2019/01/31

ある晴れた冬の日の、学校への往き道


いつも通り、キャンプへ通じる門の前で、バスを降りる。
サブハーという町行きのバスだから、キャンプで降りる人の数は少ない。
赤白ハッタをかぶったおじいさんと、
ホブズという平たいパンの大量に入ったビニール袋を、両手にぶら下げた青年と、
艶やかなビロードのジュズダーシュ(ワンピース)を着た
おばさん二人と、外国人の私が降りる。

シリア人用の門を通る特別な許可証は持っていないので、
外部者用の門まで、歩く。

キャンプの入り口は二つあって、その入り口に延びる道も、二本ある。
シリア人用の門は幹線道路のすぐ脇にあって、そこから車に乗り換えられる。
でも、部外者用の門は、遠い。

部外者用の道の脇に、シリアナンバーの車を2台、見つける。
シリアナンバーの文字はいつも、劇画を思い起こさせる。
きちんとした書体の一つなのだろうけれど、
ナンバーにするにはいくらか、情緒的なもののように、映る。


2013、4年頃まではよく見た、シリアナンバーの車も、
内戦の長期化で、ヨルダン国内ではほとんど見なくなっていた。
車でヨルダンに来た人々も、ヨルダンで登録し直すか、
売り払ってお金を作らなくてはならなかったのだろう。





2台のうち一台は、ダラアナンバーで、セルビス(乗合タクシー)だった。
7人乗りの、角ばったハッチバック。
誰も乗っていないセルビスは、でも、乗客を待っているようだった。

もう一台はセダンで、セルビスが示す往き先には、
アンマン–シャーム–ベイルート、とピンク地に白抜きの文字。
話にはよく聞いていた、ヨルダン、シリア、レバノンの首都をつなぐ
セルビスの実物を見るのは、初めてだった。

車から少し離れたところで、ニカーブをかぶったお母さんと
就学前と思しき子どもが3人、じっと
ぱんぱんに荷物の詰まったビニール袋や段ボールを乗せる男たちを
微動だにせず、見つめていた。

つい、私も初めて見るセルビスの往き先を凝視してしまって、
しばらく、お母さんと子どもたちと一緒に、セルビスを眺めていた。
この車に乗ったら、シリアに往けるんだ、と思うと、
何だかとても、感慨深いような、胸を漉くような、
不可思議な気持ちにとらわれる。

お母さんに、挨拶をして、帰るんですか?と訊く。
そう、シリアに戻るの、と小さな声で、答える。
スーリア(シリア)、という言葉を、宝石のような、澄んだ音でつぶやく。
どこの町に戻るのか訊いてみると、シャームよ、と云う。
よかったですね、と云ってみて、その後言葉が続かない。
では、と往き道に足を向ける。



キャンプの門までの道は、何もなくて、長い。
いつもその道を歩くとき、キャンプへ入る心の準備を、する。

ひたすら門まで何もない、空ばかりが広い景色は、
真っ青に晴れていても、重くのしかかるような雲に覆われていても、
変わらずいつも、とてつもなく心細い。
誰もそんなところを、一人で歩いたりしないから。

内ポケットに入った許可証をまさぐりながら、今日もきっと大丈夫だ、と
心に云いきかせる作業を、儀式のように毎回、することになる。


でも、よく晴れて、あっけらかんと何もない景色を呆然と眺めながら
今日は、あのお母さんにかけたかった言葉を、考えていた。
シリアでの暮らしが、幸福で平和でありますように、ぐらい
云えばよかった、と、思う。
サイーダ(幸福な)だったり、サラーム(平和な)だったり、
ヘルウェ(素敵な)であったり、
そんな形容詞が、どれもこれも、どこかが違っている。

本当にそうなってほしいと、もちろん願うけれど、
現実になるかどうかが分からない言葉や、その意味が曖昧な言葉、
その言葉の示すものが私の想像するものとは違うかもしれない言葉を、
安易に使えないような気がして、
結局、云わなくてよかったのかもしれない、などと逡巡している間に、
門まで着いてしまった。





