2022/12/31

その人の在りようを、まなざしが語る

 
ジョナス・メカスの映像を初めて観たのは
都美館の企画展の一角だった。
露出が高めで、色が飛んでしまいそうな
もしくは、室内で暗すぎて、影に埋もれてしまいそうな断片が
でもそこにしっかりと存在している光の中で、
大切な小さな石のように一つ一つ、大切に置かれていく。
日常のどちらかと言ったら、とりとめもないような映像が
切り取られ、続いていく。

見た瞬間に、たとえそれが
ただの道を歩く人々であったとしても
風に揺れる花々であったとしても、
食卓を囲む人々の姿であったとしても、
被写体のすべてに対する愛おしさに溢れている、そう
誰もがきっと感じるだろう。

こんな,宝石のような映像を撮る人がいるのか、と
ただずっと、流れる映像を見続けていた。




その印象が強かったから、「眩暈 VERTIGO」という映画が上映されるのを
随分と心待ちにしていた。

たまたま見に行った日、監督と共に、
吉増剛造氏も会場に来ていて、映画の中の断片を
聴くことができた。

NYでメカスの息子に会うシーン、そして
日本中のメカスファンの心が、自分の身体に乗り移って、
「メカスさーん」と呼びかける言葉が出てきた、と
身体と言葉が一体となったような、所作と佇まいで、話していた。


映画は期待通り、それ以上に良かった。
映像の場面一つひとつが美しかったし、
ジョナス・メカスへ抱く、吉増剛造の愛しさに
とにかく溢れていた。

歌を歌うのが好きだったメカスが、映画の中で、
言葉を音に乗せて、アコーディオン片手に歌う。
Dream of Humanityと繰り返す。

彼の映像の中にも、歌を歌う人々の姿が出てきて、
いつも誰かに向けて、自然に歌い出すような流れが印象的だったのだけれど、
フィルムを回す本人が、いつもそうやって歌っていたのか、と
ひどく合点がいく。

後半に出てくるパウル・ツェランの音声も、ひどく印象的だった。

自分の国から逃げねばならず、難民となった先で
母国語とは異なる言葉を操ることを課せられ
言葉という一番慣れ親しんだはずの表現方法が、一度
手の中から逃げていく。
それでも、ツェラン、メカスはそれぞれ、言葉やその周辺で表現を試みる。

ユダヤ人として、ナチス時代に強制収容所に収容され、
過酷という言葉では、とても表しきれない経験をして、
それが、その後の人生の流れと表現の核心を決定付けているところもまた、
共通するところだった。



けれども、映画の中で何が一番印象に残ったか、と訊かれたら、
圧倒的に、メカスの息子、セバスチャンの目、表情と答える。
メカスの最期の場面を尋ねる吉増剛造の姿を見つめる
セバスチャンの表情は、形容し難く、圧倒的な慈愛に満ちている。




気の小さい私は、海外で人と接する時、だいたいいつも、
どこか不安を抱えながら、おそるおそる、どんな人なのかと
その人の佇まいを凝視することが多かった。
そこから得られる情報の蓄積で、
安心できる人を経験的に、見分けていくことになる。

セバスチャンの顔は、会ったら一目で、
ひどく安心できると確信できる人の顔だった。
特に、吉増を見つめるまなざしが、
私がよく知っていて、大好きな人たちのまなざしと重なる。
あの人たちの顔を、よく訳もなく見つめていたのは、
ただ見ているだけで、心が落ち着くからだった。

映画を観ている時も、このまなざしをずっと眺めていたい、と
映画の主題の流れとは離れて、本能的に思う。




まなざし、には、客体である対象を見つめる視線がある。
同じくまなざす、という動詞にも、
対象を見つめる視線がある。
そして、その視線には、見る側の意識が介在する。
対象をどのように見るのか、という意志が反映された
視線としての、まなざし、なのだ。

だから、まなざしそのものに、まなざされる対象を
定義づけたり、意味づけたりする行為も、
場合によっては含まれることになる。
時に、そんなまなざしは、対象を縛ったり、決め付けたりもする。
だから、まなざしそのものに、功罪が存在することを
私たちは意識しなくてはならない。


けれども、セバスチャンのまなざしは、
その瞳の奥に、何かを決めつけるのではなく、
そのまま受け入れて、対象の心を映し出し、
まなざされた対象も意識していなかった
心の奥底の思いに気づかせる。

覗き込むものすべてを映す
凪いだ水面のようなまなざし。


もしかしたら、それはもはや哲学の文脈が意味する、
まなざしとは言わない、と捉える人もいるのかもしれない。
ただ私は、きちんと意志的な視線を携えて、
相手をまなざしている、と感じていた。

