2022/12/31

その人の在りようを、まなざしが語る

 
ジョナス・メカスの映像を初めて観たのは
都美館の企画展の一角だった。
露出が高めで、色が飛んでしまいそうな
もしくは、室内で暗すぎて、影に埋もれてしまいそうな断片が
でもそこにしっかりと存在している光の中で、
大切な小さな石のように一つ一つ、大切に置かれていく。
日常のどちらかと言ったら、とりとめもないような映像が
切り取られ、続いていく。

見た瞬間に、たとえそれが
ただの道を歩く人々であったとしても
風に揺れる花々であったとしても、
食卓を囲む人々の姿であったとしても、
被写体のすべてに対する愛おしさに溢れている、そう
誰もがきっと感じるだろう。

こんな,宝石のような映像を撮る人がいるのか、と
ただずっと、流れる映像を見続けていた。




その印象が強かったから、「眩暈 VERTIGO」という映画が上映されるのを
随分と心待ちにしていた。

たまたま見に行った日、監督と共に、
吉増剛造氏も会場に来ていて、映画の中の断片を
聴くことができた。

NYでメカスの息子に会うシーン、そして
日本中のメカスファンの心が、自分の身体に乗り移って、
「メカスさーん」と呼びかける言葉が出てきた、と
身体と言葉が一体となったような、所作と佇まいで、話していた。


映画は期待通り、それ以上に良かった。
映像の場面一つひとつが美しかったし、
ジョナス・メカスへ抱く、吉増剛造の愛しさに
とにかく溢れていた。

歌を歌うのが好きだったメカスが、映画の中で、
言葉を音に乗せて、アコーディオン片手に歌う。
Dream of Humanityと繰り返す。

彼の映像の中にも、歌を歌う人々の姿が出てきて、
いつも誰かに向けて、自然に歌い出すような流れが印象的だったのだけれど、
フィルムを回す本人が、いつもそうやって歌っていたのか、と
ひどく合点がいく。

後半に出てくるパウル・ツェランの音声も、ひどく印象的だった。

自分の国から逃げねばならず、難民となった先で
母国語とは異なる言葉を操ることを課せられ
言葉という一番慣れ親しんだはずの表現方法が、一度
手の中から逃げていく。
それでも、ツェラン、メカスはそれぞれ、言葉やその周辺で表現を試みる。

ユダヤ人として、ナチス時代に強制収容所に収容され、
過酷という言葉では、とても表しきれない経験をして、
それが、その後の人生の流れと表現の核心を決定付けているところもまた、
共通するところだった。



けれども、映画の中で何が一番印象に残ったか、と訊かれたら、
圧倒的に、メカスの息子、セバスチャンの目、表情と答える。
メカスの最期の場面を尋ねる吉増剛造の姿を見つめる
セバスチャンの表情は、形容し難く、圧倒的な慈愛に満ちている。




気の小さい私は、海外で人と接する時、だいたいいつも、
どこか不安を抱えながら、おそるおそる、どんな人なのかと
その人の佇まいを凝視することが多かった。
そこから得られる情報の蓄積で、
安心できる人を経験的に、見分けていくことになる。

セバスチャンの顔は、会ったら一目で、
ひどく安心できると確信できる人の顔だった。
特に、吉増を見つめるまなざしが、
私がよく知っていて、大好きな人たちのまなざしと重なる。
あの人たちの顔を、よく訳もなく見つめていたのは、
ただ見ているだけで、心が落ち着くからだった。

映画を観ている時も、このまなざしをずっと眺めていたい、と
映画の主題の流れとは離れて、本能的に思う。




まなざし、には、客体である対象を見つめる視線がある。
同じくまなざす、という動詞にも、
対象を見つめる視線がある。
そして、その視線には、見る側の意識が介在する。
対象をどのように見るのか、という意志が反映された
視線としての、まなざし、なのだ。

だから、まなざしそのものに、まなざされる対象を
定義づけたり、意味づけたりする行為も、
場合によっては含まれることになる。
時に、そんなまなざしは、対象を縛ったり、決め付けたりもする。
だから、まなざしそのものに、功罪が存在することを
私たちは意識しなくてはならない。


けれども、セバスチャンのまなざしは、
その瞳の奥に、何かを決めつけるのではなく、
そのまま受け入れて、対象の心を映し出し、
まなざされた対象も意識していなかった
心の奥底の思いに気づかせる。

覗き込むものすべてを映す
凪いだ水面のようなまなざし。


もしかしたら、それはもはや哲学の文脈が意味する、
まなざしとは言わない、と捉える人もいるのかもしれない。
ただ私は、きちんと意志的な視線を携えて、
相手をまなざしている、と感じていた。

