2024/03/30

電車と田園

 

空の色が白みがかって、空気が急に、春になる。


春の空を眺めながら、電車に乗る。
都心から離れていくと、窓の外で空が広くなる。
同じ車両に乗る見知らぬ人々が一様に、この春の空気に
浮き足だっているように見える。
親に連れられて、控えめにはしゃぐ子どもたちが
電車の中の空気を作る。
わたしの隣で、3、4歳の女の子が、椅子の上に立膝をついて
窓の外を見つめている。
白い靴下が、上下に動くのが、目の端に入ってくる。
じっとしていられない心のうちが、ちらちら蝶のように舞う。

大人のわたしは、じっとしている。

女の子が隣に座るお母さんに、何か話している。
何を言っているのか、少しだけ気になる。
どんな声なのかも、少しだけ聞いてみたくなる。

けれども、ヘッドフォンをずらすわけにはいかない。
郊外の景色に、いくらかでもふさわしいはずの
ベートーヴェンの田園を聴いている。

空が白い、それが何よりも救いだ。

田園を聴くと、ありきたりで時代錯誤だけれど、
ヨーロッパの初夏の、さまざまな濃淡の緑にあふれた
草原と森を組み合わせた、バロック時代の絵画の色の明度を
ぐっと上げたような景色を
想像するのが常だった。


庭や樹木にあふれた広大な敷地を持つ屋敷の
大きな扉を開けるような始まりの数小節から、
すでに扉を開けているのが、亡霊であるかのような音ではあった。

音楽そのものは、楽譜通りに進んでいく。
朗々とした音の美しい広がり、緩急の心地よさ、
弦と管楽器の支え合い、呼応するフレーズの波。
けれども、急に音に覇気がなくなる、
突然それまでの文脈から外れてテンポがはやくなる、
コントラバスの音が時々不吉なものが迫り来るように
ひどく目立って響く。



今耳から流れ込んでくる音楽は、総じて
ただひたすら、真っ青で、その中に吸い込まれるような
底なしのからっぽな空間が広がる空ばかりを思わせる。

どれだけ、よく知っているはずの旋律を追っていても、
弦の擦れや、楽器の中を突き抜ける息のすべてに
青いセロファンのフィルターをかけているように見える。
楽曲の持つ、そしてオーケストラが奏でる音、
どちらの気品も、蝋燭のあかりに輝く銀カトラリーのようだけれど
ところどころ黒ずんでいる。

通り過ぎる音の残像の影だけが、ひどく濃くて、
物質的な手応えがない。
だから、耳をすべて覆い尽くす音があるのに、
青い影だけが、秋の空のようにどんどんと澄んで深くなる。

銀のカトラリーにつられたのか、
ペーヴに敷き詰められた煉瓦のわずかな段差につまづかぬよう
お盆を持って何度も歩く練習をする、
「日の名残」の父親の背中と屋敷の緑を思い出す。



目の前では、別の子どもたちが親を両側に挟むようにして座り、
父親の携帯電話をうれしそうに覗き込んでいる。
外国人のカップルがバックパックをおろして何かを取り出そうとしている。
老夫婦が食卓を囲むような日常の顔で、手すりに掴まり立っている。
川を渡る電車は中空を走る。


3楽章で急に管楽器の音が弱くなった気がする。
弦だけが、これでもか、というほどに全面に出たと思ったら、
4楽章に入って爆音が耳を覆う、けれども、どこか切れがなくて
今度は金管楽器の音だけがつんざくように警笛を鳴らし、
それが過ぎ去った後一瞬だけ、
空っぽをゆくような音が、ひどく曲の流れと合った気がした。
5楽章に入ってもどこかが欠けてしまったまま、
これではいけない、と弦も管楽器も勢いをつけようとするのに
うまくいかなくて、やけになっているような盛り上がりと
沈みが何度も繰り返される。
5楽章の一番美しい旋律は
まるで、空には自由に舞う鳥がいたはずだ、だから
見つかるまで探そうと励まし合いながら空を見上げ
空を見上げすぎて、青い空に鳥の幻を作り上げてしまったかのようで、
そのことに気づいて、
あぁ、あれは幻だった、と、呆然としたまま
曲が終わってしまう。

秋のどこまでも青い空を見つめるような、
胸を巣食う悲しみと絶望の影で、身体中がいっぱいになる。


そこで、乗り換えの駅に着く。
白い靴下を小さな靴の中に納めた女の子も、
外国人のカップルも、
そして、そのほかのたくさんの人も、私と一緒に電車から吐き出される。

呆れるほどたくさんの人たちが、駅の構内できちんと、
行くべきどこかを知っていて、そこへ向かって歩いている。

何に乗り換えたらいいのか失念してしまう。
携帯を確認しようとして、視界が滲む。
とてつもなく、悲しくなっているのに気づく。

立ち止まっていては邪魔だから、とにかく歩きながら、
乗り換えのホームを確認する。
これから人に会うのに、一体どう説明したらいいのだろう。



ケーゲルがドレスデンフィルと演奏した1989年の録音を聴いていたのです。


そう説明したところで、意味がわからなくて、
またおかしなことを言っている、と苦笑されるだけだろう。

混乱したままホームへ昇る。
広告の壁と屋根の隙間に
わずかに見える空が、明るい濁った春の光で
温かな薄水色に霞んでいた。

電車が入ってきて消していくまで、
ずっとその、空の白い帯を必死に見つめていた。





2024/03/29

とりとめもなく、日々の会話を思い出そうとする



じっと根を詰めて、頭の中で思考を展開させる人、
思考を紙の上に書き落として視覚化していく人、
言葉を音声でアウトプットしながら思考を展開する人、
議題についての意見を他者に尋ねて、その回答をもとに思考を深める人、
いろいろなタイプの人がいるだろうし、考える内容によっても
方法は変わってくるだろう、けれども
大方思考の方法には傾向があるだろう。

思考を深める方法がそれぞれ異なる人たちが集まり、
ある議題について話し合う時、
それぞれのアウトプットの速度が違ったり、
思考の道筋のどこかが言語化されていなかったり、
ものすごく頭を回転させて相手の意図を汲もうとして、言葉が出てこなかったり、
相手の出方を見ていたら、発言のタイミングを失ったり、
なんとなくわだかまりを残したまま、
話し合いを終えることは、誰しもある経験だと思う。

よほど知っている人たちの間でも起きうることだから、
それほど深い付き合いのない人々が一緒に話をする時には、
言葉を飲み込んでしまわない空気を作ること、
できるだけそれぞれの建設的な意見を引き出せる工夫をすることが
当たり前で、けれども難しいことも、認識している。


実のところ、日本語で議論をする、という仕事上の経験はあまり多くない。

ヨルダンでは話し相手の性格をよくわかっていたので、
Pros/Consの提示の仕方や
議論の目的で強調するところや、
それぞれに得意な分野で話をふることなどを、
失敗もたくさんあったけれど、それなりにやってきた。

日常的に、どうでもいいこともよくないことも、
話好きで一生懸命話す人が多いし、
自分の意見ははっきり言う人が一定数いるので、
内容の深度は置いておいても、活発な議論、そのものはしやすい環境だった。


わたしも朝一で中東のニュースを話題に振ることが多くて、
あなたたちはどう考えているの、よく尋ねていた。
そんな話題と同レベルで、昨日作った食事の話や
週末に会った親族の話や、家族の喧嘩や、そんな
細々とした個人的な話もよくしていて、
そこにも、感想や意見を求められていた。
(基本的にウィットと皮肉を交えたコメントをする、というのが
わたしとしては流儀だったので、朝早くても
面白く答えようと努力していた。)

もっとも、わたしは外国人だったので、立場が異なるということが、
相手の話しやすさを感じさせることもあったのだろう。
同じ国籍同士だと言いづらい意見も、ぽろっと出てきたりして、
そんな考え方をしているのか、とはっとさせられる場面もあった。

思い返すと、日常のコミュニケーションが圧倒的に多かった。
もっとも、そんな面白く話ができる場面ばかりではないので、
フィールドで耳を疑うような発言や場面に出くわし、
その愚痴と解決方法についても、話していた。





長く住んでいれば、ヨルダン人よりもよく話すようになり、
スタッフの時間を邪魔していたこともよくあって、申し訳なかった。

こちらも集中する仕事は家に持ち帰るから、まったく効率はよくなかったけれど、
そういう仕事だと、思っていた。



単語の意味一つとっても、相手はアラビア語、
もしくはアラビア語から英語にして、
こちらも日本語から同じ作業をするので、
間に横たわる異なる言語の意味は大なり小なり、異なる。
単語一つでも、その背後に膨大に蓄積された文化や思考回路を詳にするため、
会話で相手の言葉の意味を理解し、
同様にこちらの意図するところを、できるだけ理解してもらう。

異なる国で育ち、環境が異なり、違う思考回路と
違う文化風習の中を生きてきた他者同士だから、
会話の中ですり合わせをしていく作業がどうしても必要だと認識していた。

けれどもそれは、国籍の違いだけではなく、
同じ言語を母国語としていても、同様な作業が必要であることに
つい最近まで気づかなかった。

なんとなくこうだろう、と推察することを
日本では高度に要求される。
けれども、推察をし続けて結果、
大きな齟齬が発生することもある。
そのことに気づいて、腹を割って話す、という場を設定しても、
みな、相手を傷つけないような会話を心がけていたら、
言葉を選ぶ間に、話が終わっていたりする。
しっかり議論するよりも、推察にとどめておくほうが
心地よく、楽なのだという空気を感じる。
なかなかに、難しい場所だ、と思う。



それから、考えをまとめてから話す、というのが
日本ではマナーの一つだったのを、忘れていた。



他者の時間をいただいているのだから、
効率を考えなくてはならない、
趣旨を明確に簡潔に、伝えなくてはらない。
準備にかけられる時間は、そのまま相手への敬意につながる。
殊、プレゼンとなると、いかに相手を納得してもらうかという
明らかな目的もある。

日常のどうでもいい話7割、仕事の話3割だった
ヨルダンから帰ってくると、
簡潔に話すこともできず、空気を読むこともできず、
どうにかしなくては、と焦り、結果的に
すっかり社会不適合者になってしまった。


ずっとそんなことをうっすらと思いながら、
何気ない会話もそれほどしない毎日に、
一体、日本でふと顔の見える人たちとするとりとめもない会話とは、
どんなものだったか考える。
そういうものの積み重ねで
作り上げられた日常と関係性があったことを、
そして、それらがわたしに与えてくれた安心感のことを
どこか必死に、思い出そうとしている。




2024/03/27

春と冬のあいだに必要な、清冽さと均衡について


 ある暖かな日には、身体が軽くなるような気がする。
それは気のせいだったと、寒さが戻り、思い直す。

三寒四温とは、ずいぶんそのままの四字熟語だ。
足したら奇数になる数字で、いくらかでも
暖かさが増していることを比率で示したい、という
寒さへの失望と名残おしさ、そして、暖かさへの期待を
じわりと身勝手に、感じ取る。

そんな、奇数になるような集合を過ごすこの時季は
身体も心も中途半端で置きどころがなく、そのせいなのか、
見えるものや聴こえるもの、感覚がいつもよりほんの少し
敏感になっている。


おそらく目は、日の光が春の色に変わったり
また冬の色に戻ったりするのが、無意識に気になっているのだろう。
雨で冷える日は、ものの輪郭を形作る影が深く青い。
その青が突き抜けるように明度を増して、天気の良い日、空の色になる。
この時季の空の青さは、どの季節の青とも違う。
特別に混じり気のない、純度の高い強い日差しが、
寒さを残した影だけ置き去りにして、輝きすぎる。

あっという間に葉桜になった、神社の河津桜に残る
花柄、花床筒、萼片、あの赤く細い線、
青々した葉の影にしがみつく線たちにも、輪郭と影を与える。







耳ではずっとうっすらと耳鳴りがしていた、花粉症のせいだ。
その音を消すためにずっと音楽を集中して聴き続けていた。
いつも大方の時間、音楽を聴いているけれど、
止むに止まれぬ事情で、随分真剣に聴いていたことになる。


雨の朝は必ず、ラヴェルのクープランの墓を聴く。

クープランの墓を聴きながら眺める三月の終わりの雨は、
その水気に春の気配を含み、雨粒の一つ一つが
土に染みたらその瞬間に、あらゆる植物の芽吹きのための
栄養になっている、特別な雨のように見える。
霧雨のような柔らかな雨が、音の瑞々しさと呼応して
そこらじゅうに染み渡っていく。

オーケストラ版、時間があれば好きな指揮者の演奏もいくつか聴く。
春だろうが、秋だろうが、季節を問わず聴くのが習慣になっている。
いくらか憂鬱なはずの雨の一日の始まりの景色が
瑞々しく映り、湿度がいくらか低くなるように思える。








仕事もプライヴェートも、人と話をする、もしくは
動画の編集で音声を聞かなくてはならに時の他は、ほぼずっと
音楽を聴いている。
随分と態度の悪い人間だ。

東京は音が多すぎる、親切心なのか、保身なのか、
わたしたちに呼びかける声が多すぎる。
電車に乗っていて、駅にいても、信号を渡る時も、道を歩いている時も
エレベーターに乗っても、店に入っても、
ありとあらゆるところで、不特定多数の誰か、への呼びかけに満ちている。



日本に帰ってくるといつも、灰色で静かな国だ、と感じていた。
その記憶は、25年前の春、インドからの帰国に始まり、しばらくは
帰国のたびにそんな印象を持っていた、
けれども久々に日本で暮らすようになると、街の中の音が気になってくる。
耳鳴りと同じ理由で、ヘッドホンをずっと、使い続けることになった。

無音なのは、朝だけ。
屋根に雨の当たる音を聞く。
プラスティック、屋根瓦、木材、コンクリート
さまざまなものに当たる雨の音を聴きながら、
頭の中を、クープランの墓の第一楽章の始まり、
オーボエの音がくるくるとめぐる。


クープランの墓は、ピアノ版もある。
ピアノの方が曲数は多く、オーケストラとピアノと
ほぼ旋律も同じ曲は4曲ある。
ある朝オーケストラ版だけではなく、ピアノ版も聴き、
ふと、このピアノ版の楽譜をはじめてさらった人は
自分の弾く音の中に、心の爽やかなざわめきを感じていたのだろうか、と思う。










「器楽的幻想」は、ピアノの音楽会へ行った時の
音楽とそれを聴く人々と作者の心の変移を描いた
ごく短い作品だ。
ひどく他愛もないやりとりの中で出てきた
梶井基次郎の名前に、思い出した短編だった。


20年ぶりほどで読む基次郎は、記憶よりもはるかに
誠実で実直で清冽で繊細だった。
なにより、その清冽な実直さがどの短編の読後にも、じわりと残る。

あなたにとっては、取るに足らないことのように響くだろうけれど、
そんな頭出しとともに、日常の景色と小さな出来事を仔細にまなざし、
そのまなざしから生まれる心の赴を描く。
ささやかで、でも、鮮血の飛沫のような鋭さと切実さを滲ませる描写は
読み手の記憶にも、その小さな血痕を残していく。

けれども時には、切り取る画角も、瞬間も、言葉も、感情も
いくばくかのかろみを残す。
どれだけ深刻な、深淵なことを語っていても、
どこか達観したような拘泥のなさ、がある。

(かろみと、時に深刻さをはぐらかすような姿勢は
うっすらとブローティガンを彷彿とさせる)

そのバランスの絶妙さは、どこかいじらしくもある。
わたしも知る、生なのか死なのか、放埒なのか真摯なのか、
その両極に生きることへ必死さを抱える人たちのことを、思い浮かべる。

亡くなったわたしの友人は、「城のある町にて」が大好きで、
彼女はいつか、この短編の話を熱心にしていた。
近鉄線か松坂の地名を聞けば、必ずこの短編と、友人を思い出す。
けれども、何にそんなに心を惹かれていたのか、詳細を忘れていた。

”「××ちゃん。花は」
「フロラ」一番年のいったのがそんなに答えている。”

久々に読んだ時、友人はこのはなしをしていた、と
急に鮮明な記憶が蘇る場面を見つける。




桜の咲く時季になると、決まってそわそわして、
それなのに、えも言われぬ不安を感じる。
小学生の頃は、ただひたすら、通学路の坂道の両側に咲き誇る
桜の花を、咲き始めから散るまで無邪気に愛でていた。
中学に入る頃から、その不安が、ただ単純に落ち着きを失うからなのか、
何か他の理由があるのか、わからないことがさらに、不安を掻き立てる。

「桜の樹の下には」を初めて読んだのは、中学の時だった。
”桜の樹の下には屍体が埋まっている!”
この強烈な書き出しの、目眩のするような甘美な幻想から
いまだに取り憑かれて、桜と切り離すことができない。


今読むと、腐敗する屍体の描写も、その透明な液を吸い上げる様も、
それは精緻で美しく、何度読んでも見事だ。

ただ、文章の中に、すっかり記憶から抜け落ちていた箇所があった。

”俺には惨劇が必要なんだ。その平衡があって、
はじめて俺の心象は明確になって来る。俺の心は悪鬼のように
憂鬱に乾いている。俺の心に憂鬱が完成するときにばかり、
俺の心は和んでくる。”

この短編の核心はここだったのかもしれない。
少なくとも、この部分に一番、”俺”の意思と欲望が明確に描かれていた。

にわかに信じがたい桜の美しさに不安を感じた”俺”が、
屍体が埋まっているという想像のうちに、不安を拭っていく。
わたしが抱いた不安と、”俺”の抱いた不安が同じものではないだろう、
けれども、幻想的な桜に強烈で生々しい生死を当てがい、
均衡を図ろうとするその心の動きを追随する。





桜の咲く時季に日本にいられるのは、ひどく有難いことだ。
毎年毎年、諦めることなく何度も桜を思い浮かべ、
その姿を愛でたいと願い続けた、在外の13年間を思い出す。

阿呆のように、日中桜をぼうっと眺めていいのは
ちびっこと老人ばかりだ、ということに去年、気がついた。
だから、深夜の桜並木を、音楽を聴きながら散歩するようにしている。


あまり暖かくなってほしくない。
三寒四温でも、二寒五温でもいいから、
視覚と聴覚が鋭敏なまま、桜を迎えたい。

冷えた空気の中、身を切るような冷たいピアノの音なのか、
荘厳なレクイエムなのか、なにか、桜にうつつを抜かさぬよう
梶井基次郎の憂鬱や、屍体の幻想のように、
均衡を取ることのできる何かを、携えておかなくてはならない。