2022/08/29

すべての見えない光


暗闇で、すべてのものは色と輪郭を失う。
目の見える誰もが、その経験の中で、
色は光のあるところでしか認識できないのだ、ということを
うっすらと知る。


10年以上前、大学で美術の授業を持っていた。
年間通じてほぼ、すべての担当授業は実技だったけれど、
年に1回だけ、座学の講義をしなくてはならなかった。
それは、色彩学の授業で、
色がなぜ、異なる様々な色として目に映るのか、
その原理と色彩の分類法について、学生は学ぶ。

高校美術の延長のような授業内容だったけれど、
教える側なので追加で、色彩学についての本をいくつか読み、まとめる。

私自身、色を色として認識するその原理を、
ひどく不思議に、興味深く感じていたことが
なんとかその講義を成立させていたのだと思う。
興味がなかったら、それほど熱心に調べもしなかっただろう。

この世の中は、目には見えない光で溢れている。
比喩でも隠喩ではなく、物理的観点から。

「目に見える光のことを、我々はなんと呼んでいるかな?
色と呼んでいるね。
だが、電磁波のスペクトルは、ゼロから無限まで広がっているから、
数学的に言えば、光はすべて目に見えないのだよ。」



アンソニー・ドーアの作品で初めて手に取ったのは、
「シェル コレクター」だった。

その頃、台風の次の日には海へ行って、
浜辺に打ち上がるものものを拾っていた。
貝殻は、台風の後ではなくてもあるのだけれど、
おそらく、いつもは浜辺の砂の中に埋まっているであろう
見慣れない貝も出てくるから、とかく熱心に、拾い続けていた。

おかげで、学生の頃の私の仕事場には、流木やら石やらに紛れて
砂まみれの貝殻がいくつかあって、よく手に乗せて愛でていた。

鉱物の図鑑と、貝の図鑑が何冊も手元にあった。
巻貝を縦に切った断面図が好きだった。
自然の中にある形を、いかに正確に再現するか。
直線、曲線とねじれ、美しい形の手本は、自然の中にあると思っていた。
落葉樹の枝や草の葉、削れた石や動物の脚、犬の鼻筋、
それから、あらゆる種類の貝の形を、よく観察しては、描いていた。

実物よりも随分大きな貝殻を、よく作っていた。
ただひたすら、自然に生まれた美しい形を、
作る過程で追随し、再現する。
その作業自体が好きだったから、出来上がったものにはあまり、興味がなくて
陶土を焼きしめてできた貝もまた、仕事場には転がっていた。

小説の中で描かれるものものがすべて、私の好きなものであること。
宮沢賢治もそうだけれど、好きなもので溢れている話は、
それだけでも随分と、ありがたい。



アンソニー・ドーアの作品には、
自然のものものを愛でる人々が出てくる。
戦争、兵役、裏切り、病む精神、
人間の作り出す非業な世界を生きる彼らと、美しくめぐる季節、
精緻な貝、6月のミツバチ、小鳥の優美な羽、朝の静謐な光が、
話の中で混在する。
世界には、それらが同等に存在するのだった、と気づかされる。






「すべての見えない光」は、パリの国立自然史博物館に
勤務する父親を持つ盲目の少女と、
ドイツ、ツォルフェアアインの炭鉱に暮らす孤児の少年が
異なる土地で、第2次世界大戦を生きる話だ。
ラジオから聞こえる語りと音楽に魅せられた少年が
世界の広がりと自然の奥深さに心奪われるところから、
物語は始まる。

大戦の最中、呪いとともに永遠の命を約束する宝石を
ナチスの追っ手から救出すべく、移動を余儀なくされる父親とともに、
少女はフランス国内を逃げる。
盲目がゆえによけい、日常を手放すことへの不安が増幅される。
大切な人々が消えていく。
戦争という何もかもが息苦しく辛い現実の生活と
点字にされた八十日間世界一周や海底二万マイルの物語を行き来する。

