私の実家には、なんだかいろんな絵があった。
親の趣味の現代作家の作品がほとんどで、
安価だからだろうけれど、版画が多く、でも
少しだけ彫刻もあった。
今でもよく覚えているのは
切った弓形のスイカを持っている、帽子を被った空な目の少年の絵
人の骨のような形が画面いっぱいに連なっている白黒の版画
真っ青な空と緑色の芝を思わせる、でも限りなく抽象的な構成の絵
そして、鮮やかな何色もの色が放射状に広がっている版画。
子どもながらに、写術的な絵の分かりやすさが、
時に心やすく、時に怖かった。
先のスイカの少年などは、飾られるとあの空な目が
広いつばの帽子の下からじっと、私を見ているような気がした。
それから、大量の骨を思わせる版画を見るたびに
ポルポトの大虐殺の映像を思い出して、ひどく怖がった。
色自体は鮮やかなのに、暗さが全体を覆う芝の緑と
真っ青な空に、なぜか、いつもプールを思い出した。
一方で、抽象画は、どう見たらいいのかよく分かっていなかったと思う。
ある日、放射状の絵の作家(加納光雄)の巨大な版画が
狭い家の洋間にやってきた。
色の広がりのところどころを、直線が分断する。
とにかく、家のサイズには大きすぎる絵は
洋間の壁一面を塞ぎ、視界を圧迫した。
絵の前の椅子に座ると、放射状の色がどんどん伸びて
こちらへ襲いにやってくるような怖さを感じる時もあれば
色の並びが楽しく感じられる時もあれば
色の痕跡のようなインクの質感や形のディテールが
気になる日もあった。
子どもなりに、どう見えるのか考えたりもしたけれど、
結局自分自身は、写実的な作品の美しさに傾倒する傾向にあった。
家には、親の行った展覧会の図録や画集もあった。
呆れるほど雑多にあったのだけれど、記憶する限り一番よく見ていたのは、
エル・グレコの図録だった。
シンプルに人の姿が情緒的で、訴えてくるものが分かりやすかったからだろう。
歪んだ人体のデフォルメの記憶は、もしかしたら、
その後大学で彫刻を作っていた時、
やたら首の長い人へ執着していたことに、何かしら
影響していたのかもしれない。
(日本に戻ってきてから、今までだったら絶対行かなかったような、
西洋絵画の有名どころが一堂に展示された展覧会に足を向けたのも、
エル・グレコの作品があったからだった。
けれども、あまりにもたくさんの人々が、
音声解説のあったグレコの絵の前に居て、
まったく、絵画との対峙は叶わなかった。
再度、絶対こういう企画展には行くものか、と
心に誓う経験となってしまった。)
でも、私の中である時からやっと、
絵画という2次元、究極的には線と色と質感のみ、という
制限の中で表される、思考の体現としての絵画のあり方、
の面白さに、気づく。
それは、現代美術の楽しみ方にも共通する、
表現の奥行きを示唆し、ある意味、
私の思考力を、試されている気がした。
元々は、芸術学を専攻しようとして美術専科へ入ったから、
頭でっかちになりがちな私は、どうも
文字情報を頼りに、作者の意図を汲み取ろうとするのに必死で
うまく行く時もあれば、行かない時もある。
自分の中の何かが開かれた、と感じる時は響くものがあり、
そうではない時には、ただ混乱だけが残る。
そんな経験をしながら、私は、その開かれる感覚、のようなものを
求め続けて展示を見るようになった。
リヒター展に足を向けたのも、その可能性を試してみたい、と
思っていたからだった。
「具象表現と抽象表現を行き来しながら
人がものを見て認識する原理自体を表すことに
一貫して取り組み続けてきました。
ものを見るとは、単に視覚の問題ではなく、芸術の歴史、
ホロコーストなどを経験したドイツ20世紀の歴史、
画家自身やその家族の記憶、
そして、私たちの固定観念や見ることへの欲望などが
複雑に絡み合った営みであることを
彼の作品群を通じて、私たちは感じ取ることでしょう。」
展示会場の入り口にあった文章に、挑戦状を受け取った、と
マスクの下でにやっとした、気がする。
