この日は、ずっと行きの車の中でもパソコンを開きっぱなしで
7年もののMacが酷使されていた。
乗客が何も話さなければ、ずっとラジオが流れる。
ラマダン中は特に、皆好んでコーランや説法の聴ける
チャンネルを選ぶ傾向がある。
ヨルダン初めての冬、雨で路面が川のようになった坂道を
滑り落ちるように走っていくバスを選ぶとき
バスターミナルでコーランを流しているバスを選んで乗っていたことを思いだす。
派手な音楽を爆音で流しているバスより
よほど、信頼できる気がしたからだ。
すっかり緑から茶に色を変えた土地の景色を
時折見ながら、頭を整理する。
教室の前の猫の額花壇に、奇妙な色を発見する。
ピンクばかりの花の中に一つだけ、同じ種類の黄色い花が咲いていた。
一体どうしてこんなことが起きるのだろう。
根で繋がっていると信じ込んでいたけれど、どうも
一つだけ違う株が混じっていたようだった。
当たり前だけれど、同じ種だから、
カサカサしたプラスティックの感触を思い起こさせる
乾いた花びらが光に反射する様も、同じだ。
あまり周囲の人たちは、花に関心がないようで、
私が相変わらず熱心に花を見ていることに、呆れていた。
ここのところ仕事の延長で、
日本語の歌をアラビア語で歌う、という課題が出されている。
話が来てからすでに数ヶ月経っているけれど、
学校が閉まり、移動も自由にできないので、
思うように進められていない。
ただ、学校の状況だけが、進まない原因ではなかった。
せっかく子どもたちでも歌えるように、優しく訳していただいたアラビア語が
どうも、純粋にアラビア語、という側面から見ると
完結していない、もしくは、何か違和感があるらしい。
歌詞を方々に送った時点で、その指摘は出ていたのだけれど、
どのように話を収めたらいいのか、
問題の要点が掴みきれない私には、まとめることができなかった。
結局この日、アラビア語の先生と一緒に、もう一度
歌詞を見直す作業をすることになる。
日本語からアラビア語に意味が訳されていればいい、と思っていたのだけれど、
そんな単純なことではなかった。
どうも、歌、というのは、歌詞の言葉の響きそのものも重要らしい。
そして、韻を踏めたら、歌いやすいらしい。
そして、韻を踏まないと、歌らしくない、らしい。
アラビア語の動詞には、韻を踏みやすい活用が多いけれど、
必ずしもすべての単語が同じ音で終わる活用ではない。
歌詞の意味を変えずに、音が揃うような単語を探す作業が始まった。
以前から薄々気づいてはいたけれど、
アラブ圏の多くの人にとって、歌は歌詞をきちんと言えるが大事なようだ。
詩の朗読に、独特な節回しをつけて読むこともあり、
私の耳には、それが歌うように聴こえる。
そんな詩の在り方が美しいとされていることも、
歌と詩が結びつく理由なのだろう。
(だから、往々にして子どもたちが歌を歌おうとすると、
一生懸命歌詞を読むことになる。)
メロディはなんとなく、という空気がないわけでもない。
でも、アラブ人の多くは、耳がとてもいい。
細かな発音の違いを正確に聞き分ける耳を持っている。
そして、鼻歌も歌うし、メロディを正確にコピーできる人もいる。
歌詞は二の次でもいいから、メロディを追うことの面白さや美しさも
享受して欲しいのだけれど、
音楽の授業ではアラビア語の勉強も兼ねているので、
下手な口出しはできない。
話し合いでは、個々人がそれぞれの立場で、こだわりを見せてくる。
アラビア語の先生と音楽の先生では観点が違うし、
日本語からの翻訳については、私が口を挟むことになる。
わがまま、という単語をめぐって、論争が始まる。
Selfish、と英語に訳された言葉をアラビア語にすると、
意味合いがきつくなるようだった。
selfish、がどのような場面で使われるのか、で
相当する単語が異なってくるということが、
やりとりの中でわかってきたので、勝手になんとなく思い浮かんだ例を口にする。
レジに並ぶ親の脇で、このお菓子が欲しんだ、と駄々をこねる様子を
あぁ、この子は◯◯ね、と大人たちが微笑みながら言うとしたら、
どんな単語?と訊いてみる。
子どもが歌うから、子どもの様子から言葉を考えた方がいい、とも思ったけれど、
例を口にしながら、歌詞を書かれた方はそう思っていないのかもしれない。
口にした後、他の子どものわがまま、についての例を頭の片隅で想像する。
小説を翻訳する人は、一つ一つの言葉を文脈に合わせて、
膨大な言葉のオプションの中から、適切な言葉を選びとっていくのだろう。
詩であれば、文脈は存在しないことも多いから、もっと難しいだろう。
その果てしない作業について、熱心な話し合いの傍で、
会話についていけなくなった私は、ぼうっと思いをはせる。
一応その場で、最後まで歌詞を見直すことができた。
けれども、今度は私が、頓挫する。
