2021/07/21

砂塵と鳩の舞う土地 - 少女の表情 違う土地へ 腕いっぱいのお土産

暑さが厳しくなってくると、移動中の車の中の窓から
差し込む光でさえ、意地悪に思えてくる。

あっけらかんと何もない茶色い土地はいよいよ
ホワイトアウトして、目が痛くなる。
車の中から見る景色でさえ、そうなのだ。

色々済ませなくてはならない仕事が続いていて
どうにも忙しなく移動を繰り返す日だった。
家庭訪問が3件、そのうち一つは教材を作るためで
先生の家へお邪魔する。

特に理由はないのだけれど、活動場所の学校から遠かったばかりに
あまり普段長居することのない家だった。
子どもさんたちがまだ小さくて、誰も彼もが
お母さんである先生を待っているから、余計に
家へお邪魔して、お母さんを取ってしまうのは良くない、と
遠慮する気持ちも、どこかでいつもあったりする。

この日もまた、お母さんの帰りを心待ちにしていた子どもたちが
家の扉を開けた瞬間に、わらわらと奥から迎えにくる。
そして、お母さんと一緒に見知らぬ顔があることで
急に神妙な表情に変わる。
とにかく、正直な子たちだ。

この日は、家の中の光をうまく使って、コントラストのある写真を撮る
という課題のための、教材作りだった。






あなたの好きなものならなんでもいいんだよ、と言われて
特に戸惑う子どもたちが多いアラブ圏では、
美術の授業で、先生がお手本で描いたお世辞にも上手とは言えない絵を
子どもたちが必死に描き写していたりした。
表現を蔑ろにしている、とも言えるし、反対に考えれば、
学習するという姿勢においては他教科と美術は同じだ、とも言える。

もっとも、日本の子どもたちばかりみてきた私には、
その素直さ、従順さが恐ろしくもある。

描きたいものを描くのではなく、先生の描いた通りに描くことが
いい絵だと、見なされる傾向が強い。
正解がたくさんある世界に生きられない子どもたちは、きっと
窮屈に感じていることだろう。


一方で個人的には、芸術のどの分野においても、基礎技術はあった方がいい、と
考えている節が、私にはある。
なんでも表現だからいい、というのは、自由で素敵に聞こえるけれど
ある意味、教える側の無責任でもある、と思っている。
出てきた作品について、これはいい、悪い、ということは決して言わないけれど
明らかに手抜きなのは悲しいし、最低限学習したことは使ってみてほしい。

せっかく教える機会があるのであれば、最低限の知識は教えておきたいと、
いろいろ欲が出てくるのは、悪い癖。

さまざまな例を紹介するけれど、その例をきちんと踏襲した写真も多い。
例の中から、気に入ったものを選ぶのもまた
個人の選択だから、それだけでも十分、表現だと思っている。
課題を理解して、自分なりに撮ってみる経験が大事で、
彼らの長い人生のどこかで、その経験が役立てばなお、いい
などと思いながら、教材を作る。

先生のうちの子どもさんが、家のお手伝いをする姿を写真とビデオに撮る。

他の兄弟は皆男の子で、一人だけ女の子の長女である彼女は
ひどくしっかりしている。
お母さんの仕事をよく見ていて、すでにたくさん学習している。
お母さんの代わりに仕事をするのも、とても好きだ。

だから、お母さんが私たちの相手をしている間に
トルココーヒーを作ってくれる。
その様子を収めたくて台所へ行ったら、
台所の彼女用に用意された小さな台の上に立って
すでにカップをお盆に準備していた。




ビデオやら写真やらを撮られて幾らか緊張していたのだろう、
目一杯火力を強めて煮たコーヒーが吹きこぼれてしまう。
お母さんが笑いながら床にこぼれたコーヒーを拭き取る。

こういう時にこちらも慌てる。
お母さんが子どもを叱ったらどうしよう、と一瞬不安がよぎるからだ。
お母さんが笑ってくれて、心のうちで胸を撫で下ろす。

コーヒーをいただいている間、家の小さな男の子たちは
それぞれ大人しく遊んでいる。
2歳半の子は、自分の名前を言えるようになった、という会話をしていて
名前を尋ねてみると、恥ずかしがって言ってくれなかった。
4歳になる男の子はきちんと名前を答える。
あら、ちゃんとお兄さんは名前を言えたわよ、とお母さんが頭を撫でながら
2歳半の子に声をかける。
しばらく様子を見ていたら、2歳半の子は呆れるぐらい嫉妬心を丸出しにして
遊ぶ手も止めたまま、じっとお兄さんのことを見つめていた。

