私には、いくつかの、お守りみたいな本がある。
どんな理由にしろ、心が潰れそうなものごとは、いくらでもある。
気のしれた人たちが次々といなくなる、長い海外暮らしの中で、
一人でやり過ごさなくてはならない時のために、
少しずつ、手元にお守りを増やしていく。
一時帰国の短い時間では、新しい本を手に取る余裕がないからか、
過去に読んで好きだった本ばかりが、お守りになりがちだ。
どこの国にいても、お守りは持っていないと不安になる。
以前は、必ず須賀敦子のエッセイを携えていた。
人物の佇まいや、その人となりの切り取り方、
その視点にひどく惹かれていた。
言語の持つ奥深さをどのように楽しむのかを
提示してくれる文章もたくさんあった。
ずいぶん昔には、彼女のように他国の文学を楽しめるようになりたい、
そう思ったこともあったが、
どうにも能力が追いつかないことが分かり、
自分の不甲斐なさを突きつけられる本になってしまった。
それでも、今も何冊か、手元にある。
出会う人の何も見えていないのではないかと、
不安になったりすると、今でも手に取ることがある。
ブローティガンの「芝生の復讐」は、もう何度も
ここでも書いている。
独特のやさしさと、必死さがある。
連なる言葉の意外さとおかしみの中に、
どこか、軽さとも、明るさともつかないものがある。
それらが、ふと、とてつもない悲しみや寂しさをもって
行間でぽっかりと深淵を見せる。
ご本人がどこまで、深淵を意識していたかは分からないけれど、
自らは、軽さと明るさの影に埋没してしまえばいいのに、というような
少し投げやりなところが、あるような気がしてならない。
懸命に生きようとするのに、どこかがおかしい、
そんな埋めきれない矛盾や不条理を
自分の中に抱き続けていた人のように思える。
とかく重くなりがちな仕事の中で、
もう少し不条理や矛盾を、ハスに構えて見限るのではなく、
自分の中に愛情とやさしさがあって欲しい、そう思う時
軽さややさしさとのバランスの取り方を思い出すために、この本はある。
今回も、日本から大事に持ってきた本の中に、
いしいしんじの本が2冊入っていた。
前回帰った時は、「ぶらんこ乗り」、
その前は、「トリツカレ男」と「よはひ」
その前は、「海と山のピアノ」。
新刊が出れば、日本から来る人に買ってきてもらったりして、
今、ヨルダンの部屋には、7冊の本がある。
(「トリツカレ男」は、2冊。人にあげようと思ったのに
渡せなくて、ヨルダンへ持って帰ってきてしまった)。
(前回の帰国中、ふと、京急品川駅で、
水族館に行くはずが、三崎口行きの電車に乗ってしまった。
よく晴れて暖かい、金曜日の昼前。
出国も帰国もままならず、やっとの思いで日本に戻ってきたのに、
自粛要請、という言葉に、不本意ながら囚われているように思える人たち、
日本の常識を持っていないのではないか、という自分の心許なさから、
行くはずだった場所にも、会うはずだった人たちにも会えないまま
東京にい続ける。それはかなり、辛いことだった。
だから、三崎口、という電光掲示板の文字の色は、
そこだけ、特別な色に光っていた。
三崎は行けない距離ではないのに、どうしてだか日本に住んでいる時、
一度も足を向けなかった。
美味しいものは最後に食べる方だから、
時が熟すまで、待っているつもりだったのかもしれない。
そのくせ、昔教えていた大学の学生さんが毎日三崎から来ていて、
乗り換えも通勤ラッシュも面倒だ、と嘆いているのを、
ずいぶん羨ましく思った。
電車の中で、駅から港まで行く方法と、港周辺の地図を頭に入れる。
呆れるほどあっけらかんと凪いだ、穏やかな海が
細くくねる道の先に見える。
海が視界に入る瞬間は、いつも特別な高揚感がある。
日本にいた頃、台風の翌日によく車を走らせた、
茨城の広く果てしない太平洋よりも
よほど近しさを感じさせてくれる海だった。
海と同じように、港町もまた、初めて訪れる場所なのに、
ジオラマを作りたくなるような、どこを切り取っても
細部に愛おしさが見つかる塀や建物や鳥居や小道で溢れていた。
以前は毎日、いしいしんじのごはん日記というサイトを
チェックしていたような、ただのファンだから、
この印象は当たり前と言えば、当たり前なのだろう。
日本の冬はこんなに晴れていたんだろうか、と途方に暮れるほど
滞在中天気に恵まれていたのに、ずっとどこか
