ヨルダンの初秋は、随分とさわやかだ。
夜と昼の温度差があるからか、
日中はまだ、夏のように日差しが強いのだけれど
日の傾きは、確実に真夏のそれと違っていて、
その日の色の違いを、ひらけた空全体が映し出している。
だから、真夏の青さと、また少し、違う。
そう云えば、去年も今頃フィールドに出ていた、と
同じ地域を往く度に、何度も往ったその土地の
季節の移り変わりを、思い出したりしていた。
その、有無を云わせない、決定的な季節の変化に、
移動の車からやもすると、呆然と外を眺めてしまいそうになり、
はっと、気持ちがどこか遠くへ往ってしまいそうなのを
引き止めなくてはならなかった。
ヨルダンの秋にも、たくさんの記憶がある。
そう云えば、事業の始めにはイルビッドの訪問もしていたから
そろそろオリーブの収穫時期だろう、と
ムアッサル、というオリーブオイルの圧搾工場に並ぶ
車の列や、その先に広がる開けた青い空、
記憶の中の古い画像を、思い出していた。
でも、久々のフィールドは、いつもどこかで、少し緊張する。
この日は、ご家族に訊きたい別件の内容もあったから、
頭の中で、どうしたらスムーズに話が持っていけるのか
頭の片隅で、いろいろと考えを巡らせていた。
タバルブール、という比較的新しく開発された地域への訪問だった。
1件目:
建物のエントランスに立って待っていてくれた女の子は
そこからそのまま小さなタイルばりの庭の奥の
真っ暗な扉の中に入っていった。
家の入り口はすぐ、居間で、
広くない部屋の3面に置かれたソファの上には
3匹の熊のぬいぐるみが、均等な感覚で置かれていた。
エジプト人の家庭だった。
もう20年近く、ヨルダンに住んでいる。
お母さんは入り口の問い面に座っている。
部屋には灯りがなくて、開け放した入り口のドアからの光だけで
話をすることになる。
正面から入り込む光が、お母さんの姿だけに、静謐な陰影をつけていた。
教育に熱心なお母さんだった。
子どもの授業の様子を、よく知っていた。
どうも、つい最近まで私立の学校に、この女の子は通っていたようだった。
学校で習ったことを教科ごとに書き込める紙を見せてくれた。
私立ではきちんと、内容がわかるようにプリントを保護者にも作ってくれる、と。
話を聞いていると、
2番目の子どもが、おそらく日本ではADHDに分類されるような
学習や授業態度に難しさがある子のようだった。
なかなか適切なフォローが受けられない、という話になる。
病院に往こうと思っても、随分遠いところしか紹介してもらえなくて、
どうしたものか、と困っている、と。
いわゆる、病気と診断されるような人たちを対象とした病院のリストはあるけれど
学習障害を診る病院の名前は、手元になかった。
申し訳なくなり、スタッフとわたしは、ただただ、話を聞いた。
教育に関する限り、資料は準備しておくべきだった。
話はまた、学校に戻る。
公立の学校でも、ヨルダン人とシリア人以外の国籍の子どもは、
教科書代を払わなくてはならない。
この支出は辛いですね、と、でも、淡々とお母さんは話した。
去年のちょうど同じ時季、イラク人家庭に往った時にも、同じ話を聞いた。
その家庭は、交通事故でお父さんの足が不自由になってしまっていて
本当に困窮していた。
そこの家のお母さんは途中から、ずっと泣いていた。
教育省の役人と会議をするときに、
どういうことになっているのか、訊いてみた。
だって、イラク人には、お金持ちもいますからね、と
何ともするり、と云ってのけていた。
横に座っている6年生の女の子は
目をどこかに見据えたまま、静かに話を聞いていた。
何かに答える時、すこししわがれた、でもはきはきとした話し方をする
賢そうな子だった。
とにかく、本を読むのが好きだと、
やはり、人に話をする時には、相手の目をしっかり見据えて
話をする。
何か、学校でも家の周りでも、困ったことはないですか。
この質問に、お母さんもやはり、こちらの目をしっかり、見る。
ここはヨルダンで、私たちはヨルダン人なんだ、
エジプト人なのにどうしてここに居るの?