物理と科学、数学に一際長けた少年が、自分の持つ能力を
レジスタンスの情報網である無線総受信機を壊滅させることに使うべく、
ポーランド、ウクライナ、ロシア、オーストリア、そしてフランスへと移動する。

どんな方法、状況であれ、戦争に加担すること、殺戮することを
無感覚に、思考を停止させて遂行するのがひどく困難な少年の
苦しみと疑問。
目が見えない分、あらゆる周囲の音、匂い、
触れられるものへ、研ぎ澄まされた神経を携える少女の
不安と喜び。

それら登場人物たちの心の動き、感覚、目に見えるもの、見えないもの、
その背景、あるいは、まったく無関係に思えるものものが
2、3秒で切り替わる写真のように列挙される。
目の前の家から鳴り響く銃声、飛び立つ鳥、
赤いケープの女の子、深海の鯨の死骸、ひまわり畑、炭坑町の煙。

詩のように的確で情緒あふれる言葉が散りばめられ、
それらの言葉がひたすら、物語を紡いでいく。
どんな短い文章でも、ただただ、美しい。

ものを指す名詞の羅列でさえ、ある情景、ある状況を
克明に描くとき、美しい。
それがたとえ、あまりにも究極的に残忍な場面であっても。

誇張ではなく、奇跡のように美しい小説だ。




自然のものを愛でる目と心を持つ人は、
どんな状況下でも、目に映るものから、もしくは
手に触れられるものや香り、音から、喜びを見出す。

読みながらふと、思い出す。

シリア難民の方たちの多くが、お金がなくても
庭に植える薔薇の苗を手に入れ、葡萄の棚を作り、
鳩を育てて空に舞わせ、ジャスミンの香りを楽しんでいた。

どれだけ苦しい暮らしと、忌まわしい記憶があっても、
今、置かれた環境のうちに
自然の美しさを喚起させるものものを集め、
大切に育て、折に触れて愛でていた。

それらがどれだけ、彼らの心持ちを支えていたのか。

少なからず彼らを近くで見て、違う文脈ではあるけれど、
ひたすら緑に飢え、些細なものものにも、
美しさや希望を見出そうとしていた私には、
腹の底で、ひどく共感し、理解できるものがあった。

彼らの姿は、私自身が元来、人よりも、
自然のものや景色に心通わせがちであったことを、思い出させた。


人として、人間とその営みを、心から愛しんでいたい。
けれども、それが叶わない状況は現実にいくらでもある。
そんな時に、人間ではない自然の生き物やものを愛でる目は、
心の救済への、切実な手段となりうる。




善人の存在も、話の中にはある。
親族や、周囲の人々の愛情に支えられる主人公たちの姿もある。
彼らは、何万年もかけて作られていく結晶のように
話の中で煌めき、光を放っている。

そして、善人か否かでは図れない存在も出てくる。

宝石を手に入れるためだけに、癌に冒された体を引きずり回し
異様な忍耐をもって他人を脅迫し、追い詰めながら、
歌の上手な、自分の可愛らしい子どもたちの姿を、思う男。
戦争という文脈の中で、ただ無慈悲に人を殺し、
けれども、チェロやピアノの奏でる音楽を、愛する男。

崩れた建物の地下で、数日間暗闇に閉じ込められ、
飲まず食わずで瀕死の状況の中、
その男は、受信機が捉えたドビュッシーの月の光を耳にする。
にわかに込み上げる力を振り絞り、瓦礫を手榴弾で爆破し、
地下から這い出る。

(音楽の美しさを愛することは、たとえその人の資質や人格と
乖離があるように見えても、同じ身体と意識の中に共存しうる。
そして、石や花や木々や雲と同じく、その美しさを見いだせる限りにおいて、
あらゆる記憶がまとわりついてもなお、時間を超え、音楽は享受されうる。
ふと、最近その事実が、突然実感を伴って腑に落ちる。
とても不可思議で、でも、啓示のような、大事な事実となる。)



