2021/04/23

砂塵と鳩の舞う土地 - ラマダンのキャンプ 花が咲く



ラマダン中は、色々と気を遣う月でもある。
夜をただひたすら心待ちにしている人たちが多いと
一緒に仕事をするには、それなりに忍耐力も必要となってくる。

ヨルダンはキリスト教徒もいるけれど
ラマダン中に外で飲食をすると、場合によっては
捕まってしまうので、誰も公共の場では飲食をしない。

キャンプへ行く朝、車の中でこっそりお水を飲んでいる人を見る。
公共の定義について、ぼんやり考えながら事務所へ向かう。


以前は完全に日中断食をしていたけれど、
ここ数年平日はお水は家で飲んでから出かけ、
食事はできるだけ、日没後にしか摂らないという生活をしている。

私はイスラム教徒ではありませんが、
郷に入っては郷に従え、文化や宗教は尊重すべきものなので、
ある程度はコミットします。
でも、やはり仕事にも集中しなくてはならないので、
できる範囲にしています、と大人には言っている。

だが、これを子どもたちに言うと、その後には、壮大な質問が始まる。
宗教が生活の隅々まで行き渡り、行動規範の全てを司っている、と
体感することがしばしばある土地でもある。
宗教への関心はとても高いから、
イスラム教徒ではない、仏教徒であるとわかると、
仏教について、お祈りの仕方、神様のこと、など
色々と尋ねられる。


たくさん神様がいるという状況が
一神教徒にとっては冒涜とも捉えられかねなかったりする。
そもそも、異なる神様を崇めている、ということが
子どもたちのほとんどにとっては信じられない。
(また、うまく説明しづらいことだけれど、
こちらの大人と会話をしていて、気づいたこととして、
一般的な思想や概念と、個人の考えに境界がない傾向がある。
思想や概念のように、大方外部から定義づけられるものが、
自分の思考そのもののように認識していて、区別していない。
だから、例えばある事象に対して捉え方が異なっているのがわかると、
それが個人の考え方を否定されたように受け取ってしまう人も、
多い傾向にある)。

私が地獄へ行くことを心から心配し、
イスラム教徒への改宗を熱心に勧められる。
私が経験する限り、
パレスティナ難民キャンプやシリア難民キャンプの子どもたちには、
特に、その傾向が強い。
天国も地獄も、この世にしかない、という私の悟りは、
通じないことになる。

もう今は慣れたけれど、初めの頃は、
小さな子たちが純粋な目で真っ直ぐこちらを見つめながら、
これらの質問をされることが、もはや怖くもあった。


本当は、こちらもまた、他の宗教があること、
信じるとはどういうことなのか、異なる宗教への寛容さについて、など
伝えたいことはたくさんある。

ただ、言語的な問題もさることながら、
経験上、齟齬が発生しやすく、
周囲の人たちに迷惑をかけてしまう結果になるので、
ラマダン中の自分の飲食に関する行為を制限して、
断食に関する行為については、
子どもに訊かれても嘘をつかなくていい状態に、している。

イスラム教徒の人たちは、小さい頃から徐々に断食に慣れていくので、
結果ずっと私は、5、6歳の子と同じ、ということになる。
心の弱さ、もしくは、このテーマについて腹を据えられない、という観点からも、
私は5、6歳児と同じ、ということにもなる。

時々、イスラム教徒の中にもきちんと他宗教についてある程度理解し、
説明できる人がいるので、本当に助かる。
ただ、どちらかというと肌感覚としてヨルダンでは、
他宗教に対して寛容性について、
頭ではわかっていても、子どもたちも納得できるように話せる人は少ない。

一つ、確実に言えることとして、
イスラム教徒の人が、他宗教への理解を促すことの方が
他宗教の人間が他宗教への理解を促すよりも、
意味があり、子どもたちの理解の深度も異なる。


完全に断食をしていた頃、断食していることを伝えると、
本当に嬉しそうな顔を、周囲の人たちがしてくれた。
それはそれで、宗教が云々ではなく、連帯感のようなものから、
こちらも嬉しかった。

完全な断食を数年間してみた結果として、
普段からよく食事をし忘れて、夜しか食べない、
という生活をしがちな私でさえ、本当に疲弊した。
とかくずっと、仕事中もものを食べたり飲んだりしがちなこちらの人たちにとって、
苦行であり、朦朧としていても、イライラしていても
仕方がないことなのだと思う。





今年は、ラマダン中にキャンプへ行っても、
学校が閉まっているので、子どもたちにはほとんど会えない。

道端では、買い物へ出かける姿はちらほら見たけれど、
ラマダン中で、さらに中間テスト期間だったからか、
4月なのに既に、30度をゆうに越える暑い日だったからか、
家の中で静かにしている様子を、想像するしかない。

この日、朝から心待ちにしていたことがあった。
昨年はロックダウンで全く家から出られなかったから、
見ることが叶わなかった教室の外の、小さな花壇の花が
咲いているはずだった。
あまりいい表現ではないけれど、造花のような
色や艶を持っている。
おそらく、水がなくても花を咲かせ、
受粉のための昆虫を呼ぶためだろう。
見る者を驚かせるために作られた花。





一昨年、初めて花壇にこの花を見た時、
そのあっけらかんとした明るさと立派さに、ただ感嘆した。
こちらの子どもたちのような明るさと整った見た目。

教室で待っているスタッフもいるのに、挨拶するより前に
花を愛でていたので、教室の中から呆れた笑い声が聞こえる。

午前中は大体、ラマダン中でもまだ元気だ。
だから、大切な要件はなるべく早めに話し合う。
外は暑いけれど、こちらの常で日の当たらない場所は涼しい。
いつもと変わらず集中して話ができて、少し安心する。

午後はまた、新聞を貼りに出かけなくてはならなかった。
一番暑いのは3時頃だから、とにかく時間ができたらすぐ、
外へ出かけてさっさと済ませようとした。

子どもたちの姿が消えたキャンプの道は
いつもよりも白っぽく、霞んで見えた。

スークではない場所に点在する小さなお店にまず、貼ってもらう。
その地域には学校の子どもたちがたくさん住んでいるから、
お遣いのついでに目にすることができるだろう。
服屋さん、金物屋さん、モスク、なんでも屋さん、
目に付くお店を順に訪ねる。