と、子どもは時々、訊かれる。
どうやって子どもは、この質問に答えればいいのかしら。
近所に住む子どもに訊かれたと、
女の子は云う。
部屋の真ん中にできた、空間の中に視線を据えていた。
どうやって答えたのか、結局聞けなかった。
家を出る時に、また女の子が建物の入り口まで
見送りにきてくれた。
暗い部屋を出ると、
心なしかどこか、すべての色が柔らかくなっているように思える。
女の子の目もまた、淡いグレーで
朝の黄色い光に、やわらいだ輝きが見えた気がした。
2件目:
出迎えてくれたお父さんは、
広い居間のソファに座った。
ほどなくして、おむつを履いた男の子がやってくる。
立派な垂れ目の、大人のようなはっきりした顔立ちの子で
なにかいたずらをしてやろうと、そこここを歩き回っていた。
HCRの証明書に、お母さんの名前はなかった。
お母さんはヨルダン人だから、登録されていない。
5人の子どもたちも、写真を見る限り、顔立ちがきりっとしていた。
お父さんは低くて大きな声で、娘を呼ぶ。
奥から6年生の長女がやってきた。
ピアスとカチューシャに、お揃いの青い花がついていて
派手な服と一緒になるとちぐはぐなのだけれど
時々カチューシャの場所を、手で確認していた。
随分と、神妙な顔で。
こちらの子の常で、腕を腹のあたりでしっかりと組んで
話を聞く。
学校では、学校の敷地内にある売店の手伝いをしている。
お金も扱うし、商品の場所や名前をしっかり覚えていなくてはならないから、
きっととても、活発で気の利く子なのだろう。
もう1人、4年生の女の子が居るはずだった。
学校の話を聞きたくて、居間に呼んでもらう。
何が楽しいのか、ずっとずっと、にこにこしている子で、
ふっくらした顔がよけいに、まあるくなっていた。
どんなことをするのが好きか訊いてみると、
乗り物が好きだから、バスに乗って学校に往くのが楽しい
そう、長女は答える。
下の子が、答えようとすると
とにかく、食べるのが好きなんだよなぁ、と
お父さんが代わりに答える。
嫌な顔もせず、ふっふとうれしそうに、下の子は笑っていた。
お父さんの携帯が鳴ると、おむつの子がいじろうと手を出す。
話の邪魔をさせまい、と、長女が引き寄せようとする。
それをものすごい力で振り切ろうとしていた。
ふっふと、うれしそうにまた、
隣に座っている下の子が笑っている。
どこかへ出かける支度が終わったお母さんが入ってきた。
背の高いお母さんで、立ったまま話をすると
なんだか、怒られているような気分になった。
下の子も勉強が好きだったらいいんだけどね、と
さほど困った様子でも、口調でもなく、云った。
また、自分のことを云われているのに、
下の子がふっふ、と、お餅のようなほっぺたを
ぷっくりさせて笑っていた。
その横で、おむつの子が、長女の膝に乗ろうと
足に体当たりしていた。
お父さんは仕事を転々としているし、
お母さんも親戚を頼ったりしなくてはならない。
けれども、圧倒的な安定感が、
部屋中に漂っている、見ていて幸せになる、家族の様子だった。
3件目;
ちょうど1年前の今頃、近くの家を訪問した。
熟しすぎたいちじくが地面にたくさん落ちていた記憶があった。
まだ、今が食べごろで実を落としていないいちじくが
そこだけぽっかりと明るい空き地の脇に
小さな畑を作っていた。
他の高い建物からは、どうしても見劣りのしてしまう
2階建ての小さなアパートメントの横には
6、6段だけの小さな階段がくっついていて
階段の上で女の子がこちらをじっと見ていた。
お父さんはしゅるしゅるとした話し方をする。
実のところ、聞き取りにくいタイプの話し方だった。
居間に案内されて座ると、暗い台所の扉から
アラファトみたいな風貌のおじいさんも
マスバハを片手で数えながら、やってきた。
ふと、床に敷かれた絨毯が、気にかかる。
わたしが初めの2年住んでいた家にも
全く同じ柄の絨毯があった。
でも、この家の方がよほど、わたしが使っていたものよりもきれいだった。
基本的にスタッフがアラビア語でする会話の邪魔はしないように
できるだけ聞き取りに専念することにしている。
特に聞き取りが難しい時には、じっととにかく、見る。
一通り、家族の様子を把握する質問が終わる頃に
お父さんは、傷が痛くてね、という。
お父さんは左のすねに大きな傷があって、
こちらの診療所で手術をしたという。
診療所は比較的簡単に見つかる。
各地域に一つはある、というものだ。
ただ、診療所で処置できないものに関しては
政府の病院への紹介状を携えて、遠い病院へ往かなくてはならない。
この地域にも、アンマンでも数限られた
政府の病院の一つがある。
予約を取ろうとすると、胃が痛くても6ヶ月後、
特別な虫歯の治療が必要でも4ヶ月後、と
全く患者の数に、治療が追いついていない。
話が子どものことになると
話の内容が学校に関することや趣味の話になるので
話の輪郭がはっきりしてくる。
女の子たちは二人とも絵を描くのが好き、という。
でも、この子ね、首を絞めている絵とか描くんですよね、と
お父さんはどうしてなのか、そこだけリアクション大きめに
自分で自分の首を絞めるまねをしてみたりした。
ドイツとかアメリカとかに往っている親族もいるけれどね、
うちはいいよ、と人差し指を立てて、ら、ら、と云う。
とにかくお金が欲しいけれど、お金の配布とかは、していないのですか?