根底に、対象を愛しむ存在として捉えている、というのが
まなざしが携える、まなざす人の意志だ。


そのまま受け入れられていると感じられたならば、
対象の心は開かれる。
その心のうちが言葉にならなくても
表情や視線の中に、開かれた心の断片や気持ちが
細かな泡のように浮かび上がってくる。


そんなまなざしが生み出す、心と心の交流が
映画の中で、映像として記録されていた。

回り回って、それはまさに、ジョナス・メカスが
フィルムを通して持ち続けたまなざしだった。

「メカスさんが生涯がけて育てた、
奇跡的な作品と言っていいような人なのね」
息子セバスチャンについてそう語る、
吉増剛造の言葉を思い出す。

確かに、フィルムを通じて表現していたものを
息子はそのまなざしだけで、表現し尽くしていた。


目でものを語る時、
言葉にならない感情を、視線のうちに込めて
時に訴え、時に絶望し、時に怒り、時に苦悶する。
主体の感情が瞳に現れる。
おそらく、この時にまなざしは存在していない。
なぜなら、その時の目は、対象を見ることを放棄して、
たとえ目を見開いていたとしても、
心は感情の中に閉じこもっているからだ。

対象ありき、のまなざしが、
そのうちに、持てる幸な、愛しみを対象と分かち合おうとする。
もし対象が幸ではなくとも、そのまなざしに
いくばくかの幸を感じられる、そんな経験に
何度となく救われてきた気がする。
特に、言葉の通じない場所、言葉が掴み取れない場面で
まなざしから滲み出るものを
敏感に感じとって、なんとか生き延びてきた気もする。

まなざす人はその視線に愛しみなど、
別段意図して込めていなかったかもしれない。
それでも、慈愛を持って受け入れる、その人たちの在りようが
まなざしのうちに表れ、肯定されてきた。



私自身が、まなざす人間でもある。

いつか私も、
セバスチャンのようなまなざしを携える人間になって
今までいただいたたくさんの安心感を、
他者に感じていただける人になれるだろうか。




2022/12/07

他者の言葉を、手書きする

 

語学は滅法苦手だ。
謙遜でも卑下でもなく、本当に苦手で、
その事実を説明する材料はいくらでもある。

たぶん、日本語でもひねった言い回しをしたがっていたからか、
例えば英語に、そのまま置き換えようとして、
まったく一般的ではない単語ばかり覚えていたりした。
もっとも、覚えられるだけの記憶力があった頃の話。

英語もそんな感じだったのに、アラビア語を使わなくてはならなくなって、
ひどく私の脳みそは混乱している。今もなお。



アラビア語を学び始めた時に、
とても興味深い傾向に気づいた。
私の周辺にいる、音楽を演奏する人たち、
特に、音楽を大学まで勉強していた人たちは
アラビア語の習得がとても早かった。
時に、文法は苦手だったりもするのだけれど、
会話に関しては、抜群にセンスが良かった。

耳が、いい。

細かな発音の差異、単語のリズム、言葉の流れを
聞きとる能力が高いのだ、という事実は、
結構な、衝撃だった。

音楽そのものは好きでも、そもそも専門ではないし、
演奏も子どもの手習に毛が生えたような私では、
とても持ち得ない耳を、彼らは
言語の習得に、存分に活用している。

私は耳までもが怠慢だったのか、と思い知った瞬間だった。


日本語も子音の発音が舌足らずになりがちで、
ゆっくりしか話せない私は
他言語になると、流暢とは程遠い話し方しかできない。

だから、よくヨルダンで会う子どもたちは、
私の話し方の真似をしていた。
よく特徴を押さえた、彼らの話っぷりに
それなりに傷つくけれど、実際、おかしいんだろうな、と
肩を落とすより他、なかった。



アラビア語の単語の成り立ちそのものは、
興味深い。
ほとんどの単語には、語根と呼ばれる
男性形動詞過去形があって、
この語根をある程度規則に則って変化させると、
その語根の意味から派生した、名詞、形容詞などに
変化していく。
ある意味、わかりやすいから、
語根の意味を知っていると、初めて見る単語でも、
なんとなく意味がわかったりする。
もっとも、耳の悪い私には、聞いて語根と
結びつけることはほぼ不可能だから、
文字面での面白さでしかない。

さらに、アラビア語は口語と文語では
単語や文法が異なったりするので、
座学での学びが、会話ではあまり活かせないという
別のハードルもある。

そして、アラビア語に関しては、発音の難しさと
口語文語の乖離の他に、もう一つ、
致命的に学習する気力を奪う事実があった。

元来、小説や詩は大好きだ。
だから、今はもう、そんな気力がないけれど、
大好きな英語圏の作家の文章は、
原文を読もうと、努力していたこともある。
その言語で表現されるもの、そのものへの関心があれば、
読もうとする気持ちは、あった。


