2023/08/10

山手線外回り 8:58



東京は不思議な場所だ。
すれ違う人々に、一つ一つ生きてきた物語があり、
今現在も小さな、大きな心配や、ささやかな喜びや
欺瞞や期待や不安があるだろうに、時折、その何にも想像が巡らなくなったり、
突然、細胞まで震い上がるように、命そのものが動いてこちらへ
そちらへ、行き来しているように、見える。

それは想像する側の状態次第なのかもしれないけれど、
たくさんの人がモノのように見えたり、とてつもなく
大切な個人に見えたりする。

ひどく、混乱する。

凝視しては失礼だ、とわかっていながらも、
見つめずにはいられない、美しい人の顔の
その小さな鼻腔の稜線を、まぶたの膨らみを見つめる、
もしくは、拭いきれず、執拗に映像が立ち上がる。
人の顔、特に、よく手入れされた白い肌の女性の顔は、
若くても、年老いていても、見入ってしまう。
たとえ、その人がどんな人なのか、いくらの知識もなくても。

知っている人ならば、その人にまつわる
私自身の記憶や思い入れや、嫉妬や憧憬が、より、
美しさを引き立てたりする。

ますます、混乱する。
そして、不安に駆られたりする。


不安は、よく晴れて澄んだ空と白い光が眩しい朝の
山手線の原宿を過ぎるあたり、
明治神宮の深く濃い緑が車窓を覆う時、膨れ上がる。
生命感に溢れた木々が、
曲がりなにも日常生活を必死で送ろうと、吊り革を掴み仕事へ向かう
生きているはずの人間である自分が果たして、
生きるに値するのか、突然問いかけてきたりする。

悲観なのではなく、ただ命あるものすべての
平等性を客観的に見定めようとする時、
自分が比較的いらない存在の部類に入るのではないか、と思えてくる。

たぶん、日に焼けすぎたからだろう。
焦げたように黒ずむ手の甲を見つめる。


車内を見渡す。
手入れの行き届いた爪の先を見つめる若い女性、
皮脂の浮いたメガネの奥で必死に携帯を見つめる中年すぎの男性、
どこにいても変わらないだろう、身軽な出立の外国人旅行者のカップル、
朝から眠りこけている大学生らしき若者。

目に映る誰もが随分と大切な生き物だと思える時、
でも、自分に対しては必ずしも、
そう思えていないかもしれないことに、また、小さく動揺する。
だから、必死にヘッドホンから流れてくる音楽に
その和音、弦のゆらぎ、もしくは時に、漣のように繊細なピアノの音を、
享受しようとする。
それが、今一番自分が人間として生きていることを
証明してくれるのではないか、と期待しながら。


うまくいく時もあるし、そうではない時も、ある。
うまくいかない時にはなぜか必ず、
ひどく昔の、忘れかけていた失態の断片のいくつかを思い出し、
文字通り身震いする。

最寄りの駅について、吐き出される人々の波に乗る。
階段を降りながら、思わず、
あぁ、死にたい、と小さく口をついて言葉が漏れる。
もちろん、本心から思っているわけではない。
けれど、誰しも口にしてしまうことが、あるだろう。

その瞬間、波のように膨れ上がり、クライマックスに差し掛かった
オーケストラの音が突然止まる。
ヘッドホンの性能がやたらと高くて、
話し声を感知してしまうからだ。

苦笑するしかない。

同じSonyのヘッドホンをつけている人はたくさんいるけれど、
そのうちのどれぐらいの人々が、
私と同じような体験をしているのだろうか、とか
取り止めもないことを考えながら、仕事先まで歩く。

開かずの間のように延々と電車が行き来する踏切の脇には
いのちの電話の看板が立っていて、
電話番号が変わったのか、新しい番号のシールが貼られている。
一体いくつの看板にシールが貼られ、
1日に何人の人が、この看板を見て電話をするのだろう。
そして、電話する人よりも、電話を受ける人のことを、なぜか想像する。
困惑も動揺も、電話ならば分かりづらいことに、
わたしが受け手なら、安心するに違いない。





途中に神社を横切るので、お参りをしていく。
賽銭箱に小銭を入れて、手を合わせる。
感謝の意のほかは、できるだけ何も考えないようにする。
ろくなことしか、思い浮かんでこないから。


習慣的に小さな祠にも、手を合わせにいく。
その頃には、すでに、ろくなこと、が頭を占領している。
水を被った犬のように、頭を振る。

ふと、足元に目をやると、大きさに合わせて大量の種が
丁寧に並べられていた。




ひどくささやかなお供物だ。

その愛おしい様子を見つめ、並べる人の姿を想像する。
子どもなのか、老人なのか、サラリーマンなのか、若い娘さんなのか。
身体を曲げ、種の大きさを確かめながら、順番を変えながら、
一つ一つ、並べていく様子を、想像する。
それは、朝からするには、ひどく孤独な作業となる。

その孤独に、心臓を手で握りしめられるような痛みを感じる時、
あぁ、これが曲りなにもどうも、生きている、ということらしい、と
濡れたガーゼに包まれているような、透けた絶望を
もしくは、その日のようによく晴れた空の、透明な悲しみを携え、
ひどく、納得する。



そういう日もあるし、まったく違う心持ちの日もある、だろう。
けれども、一度も一瞬も、こんな孤独も不安も感じない人が、
この土地にはいるのだろうか。



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