いつもそうだけれど、ぼんやりしていると訪問理由を忘れてしまう。
居心地よくしようと、迎えてくれる人々はいつも
いい時間を作ってくれるからだ。

それまでいた客間の他はどこも、電気をつけていない。
だから、土間も台所も薄暗くて、小さな庭に通じるドアの脇だけが
明るく輝いて見えた。

娘さんがドアの横にある鏡の前に立つ。
きっと、お母さんもお父さんも、電気が来なくても光があるところで
自分の姿を確認するからだろう。

大きくひび割れた鏡の前に立つ少女の表情は、刻々と変化して
戸惑いと不安と、興味と好奇心が波たつ。

肖像画にでも出てきそうなきれいな顔立ちの娘さんは
光と影の濃淡に表情を際立たせながら、割れた鏡の中で写真に収まる。

たまたま割れていただけなのに、鏡が割れているだけで写真は
意図しない意味を持ってしまう。
これは使えないな、と美しい少女の顔の写真を確認しながら
小さく心の中で落胆する。

家の中はまだそこまで暑くないけれど
わずかに漏れ入る直射日光の下だけは、焼けるように暑い。
プレハブを工夫を凝らして繋げた家の中の
ほんの少しの光を探しては、写真を撮り続けた。

しばらくすると、玄関のドアの外で自転車を止める音がする。
すると、男の子たちがまたわらわらと、ドアの前に集まってくる。

旦那さんが帰ってきたのだ。

荷物をたくさん手にした大柄の旦那さんが家の中に入ってくる。
子どもたちもお母さんも、表情のどこかに、安心感を滲ませる。
居るだけで、安心させてくれる存在。

たくさん持っていた買い物袋の一つは、惣菜パンだった。
私たちがくるからと、旦那さんが近くのパン屋さんに買いに行ってくれていた。

居間で食事が始まる。
そんなつもりではなかったのに、という言い訳はいつも、通用しない。
ほのかにまだ温かいパンは、こちらのスタンダード
チーズ、ザアタル、ひき肉がそれぞれ入ったパンだった。

たくさん勧めてくれるのを、お腹の具合を見ながらいただいたり断ったりする。
全ての味を試してみてほしい、と皿の上にはどんどんとパンが置かれる。

しばらく食べるのに必死だったけれど、もうこれ以上は無理だ、と宣言する。
その間も、娘さんは弟たちの面倒を見続け、
気がついた時にはまた、コーヒーを作って持ってきてくれた。

それまで子どもたちの話や最近のキャンプの様子を話していた旦那さんが
おもむろに尋ねてくる。
知り合いにUNHCRの職員はいないですか?

この質問はもう何度も、難民の人たちから訊かれていた。
知り合いはいないし、いたとしてもコネが使える世界ではない。

急に語気の強くなった旦那さんは、最近第3国定住が決まった
近所の人の話をする。
自分たちの名前がリストの上の方に来るように、
ヨルダン人スタッフにお願いしたから行けたのだ、と言い張る。

そういうことは国連機関では考えられないですよ、と口にする
こちらも本心では返事に、窮す。

過去に同じ質問をしてきた人々の顔が、突如頭の中に
次々と浮かんでくる。
あぁ、あの人もその人も、まだヨルダンからどこにも行けず
ただただ切に、他の国へいく新しい希望に満ちた未来を夢見ていた。

こんなに多くの人たちが同じ質問をしてくるのだから、実のところ
何かしらのコネは存在するのかもしれない。
でも、残念ながら本当に知り合いはいないし、いたとしても私の立場で
誰かの名前を指して、平等性を欠く操作の一端を担うことはできない。

新しい国に行った人の全てが、いい生活を築けているわけではないんです、
ここも苦しい、でも、新しい土地もまた、苦しくない保証はない。
それでも、閉鎖された土地にい続けるより
まだ、可能性のある土地へ行くことに、未来を見出したいでしょう。