門番の警察職員は、朝食を食べているところだった。
許可証を見せ、何事もなく、門を通過する。
ふざけたような高い声音で、会話を再開する職員たちの会話を後に、
タクシーを探す。


今日はタクシーの運転手が入れ替わる日で、
車両はすべて、許可証発行の事務所の周りに集まっていた。
仕方がないので、しばらく歩くことにする。

空き地で石を投げる子たち、
道路を三輪車で走ろうとする弟を、無理やり道路から降ろそうとする女の子、
キャンプ内の巡回バスのバス停で一人、
テコンドーの服を着て、靴を脱ぎ、型の練習、柔軟をするヒジャーブの女の子、
明らかにサイズの合わない、大きな自転車を立ち漕ぎして、
ハロー、と声をかけてくる男の子2人、
ホースを振り回し、地面を叩きながら歩く3歳ぐらいの男の子、
プラスティックの椅子を空き地に出して、道を眺めるおじさんと子ども、
気の弱そうな犬にビニール紐をつけてひっぱる、4、5歳の男の子3人。

首がしまっちゃうから、ひっぱっちゃダメです。
犬も生き物なんだから、優しくしてあげて。
そう云うと、分かったのか分かってないのか、3人とも神妙な顔をしていた。


天気がいいと、道を往く大人の数も、多くなる。
学校が休みだから、外で遊ぶ子どもたちも多い。

遊びの種類も随分と限られているだろうに、
ビー玉やら石やら、犬やら紐やら、棒きれやらボールやら、
手近なもので工夫して、遊ぶ。

人がいる情景ならば、そのどれもが興味深くて、
さりげない風を装って、何をしているのかつい、観察してしまう。





そして、薄茶色に汚れた大量のプレハブの上には、青い空。

ゆるく起伏のあるキャンプには、
キャンプの3分の1ぐらいは見渡せる地点が何箇所か、ある。

学校は南東にあるので、常に太陽に向かって、歩くから、
どうしようもなく、砂にまみれたプレハブも
ところどころ、反射して、光る。

目に映る白い絨毯のようなプレハブの波の裏では、きっと、
喧嘩をしている子どもたちがいるだろう。
どこの家の軒先でも、子どもたちは遊んでいるし、
女性たちは洗濯物を干している。

1週間に80人ぐらいの赤ちゃんが生まれているから、
今この瞬間にも、キャンプ内の病院では赤ちゃんが生まれているかもしれない。


暗い相談をしなくてはならない男たち、
家の掃除を手伝う子どもたち、
ゴミ拾いの仕事に勤しむ大人たち、
開店前の準備をする青年たち、
朝食用のバグドゥーネス(イタリアンパセリ)を刻む妻たち、
ファラーフェルを買いに往く子どもたち、
シリアに戻る荷造りをしている家族たち、
野菜の乗った荷をひくロバを叩く男たち、
携帯ゲームに夢中になる青年たち、
遠い誰かにメッセージを打つ人たち。

知っている限りの、今、視界には入らない人々の営みを、想像する。

その行為に、何の意味もない。
ただ、自分の想像力の限界を知らされるだけだ。

もっともっと歩いたら、この想像の先に、何かしらの哲学的な思考が
伴ってくれるのかもしれないなどと、思った。



ふと顔を上げると、もう、すぐ先に学校が見えていて、
ビー玉を両手にたっぷり持った生徒が、私の顔を見て、走り寄ってくる。

こんにちは、げんき?、と、
青や緑のきらきらしたビー玉を見せながら挨拶してくる。
ビー玉いっぱいだねぇ、と私が云うと、
たくさんあることを認めてもらったことで満足したのか、
にっこり笑って、じゃあね、と言い捨て、走り去っていった。

