夢にまで見た豚バラの薄切りも、ある程度
見慣れた商品になってきた。
鶏丸々1羽の値段の高さにうなったり、
野菜の美しさと値段の高さに、頭を抱えたり、
トマトの種類に呆れたりしている。
ほとんど、どこへ買い物へ行っても、
ビニール袋は有料なのに、頼んでもいない商品の包装は過剰で、
この事象にも頭を抱えている。
包装に用いられる材料の多さと、それらの意匠と
美しさと、果てしない無駄が、私を途方に暮れさせる。
だから、本当に申し訳ないけれど、多くの商品は
それらのパッケージをその場で捨てさせてもらったりする。
徒歩圏内に必要なものがほぼすべて揃っていたアンマンでは、
肉は肉屋へ行き、ラムやら鶏やらの塊からミンチやぶつ切りやらにしてもらう。
野菜は包装されていないから、必要な個数や束だけレジに持っていった。
お店の人とは顔見知りで、世間話をしたり
料理の仕方を教えてもらったりしながら買い物をする。
そんな日常を当たり前にやっていたけれど、日本に戻ってきたら
違う文化の場所なんだ、ときちんと身体にインプットされていて
結構うまい具合にすぐ、馴染んだつもりでいた。
コンビニの入店時にあっさらーむあれいこむと挨拶はしない、とか
支払いではぼやぼや小銭を探していてはいけない、とか
レジ台に買いたい商品を並べてはいけない、とか
バラ売りになっている商品の味をつまみ食いして確かめてはいけない、とか
比較的うまくルールは、守れている、と思う。
(日本ではパクチーとイタリンパセリの違いがわからなくて
つまんで食べたりしなくてもいい。
希少なそれらはきれいにラッピングされているから。)
お店の人がものすごい不機嫌で無愛想なわけでもないし、
尋ねたら、ちゃんと正確な情報を教えてくれるし、
ウロウロしていたら声をかけてくれたりする。
けれども、なんとなくどこへ行っても
相手の心の内を悪い方へ考えがちな私は、
困っていそうだから親切心で声をかけている、というよりも、
邪魔だからなんとかしなくては、と思われているんじゃないか、とか
尋ね方がおかしいなんて、思われたりしていないだろうか、とか
小さく、動揺する。
だから、いつも少しだけ
スーパーとか、忙しそうなお店の買い物に出かけると
緊張して、不安になる。
結果的に、あんなにたくさんの美味しそうな肉や野菜が並んでいるのに、
実のところ、心からは楽しめなかったりする。
それでも、わさわさと買い込んで、料理に勤しむ。
アラブ料理は実のところ、いつも遊びに行ったお宅でも手伝ってばかりで
アンマンにいた頃も、自分の家ではそれほど頻繁に作らなかった。
麦をご飯のように炊いたフリーケ、という料理と、
くり抜いたズッキーニやナスにひき肉を入れて揚げて
味の濃いヨーグルトで煮たマハシーぐらい。
人からいただくことが多くて、自分で作る必要があまりなかった、と
いただきものに甘んじていた自分を苦々しく思い返す。
料理は、ある程度の時間と労力を費やせば、
確実に成果品ができる、という素晴らしいツールだ。
何かを作り、完了することが日常生活の中でほとんどないから、
「出来上がる」というゴールは、なんだか本当に、達成感がある。
例えば、鳥の出汁を取っている間、
ぐつぐつ煮える鍋の中を見続けてしまったり、
揚げているナスの色に魅了されたり、
きゅうりのチクチクした手触りが気に入ったり、
おそらく、なんでも楽しめる人間なのだと思う。
料理をしている間、よく見知ったお母さんたちの手を思い出す。
まな板を使わずにきゅうりやらトマトやら
葉物やらをきれいに切り刻むお母さんたちの、万能な手。
向こうには、やたらと巨大な鍋がたくさんあった。
鍋の蓋を開けるたびに、ふわっと広がる湯気と香りが、懐かしい。
大方の家の台所は、日も当たらない暗い部屋で
乾燥した空気が、そこだけ少し湿っていて、
いろんな匂いが入り混じっていた。
とにかく、見事に整理された台所。
キャンプの狭い台所でも、全ての食器と鍋が
美しく並べられていた。
どの料理も手間がかかって、絶対的に時間が必要だからだ。
一つの料理に、調理で行う工程のほぼすべて、
煮る、揚げる、炒める、が入っていたりする。
そして、サラダはやたらと細かく切る。
料理をしつつ、すぐ洗い物をこなし、手の届く場所にしまう。
スパイスや油も、勝手がいいように工夫されていた。
少し邪険にされながらも、足元で小さな子どもたちが遊び、
お母さんはいろんなところに目が行くから、
しっかり調理を進めながら、悪戯をしている子どもを叱る。
それなりに娘さんが大きくなれば、お母さんと一緒に調理を手伝い、
お母さんの手となり足となり、野菜切りから下の子の面倒まで
台所ですべてが、なされたりする。
台所は、お母さんたちの労力と熱意と愛情が詰まった場所だった。
台所など、日本ならそんなに気軽に入れる場所ではないけれど、
外国人の強み、ヨルダンでは、たくさんの台所を見せてもらった。
時々、荒れ果てた台所が見えてしまった家庭訪問のときには、
いろんなことを想像し、心配した。
でも、記憶に残っているのはほんの数件、
ほとんどの家庭は、いつも台所がピカピカで
どちらかといえば不精な私は、いつも心底、感心した。
そんなことを思い出しながら、炊き込みご飯が煮えるのを
仁王立ちして、見つめる。
出来上がったものを机に並べて、いただく。
味は、それなりに、再現率が高い。
けれども、向こうでいただいていたような、
心のフカフカするような美味しさは、どうしても感じられない。
そうやって、いつも、足りない何か、について考えて、
一口二口食べてから、ぼうっとしてしまう。
もう分かっている。
床に置いたいくつもの大きなお皿を囲む、
たくさんの人たちがいないのだ。
小さな子がサラダをつまみ食いしようとして、手を叩かれたり、
お皿に盛ろうとしてコップをひっくり返したり、
骨から肉をほぐしてくれようとして、慌てて断ったり、
弟妹のお皿にヨーグルトを乗せてあげたり、
何度も何度も、おいしい?とじっと見つめて聞いてきたり、
そんな、声や視線やちょっとした喧騒と、料理が、
常に一緒にあった。
あれがないと、美味しくないんだな、と
心底、途方に暮れる。
それでも、何度も作ってしまうのは、
とても矛盾して心散り散りだけれど、たぶん
あの雰囲気を思い出したいからなんだと、気づく。
困ったな、と、思いながらまた、
次は何を作ろうか、考える。
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