子どもの頃のおかしな習慣を思い出していた。
どこにいる、どんな存在なのかわからない神さまに
身近な人たちと知らない人たちの健康と幸せを毎晩、なぜか祈っていた。
就寝する前、頭をすっぽり布団で覆い、
同じ順番でお祈りをボソボソと小さな声で口にする。
順序を間違えてはいけないから、結構毎晩、真剣だった。
いつ始まって、いつ終わったのか分からないその習慣の
断片的な記憶の多くは、口にする時の緊張感と、必死さだ。
小説の中にも主人公が思いを一心に込め、お願いする場面がある。
夫が出張に行っている間、夫の無事の帰還を祈って
コーヒー断ちをする妻の話を聞いたことがある。
一晩中起きて祈り続ければ、拾ってきた死にそうな白い鳩が
元気になると信じて家族に内緒で、一晩中起きていたことがある。
その白い鳩は、結局血を吐いて次の朝、死んでしまったけど。
小説の中にも主人公が自分の犠牲を払っても、
願いを叶えるために、勝手に思い込んだ使命を果たそうとする場面がある。
この小説のストーリー展開だけを端的に説明しようとするのならば、
おそらく、主人公である人工友だち(AF)クララが、
自分を友だちに選んでくれた、病気がちな少女ジョジーの健康を取り戻すため
自分で作り出した契約に含まれた使命を遂行する話、となるだろう。
クララの存在は、社会性を育むのに十分な環境を享受できない
未来の世界に住む子どもたちのために、創造されている。
自分を購入した家族の中にいる子どもが
孤独を感じず、思いやりを持って他者と関わり合えるよう、
将来生きていくのに必要な情緒を整え育めるよう、
献身的に尽くす人工人間だ。
(この観点がとても興味深かった。
ヨルダンはオンライン教育に拘ったために
社会性育成の場がなくなることを、個人的にひどく懸念していた。
オンライン教育の弊害について、限定的ではあるけれどまさに、
危惧している世界を小説の中で見せてくれていた。)
特にクララは、観察力に長け、そこから多くを学ぶ特質を持っている。
素晴らしい人工知能を携え、人間と同様に、時には人間以上に
周囲の様子を感知し、思考を深める能力がある。
そして性格は謙虚で、自分の至らぬところを
幾らかポイントはずれているけれど、反省するきらいもある。
(ある意味、人間にとって、一番都合のいい特質を持っている。)
思春期の子どもの繊細で残酷な言動や、
自分で下した人生の選択へ、疑問を抱き続ける保護者たちの言動に
つまずきつづも、複雑な人の思いを相手に、
理解と思考、学習を深めていく。
そして、太陽のように、常に楽観的であろうとする。
人工知能のあり方や人間関係の複雑さ、
人間が根源的に抱いている寂しさや愛情など、
さまざまなテーマがストーリーの中で折り重なり混じり合っているけれど、
私が心奪われたのは、純粋さの危うさと美しさだった。
それは人の純粋な感情の美しさではなく、
周囲の人々の言動から、その人々の心の動きを察知し、
自分の与えられた役割に応える最善の行動をしようとする、
クララという人工人間の思考の、危うさと美しさだった。
お日さまの光が自分の栄養分となるだけではなく、
人も救うのだと信じているクララの、
お日さまへの熱烈な信頼と必死な祈りは、ある意味、子ども騙しで
大の大人には、信じられる代物ではない。
クララがお日さまと取り決めた「契約」と
自分に課した「使命」が、大人たちに信じてもらえないことを
本人もよくわかっていた。
そして、「契約」を口にすることでその効力がなくなってしまうと
信じて疑わなかった。だから、
お日さまと交わした「契約」の内容は誰にも明かさず
でも周囲の人の力を借りて、必死に遂行しようとする。
クララは純粋に、お日さまの力を盲信している。
そして、自分を友だちに選んだジョジーの健康の回復のために
勝手に作り出した使命をも盲信する。
その純粋さと必死さが危うく、だから美しい。
今日日、盲信の危うさを美しいと感じるなどと
大きな声では言いづらい。
私自身、ものごとはあまりそのまま信じはしない。
だから、本来忌み嫌う類の思考のはずなのだけれど、
本当のところ、本の最初のページの、
お日さまへの思いを綴った部分でもう、胸がいっぱいになってしまった。
この小説の中には、カズオ・イシグロの他の作品同様
心の動きを丁寧に描写したり、
心の動きを想像させる登場人物たちの仔細な行動が描かれている。
行動の詳細から見える心の動きは、
クララの目を通し、クララの思考を通して、解釈される。
クララは目にする物事から知識を蓄積し、
ジョジーの孤独を埋めるという役割に、
的確な行動と的確な言葉で応えようとする。
心の機微を敏感に感じながら、学習を深めていく
忠誠心に富んだ優秀なAFであると同時に、
でもなぜか、お日さまだけは、盲信しているのだ。
その幼稚とも受け取れる頑なさと、人工人間という存在のアンバランスさが、
小説そのものを、ひどく情緒的にしていた。
祈りを叶えることが、クララにとっては
自らの存在を危うくするものなのに、彼女は叶えることに懸命だ。
他者に対して善である、という在り方そのものが、
小説を読み終えたあともずっと、心の中で引っかかる。
それは人工人間を作り出した人間の願望であると同時に
他者がそうあって欲しい、自分がそうありたい、という
欲求のようにも受け取れる。
私が私であらしめるもの、あなたがあなたであらしめるものは
一体何なのか。
寂しさや愛情ゆえに、
かけがえのない人を何かに代替できるものなのか。
これらが小説のテーマとなる問だろう。
いくらでも代替が可能なはずの人工人間クララが
この小説の中で、他のどの登場人物にもできない役割を担い、
最後まで、ある性格と特性を備えたクララであり続けている。
ひどく人間らしい、私には少なくともそう思える。
誰かのために存在し、その人のために全霊を傾けるクララが
私の中の、人としての資質の大事な何かと重なっていたからだろう。
個の自由が希求される時代だけれど、究極的には
他者のために存在する自分の方が、
自分のために存在する自分よりも、
幸せなのかもしれない、と、どこかで思っているからだ。
今の時代、はやらない考え方であろう。
けれども、他者をなくしては、自らが存在し得ないし、
一人だけで満たされる幸せもあるけれど、同時に
それでは完結し得ない幸せもあるのだと、思っている。
恥ずかしい話だけれど、大きくなってからも結構
どこの誰だかわからない神さまに、他者の事事をお祈りする。
こちらでは、すでに立派な神さまが存在しているので、
あまり大きな声では言えないけれど。
ある卑小な、でも切実な祈りを叶えるために、自分で定めた使命を果たしたい。
大人になってもなお、そう心のどこかで思っている人は、でも
結構多いのではないか、と密かに勘繰っている。
利他的か利己的か、という二分した考え方だけでは捉えきれない
人間の生きる世界について、自己のあり方について
改めて考えるための小説なのだと、個人的には、思っている。
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