小さなお菓子ばかり売っている商店にも貼らせてもらう。
客のいないお店は、がらんと涼しかった。
普段なら、ラマダン中、イフタールが終わると子どもたちは
近くの商店へお菓子を買いに行く。
夜間ロックダウンはキャンプ内でも同じだから、
子どもたちがどうしているのか、尋ねてみたら、
近所に店をしている人がいれば、
店は開けずに、自宅に商品を移動させて
こっそり売っているらしい。

呆れるぐらい身体に悪そうなお菓子の袋を
たっぷり抱えた子どもたちの姿を思い出す。
夜の暗闇の中でも、弱い街灯の光にパッケージが反射して、
顔が朧げにわかるぐらい、袋を抱えていたりする。


以前も覗かせてもらった床屋さんでは、
生徒が立派に店の店員となっていて、
同じぐらいの歳の子の髪をバリカンで刈っている。
店の中には子どもたちが数人、ソファに座って様子を見ていた。
慣れた手つきの軽やかな仕事っぷりに、つい、見惚れる。






スークへも出て、前回話をつけた店を回って行った。

一緒に回っているスタッフはキャンプの中に住んでいる。
だから、道ゆく人たちに挨拶をしていた。

ふと、軽く挨拶をしたあと、二言三言、会話をする。
その内容が、気になった。


八百屋まで行き着いたところで、もう手持ちの紙が底を尽きる。
来た道を戻りながら、小声で話をする。

さっきスタッフは、誰かの近況を尋ね、
アズラックへ行ったよ、と相手は答えていた。
アズラックへ行ったマハムードのことを、思い出す。

ちょうど午前中も、話し合いの合間で、その話になっていた。
アズラックとは、アズラックキャンプのことだ。
恐怖の対象としての、カタアハーミス。

なぜ未だに、違うキャンプへ移される人たちがいるのか、
ずっと疑問に思っていたので、詳細を聞く。
それは、本当に心塞ぐ話だった。
小声で話さなくてはならないような、話なのだ。

ロバの蹄鉄の動画をくれたおじさんが、その日も
ロバの手入れをしていたのが目に入る。
その時だけは、普通の大きさで話す。
そういう類の話だった。


学校に着くと、既に他のチームは教室に戻っていた。
顔を真っ赤にしたスタッフたちが、ぐったりしている。
絵に描いたようなぐったり加減に、思わず笑ってしまう。

雲ひとつない、炎天下のキャンプを歩き回るのは、確かに疲れる。
しばらく休みを取るしかなさそうなので、
ただひたすらぐったりしている人たちを見つめる。

その日はまだ、話をしなくてはならないことがあった。
話の内容がかなりシビアなことだったので、
端的に、短く、通訳を入れずにアラビア語で、熱を入れて話をした。
仲介に入る通訳のスタッフが翻訳に困る内容は、
できるだけアラビア語で話をするようにしている。

一生懸命話しているけれど、私もスタッフたちも
周囲に群がる蠅が気になる。
水分も食べ物もないカラカラのラマダン中のキャンプでは
人の汗も大事な養分なのだ。
汗の滲んだスタッフたちの帽子の周辺が
黒い塊になっていた。

私が真剣だ、ということは通じているけれど、
既に聞き手は聞く集中力に欠けているのは、一目瞭然だった。
そうなると、言葉が足りないのかと、結局
色々たとえを交えて話が膨らんできて
話の内容の順番を間違えたな、と思った時には、
帰らなくてはならない時間になっていた。

結構嫌な話もしたはずだったのに、
地元のスタッフたちは熱心に、私をイフタールに誘ってくれる。
さっき話したことがどれだけ伝わっているのか、不安になると同時に、
美味しい食事がきっと待っているであろうことに、
生唾を飲む。

夜間はロックダウンだから、
お宅へ伺っても、帰ることができない。
泣く泣く、お断りをした。


車に戻りながら、そういえば、
いつも学校の周りをうろうろしている生徒も
さっぱり姿を現さないことに、気づく。
キャンプの中を移動していても、
凧が空を泳いでいない。

白茶色いプレハブの一つ一つの
薄暗い部屋の中を思い描く。
子どもたちもまた、必死に空腹に耐えながら、
イフタールに出てくる料理の匂いや音に
感覚を研ぎ澄ませていることだろう。

2021/04/17

彼らの暮らしと、話の断片 ラマダン前2


今年のラマダンもまた、コロナの影響を受けて
ラマダンらしさを享受できない外出規制が布かれている。
夕方6時には店が閉まり、7時から朝まで外出禁止。
休日である金曜日は完全外出禁止となっている。
だから、金曜日など、普段にまして、外は静かだ。

ラマダンの醍醐味といったら、日没後にやってくる
断食後のイフタール(断食後の「朝食」)を
家族や親族、友人とともにいただくこと。
普段なら、レストランでも家の中でも、イフタールとその後の歓談を
楽しむのが慣わしだ。
いつかのラマダンの写真を、見直したりして
感傷に浸ってしまう。






いつもなら、夜中までカフェからは音楽が流れ、
ファジャル(日の出前のお祈り)まで、人の気配に溢れている。
私の家はダウンタウンのすぐ脇の丘の上にあるから、
谷から沸き立つ音が、どんなに小さくもこだましていた。

ラマダンは時に、仕事を日本のペースに合わせて進めなくてはならない身としては
面倒なこともあるけれど、やはり、
夜の時間がすっぽりと抜けた一人暮らしとしては、
懐かしさと寂しさが、入り混じる。







アル・ハズネ

他の人からの用事を預かっていたのに、
コロナでずっと先送りにしていた末の、訪問だった。
平日には仕事がある、ラマダン前の休日はその日が最後だった。


真っ暗な階段を地下へ下がり、ドアを開けると
知らない顔が、招き入れてくれる。

いつも通される応接間には、50代、60代だろうと思われる
女性ばかりが4人、ソーシャルディスタンスを保って、ソファに腰掛けていた。
一番入り口に近いソファに座ってみたものの、
知っている顔は一度挨拶したことのあるお母さんしかいない。
予想外の光景に、挨拶するのも忘れてしまった。
連絡を取って訪問したその日、会いたかった本人は
家にいなかった。