そこに、どのような哲学的思考が生み出せるのか、やはり、
頭の悪い私には、分からない。

でも、目一杯、感じさせるものは、ある。

今のところは、それらを受け止めるだけで精一杯だ、と
うっすら汗をかいた額にはりつく髪を払って、
学校の脇の、何もない空き地と、空を、見遣る。


2019/01/16

彼らの暮らしと、話の断片 1月2週目


12月の末から、ヨルダンでは、マアルバインという時季がやってくる。
3月の後半からは、ハムシーンという時季がやってくる。

アルバインは40、ハムシーンは50
40日間続く、一番寒い時季、そして、50日間続く、砂塵の時季。

急激な気候の変化は、いつもアラブ人の気質を思い起こさせる。
急に天候が変わる。
絵に描いたような、穏やかな冬晴れの朝は一瞬で、
突風とともに雲が走るように流れてきたと思ったら、
溜まり溜まった水分を吐き出すように、
雨ではなく、突然雹が降ってきたり、する。

天候が悪いことが予報で出ると、人は家から出たがらない
だから、道はいつもより随分と空いていて、
家に入れば、いつもより、暖房が効いている。

カーテンの開いている部屋に通されると、外が気になる。
強い風に、ビニール袋やら、トタンやらが飛んでゆくのを
そして、黄色く染まった空をふと、眺めてしまったりして、
会話を聞き逃す。


たまたまこの日、随分とどこの家の人も、よく、話をしてくれた。
だから、滞在時間が長くて、3軒しか、回れなかった。

そして、どの家でも、家族がみんな、ストーブの周りに集まる。
だから、部屋にいる家族との距離が近くて、
話している内容は、とてつもなく辛かったりするのだけれど、
なんだか妙に、親密な空気が流れていた。

だから、いつもは断るコーヒーを、行った先で頂いたりして、
トルキッシュコーヒーの苦い粒が、口の中に、残る。






1件目:マルカ ジャヌビーエ

アンマンの郊外は、薄茶色の空き地が目立つ。
隣の県との境には、大きなジャンクションがあって、
その周辺はあまり、建物がない。

訪問先は、ポツポツと建物が点在する、そのさらに端っこにあった。
似たような建物が4棟、並んでいる。

今日が最後だという期末テストを受けに、子どもは学校に行っていた。
北に向いた居間の窓は、カーテンが閉まっていて
薄暗い部屋の中で、お母さんとお父さんが、それぞれ
ソファーの端に座っていた。
この国では珍しい、一人息子だった。

学校からもらった情報では、その家はシリア人家庭のはずだったのだけれど、
話していたら、シリア人ではなく、純粋なヨルダン人だった。
どうして学校は間違えていたのだろう、疑問に思う。

聞けば、この建物はクエートの団体が買い取って、
シリア人のために、水道、光熱費のほかは無料で、部屋を貸していると、いう。
ここのお父さんはその建物群の管理者として、働いているとのことだった。

おそらく、学校は建物の名を聞いて、シリア人と勘違いしたのだろう。

お母さんは小柄な人で、訊かれないと答えないお父さんに比べて、
積極的に会話をしてくれた。
一人息子が、大切で大切で仕方がないのだろう。
7年生になる息子は、学校のことをなんでも話すし、
宿題もお母さんが随分と熱心に、見ているようだった。

私立に6年生まで通っていた、というここの息子を
公立の学校に編入させた理由に、
点数のかさ増しを指摘していた。
息子の点数がいいのは、先生たちが親へのおべっかで、点数を10点足していたからよ、
とお母さんは云う。
勉強ばかりさせるのに、結局学力が身についていないなんて、よくないわ。
公立の学校の方が、実力をはっきり分からせてもらえる。
将来大学入試試験もあるのだから、
息子の学力は正当に測られるべきよね。

珍しい話だった。

まだ今の学校には半年しか通っていないから、
学校での息子の様子は気になる。
お父さんは足しげく学校に行き、
息子の様子を先生に訊く。
でも、ありがたいことに、息子は誰からも
礼儀正しく、優しく、思いやりがある子だ、と云ってもらえる。