けれども、どうもアラビア語でアウトプットされる
小説や詩は、ひどく壮大だったり、抽象的だったり、
言葉そのものの強烈さを全面に出す表現が多くて、
その傾向自体が、私にとってはあまり、
魅力的に映らなかった。

おそらく、私が知らないだけで、
身の回りの物事、日常の些細なことを、
愛情を持って紡ぐ文章もきっと、存在しているのだろう。
でも、そんなまだ会ったことのない文章を開拓する気力も
もう、なくなってしまった。





子どもたちのアラビア語の学力が、コロナ禍で低下している、と
教育分野では問題視されて久しいけれど、
それはそうだろう、と、心底思う。
そもそも、言語の文法そのものが複雑だし、
言語が意思疎通のツールであるならば、
日常で話して言いたいことが通じる以上のものを
学ぼうとするには、やはり、私と同様、気力が必要なのだ。

ただ、例えば、自分の心の中にある何かを、
うまく言い表すための言葉を携えていない、という状況を
経験し続けると、自分の持ち得る
感情そのものの種類を結果的に、限定してしまったりする。

最低限、生きていくのには問題ないだろうけれど、
何かを表現したい、と思ったときに、
そのもどかしさが葛藤になることは、大いにありうるだろう。
単語は知らなくても、比喩という表現方法もあるから、
そんな喩えをたくさん、蓄積していってほしいな、と
子どもたちには思っていたりする。

もっとも、それは私自身にも思ったりすることだけれど。





結果、仕事で否応無しに、急ぎで話していることを
翻訳しなくてはならない場面に遭遇したり、
ナショナルスタッフにお願いする時間がないけれど
読まなくてはならない重要な文書などではない限り
文字に起こしたり、翻訳することはなかった。


そんな普段の業務の一環でしていた翻訳を
改めて見直す機会がある。
子どもたちが書いたメッセージを日本語にして、
布に貼り付ける作業だった。
文字を打ち出しすると、貼り付けるのが難しくなるので、
手書きにする。

メモは基本的に手で書く習慣があったけれど、
それでさえも最近、携帯で取りがちだった。
手でものを書く作業そのものが、久しぶりのような気がする。

子どもたちの文はメッセージだったから、
ひどく、訴えるものの多い言葉が使われていた。

一応、英語でも訳されていたのだけれど、
英語の訳だけではニュアンスが分かりづらい文章も多くて、
再度、子どもたちが書いたアラビア語を読み返す。
どこまで文法をきちんと理解できているかは自信がなかったけれど、
とにかく、とても熱い思いだけは真に迫って伝わってくる
言葉ばかりだった。













おそらく、有名な詩や格言も、含まれているだろう。
自分で作り出した文章ではなかったとしても、その言葉を
ここに書き記したい、と思って書いているのだから、
その思いだけでも、汲み取りたい。
ちゃんと覚えているだけでも、意味がある。


アラビア語そのものを読むという、久しぶりの作業の中で、
強い語感を持つ言葉の、広がりを体感する。
大地、もしくは、土地を意味する言葉を見つめ、
これを大地と訳すのか、土地と訳すのか、考える。
愛もしくは、好きを表す言葉は、どちらの方が
文脈に合っているのか、考えあぐねる。

حبは愛、もしくは大好き、という意味を含む言葉で、
動詞として、名詞として、多用されている。
こんなに、好きであることを表したいと思う、その気持ちの
膨らみのようなものに、ただただ、感心する。
そんなに祖国への愛を言葉にしたいと思う、
その切実さに、胸を打たれた。


自分の国をそこまで、好きだと言えるのだろうか。
その気持ちの背景には、失ったあまりにも多くの命と
壊れてしまったあまりにも多くの建物と、
人間関係が、おそらく存在する。

そう思いを巡らせた時、これは愛でしか、
訳されない言葉なのだろう、と觀念する。
技巧的なものを排除し、ただただ
その土地や祖国に対する強烈な思い入れが
本心からの、彼らの伝えたいこと、なのだろうと感じる。


ある意味とても、切ない作業だった。


だからこそ、伝えなくてはならない。
そう、切実に思った。
このメッセージの書かれた布だけでも、
たくさんの人に見ていただけるよう、
旅に出られたらいいのにな、と思う。