灰色の紗がかかったような帰国の記憶の中で、
唯一、三崎への訪問だけが、
どこまでも明るく温かくきらきらした映像になって、
私の中に、大切に残っている。)
「みさきっちょ」と「ポーの話」を
今回は買って戻ってきた。
「みさきっちょ」は三崎から帰ってすぐ、読み切ってしまった。
(悪い癖で、帰国中お世話になった人にその本の良さを熱弁し、
無理矢理読ませようとした。)
「ポーの話」も、本当はどうしても手に取らなくてはならない時のために、
取っておくはずだった。
でも、どうしても手に取らなくてはならない時、は、
結構早々に、やってきてしまった。
どのようにこの世界を、見つめていたいのか、
よく分からなくなった時のために、いしいしんじの本はある。
例えば、人の同情をひきそうな、心にのしかかりそうな
事象の重さに傾斜をつけがちだ。
とてつもなく悲しいこともまた、暮らしの連綿とした日常と
同じ重さを持つものとして、受け止めたり、
心の中に保存したりできるかと言ったら、
それはとても難しい。
傾斜のかかりそうな出来事や人が周りに多すぎて、
次第に自分の感覚が狂ってくるのを感じる。
目の前の人の悲しさや辛さを、過去に聞いた
似たような境遇の人の悲しさや辛さと
無意識で天秤にかけてしまったりする。
自分の喜びだったはずのものが、
周囲の辛さに侵食されて、消えたりする。
当たり前のように、守られる命や尊厳と、
守られない命や尊厳があり、頭のどこかで
ぼんやりとその理由を釈明したりする。
思考ではなく、感覚として、
決定的にどんなものに対しても、
自然にあるはずの、適切な重さが感じられなくなる瞬間がある。
そうではないのに。そう、水をかぶった犬のように
頭を振り乱さなくてはならない。
そんな時、自分が手に入れたい、世界の見つめ方が何だったのか、
いしいしんじを読んで、確かめる。
どんな人にも、ものにも、事象にも、重さがある。
そして、おそらく、それぞれに似合った重さだと見積もっているよりも、
もっと重くて、それぞれの感触も異なる。
当たり前だけれど、どんなものにも、事象にでさえ
命があり、価値があり、
それぞれに優劣もなく、それぞれに良さも悪さもあり、
それぞれに語りきれない、物語がある。
目に映ったり、感じたりするあらゆる対象がもし、
手のひらに乗るようなサイズの塊だったならば、
市長も物乞いも歌手も露天商も
植物も風も犬も匂いも、
地震も洪水も竜巻も凪も、
降って沸いた幸運も、もがいても抜け出せない不幸も、
人も動物も風も草も天気も、
それぞれの大きなカテゴリーの中で平等に同じぐらいのサイズで、
その重量は思ったよりも、ぐっと重い。
そして、それぞれにきちんと然るべき重さがあるからこそ、
カテゴリーを超越して、繋がっていくことができる。
誰かにとって大切な重さのあるものが、
他の誰かにとって、何かにとっても、大切なものになりえる。
たぶん、重さを本能的に感じられる人たちが、
繋がりの循環の中で、大切なものを見つけ
大切なものになりえるし、偶然のように見える出来事を
必然として迎え入れることができる。
と、つらつらと宙を掴むようなことを書いたけれども、
私がいしいしんじの本から、何を感じとって、
世界を見つめる時の糧としているのか、
うまく表現できているような気がしない。
そもそも、ご本人が表現したいことと、全く違うものを
私は勝手に見い出そうとしているのかもしれない。
ただ、然るべき重さを、できるだけ平等に、
日常の細やかなものものにも、
視界に入る知っている、知らない人々にも
今吹き抜ける風にも、今屋根の上にいる鳩の群れにも
感じていたいのだと思う。
都合のいい傾斜をつけて、この世界に存在するものものを
分かったような気にならないために。
自分自身も含め、いいものも悪いものも、存在していることを
きちんと自分の中で受け入れるために。
どうも、これが私には、本当に難しい。
だから、幾らかでも重さを忘れないようにするために、
お守りをいつでも手に取れるように、置いている。
もしも、できることならばいつか、私が三崎の港町で、
目に映るものの一つ一つの輪郭に物語を秘めて
重さと愛着にも似たものを感じられたような
そんな視点を、どんな時にも抱けるようになりたい。
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