どこのお宅へ行っても、どことなく場違いだと感じることばかりだけれど、
久々に、見事なアウェイ感だった。
そこにいる御婦人方が、奇異な目で私を見ることもなく、
根掘り葉掘りあらゆる質問をしてくるわけでもなく、
会話を続けてくれていることが、幸いだった。

ヒジャーブをかぶっている人もいる。
つまり、他人の家、もしくは、家の中で出入りをする人の中に
同じ家族ではない人がいる可能性もあった。
誰もが身ぎれいで、所作もたおやかな人たち。

しばらくすると、会話に入れるわけでもない私をいたたまれなく思ったのか、
いつもは通されない別の部屋へ入る。
キッチンと通じたその部屋の外には小さな庭があった。
(丘だらけのアンマンでは、建物が坂や崖に作られている場合、
入り口から地下に下がっても、外に通じる庭があったりする。)

小さな子が二人、寒い日なのに外で遊んでいた。

いつも私の相手をしてくれる5年生の女の子が、
居場所を無くしてなぜか、テレビの前に座っている私に
話しかけてくれる。
けれどもすぐに、外で遊んでいる弟と従兄弟を連れてくるよう言いつけられ、
女の子は外へ出る。
連れ戻された男の子たちは、まだ外で遊びたかったのか
目一杯ぐずっていた。

気がつくと、会いたかった人と瓜二つの女性が、私の横に座っている。
聞けば、双子ではなく、妹さんだった。
見事な亜麻仁色の髪は肩あたりでまとまりよくセットされ、
細身で撫で肩の体型と相まって、一昔前の古き良き西洋人のようだった。
浅いミント色のニットにタイトスカート、
妹さんたちも、着ている服の趣味がとてもいい。

続いてまた、知らない女性がやってくる。
その人もまた妹さんで、さらにもう一人の妹さんが
キッチンに立って何やら、忙しそうにしていた。

携帯電話の電波がうまく入らず、本人と連絡も取れない。
どうしたものか、と途方に暮れていると、コーヒーが出てきた。
お礼を述べつつ、コーヒーを口にして、
次々登場してくる人物の関係を説明してもらう。

叔母さん、という人も登場する。
自分の家の近くには中国の人が住んでいて、アラビア語の学校に通っていること、
私のアラビア語はヨルダン方言だけれど、
シリア方言の方がフスハ(正則アラビア語)に近いこと、
フスハを勉強すると言葉が豊かになること、を話してくる

この会話になると、私は窮地に立たされる。
大方話していることは分かるけれど、
殊、アウトプットを伴うシリア出身の人たちとの会話では、
自分がきちんと勉強していないことが露呈するばかりではなく、
ヨルダン方言の語気の強さが、
ヨルダン人の多くが気質として持ち合わせている押しの強さと重なり合い、
私自身は気が弱いのに、話す言葉だけがやたらに、
きつい印象を持たせてしまうのだ。

もっとも、自分の気が弱いことには変わりないが、
もはや話の仕方には、ヨルダン人の何かしらが、
備わっているのかも知れない。

いつも実感するけれど、シリア方言の中でも
シリア中央部から北部にかけては
歌うような美しさが、会話の端々に散りばめられている。
言葉も柔らかく、語感が優しい。

パレスティナ人やヨルダン人の男性陣が
女性がシリア方言を話すと、一気にその人の魅力が増して見えてくる、
などと口にしているのを、耳にしたことがある。

アラブ圏での仕事に、アジア人の女性らしさは災いにしかならないけど、
美しい音そのものには、ずっと憧れを抱いている。
特に、シリア人の女性ばかりが大勢いる場所に加わると
彼らの容姿の美しさと、歌うような音の広がりに
うっとりもする。
(同時に、自分の見窄らしさが際立ったり、するけれど、
言葉に関しては自分の努力不足なので、仕方ない)

アラビア語の講釈が一通り終わる頃、
テーブルの上に今度は、クッペの乗ったお皿が出てくる。



手のひらサイズのラグビーボールのような形をしたコロッケで、
炒めた挽肉や玉ねぎを、
パン粉の代わりにブルゴル(パスタと同じ材料を小粒の玉にしたようなもの)で覆い
揚げた食べ物だ。
家庭や地域によって少しずつ中身は異なる。
久しぶりに食べるクッペは、
主張しないけれど、きちんと役目を果たしているスパイスが
肉の味を引き立てていて、とてもおいしかった。

ついでにパイ生地を使ったパンも出てきて、
何やらただ、食事を食べに来たような状況になってしまった。

何度しても本人には電話が繋がらず、大事な用事は済ませなくてはならないし
どう話を切り出したらいいのかわからない。
ここにいたら、もっとたくさんクッペを食べてしまいそうだから、
用事の算段だけつけさせて欲しい、と冗談まじりに言うと、
再び御婦人方の部屋へ通された。

御婦人方は相変わらず、私が部屋に入ってきても
別段気に留めるでもなく
熱心に会話を続けていた。

シリア国内の自分達の育った街のどこが
戦闘で潰されてしまったのか、私の知らない店の名前や場所の名前が
次々と出てくる。
あの人はどうなったのか、あそこはどうなったのか。

話の筋を追いきれなくて、途中からパンを食べることに集中していたら
斜め前の女性が、大きくため息をつきながら、目尻を抑えた。
あぁ、なんてことなんだろう、とつぶやく。

少しの間を置いて、さっきと変わらない口調で
会話が再開する。
いつの間にか料理の話になっていて、あの食材が見つからない、とか
それはうちにあるから持っていって、とか
近くのモールに売っているから大丈夫、とか、
女性たちがどこででもする会話に戻っていた。

しばらくするとやっと、
御婦人方の会話に参加していたお母さんが私に話しかけてくれて、
要件を済ませることができた。

身支度をしていると妹さんがさりげなく、袋を手渡してくれる。
何かと思ったら、クッペとパンがたっぷり、入っていた。
さっき、クッペを言い訳に使ったから、準備してくれたのだろう。
そんなつもりで言ったわけではないんです、と弁解するけれど
クッペの中に入った麦のような食感を残す材料が
何なのか突き止められるかもしれないと思うと
思わず顔が綻んでしまう。