2022/11/25

音に寄生する ー音楽と記憶ー

 
「パンと塩」という映画を観に行こうと思ったのは、
短いレビューで、主人公とアラブ人との交流について
触れていたからだった。


ショパン音楽アカデミーの学生である主人公が、
短い夏前の休暇に、地元へ帰る。

公団住宅のようなアパートメントが立ち並ぶ
ポーランドのどこか田舎の街が舞台となる。
違法であろう薬物や葉っぱの話が会話に出てくるような
学校を出ても、行くあても将来のビジョンもない若者たちと、
主人公、そして彼の弟はつるんで遊ぶ。

時折ピアノの練習をする弟は、音大に行きたいけれど、
すでに1度落ちている。
ショパンも弾くけれど、ラップのピアノ伴奏がうまい。

住宅街の端にある、ケバブ屋にしょっちゅうたむろう。
店のスタッフはアラブ人で、ポーランド語はわからない。
鬱積した若者たちの感情が、しばしば
このアラブ人スタッフたちに向けられるのを、
止めることもできない。
けれども、その事象が気にかかる主人公は
一人でも店へ行って、英語でスタッフたちと交流しようとする。

ただでさえ、街を抜け出してインテリな主人公と
弟を含む若者たちとには、見えない溝がある。
だから余計に、ストレスの吐口として、
剥き出しでアラブ人をいじめている場面に身を置いていても、
調子を合わせることしかできない主人公がいる。

よく、私の知っている軟弱さや曖昧さが、
終始映画の中で、観客に鈍くジャブを仕掛けてくる。

アラブ人たちと若者たちとの間の軋轢が、映画の最後で
悲惨な結末となる。


なんとも苦しい映画だった。

ヨーロッパを夢見るアラブ人をたくさん知っているし、
彼らのみんなが、うまく成功できているわけではないことも
うっすら分かりながら、例えばどんな現実があるのか
想像することはなかった。

ポーランド語で挑発される。
バスの中で絡まれて、ものを取られる。
ポーランド語を話せよ、と迫られる。
相手がポーランド語を理解できるのであれば決して言わないような
ひどい言葉を吐きかけ続けられる。

あぁ、やはりこういうことも、現実に起きているに違いない。
私も何度となく、外国で似たような経験をしている。


私はポーランド語は理解できないけれど、
字幕には乗らないアラブ人たちの会話は、なんとなく理解できる。
例えば、アラブ人スタッフがそんなにひどい言葉を使っていなくて、
「俺のことを笑ってやがる」と若者の一人は勝手に怒っていても、
彼らは若者たちではなくて、
自分達についての異なる話題について笑っているであろうことも。

こういうシーンの一つ一つに、思い当たる節がある。
言葉がわからない、とは、そういうことなのだ。







明るい初夏、隠しきれない鬱積や暴力と、
主人公とその弟が演奏するショパンが
不可思議に、映画の中で交差している。
いくつかの楽曲の練習シーンがあったが、
映画のテーマ曲は、ショパンのノクターン48−1だった。


劇中で、主人公が好意を抱く女の子に、
ポゴレリチの話をするシーンがある。
ポゴレリチの妻が、癌に冒されて
彼のツアー中に亡くなった。
亡くなった当日だけは、コンサートをキャンセルせず
ただ一曲、この曲を演奏した。

私自身はほとんどショパンは弾かなかったけれど、
時折弾いていた、数少ない曲の一つでもある。



映画を見終わって、映画館を出るとすぐに
ポゴレリチのショパン、アルバムの1曲目にある
このノクターンを聴く。
背後に広がる救いのない寂寥感と、
込められた怒りの音とその鋭さに、震撼とする。

そして、ひどく楽曲に似合ったそれらの感情を
ただひたすら、できる限り真摯に受け止め続ける。









映画を観に行った日は朝から、ずっと雨だった。

その前の日、自分の思慮と想像と制御と、
身の丈への自覚が足りなかったせいで
勝手に傷つき、結果的に
他者も傷つける、救いのない事象が起きていた。



どこか人のいる場所で気を紛らわしたくて、
水タバコ屋さんに5時間も居座り、
頭がくらくらするまで水タバコを吸いながら、サッカーを見ていた。
大学生みたいでみっともないな、と思いながら、
みっともないのは今に始まった話ではない、と
自分に心底、うんざりしていた。

結局、家に戻っても眠れず。外が白んでくるまで、じっとして、
朝がやってきても、どうしようもない状況は変わらなかった。
だから、ひどく熱心に、ただ音楽を聴き続けていた。

クープランの墓と同じぐらい
雨に、この二つの動画のデータが、随分と似合っていた。



バルトークのハンガリア民謡を
他のどの演奏家とも異なる解釈と音で、弾いている。
特に、3曲目のメロディの民族的な素朴さと不思議さ、そして
和音の、響きの美しさや神秘性は、なんとも言えず魅力的だ。