根底に、対象を愛しむ存在として捉えている、というのが
まなざしが携える、まなざす人の意志だ。


そのまま受け入れられていると感じられたならば、
対象の心は開かれる。
その心のうちが言葉にならなくても
表情や視線の中に、開かれた心の断片や気持ちが
細かな泡のように浮かび上がってくる。


そんなまなざしが生み出す、心と心の交流が
映画の中で、映像として記録されていた。

回り回って、それはまさに、ジョナス・メカスが
フィルムを通して持ち続けたまなざしだった。

「メカスさんが生涯がけて育てた、
奇跡的な作品と言っていいような人なのね」
息子セバスチャンについてそう語る、
吉増剛造の言葉を思い出す。

確かに、フィルムを通じて表現していたものを
息子はそのまなざしだけで、表現し尽くしていた。


目でものを語る時、
言葉にならない感情を、視線のうちに込めて
時に訴え、時に絶望し、時に怒り、時に苦悶する。
主体の感情が瞳に現れる。
おそらく、この時にまなざしは存在していない。
なぜなら、その時の目は、対象を見ることを放棄して、
たとえ目を見開いていたとしても、
心は感情の中に閉じこもっているからだ。

対象ありき、のまなざしが、
そのうちに、持てる幸な、愛しみを対象と分かち合おうとする。
もし対象が幸ではなくとも、そのまなざしに
いくばくかの幸を感じられる、そんな経験に
何度となく救われてきた気がする。
特に、言葉の通じない場所、言葉が掴み取れない場面で
まなざしから滲み出るものを
敏感に感じとって、なんとか生き延びてきた気もする。

まなざす人はその視線に愛しみなど、
別段意図して込めていなかったかもしれない。
それでも、慈愛を持って受け入れる、その人たちの在りようが
まなざしのうちに表れ、肯定されてきた。



私自身が、まなざす人間でもある。

いつか私も、
セバスチャンのようなまなざしを携える人間になって
今までいただいたたくさんの安心感を、
他者に感じていただける人になれるだろうか。




2022/12/07

他者の言葉を、手書きする

 

語学は滅法苦手だ。
謙遜でも卑下でもなく、本当に苦手で、
その事実を説明する材料はいくらでもある。

たぶん、日本語でもひねった言い回しをしたがっていたからか、
例えば英語に、そのまま置き換えようとして、
まったく一般的ではない単語ばかり覚えていたりした。
もっとも、覚えられるだけの記憶力があった頃の話。

英語もそんな感じだったのに、アラビア語を使わなくてはならなくなって、
ひどく私の脳みそは混乱している。今もなお。



アラビア語を学び始めた時に、
とても興味深い傾向に気づいた。
私の周辺にいる、音楽を演奏する人たち、
特に、音楽を大学まで勉強していた人たちは
アラビア語の習得がとても早かった。
時に、文法は苦手だったりもするのだけれど、
会話に関しては、抜群にセンスが良かった。

耳が、いい。

細かな発音の差異、単語のリズム、言葉の流れを
聞きとる能力が高いのだ、という事実は、
結構な、衝撃だった。

音楽そのものは好きでも、そもそも専門ではないし、
演奏も子どもの手習に毛が生えたような私では、
とても持ち得ない耳を、彼らは
言語の習得に、存分に活用している。

私は耳までもが怠慢だったのか、と思い知った瞬間だった。


日本語も子音の発音が舌足らずになりがちで、
ゆっくりしか話せない私は
他言語になると、流暢とは程遠い話し方しかできない。

だから、よくヨルダンで会う子どもたちは、
私の話し方の真似をしていた。
よく特徴を押さえた、彼らの話っぷりに
それなりに傷つくけれど、実際、おかしいんだろうな、と
肩を落とすより他、なかった。



アラビア語の単語の成り立ちそのものは、
興味深い。
ほとんどの単語には、語根と呼ばれる
男性形動詞過去形があって、
この語根をある程度規則に則って変化させると、
その語根の意味から派生した、名詞、形容詞などに
変化していく。
ある意味、わかりやすいから、
語根の意味を知っていると、初めて見る単語でも、
なんとなく意味がわかったりする。
もっとも、耳の悪い私には、聞いて語根と
結びつけることはほぼ不可能だから、
文字面での面白さでしかない。