部屋を出る前、ずっと気になっていたことを、確認する。
一体、あの御婦人方は誰なのか。
遠い親戚、と説明される。


この一族は、その日私が会った人たちだけを思い出してみても
誰もがとても礼儀正しく、
礼節の定義、と言うものがあるのなら、
おそらく私と同じような定義を持っている。
むしろそんなことを勝手に思う私の方が、
失礼な態度を取ってしまっていた。

何もかもが開けっ広げで、
言いたいことは、どこでもなんでも口にしてしまうぐらい、
気心も知れているけれど、
同時に、気心が知れている、では理由にはならないような
一線をすぐに越えがちな、周囲のアラブ人とは
明らかに違っていた。

冷たいわけでも、プライドが高いわけでもなく、
適切な振る舞いや適度な距離が備わっている人たちに、
実のところ、それほど頻繁に会えるわけではない。

一体こういう人たちのような距離感は、どのように育まれてきたのか
興味が湧いてくる。

自国の彼らの家で、ずっと繰り広げられていたであろう
会話や調理、子どもたちの遊ぶ様子が、
その根底にある、節度や距離感、を崩さないまま
逃げてきた先のアンマンでも、きちんと保たれている。

もちろん、生活レベルも要因としてあるだろう。
けれど、もっと根源的な、温かさや豊かさから成る
一族の、品位のようなもの、を垣間見る時間だった。

建物を出て時計を見たら、2時間以上、
ただひたすら食べて、会話を聞いていたことが、わかる。


帰りの車中では、起伏の多い土地の地下に、目がいく。

さっき目にしたような集まりの場の中で、
さまざまな一族の、さまざまな在りようが
保たれ、成熟され、語り継がれる。

蛍光灯に照らされた応接間には、
そういえば、窓がひとつも、なかった。
あの応接間は、ぽっかりとそこだけが、
異なる土地の、異なる文化が密かに息づく空間だった。

地下の閉ざされた空間が、密やかさを助長させているのかもしれない。

会話の中身には、当然のように紛争の影がちらつくけれど、
十数年前までは、隣の国のどこかの応接間で
どこかの庭やベランダで繰り広げられていた一族の姿を、
地下の明るい応接間という舞台で、見せていただいたような心持ちになる。




2021/04/16

彼らの暮らしと、話の断片 ラマダン前1



ラマダン前は、忙しい。

断食と、豊かな夜の時間を楽しむ夜更かしに疲れた人々に
普段と変わらない仕事をお願いするのは、難しいから、
ラマダン前にさまざまを済ませておきたい。

ただでさえ、コロナの影響であらゆることが遅れている。
ついでに省庁の出勤率も20%ー50%に抑えられているので
焦りだけがじわじわと諦めに変わっていく
ラマダン前の1ヶ月間だった。

個人的な用事もまた、コロナのせいですべて、先送りにしていた。
特に感染者数の多かった2月から3月にかけて、
身近にも感染者が出て、PCR検査を4回受けた。
陰性であったとしても、絶対安全である保証はないから、
せめて数字が減ってくるまで、待つことにしていた。

でも、ラマダンは待ってくれない。
一年に10日ぐらいずつ早まりながら、
月は満ち、月は欠ける。
私の焦りと諦めが色こくなってくるにつれて、
外出規制の厳しいヨルダンにも
ラマダンの高揚感は広がっていく。

ラマダン前最後の週末は、家の訪問をすることにした。

いつもならば、ラマダン中こそ、家の訪問にはうってつけの時期だ。
イフタール(断食明けの「朝食」)は、
親族や友人たちと分かち合うから、ラマダン時期のお呼ばれも多かった。

でも、今年は去年に引き続き、夕方から外出が禁止されているから、
訪問もまた、ラマダン前のto doリストの中に
入れなくてはならなくなってしまった。




ジャバル・ナセル


一時帰国中、お土産を買っていたのに、
ずっと行くことができなかった家だった。
何度もメッセージをいただき、家族の顔を思い浮かべたりしていた。

いつも通り、お土産をバックに入れ、油の乗った国産の羊肉を買う。
きっと、肉よりもお金が欲しいだろう。
でも、私と彼らの関係性において、お金を介することはどうしても
自分の中で解せない。
いつも美味しい食事を用意してくれるから、
食事のお礼を、食材で返すことにしている。


冷え込んだ週末、高台に建っている家の前でタクシーを降りると
強い風に身が凍る。
建物の中に入ると、階段を
子どもたちがバタバタ降りてくる音が響いてきた。


家の中はエアコンがしっかり効いていて、
換気をしてもなお暖かい部屋の中には、
お父さんの吸うタバコの匂いが染みついている。






子どもたちはまたバタバタと部屋へ戻ってくると
お母さんが縫ったカバーのかけられたソファーにすっぽり嵌って
携帯電話のゲームを始めていた。

一通り近況を聞き、バッグの中身を出す。
いつもそうだけれど、特に男の子のお土産にはセンスがない。
いつの間にかまた一回り大きくなった、三人の子どもたちには
私の持ってきたお土産は、ビーチボールもステッカーも
幼すぎた。
目一杯弁解をしていると、子どもたちは奥の部屋から
お気に入りのおもちゃを持ってくる。
電池で動く自動車やリモコン付きのヘリコプター。
私が想像していたよりもよほど、ハイテクなのだ。

中国製の携帯電話を一台ずつ手にした子どもたちの様子を
じっと眺める。
オンライン教育のみが続いているヨルダンでは
子どもたちへの携帯の普及率が目まぐるしく高まっている。
決して生活水準が高くなっているわけではないけれど、
携帯はやむを得ず、需要がある。
この家族が、子どもたちのために携帯を買うことができる状況に
あるのだということを知る。

仕事の癖で、子どもたちの勉強の様子や、生活について
細かく尋ねてしまう。
一番下の子の通う学校と上の二人が通う学校は違う。
ただ、3年生までは下の子と同じ学校に上の子たちも通っていたから、
学校の先生の名前は、長男がよく覚えていた。
自慢げに先生たちの名前をあげて、自分の記憶の良さを
披露してくれる。