モーツァルトのVesperae solennes de confessoreの元は合唱曲、
日本語でのタイトルは見つからないのだけれど、
聴聞僧の晩の務めを、テーマにしているらしい。
フェルトで響きの柔らかくなった音に乗って、
美しい旋律と繊細なアルペジオが
天に通じる見えない無数の糸に包まれているような
安心感を感じさせてくれて、慰められる。

この音楽を身体いっぱいに聴ける温かい棺桶があったら、
今すぐ入っていい。
手回しの小さなオルゴールをいじるように、
ただひたすら、ずっと繰り返し聴いていた。

まだ、音楽を集中して聴く気力が残っているのはありがたかったし、
その時々に合った楽曲が手元にあることも、
また、ひどくありがたかった。

モーツァルトもまた、あまり今まで弾いてこなかったけれど
まだ棺桶には入れないだろうから、この曲を弾いて
ひたすら自分で、蚕みたいにじっとできる空間を作りたい。

けれども、ピアノの編曲の楽譜は見つからなかった。





大切に持っている楽曲は、それぞれが
その時々の記憶に結びついている。




Radioheadの「Optimistic」を聴くと
駒沢通りの中目黒から恵比寿の道を思い出す。
1月の東京の、どこにも居場所がない一時帰国で、
馴染みの水タバコ屋さんから、深夜徒歩で、部屋へ戻る。
頭が割れるほどの大音量で聴きながら、
全然Optimisicではない思考を
吹き飛ばそうとする。
東京では珍しいクラクション、そして救急車のサイレンが
イヤホンの端から漏れ入ってくる。
クラクションを鳴らしたい事情を、
救急でなさねばならぬことを想像して、
自分が持っていた手に余る課題を、どこかへ置いておきたかった。


一時期、毎年のようにお正月、年が明けると
ラストエンペラーを観ていた。
長い映画は、外がしらんでくる頃まで続く。
ラストエンペラーの主題の旋律を耳にすると、いつも
ホーチミンで住んでいたアパートメントの
オフホワイトの長いカーテンと、同じく
オフホワイトのベッドカバーを思い出す。
それから、ダラットの赤ワインの味。
お正月、一人で過ごす幾らかのうっすらした孤独感。
北に向いた窓から差す朝の明るさは、美しくて静謐で、大好きだった。





ショパンのピアノコンツェルトは、
東名高速の由比の海と茶畑の、過ぎてゆく景色を思い出させる。
実家の近くのイトーヨーカ堂の片隅に置かれたワゴンセールで買った
廉価版のアルバムの入ったCDプレイヤーが
かすかに、膝の上で震える。
大学1年生の6月、祖父が亡くなった。
実家へ向かう高速バスの中で、ひたすら何度も、
ピリスの演奏するコンツェルトを聴いていた。
祖父の死を、どのように受け止めたらいいのか
必死で頭の中で考えていた。
明るい穏やかな静岡の緑あふれる景色が
頭の中の主題とかけ離れて、生命力に溢れていた。


ダラー・ブランドのアルバム、「アフリカンピアノ」は
三重の山奥の坂道を思い出させる。
アーティストレジンデスのプログラムで
2ヶ月強泊まっていた伊賀の山奥で、一人
ひたすら坂を登っては降りていた。
急な坂道は曲がりくねっていて、先が見えない。
でも、ひたすら繰り返される左手の力強いレフが
歩く気力を身体中からみなぎらせてくれる。
葛、杉、山百合が生い茂る山奥の道は
ただひたすら静かで、孤独だったけれど、
どこからともなく漂う、花の蜜の匂いが
身体に心地よかった。


原田郁子の「青い闇をまっさかさまに落ちてゆく流れ星を知っている」は
アンマンで初めの2年住んでいた、スウェーレへの
だだっ広いアパートメントの、白い石の床の冷たさを思い出させる。
じっと人からの便りを待ちながら、パソコンの前に座っている。
遠くに住む人が今何をしているのか、
あらゆる想像力を費やして、思い描いていた。
アンマンの中でも一番標高が高く、ひどく寒い土地、
ブロックと石の、外気を遮るもののない4階の部屋は
暖かな国に住む人の、何かしらの片鱗を掴み取るには
あまりにも寒過ぎて、寂しかった。
曲の歌詞に心を委ねるほか、できることがなかった。


