2018/10/06

ひさびさの宮沢賢治


仕事用のバッグの中には、
宮沢賢治全集5、短編集が入っている。
「マグノリアの花」という好きな短編が入っているので
いつでも読めるように。
いつでも読める、という安心感が、結果的に
読まない原因となっていた。

最近通勤中も仕事をしていることが多くて、
本を開く気持ちになれなかった。

昨日、休日の金曜日も、仕事をする。

最近まともに音楽も聴いていなかった。
聴いていたものといえば、AsgeirとJames Blake、それから
運良く聴けた、日本のラジオ番組で紹介されていた
Tigran Hamasyanだけだった。

今日の朝、ひさびさに朝、グールドのバッハを聴く。

薄い雲が漂うアンマンの空には
秋らしい、黄みがかった光が漂い、
どこでいつ聴いても、グールドのバッハは
見るものと考えることを、整理し、落ち着かせる。

なぜ、ひさびさにバッハを聴いたかと云えば、
理由にもならないけれど、
朝、万葉集の秋にまつわる句を
読んでいたからだった。

秋の七草など、鑑賞することもできないけれど、
はて、なんだったか、と気になって
万葉集の句のいくつかから、記憶をたぐっていた。

どの句にも、秋の光と、しめやかな湿度と
色のやわらかな花々が見える。

悪くない、ひさびさに悪くない朝だった。

だから、机の上に置きっぱなしにしてあった
宮沢賢治全集2、「春と修羅 第3集」「詩ノート」「疾中」を手に取る。

自然の気難しさと美しさが、
対峙し続けるからこそ、拭いきれない
苦みを含みながら、描写されている。

それらどれも、ここでは鑑賞することも、
体感することもできない。
ただ、懸命に、季節の移ろいを感じようとした過去の記憶が、
今、見ることのできないものものを
補完しようとする。

それには十分すぎるような、丁寧で美しいことばたちだった。

日中でかけて家に戻ってくる。

この季節、やっと雲が出てきたアンマンでは、
夕方の空を、赤にはやわらかい雲が
彩りを添える。

朝読んだ詩を、思い出す。


美しき夕陽の色なして
一つの呼気は一年を
わが上方に展くなり


西側には家があるから、夕陽を我が家からは見ることができない。
雲の色に、夕陽を見る。

この夕陽を宮沢賢治が見上げたのはいつの季節だったのか、
記されてはいない。
でも、わたしにとってはおそらく、
美しき夕陽を、視覚的に感じる季節は、
今から、始まる。


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