近所はほとんどシリア人ばかりだけれど、
シリア人だろうが、パレスティナ人だろうが、イラク人だろうが
分けてグループにする考え方は、おかしいでしょ。
どんな人にも平等に、礼儀正しく接することは、
人として最低限、大事なことですから。

お母さんは、滑らかなアラビア語で、
熱心にそう、話していた。

近くにはモンテッソーリ教育を実施するセンターがある。
4歳からビーズ細工などを教えながら、集中力を培う。
そこで働くのは、シリア難民のお母さんたちで、
スカイプなどで講義を受け、資格を取ってからセンターで働く。

素晴らしい先生たちだし、素晴らしい教育なんですよ。
そこを卒業して小学校に入る子どもたちはみんな、
成績もいいし、行儀もいいんです。

私は、よく、アラブ人の外面の良さを揶揄する。
アラブは皆兄弟だから、と云いながら、その実
偏見に満ちた言動をする彼らの言葉を、そのうち信じなくなる。
そして、信じられない自分に、嫌気がさしたり、する。

でも、ここのお母さんは心底、いい人はいい、いい教育はいい、と
感じて、口にしていた。

あなたみたいなお母さんにお会いできて、本当にうれしいです、と
つい、帰りがけに、云ってしまう。
いつも一緒にフィールドへ出るスタッフが、
にこやかな、でもほんの少し怪訝な表情で、私の顔を見る。


2件目:ジャバル・アハダル

小さな男の子が二人、ちょろちょろと走り寄ってきて、
小さな目でこちらをしっかり見て、小さな手できちんと握手をして、
アパートメントを案内してくれる。

細い階段の路地を抜けて、アパートメントの階段を
上ではなく、下に、降りてゆく。
アパートメントは丘の端に建っていて、階段は吹きっさらし、
空は黄色がかった白い霧で、覆われていた。
隣の敷地のオリーブの木が、風に煽られてその葉を剥ぎ取られる。

扉を入るとすぐに、広い部屋があるのだけれど、
ものは何もなくて伽藍堂で
奥の奥の、部屋に案内される。
部屋に入ると、でも、4畳ぐらいの狭い部屋の端で、
お父さんが毛布にくるまって横になっていた。

ここにしかストーブがないから、と
お母さんは、その部屋を勧める。
でも、スタッフは断ろうとする。
結局他の部屋へ勝手に行くわけにもいかず、
お父さんに向かい合う形で、座る。

お父さんがどんな病気なのかは、分からなかった。
訪問中ずっと、薄く笑みを浮かべながら、ほとんど何も、喋らなかった。
心に病気がある、と云う単語だけは、聞き取れた。
どうしてそうなってしまったのか、訊くことはできなかった。

子どもたちは全部で5人、みんな男の子で、とても仲が良かった。
長男と次男は、同じ今時の髪型をして、同じスウェットを着ていた。


お母さんは、学校の先生のように、
子どもたちの良いところを一人ずつ、教えてくれる。
お母さんは、大きな丸い目と、きれいに半円を描いた眉、
ふくよかで、安定感がある。

長男は6年生まで学校に行ってから、働いていた。
みんな男の子ばかりで、女の子が一人もいないから、
お母さんのお手伝いは、昔から長男が、する。
お父さんが病院に泊まらなくてはいけなくて、
お母さんが家を留守にしていたら、
鶏を使った料理を、自分で兄弟のために作っていた。
いつも台所でお母さんの料理の様子を見ていたらから、
自然と覚えていた。

お父さんが働けないからその代わりに、2年間仕事をして
一家を支えていた。
最近やっと面接を受けて、彼の分の70JDだけは、
NGOから支援がもらえることになりそうだ。

2番目の子は、壊れてしまったものを、
新しい何かに、作り変えることができる。
彼の箱、には、使えなくなった電球のソケットや
携帯のパーツや、何やら分からないコードや、ホースが入っていた。
ウォーターサーバーを、段ボールを土台にホースと蛇口をつけて
作ったこともある。
大きなガロンのボトルではなく、ペットボトルを取り付ける。
携帯電話も直すことができる。
絵も、上手だ。