アンソニー・ドーアは、人間の多面性をそのまま
精緻に言葉を尽くして、描いていく。
自分の弱さから逃れられず、決断力に欠けるが、ある瞬間、
大切な人や、自身の生き方のために、大胆な行動に出る。
悪としか認識できない行為をするが、同時に
何かを、誰かを、純粋に愛し、慈しむ。

そんな、混沌とした人間という生物と、
藻類の標本、ヒナギク、滴る雨が、等しく描かれる。

人間と、人間の行為が作り出す善悪や美醜の間に横たわる、
果てしなく深遠なグラデーションを、
見限るでもなく、諦めるのでもなく、ただただ
透徹した視点で真摯に描き切っている。
その視点と姿勢は、作者が対象として描くすべてへの
細やかな愛情を表しているように、思えてならない。



物理的に、比喩的に(もしくは意地悪く、形而上学的に)、
情緒的に、そして本能的におそらく人は、
暗闇よりも光を希求するのだろう。
ただ、光は強すぎると、真っ白になって、形も色も消えてしまう。


漆黒の光ない世界でも、
形と香りと質感を携えてものは存在し、
どんな卑小な存在をも、愛でる能力を持つ人がいる。
光溢れる世界を生きながらも、
周囲の、遠くの存在に、いくらも慈しみが抱けない人がいる。

些細なものものを愛でる心を持つ人は、
些細な人の善行や、失敗や恥ずかさや優しさもまた、
愛でる心を持ちうるだろう、と、
半ば祈りのように、思う。







〜 追記 〜

本を読み終えて、久しぶりに、
Apple Musicでさまざまなピアニストが演奏する月の光を聴いていた。
飽き足らず、ウェブを検索すると、辻井伸行の演奏がトップに上がる。

彼がまだ小学5、6年生だった頃、
教職免許のための実習で、彼の補助者として遠足へ行ったことがある。
公園の小道を、白杖を絶え間なく動かし、
首を小さく振り、歩く。
初めて会う私に色々なことを、嬉々として話してくれる。
ピアノが上手なこと、立派なピアノがあること、
お母さんがアナウンサーだったこと、家に人が来たら、演奏すること。

おうちに遊びに来てよ、と言われる。

学生でピアノなど買えないから、
大学の体育館の廊下にあるアップライトピアノを弾き
ピアノとチェロのあらゆる楽曲を愛聴していた私にとって
ひどく心惹かれる話では、あった。

けれども同時に、誰にでもそう言っていたとして、
初めて会った人を家に招こうとするなんて
ひどく純粋すぎる。
そんなにすぐに、他者である私を信用してはならない、と
心の中で言葉にできない戸惑いを抱きながら、
ふっくらとした手を、ずっと繋いでいた。

結局、お誘いには曖昧な返事をし、
その曖昧さが彼を傷つけてしまうかもしれないことを
どうしたらいいのか分からないまま、実習は終わった。

無論、相手の方は、私のことをすぐに忘れただろう。

ただ私だけが、時折思い出しては、気に病んだ。
視覚を失った世界に生きることと無邪気さの間に
もし、何かしらの関係があるのであれば、なおさら
その男の子の資質の良さを翳らせるようなことをしてはいけなかった。
同時に、無邪気だと感じたいう印象を抱いたことと、盲目であることの間には
私の抱く、何かしらの偏見と憶測があるような気もする。

丸くて白い顔を思い出しては、指の先に刺さった小さな棘のような、
引っかかりと後悔を感じていた
(だからこそ、彼のことをよく覚えていた)。


あの時の子が有名なピアニストになったことは、知っていた。
けれど、きちんと演奏を聴かないまま、今まで来てしまった。
意識して聴いていなかった何よりの理由は、
あの時のうっすらとした後悔と、自分自身への疑念が蘇るからだった。