アラビア語と英語を混ぜながら、必死にそんなことを口にしていた。

その時ちょうど、日中配給されるはずの電気が、止まってしまう。

慣れた様子で、子どもたちがカーテンを開ける。
電気が来なければ、一気に部屋の中は薄暗くなってしまう。
暑さを防ぐためのカーテンも、光には負ける。



ふと、諦めにくぐもった表情だった旦那さんの口調が穏やかになって、
お菓子の話へ変えてくれた。

ガライベ、という私の大好きなこちらのクッキーの味が
ヨルダンとシリアでは全く違う、という話題で盛り上がる。
一度だけ食べたことのある、シリアのガライベは、
サムネという脂の味がしっかりしていて本当に美味しかった。

そうだった、と声をあげて、お母さんが立ち上がって部屋を出る。
両手に立派なプラスティックの入れ物を抱えて
部屋へ戻ってくる。
マグドゥース(ナスの漬物)と、ブラックオリーブだった。

今度私が家に来た時には渡そうと、取っておいてくれたらしい。
それから、また台所へ行ったかと思うと、
琥珀色のゼリーのようなものの乗った皿を持ってきてくれた。




16時間煮続けて作る、かぼちゃのお菓子だった。
繊維質で甘さの弱いこちらのかぼちゃをお菓子にするには
砂糖をたっぷり入れてゆっくりじっくり、煮る。
ジャムを作る要領と同じだった。

歯に響くぐらい甘い、羊羹のような味のお菓子だった。

これ、日本のお菓子にそっくりだから、緑茶と一緒に食べたいな、
などと口にしたのがいけなかった。
そそくさとお母さんが立ち上がったかと思うと、
瓶に入ったカボチャのお菓子を持ってきてくれた。

本当に羊羹のようだったし、懐かしい味だけれど
なんでもかんでも思った通りに口にしてはいけなかった、と
心底後悔する。
特にベドウィンの人たちに多く見られる慣習だけれど
こちらの人たちは、他者が自分の持ち物を羨んだら
あげてしまう、という慣習がある。

どれだけ自分たちの生活が大変でも、
他者の喜ぶものは、進んで差し出してくれるのだ。


断っても聞く耳を持ってくれなくて
気がついたら、ペットボトルに入ったオリーブまで
お土産の入ったビニール袋に入れられていた。
入れてくれたビニール袋では重すぎて
取手が破れてしまう。

結局、両腕に抱えて、帰路に着くこととなった。
じわりと胸に広がる喜びと後悔で、なんとも言えない心持ちになる。

でも、美味しいものを美味しいと言わないのもおかしいし、
美味しいと言わなかったら、それも相手が傷つくでしょ、
やっぱり、日本のお菓子みたいだって言ったのがいけなかったのかな、
同行してくれたスタッフに、ぶつぶつ私は言い訳をする。

今度は緑茶をお土産に持っていったらいいんじゃない、と
スタッフは言う。
でもたぶん、彼らは苦い緑茶をあまり好きではないだろう。
甘い羊羹のようなお菓子でさえも、甘い紅茶でいただくから。

私が持ってくる得体の知れない異国の食べ物ではなく、
一番彼らにとって嬉しいのは、雇用し続けることだろう。
当たり前だけれど、私という個人の人格だけでは、
きっとこんなお土産はいただけない。

難民のお宅でものを頂いていてしまった後ろめたさに加え、
また違う種類の後悔と苦しさが、頭をよぎる。
それがマグドゥースの喜びに勝って、仕事の問題の色々が頭を擡げる。
異なる意味を帯びて、その意味に物理的な重みでもあるように
お土産はまたずしり、と重くなる。

単純に美味しい、懐かしい、嬉しいという気持ちに応えたい、という
純粋な思いも必ずあったに、違いない。
もしかしたら、すべてはただ純粋な優しさだけなのかもしれない。

ただ、その純粋な優しさには、雇用される立場がなせる
無意識の保身や保険も含んでいる可能性は拭いきれない。
そうさせているのは私の存在そのもので、彼らにはどんな非もない。