3番目の子は、歌が上手だ。
長男が歌詞を考え、3番目の子がメロディーをつける。
何か歌って、とさんざんお願いしたら、
サッカーのシリア戦で、シリアを応援する歌を、歌ってくれた。
恥ずかしがり屋なのかと思ったけれど、
UNの開催したイベントですでに、人前で歌ったこともある、とのことだった。

4番目の子は、どうも遊ぶのだけが、得意なようだった。
まだ2年生のその子は、とにかく無邪気に、
一番下の子と一緒に、ビー玉遊びをしていた。
ビー玉をガスストーブに当てて大きな音を出して、
やっちゃった、という顔をする。
一番下の子と二人、ころころと子犬のように、じゃれ合いながら
私の手帳に書かれた文字を、興味深そうに、時々、覗いていた。

学校の先生のことを、でもこのお母さんはあまり
評価していなかった。
学校に子どもの様子を見に行ってみたら、
職員室でお茶を飲んで、タバコを吸って、
教室に行かない。
昔働いていたUNRWAの学校でも、大方似たような状況だったので、
よくある話、と慣れてしまっていたけれど、
お母さんは真剣に、子どもたちの教育のことを気にかけていた。

お母さんもまた、NGOの主催する教育プログラムに参加していた。
パレスティナ、イラク、シリア、スーダン、イエメン、ヨルダンの6カ国の
お母さんたちが集まって、子どものためのアクティビティを実施すると云う
プログラムで講師をしたこともある。

自分自身は学校を途中でやめているから、
子どもたちにはどうにかして、最後まで学校に行って欲しい。

長男は医者に、次男はエンジニアに、
3番目はジャーナリストになりたい、と云う。
長男は、話す時に神経系の障害があって、言葉が出てくるのに時間がかかる。
だからこそ、自分は将来医者になりたい、と。
3番目がどうしてジャーナリストになりたいのかは、訊きそびれてしまった。

長男が作った映像を見せてくれる。
母の日に、お母さんに向けた詩が、画面に出る。
長男の朗読が、音楽をバックに、流れる。

一番下の子を膝に乗せたまま、長男は携帯電話を手渡してくる。

お母さんは、子どもたちの教育支援を期待していた。
確かに、その家は学校からかなり、遠かった。
去年の9月から交通費支給が打ち切りになったので
1時間かけて、徒歩で通学しなくてはならない。

現金支給はできないので、どこかにそのような支援をしている団体があったら
連絡すると、約束する。
正直、なかなか支援が目に見えて目減りしている今
限定的にそのような支援をしている団体がいるとは思えず、
心苦しかった。

話の途中で、次男がコーヒーを作って出してくれた。
断っても断っても、作ってくれる。
お盆に乗ったコーヒーを受け取ると、
砂糖があるから、と中腰でお盆を持ったまま、
こちらが砂糖を入れて、混ぜたスプーンを戻すまで、じっと待っていてくれる。

第3国定住を申請している。
UNHCRのオフィスへ面接に行き、
血液検査もしているけれど、2年間、連絡はない。
この国では働けない。働けなければ生きていけない。
他の国に行けば、難民として保護を受けるか、
働けるチャンスがあるかもしれない。



息子たちが、本当に仲睦まじかった。
家族みんなが、支え合うことの何たるか、を
見事に体現している。

子どもたちだけ写真を撮らせてもらえないか、訊いてみる。
すると、3番目の子だけ、嫌がった。
以前難民の家族として、テレビ番組に出たことがある、と云う。
歌を歌った映像が流れたけれど、恥ずかしかった。


嫌だったら、本当にいいんです、そう云うと、
でも、あなたの思い出用だったらいいよ、と云って
3番目の子も兄弟の輪に、入ってくる。

家を出る前に、最近キャンプで覚えた、
手遊びを交えたお別れの挨拶を、やってみる。
下の3人が何度も何度も、一緒にやってくれた。
お互いの調子が合わなくて、手がずれる度に、
心底おかしそうに、笑っていた。