やっと、しっかり聴いてみる。
月の光に関しては、Apple Musicのアルバム音源ではなく、
Youtubeの映像音源の方が個人的には、好きだった。

アルバムの、指先から音がこぼれる落ちるような感じは、でも
9月のあまねく月の光には、合っているのかもしれない。

月の光は見たことがなくても、
演奏を通じて、その清かな光を感じているように聴こえる。

瀕死の兵士たちが、生き埋めになった地下の暗がりで耳にする月の光も、
盲目の少女が、自分を殺そうとする男を階下に感じながら、
手探りでレコードを蓄音器に乗せて聴く月の光も、
視覚は排除し、ただひたすら聴くことに徹する状況にあった。

目を瞑り、音に集中する。









2022/08/22

盲信する男と、どこまでも温かな人間への眼差し




すでに十数回は読んだ「日の名残り」をもう一度読んだのは、
トム・ウェイツの歌が、この小説の最後のクライマックスに
影響を与えている、という件を確認したかったからだった。

小説の最後の方、束の間の再開を果たし、バス停まで送った別れ際、
女中頭だったミス・ケントンの口にした事実と
それを耳にした主人公の執事スティーブンスの反応には、
どうしようもない後悔の悲しみがあり、
何度読んでも、胸が締めつけられる。

当たり前のようにその情感をただ味わい、数十回と読んでいた。
けれども、何度もの読書経験を経て、今さら気づく。
ここにだけ、スティーブンス自身の激しい感情が描写されている。

「わたしの胸中にはある種の悲しみが喚起されておりました。
いえ、今更隠す必要はありますまい。
その瞬間、わたしの心は張り裂けんばかりに痛んでおりました。」

ずっと、一人称で語られ続ける文章は、
スティーブンス自身が、自分の心を偽り続けている様までも、そのまま語っている
実際に発せられる「」の言葉だけではなく、読み手は、
ナレーションとして綴られるスティーブンスの語りの裏側に潜む思いを、
声に出した言葉と照らし合わせながら、
色々と推察して、このシーンまで辿り着く。

ここで一瞬だけ、はっきりと思いを吐露させる、という
明らかな意図を持って、クライマックスは作り上げられていた。

けれども、ミス・ケントンには、ただ彼女の幸福を願う、
どちらかというと、ありきたりな言葉を伝え、
彼女の涙に気づきつつも、バスに乗っていく彼女を見送る。

作中のスティーブンスが、語りの中でさえ、心の内を
はっきり言い切ることなど、このシーンの手前にはどこにもなかった。



ラジオドラマの脚本を書いていた、カズオ・イシグロが
登場人物に話させるセリフを、ナレーションとともに丁寧に読んでいくと、
よくそれぞれの人物の特徴を捉えていて、見事だったんだと、
これもまた、今さら気づいた。






例えば、レコーディングされた曲を聴くとき、
もう何度も聴いている曲だったら、次にくる音、リズム、旋律が予想できる。
そして、聴いているわたしは、予想しているそれらが
思った通りやってくる確実な再現性と、
思った通りに美しかったり気の利いている音やリズム、
それら両方を常に享受している。
一種の安心感を担保してくれるものだ。

音楽にしろ、映画にしろ、小説にしろ、
もう血肉のように身体に染みているものであれば
そんな安心に裏打ちされた享受方法がある。

ただ、殊、小説に関しては
新たな発見があり、読み手であるわたしのものの見方や
考え方の変化に、客観的に気づくきっかけになったりして、
今まで何をわたしは読んでいたのだろう、と
自分で自分に呆れる、という経験をしたりも、する。


政治、生き方、会話が目の前で繰り広げられていても、
主人公スティーブンスと雇い主であるダーリントン卿への敬愛、
また、スティーブンスとミス・ケントンとの変化する関係性などを
丁寧に鮮やかに、描き出すための伏線のような形で存在している、と
わたしは認識していた。
もしくは、人間関係の炙り出しの面白さに夢中だった。

けれど、今回は特に、登場人物が語る台詞の背後にある、
情景や状況、含みや感情が、以前に増して
くっきりと立ち上がって、頭の中に広がる。




「この村だって、その民主主義を守るために大きな犠牲を払ってきたんだからね。
だから、こうやって獲得した権利を行使するのが、私ども全員の義務だと思うんです。
この村の若者が何人も戦場で命を亡くしたのは、
それは残った私どもにその権利を与えてくれるためでしてね」