そのわきでお母さんは、エジプトに住んでいる妹さんと
SNSのボイスメッセージをやり取りする。
なぜか写真を撮られ、その写真もまた、妹さんに送られ、
最近またお子さんが産まれたのだ、と赤ちゃんの写真を見せてもらう。

もう一人の妹さんはトルコに逃れている。
お母さんよりも随分と若い妹さんは写真の中で綺麗に化粧をしていた。
大学を出て資格を取って働いているのは、母子家庭だから。
まだ小さい子どもを幼稚園に通わせているけれど、
公立でも学費が高く、それを払ってでも通わせているのだ、と
ヨルダンの多くの公立の幼稚園とは比べものにならないほど
何もかもがきれいで整然とした幼稚園の写真を写す携帯を手渡す。


いつもコーヒーをいただくから、やはりお土産に持ってきた粉を取り出すと、
コーヒーを淹れてくれた。
キッチンの大きな鍋には、好物の乾燥モロヘイヤが
たっぷり入っている。
コンロの下のオーブンにはこれもまた、大きな容器に
チョコレートケーキが入っていた。
糖尿病でインスリンが欠かせないお母さんは
でも、甘いものが好きだから、
アラブ界では滅多に享受できない、甘さ控えめのケーキだった。

子どもたちはモリモリ食べて、またすっと、ゲームの世界へ入っていく。

お父さんが仕事から戻ってくる、と電話で知らせを受けると
お母さんは見る間に浮き足立った表情を見せ、
キッチンへ向かう。
あっという間に居間が食卓に変わった。
サラダとモロヘイヤ、オリーブとホブズ(ピタパン)がどれも
お皿の上にたっぷり盛られる。





乾燥モロヘイヤは大好きなアラブ料理の一つだ。
初めて食べたのもシリア人のお宅だった。
2メートル以上にもなるモロヘイヤの枝をそのまま束で買って
葉を取り、ビニールシートの上に並べて乾燥させ、保存食とする。

家で作る乾燥モロヘイヤには、おまけみたいに必ず
髪の毛が入っている。
乾燥させたモロヘイヤを店で買うよりも確実に安いから、
彼らは自宅で乾燥させる。
家の中ではヒジャーブをかぶっていないことの
証明のようなものだ。
正直、口に入ると困惑するけれど、
髪の毛は、ヒジャーブを被らない家の中の
安心した空間をいつも、どこか懐かしいもののように想像させる。


お父さんは仕事着を脱いで、食事につく。
この夫婦は本当に、仲がいい。
いつも、冗談と真剣さを混ぜ合わせながら、
たくさん話し、笑顔が絶えない。

子どもたちはさっき食べたケーキでお腹がいっぱいなのか、
少し食べるとすぐに、またソファへと戻っていった。

お父さんとお母さんと、話を続ける。

お父さんは、コロナ禍での生活の苦しさを口にする。
ラマダンに入っても支援はないことについて、
他の団体のキャッシュアシスタンスについて、
生活レベルにの調査はあるけれど
その結果いつも、支援からは外れることについて。
前回お邪魔した時と同じ話をしていた。

そして、前回と同じようにUNHCRの支援窓口へ電話をかけて、
どんな対応となっているのかを実践で教えてくれる。
難民登録番号を入力すると、音声ガイドが回答する。

ここ数年、ずっと支援対象ではないことを訴えていた。
前回と同じように、UN職員一人の給与で、どれぐらいの人たちが
支援できるかを切々と、話す。
UN職員の給与とは天と地の差だけれど
少なからず支援関係者である私は、言葉に窮す。

この家族が普段からこのような暮らしをしているのであれば、
生活の困窮度合いがもっと深刻な家もあることを見ている私としては、
支援対象にはならないだろう、とまた
前回と同様、客観的に、思う。

下を見ればいくらでも下はある、そういう考えは
程度に差はあれど、実際に窮状を体感する人たちには理不尽な理論だ。
下には下がいる、だから、あなたは我慢しなければならない、など
とても言うことはできない。
せめて、支援対象のクライテリアと予算との兼ね合いが
対象になりうる誰にでも分かるよう、
積極的に公表されていればいいのに、と思う。

ただ、たとえそれが文章として発表されても
おそらく、言語的な理解度とともに、理解しようとする度合いにもばらつきがある。
だから公表はおそらく、パンドラの箱のようなものなのだろう。


子どもたちは途中から、少しだけ持ってきた風船に興味を持って
膨らませては投げて遊び始めた。
体を動かして遊んでいる様子を見るとどこか安心するのは、
私がステレオタイプな子ども像を持っているせいなのかもしれない。

長男は外国人のお客に慣れているから、
携帯ゲームの説明をしてくれる。
プレイヤーを選ぶと、勝手に戦ってくれるゲームだった。
単純で、それほど頭を使わなくてもいい類のもの。
大の大人でも、パソコンに向かっていると思ったら、
テトリスのようなゲームをただひたすらやっていたりする。

そして、TikTokも見せてくれた。
出てくる映像の中には、子どもが見て面白いのだろうか、と
思えるようなものもあった。
そこで紹介されている小噺を、子どもたちは暗記したりする。
小噺の下りを面白そうに話してくれるけれど、
私にはさっぱり分からない。
何度も繰り返し、話を説明してくれる長男に倣って、
下の子たちも歌のように、下りを暗唱する。

ここまでTikTokが浸透しているとは、知らなかった。
短い映像だったら集中できるのであれば、
これを教材に使えるんじゃないか、と思えてくる。


子どもたちがゲームから、よくない言葉を覚えるのよねぇ、と
お母さんは私の知らない単語を並べる。
時間を区切って遊ぶようにすればいいのかな、と口にすると
お父さんも携帯ゲーム好きだから、と
仕方なさそうに笑いながら、お母さんは言う。


外出禁止の時間よりも前に確実に、帰路へつかなくてはならない。
お暇を伝えると、ラマダン中も家に泊まっていけばいい、と言ってくれる。
家には必ず帰りたいので、ラマダン明けにまた遊びにくる、と
約束をする。
イードは屋上でBBQをしよう、という話になる。