風が強いからいい、と何度断っても云うことを聞かず、
4番目の子がアパートメントの入り口まで、
見送りに来てくれた。


3件目:ハイ・ナッザール


この地域の中心地にほど近い、目抜き通りの建物が
訪問先だった。
場所が分からなくて、道をうろうろしていたら、
窓から身を乗り出して、歳の行った女性と小さな子が、手を振る。

この家も、入ったすぐの部屋には何にもなかった。
奥の小さな部屋に、ガスボンベを直接つなぐ形の
ストーブがあった。
火力が強くて、結構危険なストーブ。

子どもが5人居て、一番小さな子はまだ1歳過ぎぐらいで、
お母さんに抱っこされている。
家族構成がよく分からない。
Asylum Seekerには2年生と1年生の二人の子どもと、
窓から手を振っていた女性のみが登録されている。

この二人の子どものお父さん、女性の息子は、
7年間行方知れず、だった。
2013年、逃げてくる時、
目の前にいる1年生の子を身ごもってたった、10日あまりだった。
この子たちのお母さんは、でも、
別の人と再婚して、もうこの家に居ない。
お母さんもお父さんも居ないから、お父さんの母親、
この子たちのおばあさんが、家長として登録されていた。

他の3人の子どもたちは、おばあさんの娘、
子どもを抱っこしている女性の子どもたちで、
イルビッドから遊びに来ていた。
国籍はヨルダンだけれど、シリアで生まれ育った夫は、
パレスティナ人だから、
最近公立校からUNRWAの学校に転入している。

UNRWAの方が教育レベルが高い、というのが、その理由だった。
学校でコーラスの授業を、アメリカ人の女性がしてくれる、
その音楽会が来週あるのだ、と
一番上の6年生の女の子はうれしそうに、話す。
その子の行っている学校には、昔私の友人が、
ボランティアの音楽教員として働いていた。

音楽の授業があるなんて、いいですね、と呟くと、
私はもう、爆弾の音とかで、
耳が右の耳がおかしくなっちゃっているんだけどね、とおばあさんは、云う。


おばあさんの世帯に入っている孫二人のうち、上の男の子は、
見た目ですぐ分かるほどの、やんちゃっ子だった。
何度もベランダにドアをバタバタと、
閉めたり開けたりしながら出たり入ったりして、
部屋の中に入れてある小さな自転車を乗り回したり、していた。
話の途中でマットの上に横になり、
ごろごろしながらこちらの話を、聞いているのか聞いていないのか、
分からない。

コーラン教室に行っているけれど、遊びはなくて
コーランを読むか、お祈りのやり方を学ぶだけだから、
つまらなくて、この子、全然好きじゃないのよね。

おばあさんに名前を呼ばれると、男の子はバツが悪そうに
起き上がって、こちらの質問に答えたりしていた。
外行ってもいい?と、とりあえず訊いてみたりして、
その度に、だめ、と、おばあさんに、一蹴される。


下の女の子は、すこぶるおとなしかった。
思慮深そうな表情で、こちらのことを時々、じっと見ていた。

学校の様子や近所のことなどを一通り訊いた後、
おもむろに、近所に住んで、別の所帯を持つ息子の話になる。
今日、数年に渡って待ち続けていた、
第3国定住の結果を、聞きに行っている、という。

おばあさんの子どものうち、
二人はまだ、出身の街、ダラアに、
一人はトルコに、一人はアメリカに、二人はヨルダンに、居る。
いろんな国に子どもたちは居るけど、
ヨルダンが一番、物価も高いし、家賃も高いし、苦しいわよ。

どこにいたって大変だけど、
とにかく心配なのは、この孫たちだ、と
おばあさんは投げ出した太い足をさすりながら、云う。

おばあさんの顔はどこもかしこもシワだらけで、
地味な柄のポリエステルのワンピースと、灰色のカーディガン、
こげ茶のヒジャーブはまさに、ダラアのおばあさんスタイルだった。

