2022/08/12

続・ボールの弾力と重み

 

たまたま、カズオ・イシグロがノーベル文学賞を受賞した際の
記念講演の映像を見ていた。
どちらかというと淡々と、自分の人生と創作活動の転換期を語る。
原稿をめくり、時折、だけ目を上げて聴衆に視線を向け、
そして、原稿に戻り、1時間ほど話し続けていた。

サ行の子音が耳に残る。
私にはよく聞き取れないところも多くて、翻訳を確認する


カズオ・イシグロが自身の小説の解説をする映像を
過去にも色々と見ていた。
メガネ越しの生真面目な視線、言葉を慎重に選びつつも
淀みなく話し続けるその語り口が、たぶん好きなのだと思う。

その、総括的な位置づけとして、この講演がある。
過去の作品の解説で、語られていたこと、語られていなかったことが、
時系列に乗って、まとめられていた。






初めて読んだカズオ・イシグロの作品は、「日の名残り」だった。
原書ものちに、無理をしても読もうと努力するぐらい、
この作品には、思い入れがある。


小説の最後の方、クライマックスとなる場面の生まれた
きっかけについて、講演の中で触れていた。
トム・ウェイツのRuby's armという曲が、
あの苦渋と悲しみと後悔の入り混じる場面を生み出す
鍵となっていることを知る。

戦場へ行く兵士の、朝方眠っている女性を置いて
家を出る時の切なさが、擦り切れるような声で歌われている。



もともとは、ミュージシャンになりたかったカズオ・イシグロの
音楽への知見と傾倒は、興味深い。

ジャズやクラシックに触発されて作品を作る作家はおそらく、
たくさんいるのだろう。
けれど、作品の中ではまったく登場しない、何なら、
戦中のイギリス貴族の館、というひどく限定された舞台の
話のクライマックスが、このしわがれた声によって
決定的に印象深いものになっていた、という事実が
小さく衝撃的だった。


カズオ・イシグロの小説は、過去、現在、未来の
社会に横たわる問題を、常に扱っているけれど、
問いかけの手法の多くは、その社会を生きる、
ある個人の視点と、感情のゆらめきの描写に拠っている。
だから、その緻密な心の動きが、手に取るように分かり、
心の動きを一つ一つ手繰っていくと、いつの間にか
ある壮大なテーマの核心に、辿り着いている。



「(でも)私にとって本質的に重要なのは、感情を伝えることです。
感情こそが境界線や溝を超え、同じ人間として共有できるものだからです。」



自分の本心から目を逸らし続けたために、
大切なものを手に入れることができなかった老執事であったり、
クローンとして他者の命のためにこの世に生を受けた
その在り方への答えを求め続ける女性であったり、
人間の心のうちを情報として、持てる限りの記憶と処理能力をして学習し、
家族に尽くそうとするAIロボットであったり。

自らの人生で経験することのない、誰かの感情を追体験する。

そこには、嫉妬や愛着や悲しみや寂しさや喜びや慈しみが、滲む。

どちらかといえば、どの登場人物にも節度があり、
それらの感情を必死に抑えているのにもなお、
漏れ出てくる、そんな様相を帯びた感情を
丁寧に感じ取っていく作業だ。


では、私が感じ、追体験したさまざまな感情から、何を見出してきたのか。

それぞれの小説が持つ大きなテーマ、例えば、
国家や集団の記憶、AIの発達と脅威、クローンと生、戦争への個人のスタンス。
登場人物たちの心境をなぞり、共鳴、共感できてこそ、
真剣さを持って抱ける、社会問題への関心や疑問があった。


けれども究極的には、話の中の人物たちの
感情の揺らぎに垣間見る、人間の生き様から、
私や他者が、生きていくことを愛しみ、根本的に肯定できる何か、
小さくとも儚くとも、その片鱗を見出したい、
そう切望し、貪るように探し続けていたのかもしれない。


そのことに気づいた時、
今まで、いくらもその実を伴って感じることのなかった、
Humanityという単語が、ふと、頭に浮かんでくる。

おそらく、広義な意味での人類、もしくは、
他者に対する理解と優しさそのもの、もしくは、
人間性、あらゆる人間の在り方そのもの、と捉えられる。

生きていることの意味は分からなくとも、
生そのものに価値があり、存在を無条件に肯定する。
人としての煩わしさや諦め、悲哀や苦しみでさえ、
抱えている私の、あなたの、誰かの
存在の在り様を示す言葉としてのHumanity。




先日、白いボールになぞらせて、
トラウマケアの、心のResilienceプロセスを想像していた。

いくらも弾むことのなくなった鉛のようなボールなど、
持ち続けることを放棄したいと、一瞬でも思ったら、
それは、私が今の、未来の私自身を信じ、愛しむことができない、
ということを意味する。




カズオ・イシグロは、講演の最後の方で、自身の楽観性に触れていた。
人と社会の深淵を見つめ続け、それらを克明に描写する。
それでもなお楽観的でいられるのは、
人に対しても、自身と自分の能力に対しても、
冷静に、理知的に、そして同時に情動的に
愛しみと信頼を抱けているからだろう。


トム・ウェイツの、これでもか、というほどしわがれて味のある歌声と、
その声音が絞り出す、ひどく情緒的な感情の波が
カズオ・イシグロ自身の、生真面目な視線と交差する。

必死で抑制はしているけれど、本心ではすでに、
致命的に傷ついている男の、ぼろぼろの声音と心を
カズオ・イシグロ自身も、追体験する。
肯定し、受け入れ、愛しみ、話の中で昇華させる。





もちろん、私には表現して昇華させることはできない。
手元にあるボールを膨らますだけで必死だ。

再び空気を入れて弾ませられると
自分を信じたくて、もがくことになるのだろう。

ひどく長く、苦しい葛藤の末に
たとえ、よく膨らまなかったとしても、
投げやりでも、諦めでもなく
これでいい、と、肯定的に受け止められたら、
私もまた、Humanityの在り方の一つを体得したことになるのかもしれない。


小説を読み、ある人生の一時を生き、心のうちを知る。
生きて感じる話の中の、あらゆる感情は、
他者に愛しみを感じ、ありのまま受け入れるきっかけを提示する。


まだ足りない、愛しみの深さを
まだ知りきれていない、肯定の辛さと善良さを、できる限り体得する。
他者だけではなく、いつかきっと、自分自身へも
それらを抱けるようになる、と、
希望を持つことができるか否かは、
私自身にかかっている。




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