「われわれは国の意思決定を、この執事殿や、
その数百万人のお仲間に委ねようと言い張っている。
この議会政治という重荷を担っている限り、
さまざまな困難に少しも解決策を見出せないのは当たり前のことではないか。
母親の会に戦争の指揮をとってくれと頼んだ方がまだマシだ。」

「その辺を歩いている人が、誰でも政治学と経済学と、
世界貿易のことを知っているとは期待できまい?
大体、一般人はそんなことを知っている必然性がないのだ。」

「次元の高い問題について、あなたは的確な判断を下せる立場にはありますまい。
今日の世界は複雑な場所です。いたるところに落とし穴が口をあけています。
例えばユダヤ人問題にしても、あなたやわたしのような立場のものには、
理解できないことがいくつもあるのです。」

「社会主義になれば、全ての国民が品格と尊厳を保ちながら生きられる。
そう信じて、田舎までやってきたんだが、、、。」



イギリスの大戦における立ち位置、
反ユダヤ主義、戦時の民主主義とその凋落、
社会主義思想の実生活での限界、
ごく一般市民の中の「強い意見」の理想と現実。

実のところ、これらのテーマがふんだんに散りばめられている。
そして、これらのテーマに関わる登場する人物たち、
働き者のユダヤ人女中、卿と親族のように仲のいいジャーナリスト、
プロフェッショナルに外交に長けたアメリカ政治家、
農村部の村人や、そこで働く医師、のそれぞれの訴えは
どの立場においても、その立場だから抱く思い、皮肉、傲慢、諦めとともに、
的を得て表されている。

なのに、往々にして、誰かが説明している、訴えている言葉を
スティーブンスは語りの中でも、やもするとそのまま、受け止める。

そしてすっと、思い出に戻っていくスティーブンスは、
ダイナミックな時代の流れを間近で見て、感じていたのにも関わらず
常に自分なりの意見や見解をあえて携えず、
雇い主の卿への全幅の信頼、という忠誠心に集約していく。
自分の考える「正しい執事のあり方」に囚われて、
思考を止めていたか、もしくは、持っていることに
気づかないふりをしていた。






まさに、1日の終わり、日の名残りを享受する一番最後のシーン。
見知らぬ男との会話に、自分の正しいと思ってきた、
寄って立つ信条への後悔が
泣きながら吐き出されている。

