何度か訪れたことのある、薄暗い真四角の部屋、
四隅にひかれたマットから立ち上がるお母さんは、
細く垂れた目と白くすべやかな肌、
初めて会った時から変わらず、やさしくきれいな顔をしていた。
顔を見たら安心してしまって、なぜか涙が滲む。
左右の頬に頬をつける挨拶を何度もしながら、
とりあえず元気そうで、よかったと心の底から、しみじみと思っていた。
心臓の手術は難しいから、政府系の一般病院では
十分な処置は受けられない、
具合がわるくなると入院しなくてはならない、
そんな話を聞いていたところだった。
寡婦になった時から、すっかり落ち込んでしまって、
ぼんやりと部屋の中で座り込んでいることが多くなった。
いつもお父さんと二人、横並びで座っていた部屋の奥に、
今は孫たちに囲まれて、座っている。
子どもたちが結婚して孫ができ、家の中のことばかりに
日常のすべてを捧げてきた女性だ。
子ども一人と孫一人を、自分よりも先に喪い、
それでもたくさんいる子どもからは孫がどんどん産まれ、
生と死、喜びや悲しみが、親族がよりそって住む
敷地のいくつかの家の中で、連綿と続く。
それがどのようなものなのか、断片を見てはいるけれど、
私には経験したことはなく、これから経験することもない。
だから、一人の女性として、そのお母さんを私は
何だか勝手に、とても大切な存在だと思っている。
それからたぶん、単純に顔が好きなのだも、理由だろう。
やわらかくうっすらした皺と、ただ優しさと哀しみが織り交ぜになった
小さな目を、ずっと見ていたくなる。
他者の人生を傍観者として、
そこはかとない愛情を抱き、見続けていていい立場など、
ないのかもしれない。
けれど、傍観者にしかなれない人間にとっては、
それが精一杯の、愛情と優しさの体現だったりする。
結局は究極的な、わがままだったとしても。
昔はよく、お話を作っていた。
いつも本を読んでいたから、色々な土地の情景や、
そこに住む人々の姿の断片から、勝手に物語が
頭の中に湧き上がってくる。
もしくは、街を行く人々の姿や仕草や表情の中に、
その背景の物語がくっきりと浮かび上がる瞬間がある。
自分自身が経験するさまざまな出来事に付随する感情を
知らない土地、よく知っている土地に住む人々が、
時に代弁し、時に冷笑し、
時に否定し、時に共鳴し、時に完結させる。
自分で製本することもあったけれど、多くは
ただひたすら、アウトプットをしたいという欲求だけで書かれ、
データのままどこかに、眠っている。
ある時から、話が湧いてこなくなる。
理由は明白だった。
例えば、今まで小説の中でしか知ることのなかった人々の姿が
現実として生きているのを目の当たりにして、
彼らの住む世界の現実に、その暮らしをしたことのない人間が
できうる想像と創造など、所詮見事な絵空事でしかないことを
恥ずかしながら遅ればせに、知る。
もしくは、今まで手に取るように分かった、と思っていた
目の前の人の思いが、急に深く暗い穴に手を入れるように
感触を持たず、不安を掻き立てるものになる。
想像力の限界を知る。
それからは、ただひたすら、人の姿を見続けることになった。
時折、その時見たものを、私のフィルター越しではあるけれど、
できるだけ忠実に描き切ろうと、ここに残したりしてきた。
けれど、私のフィルターは私の見たいものを見て、
感じたいように感じ、それを言葉に置き換える作業となる。
自分自身を徹頭徹尾、透明にすることはできない。
ではなぜ、時折書いておきたいと思うかと言えば、
私が見たいように、感じたいようにして存在している対象について、
どのように見て、どのように感じたのかを、記憶として残しておきたいからだ。
他者の人生に一定の距離を取る、
たとえそこに入り込みたくても、入ることができない関係性ならばなおさら、
対象に抱いたその時の思いは、おそらく私にとって、
ひどく大切なものになるからだ。
皮肉なもので、もし対象の人生に入り込めるならば、
言葉にするよりも、入り込むことに夢中になって、
言葉に残す必要など、欲求など、なくなるのだろう。
だが、それがいつも叶わないから、せめて残しておきたいのだ、
そう、思い至る。
もしかしたら、ひどく忘れっぽいのかもしれない。
記憶の話。
仕事が待っていて時間はなく、15分しかお母さんの家にはいなかった。
その間に、やはり準備してくれていたクッペと鶏とご飯を少しいただき
紅茶を飲み、その間ずっと、お母さんがちゃんと食事を食べているか、
気になって見ていることになった。
次に来る時は泊まっていきなさい。
帰りがけ、お母さんは言ってくる、小さな目でじっと私を見ながら。
もう一度、お母さんにお別れの挨拶をする。
頬を寄せ、まんまるな身体を抱く。
私にはなくて、お母さんにはあるものへ、
私には足りないものへ、その途方もない時間へ、思いを馳せる。
さまざまな感情がないまぜになり、
そして、ほのかに温かな身体の熱の伝わりの中に
溶けていくのを感じる。