考えていたら、知らない間に音に出して唸っていた。
横に座るスタッフが、窓の外を見つめていた私の顔を覗き込む。

とにかく、受け取ったものは大切にいただく。
それぐらいしか当座、私にはできない。

頂いたカボチャのお菓子は、でも気がついたらカビが生えていた。
どうやって保存したらいいのか、きちんと訊いておかなかったからだ。
申し訳ない気持ちで、いっぱいになる。

カビの生えたところは除いて、もう一度火を通して
深夜なのについ、お皿に乗せて頂いてしまう。
手元にあったコーヒーでも十分、苦味が甘さとよく合った。
でも、お宅でいただいた時の、トルココーヒーの方が結局
味に締まりが出ることに気づく。


2021/07/11

クララとお日さま ー 盲信と、善と、人を人たらしめるもの


子どもの頃のおかしな習慣を思い出していた。
どこにいる、どんな存在なのかわからない神さまに
身近な人たちと知らない人たちの健康と幸せを毎晩、なぜか祈っていた。

就寝する前、頭をすっぽり布団で覆い、
同じ順番でお祈りをボソボソと小さな声で口にする。
順序を間違えてはいけないから、結構毎晩、真剣だった。
いつ始まって、いつ終わったのか分からないその習慣の
断片的な記憶の多くは、口にする時の緊張感と、必死さだ。

小説の中にも主人公が思いを一心に込め、お願いする場面がある。

夫が出張に行っている間、夫の無事の帰還を祈って
コーヒー断ちをする妻の話を聞いたことがある。
一晩中起きて祈り続ければ、拾ってきた死にそうな白い鳩が
元気になると信じて家族に内緒で、一晩中起きていたことがある。
その白い鳩は、結局血を吐いて次の朝、死んでしまったけど。

小説の中にも主人公が自分の犠牲を払っても、
願いを叶えるために、勝手に思い込んだ使命を果たそうとする場面がある。






この小説のストーリー展開だけを端的に説明しようとするのならば、
おそらく、主人公である人工友だち(AF)クララが、
自分を友だちに選んでくれた、病気がちな少女ジョジーの健康を取り戻すため
自分で作り出した契約に含まれた使命を遂行する話、となるだろう。

クララの存在は、社会性を育むのに十分な環境を享受できない
未来の世界に住む子どもたちのために、創造されている。
自分を購入した家族の中にいる子どもが
孤独を感じず、思いやりを持って他者と関わり合えるよう、
将来生きていくのに必要な情緒を整え育めるよう、
献身的に尽くす人工人間だ。
(この観点がとても興味深かった。
ヨルダンはオンライン教育に拘ったために
社会性育成の場がなくなることを、個人的にひどく懸念していた。
オンライン教育の弊害について、限定的ではあるけれどまさに、
危惧している世界を小説の中で見せてくれていた。)


特にクララは、観察力に長け、そこから多くを学ぶ特質を持っている。
素晴らしい人工知能を携え、人間と同様に、時には人間以上に
周囲の様子を感知し、思考を深める能力がある。
そして性格は謙虚で、自分の至らぬところを
幾らかポイントはずれているけれど、反省するきらいもある。
(ある意味、人間にとって、一番都合のいい特質を持っている。)

思春期の子どもの繊細で残酷な言動や、
自分で下した人生の選択へ、疑問を抱き続ける保護者たちの言動に
つまずきつづも、複雑な人の思いを相手に、
理解と思考、学習を深めていく。
そして、太陽のように、常に楽観的であろうとする。



人工知能のあり方や人間関係の複雑さ、
人間が根源的に抱いている寂しさや愛情など、
さまざまなテーマがストーリーの中で折り重なり混じり合っているけれど、
私が心奪われたのは、純粋さの危うさと美しさだった。
それは人の純粋な感情の美しさではなく、
周囲の人々の言動から、その人々の心の動きを察知し、
自分の与えられた役割に応える最善の行動をしようとする、
クララという人工人間の思考の、危うさと美しさだった。

