いつも通り、キャンプへ通じる門の前で、バスを降りる。
サブハーという町行きのバスだから、キャンプで降りる人の数は少ない。
赤白ハッタをかぶったおじいさんと、
ホブズという平たいパンの大量に入ったビニール袋を、両手にぶら下げた青年と、
艶やかなビロードのジュズダーシュ(ワンピース)を着た
おばさん二人と、外国人の私が降りる。
シリア人用の門を通る特別な許可証は持っていないので、
外部者用の門まで、歩く。
キャンプの入り口は二つあって、その入り口に延びる道も、二本ある。
シリア人用の門は幹線道路のすぐ脇にあって、そこから車に乗り換えられる。
でも、部外者用の門は、遠い。
部外者用の道の脇に、シリアナンバーの車を2台、見つける。
シリアナンバーの文字はいつも、劇画を思い起こさせる。
きちんとした書体の一つなのだろうけれど、
ナンバーにするにはいくらか、情緒的なもののように、映る。
2013、4年頃まではよく見た、シリアナンバーの車も、
内戦の長期化で、ヨルダン国内ではほとんど見なくなっていた。
車でヨルダンに来た人々も、ヨルダンで登録し直すか、
売り払ってお金を作らなくてはならなかったのだろう。
2台のうち一台は、ダラアナンバーで、セルビス(乗合タクシー)だった。
7人乗りの、角ばったハッチバック。
誰も乗っていないセルビスは、でも、乗客を待っているようだった。
もう一台はセダンで、セルビスが示す往き先には、
アンマン–シャーム–ベイルート、とピンク地に白抜きの文字。
話にはよく聞いていた、ヨルダン、シリア、レバノンの首都をつなぐ
セルビスの実物を見るのは、初めてだった。
車から少し離れたところで、ニカーブをかぶったお母さんと
就学前と思しき子どもが3人、じっと
ぱんぱんに荷物の詰まったビニール袋や段ボールを乗せる男たちを
微動だにせず、見つめていた。
つい、私も初めて見るセルビスの往き先を凝視してしまって、
しばらく、お母さんと子どもたちと一緒に、セルビスを眺めていた。
この車に乗ったら、シリアに往けるんだ、と思うと、
何だかとても、感慨深いような、胸を漉くような、
不可思議な気持ちにとらわれる。
お母さんに、挨拶をして、帰るんですか?と訊く。
そう、シリアに戻るの、と小さな声で、答える。
スーリア(シリア)、という言葉を、宝石のような、澄んだ音でつぶやく。
どこの町に戻るのか訊いてみると、シャームよ、と云う。
よかったですね、と云ってみて、その後言葉が続かない。
では、と往き道に足を向ける。
キャンプの門までの道は、何もなくて、長い。
いつもその道を歩くとき、キャンプへ入る心の準備を、する。
ひたすら門まで何もない、空ばかりが広い景色は、
真っ青に晴れていても、重くのしかかるような雲に覆われていても、
変わらずいつも、とてつもなく心細い。
誰もそんなところを、一人で歩いたりしないから。
内ポケットに入った許可証をまさぐりながら、今日もきっと大丈夫だ、と
心に云いきかせる作業を、儀式のように毎回、することになる。
でも、よく晴れて、あっけらかんと何もない景色を呆然と眺めながら
今日は、あのお母さんにかけたかった言葉を、考えていた。
シリアでの暮らしが、幸福で平和でありますように、ぐらい
云えばよかった、と、思う。
サイーダ(幸福な)だったり、サラーム(平和な)だったり、
ヘルウェ(素敵な)であったり、
そんな形容詞が、どれもこれも、どこかが違っている。
本当にそうなってほしいと、もちろん願うけれど、
現実になるかどうかが分からない言葉や、その意味が曖昧な言葉、
その言葉の示すものが私の想像するものとは違うかもしれない言葉を、
安易に使えないような気がして、
結局、云わなくてよかったのかもしれない、などと逡巡している間に、