どれだけ感じ取れるのか、試してみよう。
いくつかの作品には解説がついていた。
無に限りなく近い色、として好んで使われている灰色が
テクスチャーとともに塗られた巨大なキャンバスの横には、
その色とテクスチャーを作品ごとに描き分けることで
「無と有との境目を見極めようとしている」と。
壮大な無が広がっていても素敵でいいではないか、と思いつつ
灰色の作品の一つに、ひどく惹かれる。
微妙な濃淡と筆やヘラの跡とのバランスがよかった。
灰色のみのキャンバスにテクスチャーが残ると、
その有機的な痕跡が余計に、
灰色の意味するところを強調しているように見える、という印象だった。
色や線の境界が曖昧な静物画や風景画は、
シンプルに、美しく見えた。
作者の意図とは異なるのだけれど、
絵画に込められた意図を横においても、絵画として美しい、
というのはそれだけで、ずっと見ていられる。
輪郭が個を際立たせるのであれば、
輪郭のない世界は、曖昧だけれど、解け入り
融和を感じさせる。
反対に、写真の構図をそのまま、同じく境界がぼやけた
女たちの絵は、解説を見る前から、どこか不気味だった。
報道写真として載せられる、無名の死者をそのように描くことで、
写真も絵画も、そのイメージを等質、等価にする、という考えに
基づいたシリーズだった。
コンセプトはとても実験的なのに、絵画として
非常に情緒的に見える作品が多いように感じる。
コンセプトがそれらの情緒性を制御する、という
微妙なバランスがそのまま、均衡を取れない揺らぎとなって
こちらの何かに、迫ってくる。
開かれた感覚、は7割程度、だった。
たぶん、選曲に限界があったからだ。
人によっては冒涜だと憤慨することなのかもしれないけれど、
多くの会場で、私はイヤホンから音楽を流しながら作品を見ている。
一番の理由は、自分自身の余計な思考を排除する手段としての音楽。
それから、特に人が多い会場では、周囲の気配を音だけでも
消したい衝動にいつも駆られるからだった。
けれど、休日なのにそれほど人のいなかった会場で
イヤホンをつけていたもう一つの理由は
実験をしてみたかったからだった。
抽象絵画は特に、耳から流れてくる音楽によって
作品そのものがまったく異なって見えてくるのに違いなくて、
では、どの音楽が自分の中でいいのか、探ってみようと思っていた。
けれども、会場には電波がなくて、携帯に落としている音源の他
聴くことが叶わず、
クラシカルなジャンルの持つ余白を合わせたかったのだけれど、
残念ながら選択肢が少なかった。
数少ない選択肢の中から、いくつかの曲を聴きながら
灰色のキャンバスの前のベンチにしばらく、座っていた。
こんな鑑賞の仕方をしている私は、常々、
作家には、音楽リストを作って欲しい、と思っている。
自分の描いた絵は、どんな音楽とともに鑑賞して欲しいのか。
同時に、けれども、周囲を遮断してただ、
絵と自分だけの世界の中に浸かりたいと願うことが、
絵画のみならず、特にファインアート全体のスノッブさを
助長する気もしていて、どこか後ろめたい。
一番いいのは、会場で作家の希望する音楽を
演奏することだろう。
レゲエでもパンクでもクラシックでも民族音楽でもいい。
時々、そういう企画が海外ではあるし、
日本でも個展などで画廊を使うときには、そんなイベントも時折見る。
天井の高い、空間に広がりのある日本の美術館で
そんな企画もあるのかもしれないけれど、
想像するだけでも、さまざまな制約が面倒そうだ。
美術館自体が開放され、音楽もまたそこで奏でられ
鑑賞者が自由に両者を楽しむことができたら、
どれだけ素敵なのだろう。
そんな、他の誰が望んでいるのかも分からない夢想をするのに、
警察官や監視員がやたらいる
皇居の脇の、ひどく凪いだお堀の中に浮かぶ、
藻の煌めきは、もってこいだった。
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