きっと、おばあさんがダラアに居たら、
こうやって足を投げ出して、庭に続く階段にでも座って、
夕方の景色を楽しんでいただろう。

夫はもう一人の妻とまだ、シリアに居る。
私だっていつまで生きていられるか分からないし、
他の人たちだって、自分たちの人生でいっぱいいっぱいだ。
そんなに面倒をかけるような存在にはなりたくない。
でも、この子たちはまだ、こんなに小さいし、
私の他に、面倒を見る人もいない。


ごろごろしていた男の子は、どうも喧嘩っ早い、と
おばあさんはぼやいていた。

喧嘩をするには、理由があるでしょ、と男の子に訊いてみると、
だって、お父さんのことを悪く云うんだもん、と、答える。
少しでもお父さんのことを口にするやつは、みんな叩くんだ、と
男の子は、頑なな目で、云う。

この子の目は、キャンプで手を焼いていた男の子にそっくりだった。
その子もお父さんは居なくて、男親がいないと締まりがない、と
家族はどうしたらいいか分からなくて、困り果てていた。

今日は4時半から歯医者なのよね、とおばあさんは男の子に話しかける。
見れば、上の前歯二本と、下の前歯が一本、ない。
歯医者に行くなんて、勇気があるわねぇ、と
私は歯医者が大嫌いなので、本当に、感心して云う。
歯医者の先生が、一通り遊んでから治療してくれるから、
この子、歯医者の先生が好きなのよ、と
おばあさんが足をさすったまま、しわしわの顔でふっと、笑う。

いとまを乞うと、おばあさんは重そうな身体を、両腕で支えながら
立ち上がる。

ドアまで揃ってきてくれた家族たちは、
きちんとみんな握手をしてくれる。
一番小さな子だけは、スナック菓子でベトベトになった小さな手に、
こちらの小指を寄せてみたら、
じっとこちら顔を見つめ、そのあと大声で、泣き出した。





とぅー たっちど、だよね、と云われて、そうかもしれない、と思う。
それは、感傷的すぎて理性に欠ける、ということを意味していて、
その状態を必ずしも好ましいと思わない私は、
望まざる印象を与えかねないことについて、
もっと真剣に、懸念すべきだった。

これは、家で流していた音楽の話。
聴くだけで、家の空気がしっとりして、服が湿気で重くなってしまうような、
決定的に身体に侵食してくる何かが、あった。
私だけではなく、その場に居た客のうち、一人でもそう云うのだから、おそらく
おしなべて、そういう印象を与える曲なのだと思う。

アラブ人は、基本的にとぅー たっちどな人たちだ。
そして、純粋な事実として、彼らの暮らしの多くは、あまりにも大変だ。
それなのに、さらに、彼らの言葉は、あまりにもまっすぐだ。

よほどこちらが、ドライな風をまとって、もしくは
身体の周りをドライな突風で防御して、取り込まれないようにしないと、
いつの間にか、心の中の何かが致命的に、バランスを崩す。

聞く側の心の弱さが問題なだけなのだけど。

とぅー たっちど、などという表現を使うのもまた、そもそも
この話をするときにはどうしても感傷的にならざるを得ないことへの、
ごまかしのようなもので、結局あまり、このごまかしはうまく、機能しない。



思ったよりも、深く身体のどこかに、口にしていた言葉や
射抜くような視線の痛みが、残っていたりする。

今回の家庭訪問が終わった後、レンタカーが見つからず、
突風の吹き荒れる道を歩きながら、
とぅー たっちどだよね、と、独り言を、つぶやいていた。


2019/01/11

描くことは、祈ること



ヨルダンでは、新年おめでとうを
年に4回は、口にすることになる。
西暦の他に、イードやらイスラム新年やらが、あるからだ。



今年は、国外で迎える10回目の正月だった。
でも、仕事と仕事の合間の、
普段とあまり変わりのない、休日の一つでしかない。


ただ、この日が休日であることが、ありがたかった。
どうしても、この日にしておきたいことがあった。






年末に、生徒の一人が、シリアに戻る、と知る。

教室で一番前の、真ん中の席にいつも座っていて、
何か発表をする場面になると、手をあげる。
そして、当てられると、でも少しためらいながら、
歌を歌ったり、詩を読んだり、する。