モロヘイヤをタッパーに入れて、持たせてくれた。
日の丸弁当のように、レモンが真ん中に乗せられていた。

次にお宅へ行くまでに、
どんな部位のお肉がBBQにいいのか、しっかり調べておくことにする。



2021/04/09

砂塵と鳩の舞う土地 - ラマダン前 ロバの蹄鉄変え 魔法のソース


「すべてのことは、ラマダンの前に」
ラマダン月が近くなると、合言葉になる。
もっとも、これを口にしているのは私がムスリムではないからで、
私の仕事の心配など、周囲の人たちが気にしている様子もない。

私が経験する限り、ほとんどのものごとがラマダン月は滞る。
だからと言って急ぎの用事があっても、対応するにはみんな疲れすぎていて
強要することは、ほぼ不可能となる。

特に今年は、ラマダン中も昨年と同様、
夕方から外出禁止、週末もロックダウンだから、
オンラインであらゆる手を尽くしても、
結局対面での説明に勝る方法はないこともまた、
昨年と今年を通じて経験した身としては
心配事が尽きないラマダン月となる。

キャンプでの仕事も同様に、いろいろと済ませておきたいことがあった。

その一つが、新聞の掲示場所確保。
ラマダン中は子どもたちも断食していて、日中も夜も(外出禁止で)外にいないから
渡す方法が限られてくる。
一番早いのは、人の往来が激しい場所に掲示してもらうこと。
作った新聞を掲示する場所は、ラマダン前に決めておかないと
作ったものが人の目に触れなくなってしまう。

長い話し合いの後、場所探しをするために、学校を出た。
遠くから子犬の悲痛な鳴き声が響く。
学校のすぐ前に作られた排水管の中で、子犬が吠えていた。
足早に逃げていく男の子、石を握っていた。


子どもたちの様子も、しばらく見られなくなるだろう。
相変わらず、凧揚げ、買い物、自転車疾走、ビー玉遊び、
時に犬を追い回し、犬と遊ぶ。




サイズの合わない自転車を乗り回す生徒が寄ってくる。
珍しく、岡山からの自転車だった。
キャンプの中で走っている自転車の多くは、埼玉か大阪からきている。


通りの脇で仕事を待っているロバたちが
荷台につながる綱をつけられたまま、大人しく佇んでいる。
最近、蹄鉄を付け替えたんだ、という話が出てきたので
どのようにつけるのか詳細を聞こうとしたら、
その後ビデオを送ってきてくれた。

アスファルトと石だらけの土の道、両方を行かなくてはならないから、
きっと、蹄鉄のメンテナンスはロバにとっても飼い主にとっても
とても大事だ。

あまり丈夫ではなさそうな細い釘を、ねじれを直しながら
いくつも開けられた蹄鉄の小さな下穴に打ち込んでいく。
ビデオの中で、子どもたちはロバを抑え、脚を固定し、
爪を平らにしたり、蹄にヤスリをかけたり、
蹄鉄の固定作業をするお父さんの仕事を
間近でしっかりと、見て、体感していた。
きっと、この子たちはこの先もちゃんと、自分たちで
ロバを大切に飼っていくことができるだろう。




キャンプの中心地からは随分離れているけれど、
立派なスーク(商店街)が学校の近くにもある。
その道へ出て、どこのお店だったら貼ってもらえるのか
交渉を始めることにした。


普段、この道は通らない。
特にコロナが始まってからは、人の多い場所は避けていたし、私は目立ちすぎる。
だから、理由を携え、活気ある場所で人々の様子を見られる
久々のスークに、密かに心踊らせる。

軒を連ねる店のすべてに貼っても仕方がない。
種類の異なる店に、ある程度の間隔をおいて貼ってもらうことになる。
子どもの行きそうな店はどれなのか、などと思いながら
キョロキョロしていると、新しく店を開いているところもあれば、
経営が苦しいのか、閉まったまま久しいのだろう店もあった。

キャンプの中の方が日用品の値段が安いことも多い。
ただ、コロナに関係なく、生活条件のさまざまな制約の中で設定された
値段に便乗して何かを買うのは抵抗があるので、
基本的には、急な用事などで必要に迫られたり、
お腹が空いてどうしても何かを食べたい時の他は、買わないようにしている。
でも、キャンプの中、外に関わらず、
シリア人の作る食べ物は、お菓子も惣菜パンもとても、美味しい。


新しくできた香辛料の店は、天井も高くてきれいだった。
整然と並べられた商品、壁に備え付けられた棚は天井近くまで届く。
基本的には、店の外で交渉していたのだけれど、
スタッフが交渉をしている間、やたらジロジロとガラス越しに覗いていたからか、
店の中に招いてくれた。
何も買わないのも失礼なので、
近所の香辛料屋さんにはなかったハイビスカスの花を購入する。





こちらでは、花をそのまま乾燥させてお茶にしている。
夏の暑い日には、酸味の強いお茶は身体をすっきりさせてくれる。
これ、酸っぱくて嫌いなんだよね、と
スタッフは梅干しを食べた時のような顔をしてみる。


斜向かいでは、チキンがクルクルと回っていた。
こちらでは、チキンの丸焼きがよく売られている。
シリア人の作るシュワルマ(鶏か羊肉の切り身をパンで挟んだ軽食)も
チキンの丸焼きも、ヨルダンのものと少し味が異なる。

キャンプのチキンの丸焼きには、特別な思い入れがある。
一度だけ、世にも美味しいソースのかかったチキンを食べたことがあったからだ。

数年前、仕事終わりにあまりにお腹が空いて
キャンプの目抜き通りのお店で、チキンの丸焼きを買った。
店頭でぐるぐる回るチキンは、あまりにも魅惑的で、
普段はキャンプで何もものは買わないようにしているのだけれど、
どうしても誘惑に勝てなかった。

あれ以来、アンマンでチキンの丸焼きを買うたびに、
同じ味の店はないのか探し続けているのだけれど、
一度として出会ったことがない。

そんな話を、切々と拙いアラビア語で説明している顔が
どうにも哀れに見えたのかもしれない。
すぐに考えていることが顔に出るのは、私の数多ある致命的な欠点の一つ。
スタッフが、店の外で働く生徒に、声をかけていた。
ここのお店ではどんなソースを使ってるの?と。




