2021/06/12

砂塵と鳩の舞う土地 - 子どもの絵 砂塵の中 アイスの味

 
朝からなんだか、ぼうっとする日だった。
行き道、トルキッシュコーヒーを飲んで、
スタッフとの会話に冗談を無理矢理入れ込んでみて、
やっと頭が動き始める。


大事な用事にふられっぱなしの、最近のキャンプで
この日もまた、一番大事な要件の相手に会えなかった。
一体いつになったら会えるのか。
周囲の人の情報だけでは信用ならないことは経験上知っていたけれど
では誰に相手の日程を確認できるのか、苛立ちよりも
途方に暮れるところから、仕事が始まる。

午前中の学校には珍しく、子どもたちの姿があった。
子どもの体には大きすぎる平たい段ボールを抱えた子たちが学校を出て行く。
行き道、珍しくマスクをしている子たちが多いと思ったら、
どうも学校で行っている配布の受け取りには、マスク着用が条件のようだ。
一応、女の子たちは、長い列にも間隔を空けていた。
こういうことができるようになったのは、コロナのおかげと言っていい。
人との距離をとって列を作ることが、極端に苦手な人たちが多いから、
大人でも詰めてくる。誰かに横入りされると思っている。

中身が何なのか気になって、子どもたちに声をかける。
おもちゃだよ、とか、文房具だよ、とか、相変わらず適当だ。

朝から用事が済ませられないことに拍子抜けして、
他にしなくてはならなかったことのほとんどを
ちゃんとできないまま、午前中が終わってしまった。

どんな話の流れなのか忘れてしまったけれど、
キャンプに住む女の子たちの自由度は、以前よりも余程、高くなった、
という話だけは、メモに書き取っていた。
コロナで携帯電話が遠隔授業の必需品となった。
だから、今まで子どもに携帯を触らせることに消極的だった親御さんも
仕方なしに使わせることになる。
そこまで出歩かない、出歩けない女の子たちにとっては、
携帯電話でのチャットや電話で十分、自由になった、と感じているらしい。



スタッフたちが楽しそうにアラビア語でおしゃべりする中、
なぜか壁に貼りっぱなしになっている子どもたちの絵が
無性に気になってくる。

ネズミなのか車なのかわからない緑色のカクカクした生き物とか
ゴミを拾うのに、しゃがむ代わりに腕がものすごく伸びてる女の子とか
大口を開けている熊の周囲の、カモメのような大量の茶色い波線とか。




最近、課題に対して戻ってくるちゃんとした絵の写真しか見ていなかった。
写真は大体写りが悪くてピンボケしている。
子どもなりの、描いている時の執着ポイントや、色の塗り方や、
線の感じは、近くに寄ってみないと分からない。
子どもが絵を描いている様子も好きなのだけれど、
最近それもさっぱり、見ていないことに気づく。

壁の絵を眺めていると、また今日もプレハブの薄い壁を
砂まじりの突風が吹き抜けていく。
砂嵐は必ず、地表の温度が上がりきる、正午前からひどくなる。

午後は少し、学校周辺の子どもの様子を見に行こうと思っていたけれど、
この砂嵐の中、道端で子どもを見つけるのは難しいだろう。
それでも、できるだけのことはしようと、とりあえず学校を出る。
地表から数メートル、もやのように砂が巻き上がっている。
ここが山間部なら、山から沸き立つ雲のように見えるだろう。


出てまもなく後悔したのは、逃げ場のない通りで、砂嵐に巻き込まれたからだ。
やってくる風を正面から受けないよう、背後から吹いてくる砂を
背中で受けることぐらいしか、できる対処方法はない。
まったく、サンドブラストのようななものだ。
ガラスなら模様が描けるし、金属ならサビが落とせる。




自転車に乗っていた人がグッとブレーキをかける音が聞こえる。
店が入り口のドアを慌てて閉める。
犬が尻尾を後ろ足の間に入れ込んで、うずくまる。

視界が完全に、茶色一色になって、何も見えない。
これが霧だったら、幻想的な情景にでもなっていただろう。
もっとも、霧だろうが砂塵だろうが、前が見えないから危ないことには違いない。
砂と一緒に、お菓子やアイスやビニール袋が宙に舞う。

結局この日、3回も砂塵に巻き込まれて、身体中が砂だらけになった。

いつもなら、大人は買い物へ、子どもは外へ遊びに出ている頃だけれど、
見事に人影が消えている。

砂塵もひどいし、用事を思い出したので、少しだけお宅を訪問する。
そのお宅の玄関も、すでに砂で色がうっすら変わっていた。
土間のコンクリートは、時間が経つと小さなヒビが走る。
そのヒビの間に、赤茶色い土が埋まって、
灰色のコンクリートに不規則な模様を作る。
朝水を撒いて、これだからね、と家主は苦笑していた。