さらに、アラビア語は口語と文語では
単語や文法が異なったりするので、
座学での学びが、会話ではあまり活かせないという
別のハードルもある。

そして、アラビア語に関しては、発音の難しさと
口語文語の乖離の他に、もう一つ、
致命的に学習する気力を奪う事実があった。

元来、小説や詩は大好きだ。
だから、今はもう、そんな気力がないけれど、
大好きな英語圏の作家の文章は、
原文を読もうと、努力していたこともある。
その言語で表現されるもの、そのものへの関心があれば、
読もうとする気持ちは、あった。


けれども、どうもアラビア語でアウトプットされる
小説や詩は、ひどく壮大だったり、抽象的だったり、
言葉そのものの強烈さを全面に出す表現が多くて、
その傾向自体が、私にとってはあまり、
魅力的に映らなかった。

おそらく、私が知らないだけで、
身の回りの物事、日常の些細なことを、
愛情を持って紡ぐ文章もきっと、存在しているのだろう。
でも、そんなまだ会ったことのない文章を開拓する気力も
もう、なくなってしまった。





子どもたちのアラビア語の学力が、コロナ禍で低下している、と
教育分野では問題視されて久しいけれど、
それはそうだろう、と、心底思う。
そもそも、言語の文法そのものが複雑だし、
言語が意思疎通のツールであるならば、
日常で話して言いたいことが通じる以上のものを
学ぼうとするには、やはり、私と同様、気力が必要なのだ。

ただ、例えば、自分の心の中にある何かを、
うまく言い表すための言葉を携えていない、という状況を
経験し続けると、自分の持ち得る
感情そのものの種類を結果的に、限定してしまったりする。

最低限、生きていくのには問題ないだろうけれど、
何かを表現したい、と思ったときに、
そのもどかしさが葛藤になることは、大いにありうるだろう。
単語は知らなくても、比喩という表現方法もあるから、
そんな喩えをたくさん、蓄積していってほしいな、と
子どもたちには思っていたりする。

もっとも、それは私自身にも思ったりすることだけれど。





結果、仕事で否応無しに、急ぎで話していることを
翻訳しなくてはならない場面に遭遇したり、
ナショナルスタッフにお願いする時間がないけれど
読まなくてはならない重要な文書などではない限り
文字に起こしたり、翻訳することはなかった。


そんな普段の業務の一環でしていた翻訳を
改めて見直す機会がある。
子どもたちが書いたメッセージを日本語にして、
布に貼り付ける作業だった。
文字を打ち出しすると、貼り付けるのが難しくなるので、
手書きにする。

メモは基本的に手で書く習慣があったけれど、
それでさえも最近、携帯で取りがちだった。
手でものを書く作業そのものが、久しぶりのような気がする。

子どもたちの文はメッセージだったから、
ひどく、訴えるものの多い言葉が使われていた。

一応、英語でも訳されていたのだけれど、
英語の訳だけではニュアンスが分かりづらい文章も多くて、
再度、子どもたちが書いたアラビア語を読み返す。
どこまで文法をきちんと理解できているかは自信がなかったけれど、
とにかく、とても熱い思いだけは真に迫って伝わってくる
言葉ばかりだった。













おそらく、有名な詩や格言も、含まれているだろう。
自分で作り出した文章ではなかったとしても、その言葉を
ここに書き記したい、と思って書いているのだから、
その思いだけでも、汲み取りたい。
ちゃんと覚えているだけでも、意味がある。


アラビア語そのものを読むという、久しぶりの作業の中で、
強い語感を持つ言葉の、広がりを体感する。
大地、もしくは、土地を意味する言葉を見つめ、
これを大地と訳すのか、土地と訳すのか、考える。
愛もしくは、好きを表す言葉は、どちらの方が
文脈に合っているのか、考えあぐねる。

حبは愛、もしくは大好き、という意味を含む言葉で、
動詞として、名詞として、多用されている。
こんなに、好きであることを表したいと思う、その気持ちの
膨らみのようなものに、ただただ、感心する。
そんなに祖国への愛を言葉にしたいと思う、
その切実さに、胸を打たれた。


自分の国をそこまで、好きだと言えるのだろうか。
その気持ちの背景には、失ったあまりにも多くの命と
壊れてしまったあまりにも多くの建物と、
人間関係が、おそらく存在する。

そう思いを巡らせた時、これは愛でしか、
訳されない言葉なのだろう、と觀念する。
技巧的なものを排除し、ただただ
その土地や祖国に対する強烈な思い入れが
本心からの、彼らの伝えたいこと、なのだろうと感じる。


ある意味とても、切ない作業だった。


だからこそ、伝えなくてはならない。
そう、切実に思った。
このメッセージの書かれた布だけでも、
たくさんの人に見ていただけるよう、
旅に出られたらいいのにな、と思う。