アラン・ギルバートの指揮する新世界は、
ザアタリキャンプからアンマンへの帰り道の
ローカルバスを思い出させる。
緩く稜線を描く12月、遮るもののないもない土漠の荒野に、
夕陽が沈んでいく。
その日の昼、生まれて以来、最初で最後、
手元にあるものを片っ端から投げて
泣きながら、誰にも通じない日本語を叫んでいた。
私の願いや思いや心配など無視し、
身勝手な言動をするシリア人スタッフに対して
全身で、そして心の底から、怒っていた。
もし、このバスがここではないどこかへ向かうのであれば、
まさに、それは彼らが切望している新世界だったのに。
周囲の陽気なアラビア語の会話と人熱に
むわっとした空気の満ちる冬のバスの中で、
演奏は、ネットが安定していなくて時々、止まる。
それでも、映像の中の、色とりどりの服と人種が織りなす、
オーケストラという単位の、
協働によって作り出される音楽に、心震える。
希望と情熱と楽曲の真髄に対する愛に溢れた演奏が
唯一私に、家まで辿り着く気力を与えてくれるものだった。



内田光子が演奏するシューベルトのピアノソナタ21番は
お正月のアンマン城参りを思い出させる。
イスラム歴や、ムハンマドの誕生日、そして西暦の新年
年に3回も新年があるから、ただの休日でしかないお正月、
日本に帰れないから、毎年初詣の代わりに、一人でアンマン城へ登る。
西に向かった高台の遺跡の上で、
第1楽章の始まりの、ひどく繊細で弱い音を聴き逃すまいと、
全神経を集中させる。
新年を、日常の中でありふれた休日の一日として
過ごす人々を眺めながら、
私もまた、穏やかに新年を迎えることのありがたみを実感する。
深遠で、でも核心を決して取り逃がさない
丁寧で思索に溢れた演奏に聴き入りながら
身体中を音楽で、満たす。
傾いた日差しに、影を濃くするアンマンの街並みが
不穏な空気に翻弄される周辺の国々の中で、
概念でも机上の空論でも理想でもなく、
言葉の意味通り、平和であることを、視覚的に確認する。



そして、ショパンのノクターン48−1は、
ポゴレリチの果てしない漆黒の空間、
言葉が通じないことへの苛立ちと不信感、そして
感情に任せてピアノを弾き続ける自分自身への、
どうにも制御できない鬱憤と哀しみを、
思い出させるのだろう。
横なぶりの冷たい雨が、頭を明晰にしてくれるのではないかと
一瞬くだらない期待をしながら呆然と眺める、
雨に滲むオレンジ色の街灯と、
クリスマスのイルミネーションの灯り。

それから、モーツァルトのLaudate Dominum omnesは
部屋の片隅から見つめる、畳と雨を思い出させるのだろう。
ひたすら続く雨と、後悔と孤独と、
棺桶と透明の糸、そして、
音楽のありがたみを実感する記憶。





いつも、音楽を一人でしか、聴けなかった。
誰とも享受することが叶わない孤独な土地で、
一人、イヤホンから流れる音楽に耳を傾ける。
自分の前に横たわる情景や状況に、
音楽というフィルターを介して見つめることで、
もしくは、音楽という媒体を通して向き合うことで、
自分の思いや思考を、幾らかでも昇華させようと必死だった。

そうでなければ、その場面に埋没した自分の自我と自分自身が、
そのまま消えてなくなってしまう。
もしくは、聴いていなければ、
真っ暗な空間に浮かぶ、細い芯のようなひどく弱い自分は
消えていなくなりたくなる、投げやりな絶望に
抗う力がなくなってしまう。



だから、どの大切な音楽も、ある意味で切実に、
私が生きること、と繋がっている。

できるだけ多くの大切な音楽をストックすることで、
自分を生かしておく手段を、持っていなくてはならない。

喜びに満ちた曲ならば、幸いだ。
けれどたとえ、どんなに辛い記憶を呼び起こす音楽だったとしても、
それらを感じ、享受する気力がある限り、
私の中の何かが死んでいないと、確かめることができる。


私は、音に寄生している。


2022/11/10

善い人、と、手のひらの小さなカード

 

カードの写真が連なるページをただひたすら
いたずらにページをめくりながら眺めていることが、何度かあった。
描かれているカードの顔や形だけではなく
カード全体にかけられている時間的な、作業的な重みと
その分だけ込められている思いが、
ただの写真でもなお、伝わってくる。

全体的に色合いが暗いのは、もちろんその色彩を好んでいたからだろうけれど、
対象となる絵の、やもすると軽妙な形や線と、
色のギャップが、そのまま
作り手の人柄と心のうちの明暗を描き出しているようで、
それらを嫌でも、伝わってしまう、そんな
切実さが滲み出ている。

ロベール・クートラスの、どこかイコンのようなカードたち。








このアーティストのことは、亡くなった友人が教えてくれた。
絶対私は好きになるから、と、十年ほど前、
「クートラスの思い出」という本を
プレゼントしてくれた。

そのアーティストの半生と作品の写真、
そして、客観的にも不遇に思える人生を近くで見てきた
日本人女性の記憶を綴る文章で構成されている
外国のハードカバーのような質感の紙の、本だ。

