暗闇で、すべてのものは色と輪郭を失う。
目の見える誰もが、その経験の中で、
色は光のあるところでしか認識できないのだ、ということを
うっすらと知る。
10年以上前、大学で美術の授業を持っていた。
年間通じてほぼ、すべての担当授業は実技だったけれど、
年に1回だけ、座学の講義をしなくてはならなかった。
それは、色彩学の授業で、
色がなぜ、異なる様々な色として目に映るのか、
その原理と色彩の分類法について、学生は学ぶ。
高校美術の延長のような授業内容だったけれど、
教える側なので追加で、色彩学についての本をいくつか読み、まとめる。
私自身、色を色として認識するその原理を、
ひどく不思議に、興味深く感じていたことが
なんとかその講義を成立させていたのだと思う。
興味がなかったら、それほど熱心に調べもしなかっただろう。
この世の中は、目には見えない光で溢れている。
比喩でも隠喩ではなく、物理的観点から。
「目に見える光のことを、我々はなんと呼んでいるかな?
色と呼んでいるね。
だが、電磁波のスペクトルは、ゼロから無限まで広がっているから、
数学的に言えば、光はすべて目に見えないのだよ。」
アンソニー・ドーアの作品で初めて手に取ったのは、
「シェル コレクター」だった。
その頃、台風の次の日には海へ行って、
浜辺に打ち上がるものものを拾っていた。
貝殻は、台風の後ではなくてもあるのだけれど、
おそらく、いつもは浜辺の砂の中に埋まっているであろう
見慣れない貝も出てくるから、とかく熱心に、拾い続けていた。
おかげで、学生の頃の私の仕事場には、流木やら石やらに紛れて
砂まみれの貝殻がいくつかあって、よく手に乗せて愛でていた。
鉱物の図鑑と、貝の図鑑が何冊も手元にあった。
巻貝を縦に切った断面図が好きだった。
自然の中にある形を、いかに正確に再現するか。
直線、曲線とねじれ、美しい形の手本は、自然の中にあると思っていた。
落葉樹の枝や草の葉、削れた石や動物の脚、犬の鼻筋、
それから、あらゆる種類の貝の形を、よく観察しては、描いていた。
実物よりも随分大きな貝殻を、よく作っていた。
ただひたすら、自然に生まれた美しい形を、
作る過程で追随し、再現する。
その作業自体が好きだったから、出来上がったものにはあまり、興味がなくて
陶土を焼きしめてできた貝もまた、仕事場には転がっていた。
小説の中で描かれるものものがすべて、私の好きなものであること。
宮沢賢治もそうだけれど、好きなもので溢れている話は、
それだけでも随分と、ありがたい。
アンソニー・ドーアの作品には、
自然のものものを愛でる人々が出てくる。
戦争、兵役、裏切り、病む精神、
人間の作り出す非業な世界を生きる彼らと、美しくめぐる季節、
精緻な貝、6月のミツバチ、小鳥の優美な羽、朝の静謐な光が、
話の中で混在する。
世界には、それらが同等に存在するのだった、と気づかされる。
「すべての見えない光」は、パリの国立自然史博物館に
勤務する父親を持つ盲目の少女と、
ドイツ、ツォルフェアアインの炭鉱に暮らす孤児の少年が
異なる土地で、第2次世界大戦を生きる話だ。
ラジオから聞こえる語りと音楽に魅せられた少年が
世界の広がりと自然の奥深さに心奪われるところから、
物語は始まる。
大戦の最中、呪いとともに永遠の命を約束する宝石を
ナチスの追っ手から救出すべく、移動を余儀なくされる父親とともに、
少女はフランス国内を逃げる。
盲目がゆえによけい、日常を手放すことへの不安が増幅される。
大切な人々が消えていく。
戦争という何もかもが息苦しく辛い現実の生活と
点字にされた八十日間世界一周や海底二万マイルの物語を行き来する。
物理と科学、数学に一際長けた少年が、自分の持つ能力を
レジスタンスの情報網である無線総受信機を壊滅させることに使うべく、
ポーランド、ウクライナ、ロシア、オーストリア、そしてフランスへと移動する。