「卿は勇気のある方でした。

人生で一つの道を選ばれました。それは過てる道ではございましたが、

しかし、卿はそれをご自分の意志でお選びになったのです。

少なくとも、選ぶことをなさいました。

しかし、私は、私はそれだけのこともしておりません。

私は選ばずに、ただ信じたのです。

私は卿の賢明な判断を信じました。卿にお仕えしていた何十年という間、

私は自分が価値のあることをしていると信じていただけなのです。

自分の意思で過ちをおかしたとさえ言えません。


スティーブンスが気づいた、自分の人生の取り返しのつかない過ちは、

自分ではない何かに自分の判断を委ね続け、委ねた相手を信じたことだった。

おそらく、それは仕えた卿であり、理想とする執事像か、もしくは、品格、だ。

自分の意思を持とうとしなかったために、敬愛する卿の辛い最期を看取り、

忙しさを理由にして、父親の最期は看取ることから避け、

好いた女性の懸命な呼びかけも、聞こえないふりをした。



戦時中だったから、だけではないだろう。

全幅の信頼をする他者を、自分で作り上げた理想的何かを、

信じて疑わない、疑おうとしないこと。


少なくともわたしの周りにも、わたし自身にも、

似たような経験はある。



「クララとお日さま」でも、作品の中で一番気になったのは、

信じることに疑いを持たないクララの危うさと純真さだった。

その作品よりも30年近く前、すでに、同じように盲信する中年男性の

危うさと悲哀を描いていたのだ、と今更ながら、知る。


信じる、という行為は、信じたいという背景に見える

弱さと切実さがわかった時、愛おしい。



自分を律する自信がない、賢明な判断ができなかった過去がある、

他には助けを求められない、漠然とした不安や悲しみがある。

弱さ、とまとめてしまうのも良くないかもしれないが、

そんなさまざまな、自分ではどうしようもできなかったこと、そのものは

誰の人生にもあるはずだ。


宗教だけではなく、近くの、遠くの人を崇めたり、

すべてがいいと思い込んだり、

何かを信じること自体を、咎める権利は誰にもない。


ただ、信じていた人や思想が間違っていた、と気づく時の

足元にあるはずの地面がうっすら透明になるような感覚は辛いし、

それに気づいた人を近くで見るという経験もまた、辛いのだけど。



以前も書いたけれど、

カズオ・イシグロはじめ、何度も読み続けてきた作家は、

須賀敦子も、いしいしんじも、宮沢賢治も、ジュンパ・ラヒリも

自身が悩み、苦しんでいるからこそ、

人として存在することを、肯定して愛しむ片鱗が見える。

深度や角度には、それぞれ違いがあるけれども、

それらが滲みでる文章を、わたしは何度でも読んでいられる。


どう世界を見ていたのか、どう人を、自分を捉えたらいいのか、

どうしたら他者に対する愛しみを手放さずに生きられるのか、

示唆してくれる挿話と人の姿の描写に、溢れている。

(アリス・マンローも、アントニオ・タブッキも、夏目漱石も、ヒメネスも、そう。)


(そして、アンソニー・ドーアも、ベルンハルト・シュリンクも、

芥川龍之介も、カフカも好きだ。

けれど、彼らにはどこか、厳しさがつきまとう。

その厳しさが透徹して美しいけれど、同時に恐ろしくもある。

おそらく、自分自身にひどく厳しかったからだろう。)



この作品には時折、あまりにも生真面目で職務に忠実すぎる

スティーブンスの思考が、意図的に狙って

ユーモアを込めて描かれている。

そこには、自ら作り上げたスティーブンスという主人公への

親しみと愛おしさが満ちている。


自分の気持ちを直視しようともせず、

自分なりの少し歪んだ哲学を手放したがらず、

仕えた人を信頼しすぎて自分の考えや感情をも表せないまま、

常に背筋を伸ばして、かしこまって佇む

不恰好で不器用で偏屈な男へ、

これほどまでに惹きつけられる。


スティーブンスのような(例えばわたしのような)

素直でもなく、複雑さと業を抱いて生き続ける人間と、

そんな人間を取り巻く未来を、切り捨ても諦めもせず、

忍耐強く見つめ続ける

カズオ・イシグロの、人間への眼差しに

読みながら救われていく。


だから、読むことを通じて、そんな経験を

何度でも、何度でも、欲してしまう。


2022/08/12

続・ボールの弾力と重み

 

たまたま、カズオ・イシグロがノーベル文学賞を受賞した際の
記念講演の映像を見ていた。
どちらかというと淡々と、自分の人生と創作活動の転換期を語る。
原稿をめくり、時折、だけ目を上げて聴衆に視線を向け、
そして、原稿に戻り、1時間ほど話し続けていた。

サ行の子音が耳に残る。
私にはよく聞き取れないところも多くて、翻訳を確認する


カズオ・イシグロが自身の小説の解説をする映像を
過去にも色々と見ていた。
メガネ越しの生真面目な視線、言葉を慎重に選びつつも
淀みなく話し続けるその語り口が、たぶん好きなのだと思う。

その、総括的な位置づけとして、この講演がある。
過去の作品の解説で、語られていたこと、語られていなかったことが、
時系列に乗って、まとめられていた。






初めて読んだカズオ・イシグロの作品は、「日の名残り」だった。
原書ものちに、無理をしても読もうと努力するぐらい、
この作品には、思い入れがある。


小説の最後の方、クライマックスとなる場面の生まれた
きっかけについて、講演の中で触れていた。
トム・ウェイツのRuby's armという曲が、
あの苦渋と悲しみと後悔の入り混じる場面を生み出す
鍵となっていることを知る。

