2022/04/09

都会の桜

 
桜はどこか、恨めしいものの象徴のように、
久しく私を捉えていた。
愛でられない悔しさが、恨みに変わる、なんともありきたりな
僻みのようなものだった。

ヨルダンの春も、湧き立つような緑に溢れる。
その、ひどくあからさまで呆れるほど明るい春を
初めて経験した年には、心のどこかで物足りなく、感じていた。
翳りのない春は、瑞々しい緑の葉が陽を照り返し、
どこまでも光に満ちている。
そのうちあっという間に枯れて、砂をかぶるのだけれど。

力のかぎり春という季節を享受しようとする様に、
どこかに情緒でもないものか、と思ったりした。

でも、10年も住めば、それがまさに春なのだ、と
身体も感覚も慣れてきて、
春に咲く花を週末ごとに決めて、いそいそと出かけていた。
大事な年中行事のようなものだ。


10年ぶりに、心いっぱい桜が愛でられる時が来た。

私の記憶よりもよほど早く、蕾は膨らみ
私の記憶よりもよほど急いで、桜は散っていった。

桜の花の色は、曇った空に溶けて消えてしまいそうだった。
一度だけ見た、青空の下の桜は、もっと儚げだった。

街中の桜は、人に愛でてもらうために存在していた。
たくさんの人々が、桜並木に集まってきて、
座ることはできなくても、並木の下をただただ、
歩き続けていた。

桜を見るよりも、桜を見る人々に気を取られがちだった。
犬の散歩をしながら歩く人、
ベビーカーを押しながら歩く人、
子どもを肩車しながら歩く人、
友達数人で連れ立って歩く人。

桜を愛でる人々の姿が妙に、愛おしく
でも、どこか疎外感を感じる。

都会の桜には、桜と対峙する場がなかった。

阿呆のように桜を眺めていては、
都会に暮らしていけないのだ、と
教えてくれるのが、都会の桜だった。
その教えが、私にとっては今、必要なことなのだろう。

それでも、やはり桜が散るまでそわそわした。
立派なカメラを貸していただいたので、
とにかく桜を撮り続けていた。








0 件のコメント: