空の色が白みがかって、空気が急に、春になる。
春の空を眺めながら、電車に乗る。
都心から離れていくと、窓の外で空が広くなる。
同じ車両に乗る見知らぬ人々が一様に、この春の空気に
浮き足だっているように見える。
親に連れられて、控えめにはしゃぐ子どもたちが
電車の中の空気を作る。
わたしの隣で、3、4歳の女の子が、椅子の上に立膝をついて
窓の外を見つめている。
白い靴下が、上下に動くのが、目の端に入ってくる。
じっとしていられない心のうちが、ちらちら蝶のように舞う。
大人のわたしは、じっとしている。
女の子が隣に座るお母さんに、何か話している。
何を言っているのか、少しだけ気になる。
どんな声なのかも、少しだけ聞いてみたくなる。
けれども、ヘッドフォンをずらすわけにはいかない。
郊外の景色に、いくらかでもふさわしいはずの
ベートーヴェンの田園を聴いている。
空が白い、それが何よりも救いだ。
田園を聴くと、ありきたりで時代錯誤だけれど、
ヨーロッパの初夏の、さまざまな濃淡の緑にあふれた
草原と森を組み合わせた、バロック時代の絵画の色の明度を
ぐっと上げたような景色を
想像するのが常だった。
庭や樹木にあふれた広大な敷地を持つ屋敷の
大きな扉を開けるような始まりの数小節から、
すでに扉を開けているのが、亡霊であるかのような音ではあった。
音楽そのものは、楽譜通りに進んでいく。
朗々とした音の美しい広がり、緩急の心地よさ、
弦と管楽器の支え合い、呼応するフレーズの波。
けれども、急に音に覇気がなくなる、
突然それまでの文脈から外れてテンポがはやくなる、
コントラバスの音が時々不吉なものが迫り来るように
ひどく目立って響く。
今耳から流れ込んでくる音楽は、総じて
ただひたすら、真っ青で、その中に吸い込まれるような
底なしのからっぽな空間が広がる空ばかりを思わせる。
どれだけ、よく知っているはずの旋律を追っていても、
弦の擦れや、楽器の中を突き抜ける息のすべてに
青いセロファンのフィルターをかけているように見える。
楽曲の持つ、そしてオーケストラが奏でる音、
どちらの気品も、蝋燭のあかりに輝く銀カトラリーのようだけれど
ところどころ黒ずんでいる。
通り過ぎる音の残像の影だけが、ひどく濃くて、
物質的な手応えがない。
だから、耳をすべて覆い尽くす音があるのに、
青い影だけが、秋の空のようにどんどんと澄んで深くなる。
銀のカトラリーにつられたのか、
ペーヴに敷き詰められた煉瓦のわずかな段差につまづかぬよう
お盆を持って何度も歩く練習をする、
「日の名残」の父親の背中と屋敷の緑を思い出す。
目の前では、別の子どもたちが親を両側に挟むようにして座り、
父親の携帯電話をうれしそうに覗き込んでいる。
外国人のカップルがバックパックをおろして何かを取り出そうとしている。
老夫婦が食卓を囲むような日常の顔で、手すりに掴まり立っている。
川を渡る電車は中空を走る。
3楽章で急に管楽器の音が弱くなった気がする。
弦だけが、これでもか、というほどに全面に出たと思ったら、
4楽章に入って爆音が耳を覆う、けれども、どこか切れがなくて
今度は金管楽器の音だけがつんざくように警笛を鳴らし、
それが過ぎ去った後一瞬だけ、
空っぽをゆくような音が、ひどく曲の流れと合った気がした。
5楽章に入ってもどこかが欠けてしまったまま、
これではいけない、と弦も管楽器も勢いをつけようとするのに
うまくいかなくて、やけになっているような盛り上がりと
沈みが何度も繰り返される。
5楽章の一番美しい旋律は
まるで、空には自由に舞う鳥がいたはずだ、だから
見つかるまで探そうと励まし合いながら空を見上げ
空を見上げすぎて、青い空に鳥の幻を作り上げてしまったかのようで、
そのことに気づいて、
あぁ、あれは幻だった、と、呆然としたまま
曲が終わってしまう。
秋のどこまでも青い空を見つめるような、
胸を巣食う悲しみと絶望の影で、身体中がいっぱいになる。
そこで、乗り換えの駅に着く。
白い靴下を小さな靴の中に納めた女の子も、
外国人のカップルも、
そして、そのほかのたくさんの人も、私と一緒に電車から吐き出される。
呆れるほどたくさんの人たちが、駅の構内できちんと、
行くべきどこかを知っていて、そこへ向かって歩いている。
何に乗り換えたらいいのか失念してしまう。
携帯を確認しようとして、視界が滲む。
とてつもなく、悲しくなっているのに気づく。
立ち止まっていては邪魔だから、とにかく歩きながら、
乗り換えのホームを確認する。
これから人に会うのに、一体どう説明したらいいのだろう。
ケーゲルがドレスデンフィルと演奏した1989年の録音を聴いていたのです。
そう説明したところで、意味がわからなくて、
またおかしなことを言っている、と苦笑されるだけだろう。
混乱したままホームへ昇る。
広告の壁と屋根の隙間に
わずかに見える空が、明るい濁った春の光で
温かな薄水色に霞んでいた。
電車が入ってきて消していくまで、
ずっとその、空の白い帯を必死に見つめていた。