ワクチン接種の順番が回ってきたのが4月中頃。
ヨルダンでは、2回目の接種が21日後と決まっていて、
次のワクチン接種の通知は1回目の直後、自動送信で
携帯のSMSに届く。
2回目が完了したとき、一番初めに思ったのは、
これでやっと、幾らかだけだけど、人との距離を
縮めることができる、という安堵の念だった。
そもそも外国人で、奇異な目で見られがちな自分にとっては、
とにかく、ありがたい。
近くのオリジナルデザインのTシャツを売る店では、
ワクチン完了、とアラビア語でプリントされたTシャツがあった。
幾らか本気で、購入を考えたりする。
キャンプでも徐々にワクチン接種は広まっていて、
医療系や人と接する仕事をしているキャンプ内の人々には
優先的にワクチンが打てるようなシステムもできている。
ワクチンには種類があり、打つタイミングによって異なるから、
それぞれが、摂取したワクチンの副作用について、
思い思いの感想を口にする。
仕事始めの会話の中に、ワクチンの噂が含まれるようになって、久しい。
会議中、いつものように、別事業の電話が絶え間なくかかる。
使っている携帯電話会社の電波がキャンプの中ではすこぶる悪いので、
やはりいつものように、電波のいいところを求めて、彷徨う。
毎回電波のいい場所が異なるのはどうしてなのだろうか、と
キャンプのへりの茶色い荒野を眺めながら、途方に暮れる。
犬が群れになって荒野を走り回る様子を目で追いながら、
途切れ途切れの電話口の声を必死で理解しようとして、
目に砂が入らないようにしようとして、眉間にシワが寄る。
砂埃がひどい日だった。
砂埃が電波障害につながるのかどうか、確証は持てない。
けれど、それこそ竜のように立ち上がる砂の竜巻が
こちらに向かってくるのを確認しながら
いつもよりも聞こえの悪い原因がこれでなかったとしても、
物理的に音が聞こえなくなるのは仕方がない、と
プレハブに走って戻り、窓を閉める。
数十秒後、突風がプレハブを襲い、
竜巻の砂がプレハブの壁を打ち付ける音が響く。
安全な場所のはずなのに、身体が反射的に身を縮める。
そういえば、犬たちはあの竜巻の中、どうしているのだろうか。
この日は仕事終わり、久々にスタッフの家へ出向かなくてはならなかった。
どうにも、学校だけでは済まない用事があった。
ずっとコロナで先送りにしていたのだけれど、
いよいよタイムリミットが近づき、焦っていた。
ワクチン接種を終えたので、満を辞して訪問する。
プレハブが密集する地区へ出向くのも久々だった。
竜巻は場所を選ばないけれど、プレハブが多い方が
竜巻は崩れやすいので、影響は少ない。
細い路地が続く道は、学校のある場所よりもよほど静かで
ラマダン中の家々はどこも、ひっそりとしていた。
しばらく見ないうちに、大きくなった子どもたちが
パタパタと玄関口へと走ってくる音がする。
記憶の中の赤ちゃんの面影などすっかりなくなった子たちが
見慣れぬ顔に驚いたのか、またパタパタと遠ざかり、
離れた場所から私の顔をじっと見つめていた。
久々に訪問する家は、相変わらずよく掃除されていて、
砂埃など、どこにも見られない。
その状態に保つための努力がどれほど大変なものか、と
毎度建物の中に入るたび、静かに心打たれる。
よく、軒先に広がるコンクリート打ちの土間を
掃除する姿を見る。
大きなスクレーパーでまいた水と一緒に埃を押し出していく。
真冬であろうが夏であろうが、うつむき、必死で水をかく作業には
熱意以上に執念のようなものが、感じられたりする。
拭っても拭っても、日々積もっていく埃との戦い。
こんな日は、窓など開けられない。
珍しく湿気を感じる日だったから、プレハブで窓を開けられない空間は
空気がこもって重く感じられた。
濃い紫色を基調にコーディネートされた客間に通される。
今、日中と夜の限られた時間にしか、電気は配給されていない。
たまたま伺った時間にはまだ、電気が来ていたから、
扇風機が回っていた。
窓にかかった分厚い紫色のカーテンは、
冬は寒さを、夏は暑さを遮断する。
娘さんと一緒に歌を練習するのが、仕事後のタスクだった。
音を確認するために、ピアニカを使う。
ピアニカの音は、一台だけで吹くと、奇妙に明るくて、どこか物悲しい。
小さな子どもたちがいるのに、まだ小さくておとなしいからか
ひどく静まり返った家の中で、
ピアニカの音だけが響き渡る。
手を上下に振って、リズムを確認しながら歌う娘さんは
細くて可愛らしい声をしていた。
楽譜の音では低すぎたので、変調してみる。
これだったら歌える?と質問すると、娘さんは答える。
あぁ、私はなんでもいいのよ。
その返事が、お母さんと全く同じ口調の口癖で、
思わず、笑ってしまう。
でもその、どこか投げやりなのか、拘らないのか、
諦めているのか、控えめなのか、
真意がわからないことに、吹きながらどんどん、こちらが戸惑ってくる。
一度、どこまで高い声が出るのか試してみたくなって、
スケールをさらってみる。
こちらの子どもたちのほとんどは、音階練習をしたことがないので、
慣れるまで、音を合わせることができない。
でも、この子はしっかりと、音の上下が認識できていた。
辛抱強く、こちらの練習に付き合ってくれた娘さんは、
最後まであまり表情を変えず、でも、どこかで面白がってくれて、
時折、興味深そうな眼差しをこちらに向けつつ、
真剣についてきてくれた。
お母さんとそっくりだったね、
帰り道、ぽろっと私がそう言うと、
付き合ってくれていたスタッフもまた、にやっと笑って
私はなんでもいいのよ、と言う。
この口癖は、処世術なのかな、と思っていた。
誰かに合わせないと衝突が起きる可能性が高い環境にいたら、
発言としてはこう言っておくのが無難だ、と経験上
学ぶ機会がも多かったのかもしれない。
なぜなら、いつもその言葉を口にするとき、
お母さんはどこか頑なで、心からなんでもいいと思っている、とは
思えなかったりするからだ。
自らの意思を持って、こうしたい、というビジョンを
実はしっかり持っているのではないか、と疑っている。
今後娘さんがどう成長していくのか、想像する。
お母さん譲りのきれいな顔立ちの、美しい女性になるだろう。
大きくなった時、できれば心のうちに思っていることを、
ちゃんと口にできるような環境に身を置くことができるならば、
それはとても、幸いなことだろう。
本当に、なんでもいいのであれば、それでいい。
こだわりがないのもまた、すてきな個性だから。
それから、なんでもいい、が口癖なのもまた、個性だ。
心からの、なんでもいいのよ、が肯定に溢れていたならば、
それは、とかく主張や思いが人を傷つけがちな世の中で、
小さく輝く宝石のように、美しく響くだろう。
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