お店の人たちがみんな、私の方を見る。
視線に耐えかねて、とりあえず店頭のチキンに携帯のカメラを向けている私に
生徒が小さな容器に入ったソースを手渡してくれる。
サイズの小さなビニール手袋に包まれた大人サイズの手は、どことなく痛々しい。

いや、そういうことではなかったんです、と一通り否定してみるけれど
味を確かめずにはいられない。

少し舐めてみると、それは市販のBBQソースだった。
いや、これではないんです、と持ってきてくれた青年に言うと、
にやっと笑って、店の中に入っていく。
そして新たに持ってきてくれた容器の中には、
さっきのBBQソースとマヨネーズが入っていた。
違うんだよな、、、、と思いながら、でも舐めてみる。
こちらのマヨネーズにはニンニクが入っていて、美味しい。

いや、これでもないんですよね。
申し訳ない気持ちでいっぱいになり、それでも、
魔法のソースの味が忘れられない卑しさのせいか、説明を重ねる。
少しとろっとしていて、赤っぽく金色っぽい色だったんです。


すると、しばらくして、また違う容器が出てくる。
魔法のソースとは違うけれど、とてもおいしかった。
おそらく、鶏を焼く時に出る汁に香辛料を混ぜている。

これ以上、違う、とは言えない。
だから、これは本当に美味しいですねぇ、とだけ素直に言う。
もう17歳ぐらいにはなっている生徒と、周囲のギャラリーの人たちは、
とても嬉しそうな顔をする。

掲示のことを確認すると、私がソースを舐めている間に、
きれいに話をまとめていてくれたことがわかった。

このまま帰るわけにはいかない。
鶏を一羽、丸ごと買うことにした。

シリアの人たちは、自分たちの料理に誇りを持っている。
そしてまた、彼らはホスピタリティに溢れているから
まして、ソースの味の話などをした時には、
このようなくだりで、皆全力を尽くしてくれる。

予想できたことだった、という後ろめたさと
久々、本場のチキンが待っていることへの期待の狭間で
幾らかだけ、だけれど、複雑な気持ちになった。
でも、お腹は正直で、録音できそうな音が鳴る。
考えてみたら朝から何も食べていなかった。


その後もいろいろな店で交渉し、店の目星もつく。
鳩は相変わらずよく旋回し、子どもたちは日が暮れるまできっと
遊び続けているだろう。


ラマダン前に済ませなくてはならないことが
アンマンでもキャンプでも、実のところほとんど済ませられていない。
今、ヨルダンは会社も省庁も、出勤は20−50%に抑えられている。
単純計算で20%ならば、何をするのにも普段の5倍、時間がかかることになる。
予想してすべて早めに動いていたのに、その上を行く、
遅々とした物事の進捗に、日々途方に暮れていた。


掲示場所の確保など、本来ならばスタッフにもお願いできたことだけれど、
自分の足できちんと見て、判断して、確実に終わらせていく、
そういう作業が今、おそらく必要だったのだと思い当たる。


帰路に着く車の中には、鶏の美味しそうな香ばしい匂いが漂い、
窓を全開にしていても、じわりと鼻先をかすめる。

考えてみたら、こちらに戻ってきて以来、外食もテイクアウトもしていなかった。
夕方から外出禁止、そして、テイクアウトする気持ちも時間も
余裕のない日々が続いていたからだった。

家に戻って早々に頬張った鶏は、当然のことながら、おいしかった。
焼いている間、何度もソースをかけて味の染みた鶏の皮は
パリパリしていて、見事だった。

この味を腹に染み渡らせてから、
ラマダンを迎えられるのは、ありがたいことだと、
指についたソースを舐めながら、しばらく味の余韻に浸る。




2021/04/02

私はこの世界を、どのように見つめていたいのか

 

私には、いくつかの、お守りみたいな本がある。
どんな理由にしろ、心が潰れそうなものごとは、いくらでもある。
気のしれた人たちが次々といなくなる、長い海外暮らしの中で、
一人でやり過ごさなくてはならない時のために、
少しずつ、手元にお守りを増やしていく。

一時帰国の短い時間では、新しい本を手に取る余裕がないからか、
過去に読んで好きだった本ばかりが、お守りになりがちだ。


どこの国にいても、お守りは持っていないと不安になる。

以前は、必ず須賀敦子のエッセイを携えていた。
人物の佇まいや、その人となりの切り取り方、
その視点にひどく惹かれていた。
言語の持つ奥深さをどのように楽しむのかを
提示してくれる文章もたくさんあった。
ずいぶん昔には、彼女のように他国の文学を楽しめるようになりたい、
そう思ったこともあったが、
どうにも能力が追いつかないことが分かり、
自分の不甲斐なさを突きつけられる本になってしまった。
それでも、今も何冊か、手元にある。
出会う人の何も見えていないのではないかと、
不安になったりすると、今でも手に取ることがある。


ブローティガンの「芝生の復讐」は、もう何度も
ここでも書いている。
独特のやさしさと、必死さがある。

連なる言葉の意外さとおかしみの中に、
どこか、軽さとも、明るさともつかないものがある。
それらが、ふと、とてつもない悲しみや寂しさをもって
行間でぽっかりと深淵を見せる。
ご本人がどこまで、深淵を意識していたかは分からないけれど、
自らは、軽さと明るさの影に埋没してしまえばいいのに、というような
少し投げやりなところが、あるような気がしてならない。
懸命に生きようとするのに、どこかがおかしい、
そんな埋めきれない矛盾や不条理を
自分の中に抱き続けていた人のように思える。

とかく重くなりがちな仕事の中で、
もう少し不条理や矛盾を、ハスに構えて見限るのではなく、
自分の中に愛情とやさしさがあって欲しい、そう思う時
軽さややさしさとのバランスの取り方を思い出すために、この本はある。




今回も、日本から大事に持ってきた本の中に、
いしいしんじの本が2冊入っていた。
前回帰った時は、「ぶらんこ乗り」、
その前は、「トリツカレ男」と「よはひ
その前は、「海と山のピアノ」。
新刊が出れば、日本から来る人に買ってきてもらったりして、
今、ヨルダンの部屋には、7冊の本がある。
(「トリツカレ男」は、2冊。人にあげようと思ったのに
渡せなくて、ヨルダンへ持って帰ってきてしまった)。