どんな方法、状況であれ、戦争に加担すること、殺戮することを
無感覚に、思考を停止させて遂行するのがひどく困難な少年の
苦しみと疑問。
目が見えない分、あらゆる周囲の音、匂い、
触れられるものへ、研ぎ澄まされた神経を携える少女の
不安と喜び。
それら登場人物たちの心の動き、感覚、目に見えるもの、見えないもの、
その背景、あるいは、まったく無関係に思えるものものが
2、3秒で切り替わる写真のように列挙される。
目の前の家から鳴り響く銃声、飛び立つ鳥、
赤いケープの女の子、深海の鯨の死骸、ひまわり畑、炭坑町の煙。
詩のように的確で情緒あふれる言葉が散りばめられ、
それらの言葉がひたすら、物語を紡いでいく。
どんな短い文章でも、ただただ、美しい。
ものを指す名詞の羅列でさえ、ある情景、ある状況を
克明に描くとき、美しい。
それがたとえ、あまりにも究極的に残忍な場面であっても。
誇張ではなく、奇跡のように美しい小説だ。
自然のものを愛でる目と心を持つ人は、
どんな状況下でも、目に映るものから、もしくは
手に触れられるものや香り、音から、喜びを見出す。
読みながらふと、思い出す。
シリア難民の方たちの多くが、お金がなくても
庭に植える薔薇の苗を手に入れ、葡萄の棚を作り、
鳩を育てて空に舞わせ、ジャスミンの香りを楽しんでいた。
どれだけ苦しい暮らしと、忌まわしい記憶があっても、
今、置かれた環境のうちに
自然の美しさを喚起させるものものを集め、
大切に育て、折に触れて愛でていた。
それらがどれだけ、彼らの心持ちを支えていたのか。
少なからず彼らを近くで見て、違う文脈ではあるけれど、
ひたすら緑に飢え、些細なものものにも、
美しさや希望を見出そうとしていた私には、
腹の底で、ひどく共感し、理解できるものがあった。
彼らの姿は、私自身が元来、人よりも、
自然のものや景色に心通わせがちであったことを、思い出させた。
人として、人間とその営みを、心から愛しんでいたい。
けれども、それが叶わない状況は現実にいくらでもある。
そんな時に、人間ではない自然の生き物やものを愛でる目は、
心の救済への、切実な手段となりうる。
善人の存在も、話の中にはある。
親族や、周囲の人々の愛情に支えられる主人公たちの姿もある。
彼らは、何万年もかけて作られていく結晶のように
話の中で煌めき、光を放っている。
そして、善人か否かでは図れない存在も出てくる。
宝石を手に入れるためだけに、癌に冒された体を引きずり回し
異様な忍耐をもって他人を脅迫し、追い詰めながら、
歌の上手な、自分の可愛らしい子どもたちの姿を、思う男。
戦争という文脈の中で、ただ無慈悲に人を殺し、
けれども、チェロやピアノの奏でる音楽を、愛する男。
崩れた建物の地下で、数日間暗闇に閉じ込められ、
飲まず食わずで瀕死の状況の中、
その男は、受信機が捉えたドビュッシーの月の光を耳にする。
にわかに込み上げる力を振り絞り、瓦礫を手榴弾で爆破し、
地下から這い出る。
(音楽の美しさを愛することは、たとえその人の資質や人格と
乖離があるように見えても、同じ身体と意識の中に共存しうる。
そして、石や花や木々や雲と同じく、その美しさを見いだせる限りにおいて、
あらゆる記憶がまとわりついてもなお、時間を超え、音楽は享受されうる。
ふと、最近その事実が、突然実感を伴って腑に落ちる。
とても不可思議で、でも、啓示のような、大事な事実となる。)
アンソニー・ドーアは、人間の多面性をそのまま
精緻に言葉を尽くして、描いていく。
自分の弱さから逃れられず、決断力に欠けるが、ある瞬間、
大切な人や、自身の生き方のために、大胆な行動に出る。
悪としか認識できない行為をするが、同時に
何かを、誰かを、純粋に愛し、慈しむ。
そんな、混沌とした人間という生物と、
藻類の標本、ヒナギク、滴る雨が、等しく描かれる。