お日さまの光が自分の栄養分となるだけではなく、
人も救うのだと信じているクララの、
お日さまへの熱烈な信頼と必死な祈りは、ある意味、子ども騙しで
大の大人には、信じられる代物ではない。
クララがお日さまと取り決めた「契約」と
自分に課した「使命」が、大人たちに信じてもらえないことを
本人もよくわかっていた。
そして、「契約」を口にすることでその効力がなくなってしまうと
信じて疑わなかった。だから、
お日さまと交わした「契約」の内容は誰にも明かさず
でも周囲の人の力を借りて、必死に遂行しようとする。

クララは純粋に、お日さまの力を盲信している。
そして、自分を友だちに選んだジョジーの健康の回復のために
勝手に作り出した使命をも盲信する。
その純粋さと必死さが危うく、だから美しい。

今日日、盲信の危うさを美しいと感じるなどと
大きな声では言いづらい。

私自身、ものごとはあまりそのまま信じはしない。
だから、本来忌み嫌う類の思考のはずなのだけれど、
本当のところ、本の最初のページの、
お日さまへの思いを綴った部分でもう、胸がいっぱいになってしまった。


この小説の中には、カズオ・イシグロの他の作品同様
心の動きを丁寧に描写したり、
心の動きを想像させる登場人物たちの仔細な行動が描かれている。

行動の詳細から見える心の動きは、
クララの目を通し、クララの思考を通して、解釈される。
クララは目にする物事から知識を蓄積し、
ジョジーの孤独を埋めるという役割に、
的確な行動と的確な言葉で応えようとする。

心の機微を敏感に感じながら、学習を深めていく
忠誠心に富んだ優秀なAFであると同時に、
でもなぜか、お日さまだけは、盲信しているのだ。

その幼稚とも受け取れる頑なさと、人工人間という存在のアンバランスさが、
小説そのものを、ひどく情緒的にしていた。

祈りを叶えることが、クララにとっては
自らの存在を危うくするものなのに、彼女は叶えることに懸命だ。
他者に対して善である、という在り方そのものが、
小説を読み終えたあともずっと、心の中で引っかかる。
それは人工人間を作り出した人間の願望であると同時に
他者がそうあって欲しい、自分がそうありたい、という
欲求のようにも受け取れる。


私が私であらしめるもの、あなたがあなたであらしめるものは
一体何なのか。
寂しさや愛情ゆえに、
かけがえのない人を何かに代替できるものなのか。
これらが小説のテーマとなる問だろう。

いくらでも代替が可能なはずの人工人間クララが
この小説の中で、他のどの登場人物にもできない役割を担い、
最後まで、ある性格と特性を備えたクララであり続けている。
ひどく人間らしい、私には少なくともそう思える。
誰かのために存在し、その人のために全霊を傾けるクララが
私の中の、人としての資質の大事な何かと重なっていたからだろう。

個の自由が希求される時代だけれど、究極的には
他者のために存在する自分の方が、
自分のために存在する自分よりも、
幸せなのかもしれない、と、どこかで思っているからだ。

今の時代、はやらない考え方であろう。
けれども、他者をなくしては、自らが存在し得ないし、
一人だけで満たされる幸せもあるけれど、同時に
それでは完結し得ない幸せもあるのだと、思っている。




恥ずかしい話だけれど、大きくなってからも結構
どこの誰だかわからない神さまに、他者の事事をお祈りする。
こちらでは、すでに立派な神さまが存在しているので、
あまり大きな声では言えないけれど。

ある卑小な、でも切実な祈りを叶えるために、自分で定めた使命を果たしたい。
大人になってもなお、そう心のどこかで思っている人は、でも
結構多いのではないか、と密かに勘繰っている。

利他的か利己的か、という二分した考え方だけでは捉えきれない
人間の生きる世界について、自己のあり方について
改めて考えるための小説なのだと、個人的には、思っている。

 

2021/07/02

砂塵と鳩の舞う土地 - あの世の暮らし 子どもたちの存在

朝から、うっすらと望んでいることが、自然と実現する。

遅刻しかけてまずいな、と思っていたら、ドライバーさんが遅刻した。
途中でコーヒー買う余裕はないかな、と思っていたら、
ドライバーさんが遅刻のお詫びにコーヒーをすでに、買ってくれていた。

この日、親族が亡くなったヨルダン人スタッフの家でお葬式があった。
一親等二親等の場合、もしくは会ったことのある方なら
弔問に行くけれど、そうでない場合は判断に迷うところだった。
結局、休むはずだったスタッフが仕事場に顔を出し
声をかけてくれたので、行くことになった。