(前回の帰国中、ふと、京急品川駅で、
水族館に行くはずが、三崎口行きの電車に乗ってしまった。
よく晴れて暖かい、金曜日の昼前。

出国も帰国もままならず、やっとの思いで日本に戻ってきたのに、
自粛要請、という言葉に、不本意ながら囚われているように思える人たち、
日本の常識を持っていないのではないか、という自分の心許なさから、
行くはずだった場所にも、会うはずだった人たちにも会えないまま
東京にい続ける。それはかなり、辛いことだった。

だから、三崎口、という電光掲示板の文字の色は、
そこだけ、特別な色に光っていた。

三崎は行けない距離ではないのに、どうしてだか日本に住んでいる時、
一度も足を向けなかった。
美味しいものは最後に食べる方だから、
時が熟すまで、待っているつもりだったのかもしれない。
そのくせ、昔教えていた大学の学生さんが毎日三崎から来ていて、
乗り換えも通勤ラッシュも面倒だ、と嘆いているのを、
ずいぶん羨ましく思った。


電車の中で、駅から港まで行く方法と、港周辺の地図を頭に入れる。

呆れるほどあっけらかんと凪いだ、穏やかな海が
細くくねる道の先に見える。
海が視界に入る瞬間は、いつも特別な高揚感がある。



日本にいた頃、台風の翌日によく車を走らせた、
茨城の広く果てしない太平洋よりも
よほど近しさを感じさせてくれる海だった。
海と同じように、港町もまた、初めて訪れる場所なのに、
ジオラマを作りたくなるような、どこを切り取っても
細部に愛おしさが見つかる塀や建物や鳥居や小道で溢れていた。








以前は毎日、いしいしんじのごはん日記というサイトを
チェックしていたような、ただのファンだから、
この印象は当たり前と言えば、当たり前なのだろう。

日本の冬はこんなに晴れていたんだろうか、と途方に暮れるほど
滞在中天気に恵まれていたのに、ずっとどこか
灰色の紗がかかったような帰国の記憶の中で、
唯一、三崎への訪問だけが、
どこまでも明るく温かくきらきらした映像になって、
私の中に、大切に残っている。)



「みさきっちょ」と「ポーの話」を
今回は買って戻ってきた。

「みさきっちょ」は三崎から帰ってすぐ、読み切ってしまった。
(悪い癖で、帰国中お世話になった人にその本の良さを熱弁し、
無理矢理読ませようとした。)
「ポーの話」も、本当はどうしても手に取らなくてはならない時のために、
取っておくはずだった。
でも、どうしても手に取らなくてはならない時、は、
結構早々に、やってきてしまった。


どのようにこの世界を、見つめていたいのか、
よく分からなくなった時のために、いしいしんじの本はある。

例えば、人の同情をひきそうな、心にのしかかりそうな
事象の重さに傾斜をつけがちだ。
とてつもなく悲しいこともまた、暮らしの連綿とした日常と
同じ重さを持つものとして、受け止めたり、
心の中に保存したりできるかと言ったら、
それはとても難しい。

傾斜のかかりそうな出来事や人が周りに多すぎて、
次第に自分の感覚が狂ってくるのを感じる。

目の前の人の悲しさや辛さを、過去に聞いた
似たような境遇の人の悲しさや辛さと
無意識で天秤にかけてしまったりする。
自分の喜びだったはずのものが、
周囲の辛さに侵食されて、消えたりする。
当たり前のように、守られる命や尊厳と、
守られない命や尊厳があり、頭のどこかで
ぼんやりとその理由を釈明したりする。

思考ではなく、感覚として、
決定的にどんなものに対しても、
自然にあるはずの、適切な重さが感じられなくなる瞬間がある。

そうではないのに。そう、水をかぶった犬のように
頭を振り乱さなくてはならない。

そんな時、自分が手に入れたい、世界の見つめ方が何だったのか、
いしいしんじを読んで、確かめる。

どんな人にも、ものにも、事象にも、重さがある。
そして、おそらく、それぞれに似合った重さだと見積もっているよりも、
もっと重くて、それぞれの感触も異なる。

当たり前だけれど、どんなものにも、事象にでさえ
命があり、価値があり、
それぞれに優劣もなく、それぞれに良さも悪さもあり、
それぞれに語りきれない、物語がある。

目に映ったり、感じたりするあらゆる対象がもし、
手のひらに乗るようなサイズの塊だったならば、
市長も物乞いも歌手も露天商も
植物も風も犬も匂いも、
地震も洪水も竜巻も凪も、
降って沸いた幸運も、もがいても抜け出せない不幸も、
人も動物も風も草も天気も、
それぞれの大きなカテゴリーの中で平等に同じぐらいのサイズで、
その重量は思ったよりも、ぐっと重い。


そして、それぞれにきちんと然るべき重さがあるからこそ、
カテゴリーを超越して、繋がっていくことができる。
誰かにとって大切な重さのあるものが、
他の誰かにとって、何かにとっても、大切なものになりえる。
たぶん、重さを本能的に感じられる人たちが、
繋がりの循環の中で、大切なものを見つけ
大切なものになりえるし、偶然のように見える出来事を
必然として迎え入れることができる。


と、つらつらと宙を掴むようなことを書いたけれども、
私がいしいしんじの本から、何を感じとって、
世界を見つめる時の糧としているのか、
うまく表現できているような気がしない。
そもそも、ご本人が表現したいことと、全く違うものを
私は勝手に見い出そうとしているのかもしれない。

ただ、然るべき重さを、できるだけ平等に、
日常の細やかなものものにも、
視界に入る知っている、知らない人々にも
今吹き抜ける風にも、今屋根の上にいる鳩の群れにも
感じていたいのだと思う。
都合のいい傾斜をつけて、この世界に存在するものものを
分かったような気にならないために。
自分自身も含め、いいものも悪いものも、存在していることを
きちんと自分の中で受け入れるために。

どうも、これが私には、本当に難しい。
だから、幾らかでも重さを忘れないようにするために、
お守りをいつでも手に取れるように、置いている。

もしも、できることならばいつか、私が三崎の港町で、
目に映るものの一つ一つの輪郭に物語を秘めて
重さと愛着にも似たものを感じられたような
そんな視点を、どんな時にも抱けるようになりたい。