきた、アンマンの街並みだと、
迷いなく、答えるだろう。

例えば、アラブ人の人間性の面白さだったり、ホスピタリティだったり、と
人にまつわるさまざまな良さもあるし、
人に対する愛着をあげる方が世間的にはいいのだろうけれど、
人をめぐる思いを凌駕するだけ、
やはり、街の景色への思い入れが強いのだと思う。

人の心も目の前の事象も移り変わるけれど、
街並みだけは変わらない、そんな
どこか切実に普遍性を希求する気持ちも、作用しているのかもしれない。


歩くときはいつも、聴きたい音楽を流す。
その曲によって景色がいつもと違って目に映る、または、
音楽がわたし自身の状態をある一定に保ってくれる。
どれだけ辛いことがあっても、耳から流れる音楽は
決して裏切ることなく、思った通りのフレーズを記憶の通りに再生し、
望む通りに、心に寄り添う。
(寄り添うという言葉は本当に好きではないのだけれど、
人ではないものがそばにずっとある状況には、
使ってもいい、と勝手に自分で決めている。
往々にして、誰かに寄り添う、という人は、想いが強すぎて
寄り添っている相手が少しでも自分の意に反することをすると、
腹を立てがちで、寄り添わなくてなる傾向がある。
同じようなことを自分ではするまい、と思っている。)
目の前の情景と音楽の世界観が持つ差異を、場合によっては
楽しむことさえできる。


どれだけ長く住んでいたからといって、
安心が保障されているわけではない。
日々のストレスはいくら慣れても、澱のように溜まっていくし、
ストレスに慣れて感覚が鈍るのも何か、違う気がする。
そんな微妙なバランスに常に身を置くには、
どんなときも、最低限、心の規定になるようなものがなくてはならない。
それが、変わらない景色であり、音楽なのだと思う。

時に、映画でも見ているように、自分の置かれた状況から
自分自身を離さないと、やっていられない。
なんでこんなところに居るんだろうな、と、数え切れないほど
何度も思ったけれど、そんな時には、「こんなところ」と
わたしの間に音楽を置いて、防波堤を作っていた。
しばしば襲ってくる、慣れ親しんでうっすらした絶望に
簡単には、飲み込まれなくなる。
目に映る景色の中に、人々の慎ましく愛おしい暮らしの断片だけを
見つめる視点を取り返せたら、上出来だ。

もっとも、防波堤もろとも崩れ去って、景色も音楽も、何もかも
意味をなさないこともあるけれど。



どこへ行っても同じことをしている。
その状態が好きだし、なによりも安心する。
その景色を異なる、もしくは同じ音楽とともに
眺めながら、まとまりのないさまざまなことへ
思いを巡らせる時間が一番、心安まる。


そう、この部屋に移ってきてあらためて、確認する。




雨の降らない春過ぎから秋にかけては、ただひたすら
あっけらかんと晴れた空が、窓の4分の3を占める。
けれども、雨季の冬は、空を覆う、もしくは、
空を駆ける雲が、一日中姿を変えて
スクリーンの大画面のように映し出される。
やもすると休日などは、ただひたすら、
その景色に合う音楽を流し、空を見続けてしまう。

雲の形は面白い。
雲の形の要素を抽出して、彫刻にしようとしていたのを思い出す。
今は作らないけれど、まだ楽しむ目だけは、しっかりあるようだ。

雨が止むと、一斉に近所の鳩持ちの家が、
屋上から鳩を飛ばす。
鳩の群れが、遠くで、近くで旋回し、
ドビュッシーのプレリュード重なり合う。

やがて、アザーンの時間になり、やむなく音楽を止める。
すぐ隣にモスクがあるから、どうしたって、かき消すことはできない。


確かに、安心を感じられるものに執着している。
それは、日本にいても変わらない。

けれども、いつも安心ばかりを求めていては、
新しい可能性はどんどんと、失われていく。
その事実を心底実感したからこそ、ヨルダンから日本に
生活の場を移した。

何が安心を作り出すのかをはっきり把握できたのだから、
もうきっと、どこにいても大丈夫だと信じられるのではないか、
そう、うっすらと、でも切実な期待を持っている。

勇気の話なのだな、と薄々気づきながら、
軟弱なわたしは、ベアトリーチェ・ラナの白鳥の
水面に広がるやわらかく微細な波紋が煌めくような演奏を聴きながら、
アンマンの夜の満月を
いつもと同じお店で、愛でている。