門まで着いてしまった。
門番の警察職員は、朝食を食べているところだった。
許可証を見せ、何事もなく、門を通過する。
ふざけたような高い声音で、会話を再開する職員たちの会話を後に、
タクシーを探す。
今日はタクシーの運転手が入れ替わる日で、
車両はすべて、許可証発行の事務所の周りに集まっていた。
仕方がないので、しばらく歩くことにする。
空き地で石を投げる子たち、
道路を三輪車で走ろうとする弟を、無理やり道路から降ろそうとする女の子、
キャンプ内の巡回バスのバス停で一人、
テコンドーの服を着て、靴を脱ぎ、型の練習、柔軟をするヒジャーブの女の子、
明らかにサイズの合わない、大きな自転車を立ち漕ぎして、
ハロー、と声をかけてくる男の子2人、
ホースを振り回し、地面を叩きながら歩く3歳ぐらいの男の子、
プラスティックの椅子を空き地に出して、道を眺めるおじさんと子ども、
気の弱そうな犬にビニール紐をつけてひっぱる、4、5歳の男の子3人。
首がしまっちゃうから、ひっぱっちゃダメです。
犬も生き物なんだから、優しくしてあげて。
そう云うと、分かったのか分かってないのか、3人とも神妙な顔をしていた。
天気がいいと、道を往く大人の数も、多くなる。
学校が休みだから、外で遊ぶ子どもたちも多い。
遊びの種類も随分と限られているだろうに、
ビー玉やら石やら、犬やら紐やら、棒きれやらボールやら、
手近なもので工夫して、遊ぶ。
人がいる情景ならば、そのどれもが興味深くて、
さりげない風を装って、何をしているのかつい、観察してしまう。
そして、薄茶色に汚れた大量のプレハブの上には、青い空。
ゆるく起伏のあるキャンプには、
キャンプの3分の1ぐらいは見渡せる地点が何箇所か、ある。
学校は南東にあるので、常に太陽に向かって、歩くから、
どうしようもなく、砂にまみれたプレハブも
ところどころ、反射して、光る。
目に映る白い絨毯のようなプレハブの波の裏では、きっと、
喧嘩をしている子どもたちがいるだろう。
どこの家の軒先でも、子どもたちは遊んでいるし、
女性たちは洗濯物を干している。
1週間に80人ぐらいの赤ちゃんが生まれているから、
今この瞬間にも、キャンプ内の病院では赤ちゃんが生まれているかもしれない。
暗い相談をしなくてはならない男たち、
家の掃除を手伝う子どもたち、
ゴミ拾いの仕事に勤しむ大人たち、
開店前の準備をする青年たち、
朝食用のバグドゥーネス(イタリアンパセリ)を刻む妻たち、
ファラーフェルを買いに往く子どもたち、
シリアに戻る荷造りをしている家族たち、
野菜の乗った荷をひくロバを叩く男たち、
携帯ゲームに夢中になる青年たち、
遠い誰かにメッセージを打つ人たち。
知っている限りの、今、視界には入らない人々の営みを、想像する。
その行為に、何の意味もない。
ただ、自分の想像力の限界を知らされるだけだ。
もっともっと歩いたら、この想像の先に、何かしらの哲学的な思考が
伴ってくれるのかもしれないなどと、思った。
ふと顔を上げると、もう、すぐ先に学校が見えていて、
ビー玉を両手にたっぷり持った生徒が、私の顔を見て、走り寄ってくる。
こんにちは、げんき?、と、
青や緑のきらきらしたビー玉を見せながら挨拶してくる。
ビー玉いっぱいだねぇ、と私が云うと、
たくさんあることを認めてもらったことで満足したのか、
にっこり笑って、じゃあね、と言い捨て、走り去っていった。
そこに、どのような哲学的思考が生み出せるのか、やはり、
頭の悪い私には、分からない。
でも、目一杯、感じさせるものは、ある。
今のところは、それらを受け止めるだけで精一杯だ、と
うっすら汗をかいた額にはりつく髪を払って、
学校の脇の、何もない空き地と、空を、見遣る。