数週間ほど前、鼻歌でふと、昔歌った旋律が出てきた。
歌詞はなんだっただろうか、と気になってくる。
「森は深く 林は緑 森は深く 林は緑」
このフレーズしか、歌詞を覚えていなかった。
ショスタコーヴィッチの「森の歌」だった。
検索をかけてみる。
先のフレーズの前、旋律だけ鼻でふんふん言っていたのが、
こんな歌詞だった。
「祖国の土を守るが如く 白樺しげる我らの大地」
ショスタコとこの歌詞の組み合わせだけでも、
社会主義の香りがほんのりする。
市の大人の合唱団とともに全曲を発表会で歌うから、と
小学校4、5年生の時に合唱団で練習していた曲は、
もしかしたら、ものすごいイデオロギーに満ち溢れていたのかもしれない。
何も知らない小学生にそんなものを歌わせるなんて
それは実に、納得いかない話だな、と思い、
森の歌の歌詞をめぐる歴史について検索していた。
結論から言うと、戦後に翻訳された歌詞は、
当初からスターリンの名前や社会主義の香りは消し去るよう
注意を払って訳されていたらしい。
ロシア語でさえ、スターリン死去後、
様々な単語や文章が、書き直されていた。
にわかに、どんな背景でこの曲ができたのか、気になってくる。
それから、子ども心に不思議な響きを持っていた旋律を作った
ショスタコーヴィッチ自身について、興味が湧いてきた。
個人的には、チェロソナタだけはよく聴いていたけれど、
あと知っているのは、交響曲5番、9番ぐらいだった。
注文した立派な本の厚さを確認して、
少し気負ったけれども、読み始める。
文章がやたらと魅力的だと思ったら、亀山郁夫は
有名なドストエフスキーの翻訳をはじめとする
ロシア文学研究者であることを人から指摘されて、初めて知った。
大体、カラマーゾフの兄弟は長すぎて、
修行のように読んだ記憶しかない。
ロシア文学といえば、ガルシンという作家の「赤い花」ぐらいしか、
印象に残っていなかった。
(おそらくもう、古本でしか見つからないであろうこの本は
精神を病んだ主人公が、幻影にうなされ、最後は自死する様を描いている。)
ショスタコーヴィッチの複雑でめんどくさそうな人柄が気になり、そして
毎回曲の解説が、随分と丁寧に書いてあるので、
必死に理解しようとして、読み進める。
交響曲はすべて解説付きだったおかげで、
夜な夜な、もしくは通勤途中の時間を使って、
結局のところ、ほぼ全部の交響曲を聴くこととなった。
読みがらは、音楽を聴かせてはくれなかった。
いちいち音や拍の取り方が不可思議すぎて、
気になって仕方がない曲ばかりだったからだ。
どんな精神状態でこんな曲を書くんだろうか、と気になり、
結局、聴いた後に解説をまた読み、を繰り返していた。
(どんな曲でも名盤で聴かせてくるApple Music万歳。)
序章ですでに、「トランス状態のやっつけ仕事」という批判を筆頭に、
ショスタコーヴィッチの楽曲に対する
否定的な見解が目一杯紹介されている。
そして、「マーラーの音楽が、十九世紀的なヒューマニズムの精神を体現し、
そこに生きる人間の高貴さのシンボルであったとすれば、
ショスタコーヴィッチの音楽は、それとは対極的な立場にあって、
死の恐怖に対する人々の不安、
愛や熱狂へのヒステリックな絶叫であり、
同時に鎮魂へのひ弱な願いのシンボルであった。」と評される。
非常に個の、生々しい感情に裏打ちされた音楽性があるのならば、
それがどんなものなのか、気になってくる。
基本的に、本はショスタコーヴィッチの人生に沿って書かれている。
それは、時代の流れと、生まれた国に翻弄され、
その中で作りたい音楽と在りたい自己と、
叶わなかった思いや自己の在り方との格闘の軌跡のようなものだった。
結果的に、まさにショスタコの楽曲の多くと同じような
一見、ひどく錯綜して複雑で、どう受け止めたらいいのか分からない、
けれども、その混乱の生々しさがひどく人間的である、という
もやもやした整理のつかないものを、どしん、と置いてくる。
心の内の混乱を、音楽で凌駕しようとする必死さと、
その必死ささえもどこかで俯瞰して、さらに音楽の中に落とし込もうとする
貪欲で狂気じみた何かしらが、終始感じられた。
と書いても、詳細は本を読んだ方がいいので、
本の中で紹介されていた興味深いものを挙げていく。
バレエの題材
ショスタコが手がけたバレエ音楽だから、というよりも、
バレエとなりうる題材にこんなストーリーがあったのか、という
驚きが勝っているという点で、紹介。
「黄金時代」
サッカーチームがある国の工業博覧会に招かれ、
そこでファシストたちが、選手を虜にしようと艶かしい舞を見せる。
しかし、サッカー選手たちは民族音楽を織り込んだ
「連隊の踊り」で対抗、そして、
ファシストたちの健康を宿する乾杯を拒絶したキャプテンが
ファシストたちに襲われる、、、。
「ボルト」
ある作業班の一人が、サボタージュを画策する
危険分子であることがわかり解雇するも、
その分子が少年を焚き付けて、工作機械にボルトを挟み事故を起こさせる。
事故がサボタージュの仕業であることが明らかになり、
新しい工作機械が購入され、工作機械の周辺で
賑やかな踊りが繰り広げられる、、、。
ショスタコは無類のサッカー好きだったらしい。
オペラになると、もっと愛憎劇に寄っていて世俗的だけれど
過去の有名なオペラにもありそうな話の展開となる。
棲み分けが面白い。
作品に対する評価コメント
