2010/07/27

島とクジラと女をめぐる断片

イタリア語のタイトルは
Donna di Porto Pim
題名だけでも、もう十分なぐらいのこの本を
4、5年前に読んで、もう一度読みたいと思った時には
どこかへ往ってしまって
どうしても見つからなかった

アントニオ・タブッキの作品を須賀敦子が翻訳している
言葉が、水面の煌めきのように、どこまでも繊細で
美しい作品だ

序文にあたるタブッキ自身の作品に関する解説が興味深かった
この本を書くにあたって
アソーレスの島々で過ごした日々を
どのように小説の中に織り込んでいったのかが、書かれている
どこかの土地、クジラ、捕鯨のような
いくつかの鍵になるものを
どのようにして一つの本に作り上げてゆくのか、という
過程や規律、のようなものを感じた

クジラの生体、アソーレスを訪れる男女
捕鯨の歴史、捕鯨に携わる人々
ある捕鯨手の人生
それから、クジラの目から見た人間

確かに、断片なのだけど
そのかけらのようなものが
でも、最後に一つの絵になることはなくて
すきまがたくさんあって
すきまに漂う空気が、そのままかけらの上を覆っている


2010/07/19

川を渡るのに、三百年 枕を共にするのに、三千年






飛行機の中で、映画を観る
「アリス イン ワンダーランド」でもみたいような、気分だった
つまり、少し疲れていた

なぜか案内のパンフレットに載っていたアリスをはじめ
映画たちのほとんどはなく
その代わりに、題名だけはよく慣れ親しんでいるものを見つける

イーユン・リーの「千年の祈り」
クレストの新書の表紙はいつも素敵だが
静物が、言葉としてとても適切な静物として、映っているその表紙に
いつも本屋で後ろ髪ひかれていた

静かな映画だった
室内の場面が多いせいか、影が濃い
ちょうど淡い色の壁がほんの少し翳るように
澄んだ影が室内を司る

ちょうどどことなく大学街が舞台で
つくばの景色にも似ていて
主人公の親子の小さくて深い溝も近しい何かだった

百世修来同舟渡、千世修来共枕眠

共に川を渡ろうと思ったら、三百年は祈らなければ
その思いは果たされない
枕を共にしたいと思ったら、三千年は祈らなければ
その思いは果たされない

親子ならば千年

アメリカで暮らす娘に会いにくる父親は
律儀でまじめで、静かだ
言葉が少ないことの重さに
親子は共に、耐えきれていない

ただ、きっと、そんなところから絞り出される
言葉のいくつかはもっと重くて
でも、だからこそ、本当に祈りのようで
口にすることの意味を、思い知らされる

映画を観た後、しばらく
最後の場面から、彼らはどこまで理解できたのだろうと
ぼんやりと、思った
本当に思いが通じるのであれば
本当に理解しきることができるのであれば
千年という年月は長くはないのかもしれない

そして、そのまま寝てしまった