キャンプへの行き道は、その親族の話になる。
どうも、自死したようだ、と他のスタッフから話があった。

イスラム教では、自死は鬼門だ。
宗教的に、とても悪いことだという認識がなされている。
それが、何が鬼門の理由なのかを同行したスタッフに尋ねる。

神の助けを信じて、生を全うするのが教えだから
自死をしたら、神を裏切ったことになる、つまり
自死をしたらもはや、イスラム教徒ではない、という。

亡くなる時に、信じていた神に見放される、というのは
自ら見放される道を選んだとしても、辛いことだ。
せめて、自死を選んだとしてもその選択に、
神は寛大であってくれないものなのか、と
きっと私が親族ならば、切に思うだろう。
敬虔なご家族であることを知っているばかりに、
なんとも言えない辛さが、身体中へ広がる感覚に襲われる。

自死をした人のお葬式には、通常あまり弔問しないらしい。
それもまた、亡くなった本人にとってもご家族にとっても
辛いことだ。

日本の自殺率の話から、天国の話になる。
最後の審判の日、地獄行きの判決が出ても
地獄を経験した後、天国へ行けるらしい。

私の知り合いは、天国について
この世では経験できない素敵なことが待っている、と言っていた。
具体的にはどんなことなのか、と訊いてみたら
綺麗な女の人に囲まれて、お酒も飲めるらしい、と言う。

それは本当なのか、と同行するイスラム教徒のスタッフに尋ねると
彼女は顔を顰める。
想像できないような世界である、それから
ぶどうやいちじく、オリーブの木などがある、という記述はあるけれど
それ以上のことは、もはや知人の想像らしいということが判明する。
そもそも、想像できている時点で、その想像は天国で実現しないことになる。

たぶん、綺麗な女の人は、天使のことだ、とスタッフは言う。
では、女性にとっての天国には美男がいるのか、という話だ。
それに大前提として、天使に性別はあっただろうか、と記憶を探る。
美男美女の天使がいたとして、天国でも伴侶は同席している、という。
夫婦仲が悪かったら大変だね、とコメントすると
一番幸せで美しい時期が、天国では永遠に続くのだ、と説明してくれる。

人の記憶の中の一番美しい時期はそれぞれ違うから
必ずしも夫の幸せな時期と、妻の幸せな時期が同じとは限らないね、と
意地悪なことを口にする。

自分だったら、どの時期を選ぶのだろう。
そして、亡くなった方は、どの時期を選ぶのだろう。
地獄をくぐり抜けて天国へ行けた時には、
無邪気で愛情に満ちた世界の中で過ごしてほしい。


まだ、若かりし日の寺島進と井浦新がいい役で出ていた
ワンダフルライフ、という映画を思い出す。





一通りキャンプでしなくてはならないことを済ませ、
スタッフの家を訪問する。

いつも通される広い居間には、スタッフのお父さんとお母さんがいた。
訪問した先のスタッフは、用事があって外出中だった。


お母さんは私の正面に座って、じっと一点を見つめている。
もともと心臓も悪いし、コロナでめっきり弱っていたのに
今度の件でまた、ひとまわり小さくなってしまったように見える。

夫が不在の間、上司の相手をしなくてはならないと思ったのだろう。
スタッフの奥さんは私たちの横にいてくれたのだけれど、
何を話していいのか分からない様子だった。

お父さんは必死に、訪問客をもてなそうとして
スタッフの奥さんにコーヒーやお茶、お水やカスラというパンを
持ってこさせる。
いろいろ話しかけてくれるのだけれど
返事を一通り済ませると後は、何を話題にしたらいいのか
戸惑っているようだった。
私もまた、何と声をかけたらいいのか、分からない。


開け放したドアから、なぜか黒いビニール袋が
強い風に舞って部屋の中に入ってくる。
皆が呆然とそれを見つめ、ふと我に返ったのだろうスタッフの奥さんが
立ち上がって、ビニール袋を掴む。

