日本に戻ってきたら、必ず
いろんな展示を見よう、と思っていた。
それから、ライブも行きたいな、と。
例えば音楽に関してはヨルダンでも、
それなりにローマ時代の円形劇場で
シリア人歌手のライブがあったり、椿姫をしっかり鑑賞する機会があった。
でも、表現をめぐる記憶で一番衝撃だったのは、
狭い映画館でのロックライブだった。
ヨルダンでは一向にブームのやってこないロックを盛り上げようと、
数人だけが舞台の傍で、ヘッドバッキングをしている。
音作りは高校の文化祭程度のレベルなのだけど、
ロックを待っていた人たちのその姿に、一周回って
切実な何かが感じられて妙に、印象に残っている。
美術作品については、正直、ほとんどピンとこなかった。
10年以上前、ヨルダンで暮らし始めてすぐ、大方の美術館は回った。
絵画にしろ、彫刻にしろ、いい、と思うものはそれほど多くなかった。
そして、何かしら惹かれるものがある作品を作った作家は
見事にヨルダン人ではなく、イラクかシリアかレバノンか、スーダン出身だった。
その感触と印象がずっと後を引いて、結局、
家の向かいの丘にはギャラリーがたくさんあったけれど、
そこまで頻繁に、作家をチェックしたりしなかった。
その代わり、博物館と遺跡めぐりだけは、とにかくよく行った。
形の良さや色の良さ、をただ楽しみたければ、
さまざまな歴史の入り混じる、層の厚い土地から出てくる
ものものの方が、よほど魅力的だった。
個人的な意見だけれども、造形作品の形や色の面白さや美しさのツボには
人それぞれ違いがありつつも、
多くの人が腹の底からいい、と感じられ色や形には共通の良さ、
みたいなものがあると思っている。
ぺろっとそんな崇高なものを作る、本当に、抜きん出た才能を持った人も時々いるけれど、
そんな際立った才能がない限り、ある程度、感覚と技術を磨く訓練が必要だ、と
才能のない私は常々、痛感している。
ヨルダンの作家の多くは、感覚と技術も磨いていないけれど、
形だけそれなり、なものも多くて
どう見たらいいのか分からず、困惑させられた。
そして、テーマ、発想や着眼点の似たような表現が乱立していた。
それらの多くは、ひどく剥き出しで、
気持ちやイデオロギーがとかく強めだった。
エネルギーに溢れているけれど、なんでも
押しつけがちな彼らの性格をよく、映し出している。
自分の表現では、あからさまなものを好まなかったのも、
あまり興味を抱ききれなかった理由なのかもしれない。
もっとも、才能のある人に比べたら、
さっぱり造形的には破綻の多いものを作っていたのは私も同じなので、
酷評する資格もないのだけれど。
ヨルダンでも一歩、ファインアートの世界から抜け出て
ポップアートや伝統工芸、伝統音楽に目を向ければ
才能に溢れた人や、抜きん出た技術を持った人はいた。
表現の面白さを楽しめるようになるには時間がかかった。
一度、全く関係のないフィールドで働いてみたからこそ、
美術視点のこだわりのようなものがなくなって、
より表現の一つとしての芸術、が面白く見え始めたのだと思う。
仕事柄、社会問題を扱う作品を見ることが多い。
問題意識をどのように表現するのか、が興味深い。
そして、その根底に流れる、その人の大切にしているもの、を
できる限り汲み取ろうとする。
その作業が、面白い。
先日見た作品は、ミャンマーの動乱でなくなった方々の顔写真を
ひたすら集めて、ひたすら真っ白な折り紙で折り続けたものだった。
人が亡くなったことを近所の人々に知らせるために
天蓋のようなものを飾る習慣があるらしく、
人々の折り紙のマスクが、その天蓋の中にかけられていた。
天蓋の下にはQRコードがある。
それをかざすと、一人一人が、どこでどのように亡くなったのかが
データで出てくるようになっていた。
100人を越える人々のマスクがいくつもの天蓋にかけられる。
はじめ、QRコードを立ったままかざしていたのだけれど、
うまく焦点が合わなかったりする。
だから、天蓋の前にしゃがみ、カメラをかざすことになる。
そして、一人一人のお墓参りをするような感覚に襲われた。
しゃがんだまま見上げる、たくさんの顔。
広く白い会場に、天蓋が続く。
QRコードが知らせるデータの集積は、凄惨さばかりを訴えてくるのに、
会場はひどく、静謐な空気に覆われていた。
折り紙を折るとは、地味な手作業だ。
その時間、ただひたすら、写真に残るその人の顔に似せようと
顔を凝視し続けたのだろう。
制作にあたる手作業の間、きっと、ひたすら
その人々の人生に、思いを馳せていただろう。
誰かが、自分の人生に一定時間、思いを馳せている。
それは、亡くなった方の鎮魂に、もしかしたらいくらか、
手助けをするのかもしれない。
ある意味、作品自体は分かりやすい表現だけれど、
見る側に促す動作から生まれる、祈りのような感覚が
会場の空気とひどく、合っていた。
ライブのような、サーカスへも行った。
仕立て屋のサーカス、という、本物のサーカスだった。
美味しいものや本、音楽や服を販売するブースの奥に
サーカスの会場がある。
思い思いの場所で、思い思いの食べ物を口にしながら
開演を待つ。
演者がホイッスルを言葉のように鳴らしながら
飴を配りつつ、会場に入ってくる。
飴をもらえて、嬉しい。
それだけで、相互にやりとりのある、サーカスの空気を
感じることができた。
天井から下がる無数の布の帯が
サーカスの間にどんどんと形を変えていく。
演者もまた、布を巻かれて会場に同化していく。
演奏する人は、一人だけだけれど、
さまざまな音が折り重なって、膨らんでいく。
まゆのように、包み込まれる感覚を
久々に体感した。
コンセプトは本を読んでやっと、理解できたところもある。
読んでみて、もっと、サーカスを経験したい、という
思いが強くなってくる。
何かと同化したい、という思いが、元々強いのかもしれない。
音だけではない視覚的な、思考的な刺激やナッヂを通じて、
場に居る人々に、同じような感覚を経験させる装置、という
表現の方法が、新鮮だった。
作品として鑑賞されるもの、として、存在しがちなファインアートは
だから表現できることがある一方で、
その在り方自体が、権威的だったりもする。
力を持ったベクトルに足る、作品の存在意義が
担保できるほどのものを作らなくてはならない。
たぶん、とても難しいことだ。
彫刻など、もともと場所を占領し、そこにあり続けるものだから、
そのハードルの高さに、今更ながら、呆然としたりする。
それでも、また何かを作りたい、という身体の底から
湧き上がってきたりする。
とても混沌とした、整理のつかないものものだ。
物理的な整理は苦手だけれど、
思考には道筋をつけたいから、
さっぱり形にも、ならない。
けれども、表現の場へ、物理的に身体を置くことのできる環境を
もっと享受したい、という欲求は
さまざまな作品を経験するにつれ、
どんどんと膨らんでいく。
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