歌ってみようと思うけれど、さっぱり舌が回らないのだ。
拙いアラビア語の発音に、周囲がニヤニヤする。
これでいいのだろうか、というもやもやした疑問を胸にしまいつつ、
日が高く昇る前に、新聞配りを済ませる。
自然と担当区域が決まってきたので、2週前と同じお店に
新聞を貼りに回った。
服屋さんの軒先や店の中には、子ども服がいつもより多く、飾られていた。
生徒がハサミを入れる理髪店では、
ガラス張りの店のガラス窓に新聞を貼らせてもらっている。
店の生徒に挨拶し、中を覗いてみると
前回貼った新聞を、店の中の鏡の脇に貼り直してくれていた。
鏡の横にあれば、お客さんの目に触れることも多い。
生徒の計らいが、無性に嬉しくなる。
日本の美容院にはよく、雑誌などが置いてある。
なぜ美容院に貼ってもらうことを思いつかなかったのだろう、と
一瞬後悔したのだけれど、
よく考えてみたら、おしゃべり好きなアラブ人は
雑誌よりも会話が好きなのか、今まで行ったヨルダンの美容院に
雑誌らしいものは、あまり置いていなかった。
あぁ、女性はおしゃべり好きだからね、と男性スタッフは、笑う。
いやいや、理髪店でも同じでしょう、
髪を切り終わっても、お店に残って喋っている人を
よく理髪店では見かけますよ、と食ってかかる。
商店街では、前回と少し、店を変えていく。
立派な雑貨屋さんの入り口のドアに貼らせてもらったついでに
店の中も見せてもらう。
天井の照明の周囲にまで、装飾の柄が描かれていた。
ティッシュや掃除道具が並ぶ店の品揃えと
天井の花の柄が、妙な具合に合っていて
思わず写真に収める。
両面印刷をした新聞は、ガラス張りの店だと、なおいい。
店外からも店内からも、読める。
靴屋の外側に貼らせてもらって、可愛らしい子ども用の靴を
店の中に入って眺める。
スタッフには子どもがいるので、
子どもたちの歳を店の人に伝えていた。
イード(ラマダン明けの祭日)には、子どもの服を新調する。
日本のお正月みたいなもの。
子どもが服を新調することへの期待値は
大人になってからのそれよりも、果てしなく大きい。
私に関しては、すぐ汚していたよく叱られていたから
プレッシャーも大きかったけれど。
歳が大きくなるにつれて、子ども用の服の値段も上がっていく。
比較的安価な服は、納得できない装飾も多いから、
私はヨルダンで古着しか買わない。
だから、娘さんの服一式の値段を聞いて、正直驚いた。
同時に、顔を知っている娘さんが、新しい服に目を輝かせる様子を思い浮かべる。
お正月に古着を親が買ってきたら、
たとえ古着しか選択肢のない事情がわかってもやはり、悲しいだろう。
スカートやらワンピースやらヒジャーブやら
女の子は買うものが色々あるから、
どうしても嵩んじゃうんだよね、と嬉しそうに言うスタッフの話ぶりには、
父親独特の親心が滲んでいた。
道に面した家の水タンクの栓が緩んでいて
水がポタポタと漏れていた。
スタッフは丁寧に栓を閉めて回る。
すでに水気などどこにもないこの時期、
タンクの下の植物だけが、青々と茂っていた。
暑さと断食で、人の影もまばらなラマダン中の道には、
ロバ車もあまり、走っていない。
ロバ車を操る馭者の中には、手綱を手に、
だるそうに半分体を荷台に横たえている人もいた。
最近では、荷台に中古の座椅子を取り付けているものも出てきた。
瀟洒なカーテンをつけていたり、内も外もきらきらの包装紙で飾られたものもある。
ロバたちだけが、ラマダンのキャンプでも
変わらず寡黙に、働き続ける。
毎回、新聞貼りを終えると、スタッフたちはぐったりしてしまう。
いつも、一人だけ元気な私を尻目に、
彼らは水場で顔を洗って、汗とともに暑さも拭う。
ラマダン中はお化粧しない女性も多い。
だから、顔を洗っても大して問題は起きないのだ。
何をしても日に日に焼けていく肌を気にして
日焼け止めをたっぷり塗っている私には、到底できない。
一人、涼しい顔で話し合いを再開し、
私ではなく、スタッフの限界に気づき、
渋々、会議を終わらせた。
帰りの車の中でも仕事をしていて、気がついたら、
助手席のスタッフがいつの間にか、寝ていた。
アンマンの街は車で溢れかえっていて
誰も彼もが、空腹と渋滞に苛立っている。
渋滞にはまって車線も分からぬほどに車が密になり、
誰もが車の鼻先を少しでも前にのめり込ませることに
必死になっていた。
サイドミラーすれすれに車を寄せてきたおじさんが
助手席のスタッフを見遣る。
穏やかに寝息を立てている、やはりおじさんのスタッフを
欲しいお菓子を買ってもらえなくて我慢する子どものような
何とも言えぬ表情で、じっと見つめていた。
運転できるぐらいの大人になったら、
じたばたしてわがままを言うことは、できないのだ。
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