本人のことも、日本人女性の記憶についての記述も、
どこを切り取っても、生活と制作の狭間の鬱積とした思い
制作の苦しみと喜び、他者やものものへの
行くあてのない愛情ばかりが押し寄せてきて、
一度読んでから、その後あまり何度も、読もうとは思わなかった。
なんだか、辛かった。

その代わり、ただただ、カードの写真を眺めていた。




ロベール・クートラスは、パリで生まれ、パリで亡くなっている。
石工の職人となろうとして、叶わなかったのか、馴染めなかったのか、
画家として画廊との契約が取れても
幾らかでも商業的な匂いのするものに順応できなくて、
日中は求められる絵を描き、夜にカードを作り続けた。
結局は訪れる契約の機会を破棄しては、貧困の中を生きた。

カードのモチーフとなるものものを見れば感じ取れるけれど、
人々の営みや周囲の愛着を何より、大切にする作家だったのだと思う。
崇高さと下世話さ、悲哀と歓喜、
それらを日常の中から見つけ出す目にも、長けていた。




五感を研ぎ澄ませ、
作品の素材やスケールを体感しながらアートと向き合うことは、
他者や社会から与えられるのではない、
自分自身にとってのウェルビーイング、
すなわち「よく生きる」ことについて考えるきっかけになることでしょう。 」
森美術館の企画展「地球がまわる音を聴く」の紹介文の抜粋から。

実は、クートラスの作品があるとは、知らなかった。
ただ、この紹介文のコンセプトが気になって、
足を運んだ。




クートラスの軽く200点はくだらないカードたちは、
ガラスのケースの中に展示されていた。

普段、「お手を触れないでください」の表示に
そんなことはしないだろう、冷笑しているのだけれど、
この展示ほど、ガラスが忌々しく思えたことはない。
そんな私のような人間のために、その表示はあるのだろう。

手に取って、表面のガッシュや絵の具の跡をなぞりたい、
触ってみたい、という衝動に駆られる。
もしくは、ただ本来のカードという形状の習わしを
自分の手で再現して確かめてみたい、と。
おそらく、毎夜クートラスがしていたように。


写真で見たことのあるカードが並んでいる。
馬鹿みたいに、じっと見続ける。
ガラスケースの光の反射が邪魔だ。
すぐそこに、私が国外でただひたすら愛ていたものの
本物が、ある。

私ができることは、また馬鹿みたいに、
写真を撮ることだけだった。

カードの並ぶたった15メートルぐらいのスペースを
何度も往復し、やっと正気に戻って、
展示スペースを少し離れたところから、眺めた。

そこには、小さな小さなカードたちが
整然と、大量に並んでいる。
遠目からではほとんど識別できないカードたちだけれど、
その小さな一つ一つに込められた物語や思いが
塊となって、こちらへ押し寄せてくる。

ただただ、胸がいっぱいになった。









”もの”の表面が、私はずっと気になっている。
表象という言葉に置き換えたのならば、どちらかというと
重要ではなくなるのかもしれないけれど、
質感とか、色合いの曇りとか、汚れとか、
そういうものを含んだ、痕跡を見るのが好きだ。
ただの”もの”でもそうだし、作品でもそうだ。
物質として2次元でも3次元でも存在するものには
痕跡が欲しい。

そこには、触れた分だけの密度と愛着と情熱がある。


もちろん、ものを作る人たちの中には、
さらっと美しい形を、痕跡など残さずとも作れる人もいる。
そんな、天才的な作品にも圧倒される。
けれども、時間をかけて味わう物語は見出しづらい。


私自身は、できるだけ”もの”に、
執着しないようにしている。
失くした時の痛手に耐えられないからだ。
(無駄に、先々の心配ばかりをしている。
そんなことばかりしていると、本当に手のひらに納めたいものも
乗せる前から手放さなくてはならなくなったりも、する。)

その物体は失くしても、手に入らなくても、物語は記憶できるから、
感触の感覚や記憶や写真だけでも、満足すべきなのかもしれない。

自分自身で、手のひらに慈しむものを作っていけたら、素敵だ。
けれど、いざ何かを作るとなると、
慈しむことのできるような愛らしいものではなく、
もっと抽象度の高い、限りなく崇高な何かをテーマに、と願いがちで
結局作る作業まで行き着かなかったりしていた。
物語を含むものだと、どろっとしたものが出過ぎる気がして、
そういうものは極力、排除したかった。