どこかで、何かがわだかまっていて、
それを、小さな身体のどこかにいつも、抱えているように、
どうしても私の目には、見えた。
そうなるのには、私の知っている、そして、私の知らない、
たくさんの理由が、たぶん、ある。



31日に、テストが終わった後、こちらにやってくる。
小さな声で、ちょっと話したいことがあるのだけど、と、云う。
気が強い子だから、周りに居る友達に、
あっちいって、などと、云いながら、
誰もいなくなるのを、待っていた。


あのね、シリアに戻ることになったの。

少なからず動揺したのは、ただ単純に
今までよく知っている子の中で、戻ることを知らせに来てくれたのは、
彼女が初めてだったからだった。

あなたがうれしいのであれば、私もうれしい。

誰かが帰るときに、うちの先生が必ずかける、言葉だ。

本当に私がそう思っているのか、
云いながら、正直わからなかった。
どこかに、不安と諦めを含む、でも
精一杯の、言葉だ。

それでも口にした言葉を反芻しているうちに本当に、
そう思えてくるのだから、
言葉というものには、独りでに生きながらえる、
魂でも、あるのだろう。



よく、写真を撮らせてくれる、視線が強い子。

たくさん勝手に写真を撮ったのに、
こちらから写真をあげることは、一度もなかった。

紙焼きできる場所も、休日の正月では、ない。
だから、久しぶりに、その子の顔を、描いてみることにした。



絵は下手だ。
描けと云われれば描くけれど、
まったく、自分の何かしらをよくよく、思い知らされることになる。

線が決められなくて、形が決められなくて、
ぼやぼやする。
結局はためらいながら、何かを確信を持って、
決定することのできない自分自身を、
嫌というほど、実感させられる作業でしか、ない。

頭のどこかで、そんなどうにもできないことを
客観的に、認識する。

でも、一方で、
その子の一番その子らしい顔の写真を
パソコンの画面に載せながら、
小さな口元の、線になったえくぼや、
きゅっとしまった顎や
持ち上げられた線の独特な眉毛や
短いけれどかわいらしい睫毛や
浅い茶と灰の混じった、瞳を
把握する。

それら一つ一つが、
その子の今まで成長してきた証として
彼女の顔を、構成する。
できる限り、誠実に描き映さなくてはと、思う。

それから、その子のことのいろいろを思い出す。
彼女のキャンプでの毎日がどんな日々だったのか、
シリアでの日々はどうだったのか、
その目で何を見てきたのか、

そして、これから何を見るのか、
どんな日々が待っているのか、
どんな学校に行くのか、どんな本を読むのか、
どんな女性に成長するのか、
想像しようとした。

結局うまく何かを、確信を持って描くことも、想像することも
できなかった。

でも、描きながらただただ、
この子が、負けん気とためらいと頑固さと、
たくさんののびのびとした、この子らしさを携えて
大きくなってほしい、と
心底、思った。




古代文明で、美術史に残る造形が生み出された根底に
何があったのか。
中学の美術史の授業で、先生が云っていたことを、思い出す。

美術は祈りだ。

印象深い言葉だったから、覚えてはいたけれど
今まで、それなりに何かを作ってきて、
そう実感できる瞬間は、ほとんどなかった。

描くという行為が、ある状況によっては、
祈るという行為でもある、ということを、体感する。



残念ながら、こちらの子たちはあまり、ものを大事にしない。
それから、絵をあげることも、結局のところ、
私の勝手な思いでしかないから、
あの絵をどうしようと、あの子の自由だ。

けれども、できることならばあの絵は、
シリアに行ってくれたらと、思う