じっと、お母さんの様子を見つめる。
いつもお顔を見るたびに、抱きしめたくなるような
小柄で可愛らしいお母さんが、今日は
白い足の裏を手でずっと小さく撫で続けていた。
私が来たらきっとお母さんの気が紛れるから、とスタッフが言ってくれて
お宅の訪問を決めたのだけれど
私には、どうすることもできなかった。

家にいる女性たちの手を伝って、スタッフの息子が奥さんの手に渡される。
さっきまで寝ていた生後半年ほどの赤ちゃんは
目こそぱっちり開いていたけれど、頭はぼんやりしているようだった。
見知らぬ私の顔をしばらくじっと見つめて、
はたと気づいたのか泣きそうになる。
お母さんであるスタッフの奥さんは、頭にキスをしながら
息子の気をそらせようと、体を抱えて
足で立つ練習をさせる。

亡くなった若い青年にも、当たり前だけれど
こうやって、大人たちにあやしてもらった時期があった。

赤ちゃんは可愛らしくて、その様子につい、顔が綻ぶ。
赤ちゃんの後ろでは、亡くなった方のお母さんが
じっと、赤ちゃんの横顔を見つめていた。



以前訪問した時、たくさんのちびっ子たちが家にいた。
親族が皆、同じ土地に住んでいるから
スタッフの兄弟とその家族の子どもたちだけで
サッカーチームで対戦できるぐらいの人数になるのだ。

大人たちが沈痛な面持ちで居間に集っている。
けれども廊下では、子どもたちが私の姿を見つけて、笑顔で手をふる。

こちらのお葬式は3日間続くから、
ずっとこの空気に支配されては、子どもたちとしてもどうしたらいいのか
分からないのだろう。

子どもたちに挨拶をしたい、と言って
奥の部屋を覗いてみる。
すると、ざっと15人ぐらいの歳も性別も異なる子どもたちが
何をするともなく、集まっていた。
部屋の中で話をしていると
スタッフの姉妹や兄弟の奥さんたちもまた
顔を出してくれる。
居間を離れると、どの顔も少し解けてきて
普段の顔つきに戻りつつあった。

でも、子どもたちが空気を察しつつ、小さく騒ぐ部屋の窓の先では
亡くなった方のお父さんが、一人で木陰に座っている。
ほとんど身じろぎもせず、タバコを吸いながら、ぼうっと何かを見つめていた。



聞けば、親族以外の近所の人たちには、
事故で亡くなった、という話にしているようだった。
私もまた、何が原因だったのか、とても訊くことなどできなかった。

亡くなったらもう、自分の意思や思いは伝えられないし
たとえ生前に伝える手段を持ち合わせていたとしても、
法的な手段を使わない限り、
それを公表するか否かは、残されたご家族の判断に委ねられる。
亡くなったら何もできなくなるのだな、と
しみじみ、思う。


何をどう話したらいいのか分からない時間だった。
だから、初めに挨拶した時にはしなかったけれど
お暇する時、挨拶の代わりにお母さんとスタッフの奥さんの手を握る。
アッラーヤルハム(神のご慈悲を)という言葉しか口にできない。

彼らの信じる神にご慈悲を乞うことができるのだとすれば、
この願いほど、乞うものはないのかもしれない。
彼らの理論からすれば、ご慈悲が彼に注がれることはない。
だから私は、残されたご家族へのご慈悲を神に乞うていることになる。


じっと私を見つめるお母さんの小さな目は、やはり虚ろだった。

まだ裏若い奥さんは、少し目を細めてくれる。
初めて会った時にはまだ20歳ほどだったのに
子どもを産んですっかりお母さんになった彼女の手は
こちらの強力で色も鮮やかな洗剤のせいで
すっかり荒れてカサカサしていた。


未来は、いつも生きている人々に委ねられる。
彼女の赤ちゃんが、亡くなった従兄弟のことを知る日がやってくるだろう。
この家族は、たくさんの子どもたちがいる。
亡くなった方の生きていた証を、受け継ぐ人々のいることが
一つの救いなのかもしれない。


ひどく暑い日だった。
キャンプの中を歩いて、その後キャンプの外の家を訪問して、
なんだかどっと、疲れてしまった。
行きはそれなりに、軽快に話をしていたのだけれど、
帰りは、私もスタッフも、ただぼうっと白茶けた景色を見つめていた。