中学2年生の時、美術の宿題で絵を描いていた。
何がテーマだったのか覚えていないのだけれど、
私はひどく思い入れ強く、真っ白な鳥の頭部だけを
丁寧に羽の一つ一つ、筆で描いていった。

美術の先生に出来上がった絵を見せる。
先生は、その絵に鋭い視線を送ると、
おもむろにエアブラシを手に取って、
紫色の絵の具を入れて、白い鳥の顔に紫色の細かな粒を吹きかけた。

たぶん、私の目は怒りに満ちていたのだと思う。
けれど、先生は何の躊躇もなく絵の具を吹き付けると
こっちの方がいい、と言った。

あまりにも強烈な体験だったからか、時折今でも
白い鳥の頭部が色に染まっていく様子を思い出す。

なぜ白い鳥に色を吹きつけたのか、
今ならどこか、分かる気がする。



詳細はほとんど覚えていないのだけれど、
小学校の卒業文集の、将来の夢について、各々が書き記した文集で
自分が書いた主題だけは、はっきり記憶している。

私は、音楽の先生にもなりたかったけれど、
何よりもとにかく、善い人になりたかった。
だから、成長したら、善い人になりたい、と書いた。
たぶん、シンプルに他者を傷つけない、善良な人間であることが
私の中でとても大切なことだったのだと思う。


小学6年生が考える善い人の定義は、ずっと跡を引き続ける。


究極的には、善良で他者を傷つけない人など、ほとんどいないだろう。
それでも、そう心がけることが大切だと、信じ続けていたし、
まったくできないことに苦しみながらも、
いつか私自身が体現したいと、望み続けていた。

けれども、少しずつ、周囲のさまざまな物事と人の背景が
ひどくはっきりと見えてくる。
私が思っていた、いい人、が例えば、
素晴らしい音楽や絵画や彫刻や文章や世の中の仕組みを
作れるわけではない。

より確度の高い、善い人、は、人のあらゆる業や混沌を分かっていてもなお、
他者を、そして自分を、そのまま受け入れる愛情を持てる人、
ということのようだと、いつからか、気づき始める。
好きな本や音楽とそれを作り出す人々の姿から、知らされる。
人物の周辺で起きる事象とは切り離して、人そのものを見られる、
核心を見極める優しい視座を持てたなら、
より、善い人、に近づけるのだろう、とも。

そう分かりながらも、なお
今まで信じてきたものを容易に捨てられないまま、歳を取るまで、
必死にありたいていな道徳心に、しがみついていたのかもしれない。
そのために、さまざまな思いに、時に目を瞑り、時に諦め、
そんな自分自身の選択が良かったのだ、と、
納得させようとしていた気がする。
だから、他者に対してそこそこ寛容なふりをしていても、
その実、どこかで頑なに内に引きこもる自分がいた。



素晴らしいと思うものを作り出す人たちの多くは
崇高な理想を抱いていても、同時に、
果てしない懐の深さを、持ち合わせている。
その懐は、他者だけではなく
自分自身の痛みや後悔を含み、悲哀と歓喜、を含む
物語できっと、埋め尽くされていて、だから
汚れて、手垢に塗れ、でもその奥に切実な理想や思いを
隠し持っている。




白い鳥が真っ白なまま描かれていても
もしその鳥が、何かしらの理想や崇高さの表れであるならば、
その存在のみがある、という状態は、
ある種矛盾のようなものを孕んでいる。
美術の先生は、その事実を見透かしていたに違いない。


白い鳥にスプレーを吹き付ける作業を、その時は気づかず、
今までの自分の人生の中で何度も、自分の手でし続けている。

けれど、私自身はその作業をする自分を、
きちんと認めて、大切にできなかった。
ただひたすら、その作業から生み出される小さく、大きく
薄汚れて卑小で、偏屈で些細な、でも時には
愛おしい幾つかの、もしくはたくさんの物語だけを
どこにもやり場なく、身体に溜めつづけてきた。


だからこそたぶん、汚れや手垢や、
くすんだ色への愛着や愛おしさに、随分と心惹かれている。




クートラスのカードのようなもの、を作れるものならば
作りたいと思ってきた。
カードというサイズに似合った、
偏屈で些細で、でも、手のひらで愛でられるようなものを。

才能やセンスには目を瞑るしかないけれど、
クートラスがカードに込めた思いの片鱗だけでも、
見出せるような、
身体に溜めた物語を少しずつ出していく作業を
やっと心から、できるようになりたい、と
思えるようになった気がする。

ちゃんと自分の持つ物語を見つめ直し、
周囲の、遠くの人々の物語にも思いを寄せる作業と
作る行為にかかる時間の中で、向き合う。

やはり、いくらかでも善い人になりたいと、
切に願っている。



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