人間と、人間の行為が作り出す善悪や美醜の間に横たわる、
果てしなく深遠なグラデーションを、
見限るでもなく、諦めるのでもなく、ただただ
透徹した視点で真摯に描き切っている。
その視点と姿勢は、作者が対象として描くすべてへの
細やかな愛情を表しているように、思えてならない。
物理的に、比喩的に(もしくは意地悪く、形而上学的に)、
情緒的に、そして本能的におそらく人は、
暗闇よりも光を希求するのだろう。
ただ、光は強すぎると、真っ白になって、形も色も消えてしまう。
漆黒の光ない世界でも、
形と香りと質感を携えてものは存在し、
どんな卑小な存在をも、愛でる能力を持つ人がいる。
光溢れる世界を生きながらも、
周囲の、遠くの存在に、いくらも慈しみが抱けない人がいる。
些細なものものを愛でる心を持つ人は、
些細な人の善行や、失敗や恥ずかさや優しさもまた、
愛でる心を持ちうるだろう、と、
半ば祈りのように、思う。
〜 追記 〜
本を読み終えて、久しぶりに、
Apple Musicでさまざまなピアニストが演奏する月の光を聴いていた。
飽き足らず、ウェブを検索すると、辻井伸行の演奏がトップに上がる。
彼がまだ小学5、6年生だった頃、
教職免許のための実習で、彼の補助者として遠足へ行ったことがある。
公園の小道を、白杖を絶え間なく動かし、
首を小さく振り、歩く。
初めて会う私に色々なことを、嬉々として話してくれる。
ピアノが上手なこと、立派なピアノがあること、
お母さんがアナウンサーだったこと、家に人が来たら、演奏すること。
おうちに遊びに来てよ、と言われる。
学生でピアノなど買えないから、
大学の体育館の廊下にあるアップライトピアノを弾き、
ピアノとチェロのあらゆる楽曲を愛聴していた私にとって
ひどく心惹かれる話では、あった。
けれども同時に、誰にでもそう言っていたとして、
初めて会った人を家に招こうとするなんて
ひどく純粋すぎる。
そんなにすぐに、他者である私を信用してはならない、と
心の中で言葉にできない戸惑いを抱きながら、
ふっくらとした手を、ずっと繋いでいた。
結局、お誘いには曖昧な返事をし、
その曖昧さが彼を傷つけてしまうかもしれないことを
どうしたらいいのか分からないまま、実習は終わった。
無論、相手の方は、私のことをすぐに忘れただろう。
ただ私だけが、時折思い出しては、気に病んだ。
視覚を失った世界に生きることと無邪気さの間に
もし、何かしらの関係があるのであれば、なおさら
その男の子の資質の良さを翳らせるようなことをしてはいけなかった。
同時に、無邪気だと感じたいう印象を抱いたことと、盲目であることの間には
私の抱く、何かしらの偏見と憶測があるような気もする。
丸くて白い顔を思い出しては、指の先に刺さった小さな棘のような、
引っかかりと後悔を感じていた
(だからこそ、彼のことをよく覚えていた)。
あの時の子が有名なピアニストになったことは、知っていた。
けれど、きちんと演奏を聴かないまま、今まで来てしまった。
意識して聴いていなかった何よりの理由は、
あの時のうっすらとした後悔と、自分自身への疑念が蘇るからだった。
やっと、しっかり聴いてみる。
月の光に関しては、Apple Musicのアルバム音源ではなく、
Youtubeの映像音源の方が個人的には、好きだった。
アルバムの、指先から音がこぼれる落ちるような感じは、でも
9月のあまねく月の光には、合っているのかもしれない。
月の光は見たことがなくても、
演奏を通じて、その清かな光を感じているように聴こえる。
瀕死の兵士たちが、生き埋めになった地下の暗がりで耳にする月の光も、
盲目の少女が、自分を殺そうとする男を階下に感じながら、
手探りでレコードを蓄音器に乗せて聴く月の光も、
視覚は排除し、ただひたすら聴くことに徹する状況にあった。
目を瞑り、音に集中する。