戦場へ行く兵士の、朝方眠っている女性を置いて
家を出る時の切なさが、擦り切れるような声で歌われている。



もともとは、ミュージシャンになりたかったカズオ・イシグロの
音楽への知見と傾倒は、興味深い。

ジャズやクラシックに触発されて作品を作る作家はおそらく、
たくさんいるのだろう。
けれど、作品の中ではまったく登場しない、何なら、
戦中のイギリス貴族の館、というひどく限定された舞台の
話のクライマックスが、このしわがれた声によって
決定的に印象深いものになっていた、という事実が
小さく衝撃的だった。


カズオ・イシグロの小説は、過去、現在、未来の
社会に横たわる問題を、常に扱っているけれど、
問いかけの手法の多くは、その社会を生きる、
ある個人の視点と、感情のゆらめきの描写に拠っている。
だから、その緻密な心の動きが、手に取るように分かり、
心の動きを一つ一つ手繰っていくと、いつの間にか
ある壮大なテーマの核心に、辿り着いている。



「(でも)私にとって本質的に重要なのは、感情を伝えることです。
感情こそが境界線や溝を超え、同じ人間として共有できるものだからです。」



自分の本心から目を逸らし続けたために、
大切なものを手に入れることができなかった老執事であったり、
クローンとして他者の命のためにこの世に生を受けた
その在り方への答えを求め続ける女性であったり、
人間の心のうちを情報として、持てる限りの記憶と処理能力をして学習し、
家族に尽くそうとするAIロボットであったり。

自らの人生で経験することのない、誰かの感情を追体験する。

そこには、嫉妬や愛着や悲しみや寂しさや喜びや慈しみが、滲む。

どちらかといえば、どの登場人物にも節度があり、
それらの感情を必死に抑えているのにもなお、
漏れ出てくる、そんな様相を帯びた感情を
丁寧に感じ取っていく作業だ。


では、私が感じ、追体験したさまざまな感情から、何を見出してきたのか。

それぞれの小説が持つ大きなテーマ、例えば、
国家や集団の記憶、AIの発達と脅威、クローンと生、戦争への個人のスタンス。
登場人物たちの心境をなぞり、共鳴、共感できてこそ、
真剣さを持って抱ける、社会問題への関心や疑問があった。


けれども究極的には、話の中の人物たちの
感情の揺らぎに垣間見る、人間の生き様から、
私や他者が、生きていくことを愛しみ、根本的に肯定できる何か、
小さくとも儚くとも、その片鱗を見出したい、
そう切望し、貪るように探し続けていたのかもしれない。


そのことに気づいた時、
今まで、いくらもその実を伴って感じることのなかった、
Humanityという単語が、ふと、頭に浮かんでくる。

おそらく、広義な意味での人類、もしくは、
他者に対する理解と優しさそのもの、もしくは、
人間性、あらゆる人間の在り方そのもの、と捉えられる。

生きていることの意味は分からなくとも、
生そのものに価値があり、存在を無条件に肯定する。
人としての煩わしさや諦め、悲哀や苦しみでさえ、
抱えている私の、あなたの、誰かの
存在の在り様を示す言葉としてのHumanity。




先日、白いボールになぞらせて、
トラウマケアの、心のResilienceプロセスを想像していた。

いくらも弾むことのなくなった鉛のようなボールなど、
持ち続けることを放棄したいと、一瞬でも思ったら、
それは、私が今の、未来の私自身を信じ、愛しむことができない、
ということを意味する。




カズオ・イシグロは、講演の最後の方で、自身の楽観性に触れていた。
人と社会の深淵を見つめ続け、それらを克明に描写する。
それでもなお楽観的でいられるのは、
人に対しても、自身と自分の能力に対しても、
冷静に、理知的に、そして同時に情動的に
愛しみと信頼を抱けているからだろう。