こうなると、こちらは誠実に、できる支援内容を説明していくことになる。
お父さんは、隠そうとしても隠しきれないようで、
残念そうな、少しいらだっているような表情で
こちらの説明に耳を傾けていた。
帰るときになると、また子どもたちが見送りにきてくれる。
また、階段の上から、子どもたちはでも、
無邪気に、手を振ってくれた。
4件目:
この家の近所もまた、一度来たことがあった。
その内部の詳細も、よく覚えていた。
同じ敷地の、違う棟の1階の家に、入っていく。
エントランスの扉を開けた女の子は
やもすると、日本の子のような印象を受けた。
すがたかたちが、ちょうど中学生の日本の子のようだった。
1階の外に通じた居間、大きな窓が開けられていて
それを覆う淡く白いカーテンが、風に揺れていた。
日本のアパートのようだった。
もっとも、日本のアパートよりもよほど広いけれど。
お母さんはターバンのような不思議な形のヒジャーブを巻いていた。
顔立ちはあまり二人の娘と似ていないけれど
やはり、どこか違った感じがするのが気になっていたら、
お母さんはチェルケス人で、お父さんはクルド人のようだった。
お父さんとは離婚をしている。
ヨルダンに避難してまだラムサに住んでいた頃
レーザーで木材を加工する機械を買ったという。
でも、その機械の購入やら、仕事場やらで
いろいろともめてしまって、別れたという。
お母さんは、お菓子の箱のパッケージデザインをしたり
レストランで働いたりしているけれど
なかなか安定しないという。
HCRの証明書を見て、密かに、はっとする。
わたしより1ヶ月ぐらい、お母さんの方が若い。
同い年の人だった。
見た目だけなら、わたしの方が完全に歳を取って見えるだろう、
かわいらしい顔立ちだ。
大きな娘さんが、いるものだ。
二人の娘たちは、似たような顔立ちをしていて
真っ黒で真っ直ぐな髪を肩上で切りそろえていた。
髪型もまた、日本の子を思い出させるのかもしれない。
子どもたちの教育の話を、しばらく熱心に話していた。
やはり、公立の学校のレベルの話になると
どうしても、問題がありすぎて、その詳細を書き取るだけで
精一杯になってしまう。
お母さんは看護師の資格も持っているのに、
ダマスカスに置いてきてしまったから、
証明できるものが、何もない、という。
子どもたちの趣味の話になると、
絵を描くのが好き、という話になった。
絵は、紙と書くことができる何かがあれば
すぐに始めることができる。
やはり、誰にとっても近しい、楽しみではある。
反対に、それほど好きではなくても、他にすることがないので
なんとなく絵を描いてみている子どもたちも、
たくさん家庭訪問でみてきた。
ただ、ここの子どもたちは違っていた。
奥からそろそろと、たくさんの紙の束を持ってくる。
指絵にマーブリング、ドロッピングからコラージュまで
絵の教育を受けていないと知らない技法を
たくさん駆使していた。
どうやってこういう技法を知ったんですか、と
つい、美術教員だったこともあって、尋ねてみる。
インターネットでフランスの絵画教室のサイトとかを見て
真似してみるんです、とお母さんは答える。
上の子の線のセンスが抜群に良かった。
また、形も、色の配置も、バランスがいい。
限られているであろう画材を感じさせないものだった。
こういうものは、教えてもできない。
もっと絵を勉強する機会があったなら、
相当伸びる子だろう。
どこの家庭訪問も、限りなく平等に近いスタンスでいることを
自分に課してきたけれど、
なんとも惜しい、という気持ちが働いてしまって
写真を撮らせていただいた。
毛糸があればすぐに、いろいろなものも作ってしまうんです。
お母さんは、子どもたちにまた、小声で何か、云う。
すると、奥からまた、たくさんの小物が出てきた。
マフラー、靴下、帽子。
平編みからかぎ針まで、いろいろな技法を使って、
造りも丁寧な小物たちが、絨毯の上に並べられる。
お店に居るみたいだ。
だから、ではどこかへ売りに往けるのか、といったら
そうでは、ない。
これぐらいできる子どもたちや大人たちも、たくさん居る。
支援を目的として売るにも、質は落とせない。
ましてや、外国を視野に入れるならば
厳しいチェックは免れない。
安請け合いをすると、話を持っていた人に迷惑がかかる。
ただ、ここの子どもたちはまだ若いから
どこかで新たな技法を覚える機会があって、
自由に色の選べる環境にあったら、
たくさん素敵なものが作れるのだろう。
口惜しさが、心いっぱい広がっていた。
そんな気持ちで並べられた小さな靴下を見ていたら
奥からまた、赤やピンクの紙袋を持って
二人の子どもたちが来た。
何が入っているのだろうと思ったら
お土産に、と、マフラーを二つ、入れてくれていた。
これはいただけない、と必死に断ろうとした。
とにかく、毛糸があればすぐにいろいろ作ってしまうから、
家には貰い手のないものが、たくさんあるんです。
いただいてもらった方が、こちらもありがたいんですよ。
その気持ちがうれしいけれど、
いただくということは、何かをしなくてはならないという意味だと、
わたしは思う。
果たして、自分の知る範囲の人脈で、
何ができるのだろうか。
結局、赤い紙袋を受け取って、家を出た。
また、エントランスまで、上の子が見送りにきてくれた。
白い階段の上で見送るその子の姿と佇まいが
やはり、いつか、日本のどこかで見た、誰かと重なっていた。
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