子どもたちに、少しだけ話を聞きたかった。
外部からの依頼で、子どもたちの将来の夢と、会いたい人を言ってもらう、というもの。

携帯のビデオを回しながら、子どもの回答を聞いていく。
車でシリアに戻って、おじいさんとおばあさんに会いたい、という
長男の言葉に一瞬、ビデオを止めようか、考える。
でも、長男は真っ直ぐレンズを見つめて、そう話すので、
すべて話し切ってから、父親に確認する。

これは、大丈夫ですか?子どもに分からないように、小声で尋ねる。
あぁ、問題ないよ、とぞんざいに答える父親の顔は、いくらかこわばっていた。
私がそんなことを尋ねたのが不快だったのか、
そこまで頭が回っていなかったことへ、自身がイラついたのか、
読み取れなかった。

子どもの言葉の一つ一つにまで、検閲をかけるつもりは毛頭ない。
ただ、予想もしていないところから、彼らの暮らしを脅かす何かが
忍び寄ってくることも、ありえないことではない。
少なくとも、親御さんには確認したい。

ふと、子どもたちの口を借りて、父親は自分が願っていることを言ってもらっている
そう、思えてくる。
そうだとしたら、自分では言えなくても、子どもなら言えると
賭けているのだ、と気づく。

その手の緊張感は、でも、まだ赤ちゃんらしさを拭えない
小さな子どもたちの存在で、いつの間にかすっかり消えていて
通訳をするスタッフも、親戚のように子どもたちを笑わせるのに、必死になっていた。



風はさっぱり収まらず、子どもたちは道端に戻ってこない。
仕方なく学校へ戻ろうと歩いていると、ふとスタッフがアイスの話をする。
前回来た時、アイスを食べたかったのに見つからなかった。
電気が通ってない時間もあるので、ジェネレーターを持っている
商店を探さないと、アイスは売っていない。

この時期、子どもたちの3人に1人ぐらいは、アイスを食べている。
食べると舌がアイスの色に染まるような、粗悪なシャーベットがほとんどだけれど、
遮るもののない、カラカラのキャンプで食べるアイスは、
ただ冷たくて甘い、というだけで十分、美味しい。

他のスタッフたちが、バニラベースのアイスクリームを選んでいるわきで
私は、極彩色の赤と黄色と緑に染められたアイスを手にする。
このアイスは昔からあって、パレスティナキャンプで仕事をしていた頃、
時々買っていた。
一個16円ぐらいで、味も16円の味がする。
子どもたちが、互いの舌を見せ合ってケタケタ笑っていたのを思い出す。

店の中には、雑貨やお菓子と一緒に野菜も並んでいて
今が季節のモロヘイヤが、枝ごともさりと、置かれていた。





パレスティナキャンプでは、結構な子どもたちが
この手の安物のアイスか、もしくは
白地に緑の文字の入った容器に入ったアイスを食べていた。
木べらですくう白い物体が、なんとも美味しそうなので、
子どもに教えてもらって買ったことがあった。
その頃まだ、全然右も左も分からなくて、
そのパッケージに書かれている文字が何なのか分からなかったから
期待に胸膨らませ、気合十分で口にした。

確かに、キンキンに冷たかったけれど、
バニラだと思ったそれは、いくらも甘くなくてカチカチ、
シャニーネという、塩味のヨーグルトジュースを凍らせたものだった。
あの失望は、今でもよく覚えている。

あの時は、ずいぶん健康的なものを食べていると、感心した。
実際には、おそらくジュースを凍らせているから、溶けるのに時間が必要で
すぐ食べ終えてしまう子どもたちには、じっくり食べ続けられてよかったのだろう。
本当は、甘いものが食べたかったのに、違いない。

溶けたアイスの緑色が、指についてベタベタする。
その指の感触に、砂が混じる。
どこにでも砂は入り込んでくるのだ。




この日、家に戻ってシャワーを浴びると
浴室の床に砂を流れるのが、足の裏で感じられた。
髪の毛の間に絡みついた砂を洗い流す。

キャンプに住んでいる人たちは、砂をかぶらないように気をつけていた。
この不快感をどうにもできないまま、眠るわけにはいかないから。

気持ちが悪いから、とすぐシャワーを浴びられる私、明らかに単純に、恵まれている。
その事実は、さっぱりした身体とは裏腹に、
気持ちをざらつかせる。




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