トム・ウェイツの、これでもか、というほどしわがれて味のある歌声と、
その声音が絞り出す、ひどく情緒的な感情の波が
カズオ・イシグロ自身の、生真面目な視線と交差する。

必死で抑制はしているけれど、本心ではすでに、
致命的に傷ついている男の、ぼろぼろの声音と心を
カズオ・イシグロ自身も、追体験する。
肯定し、受け入れ、愛しみ、話の中で昇華させる。





もちろん、私には表現して昇華させることはできない。
手元にあるボールを膨らますだけで必死だ。

再び空気を入れて弾ませられると
自分を信じたくて、もがくことになるのだろう。

ひどく長く、苦しい葛藤の末に
たとえ、よく膨らまなかったとしても、
投げやりでも、諦めでもなく
これでいい、と、肯定的に受け止められたら、
私もまた、Humanityの在り方の一つを体得したことになるのかもしれない。


小説を読み、ある人生の一時を生き、心のうちを知る。
生きて感じる話の中の、あらゆる感情は、
他者に愛しみを感じ、ありのまま受け入れるきっかけを提示する。


まだ足りない、愛しみの深さを
まだ知りきれていない、肯定の辛さと善良さを、できる限り体得する。
他者だけではなく、いつかきっと、自分自身へも
それらを抱けるようになる、と、
希望を持つことができるか否かは、
私自身にかかっている。




2022/08/09

ボールの弾力と重み


弾力のある、を指すelasticという単語を
人の心の有り様に使っている文章を読みながら
語感と意味には幾らかの乖離を覚えつつも
どこか気に入る。
ちょうど、少し大き目なバレーボール大のものを弾ませた時の、
わずかな重みと跳ね返りの良さを、思い出す。

どちらかというと、resilienceの意味も含む文脈だった。
少しずつボールを打つ力が強まり、
跳ねるボールの高さもまた、その力に呼応して、少しずつ上がってくる。

想像の中のボールは白くて、よく跳ねた。



先日オンラインの会話の中で、
ずっと向き合わずに記憶の奥底に隠しておいた、
ずいぶん小さかった時のある、忌まわしい記憶が蘇る。

たまたま耳にした子どもの事例が、自分が過去に経験したことと
まったく同じだったからだ。
本当に、文字通りフリーズするのだと、知る。
座学で勉強していた心理ケアで、子どもに起きる現象の話を
奇しくも、自分自身で経験することになったりする。

すでに別の事象で、すっかり疲弊しきった心と身体には、
反応して流す涙も震える怒りも、表出させる力が残っていなかった。

こういう時、オンラインはありがたい。
滔々と話し続ける講師の声をしばらく聞き流しながら、
呆然と、窓の外に見える高層ビルの無数の灯りを、見つめ続けた。


強い風が気持ちのいい日だった。
東京のど真ん中の風は、それでも風には違いない。
仕事の後、外へ出て空を仰ぐ。

どうも私の携えているボールは、鈍く重いらしい。



無性にピアノが弾きたくなる。
さっぱり弾けなくなっているだろうけれど、
それでも、何か易しく、でも愛おしい旋律の小さな曲、
ちょうどグリーグの小曲集のようなものを。




けれども、ピアノはない。
だから、最近手に入れた画材で、久しぶりに絵を描く。
仕事で使うために、子どもたちの様子を思い出しながら、
ただひたすら、線を描き、色を入れていく。

子どもたちは等しく、しっかりと、どんな些細な、甚大な、邪悪なものからも
守られなくてはならない。

そうでないと、何十年も後に、こうやって東京のど真ん中の夜更けに
一人で途方に暮れなくてはならないかも、しれない。



そんな、ひどくネガティブな何かから生まれる信念の
心許なさと危うさに気づき、もう一度、途方に暮れる。
一体、どうやって昇華していけばいいのか、ずっと、考えている。