作品を発表するたびに、さまざまな立場の人たちが
作品の評価をコメントしていて、それが著者の見解とともに
色々と紹介されている。
ピアノ協奏曲第1番
「この作品は、ぼくには未熟で、形式面でもばらばらに聞こえるね。
素材自体についていうと、、、このコンチェルトは、
様式的にちょっとけばけばしすぎているようだ。
いわゆる、いい趣味の要求にはあんまり合致していないってことだ」
(プロコーフィエフ)
ムチェンスク郡のマクベス夫人(オペラ)
「打楽器と金管楽器がフォルテッシモを奏でるたびに、ジダーノフとミコヤンは
びっくりして笑いながらスターリンのほうを振り向いていた」
(ラダムスキー)
(荒唐無稽だと批判されたことへの擁護側の意見として)
「明らかなのは、だれかひどく強力なある人物が
たまたま劇場に立ち寄り、音楽をまったく理解せずに聴き、
こきおろしたということだ」(プラトーノフ)
「これから音楽に枯渇と幼稚さが君臨するのではないかと心配している」
(ミャコフスキー)
交響曲第5番
「われわれが今耳にしているのは、「社会主義の交響曲」です。
ラルゴは、地下で働く労働者、アチェレランドは地下鉄に対応している。
アレグロは、それぞれ、巨大な機会工場と、
自然に対する勝利を象徴している。」(ストラヴィンスキー)
「ショスタコーヴィッチは音楽が具体的に何かを
描いているとされることを嫌っていました。
本心を隠そうとしていたのです。
ただし、あのフィナーレの持つ不気味さは、
37年の恐怖の暗示と言って良いのかもしれません。
そして、5番、あれこそがイソップ語の見本なんです。」(バルシャイ)
「ショスタコーヴィッチは、自分の想像上の誤りを
、想像上での緊迫した精神内部の闘争を通じ、
根本的に有機的に克服するという最も抵抗がある道を、
唯一の真実の道を選択した。」(雑誌ソヴィエト音楽)
交響曲第6番
「フィナーレは限界的な輝きと達者な
オーケストレーション技法によって書かれている。
内面的な内容は、人生のすべてのものに対するシニカルな嘲りである。
人生は酒場であり、狼藉であり、
不埒であり、シニカルな淫蕩である、、、」(ゴリデンヴィゼル)
交響曲第8番
「聴衆はほとんど理解できないだろう」(ソレルチンスキー)
「幻滅したとは言わないが、なぜかあてにしていたほどに
魅了されなかった」(プロコーフィエフ)
交響曲第9番
「輝かしい人生肯定的な力の勝利に対する、
強い信念を感じさせる楽観的悲劇」(ハチャトゥリャーン)
「アイロニックな懐疑主義と様式化」(ネースチエフ)
(この楽曲ができた背景をまったく知らずに今まで聴いていたけれど、
ちょうど独ソ戦が終わった後に発表されていた。
交響曲第9番といえば、有名どころの作曲家が皆
特別な意味を持たせている。
特に第1楽章の軽めな感じはらしくないな、と思いながら
9番を思い出していたら、やはり意見様々だったよう)
交響曲第10番
「輝かしい人生肯定的な力の勝利に対する、
強い信念を感じさせる楽観的悲劇」(ハチャトゥリャーン)
「暗く、陰鬱な力と戦い、勝利することのできる
肯定的なヒーローのイメージを構築できなかった。」
「とくに器楽のジャンルに取りかかると、なぜ今もって、
濃厚な心理主義や陰鬱な思考に彩られたモダニスティックな世界観の影響に
作曲家が完全に屈服するという矛盾したプロセスが生じるのか」
(アポーストロフ)
その後、ソヴィエト音楽の権威の頂点に行きつき、
その時々の手厳しい評価の数は減っていったようだ。
DSCH
自分のイニシャルを音に当てはめて、
レミ♭ドシを多用する曲を結構作っている。
バッハのBACHは有名だけれど、そこを狙ってくるところに
さすが自意識高い感じがやはり、ある。
ついでに、自分の好きになった人のイニシャルを
音に転換して入れたりしていて、
文章を書くような、絵を描くような刻印を感じさせる。
本の中には、このイニシャルを含む楽曲が
密接にその時代背景や、その時代と自己、存在意義などとの葛藤の
表れであることの仔細な状況について、書かれている。
客観的に見て、やはり変質的な執着が感じられないわけでもなくて、
その執着のわけを一つ一つさらっていく解説が面白い。
時代の文学者たちが書く詩を題材にした曲も多く、
思考が非常に文学に寄っている人なのだろうと思うと、
音を音として捉えてアレンジするのと同時に、
音符に意味を付与するという行為も、どこか納得がいく気がする。
自分の作品についてのコメント
発言や新聞、ラジオへのコメントとともに、
ものすごい手紙魔だったようで、たくさんの書簡も残っている。
交響曲第6番
(「頭部のなユニークなトルソー」などと揶揄されたり、
多くの作曲家を憤らせたたのに対して)
「こういう状況にいきり立つまいとどんなに努めても、
子猫どもはやはり、心を軽く引っかくのです」
交響曲第8番
「非常に心配しています。思うに、ぼくがいつも心配するのは、
作曲家というものは、おおむねあまりにもわかりすぎているという
理由によるものです」
交響曲第9番
「あれは気に入ってもらえない、、、、
音楽家は満足して演奏するだろうけれど、批評家は罵倒するだろう」
交響曲第10番
「人間の感情と情熱を伝えたかった」
モスクワよ、チェリョームシキよ(オペレッタ)
「恥ずかしさで身の縮む思いです。、、、退屈で才覚を欠いた、愚かしい劇です」
「ぼくは大いに集中し、好奇心を持ってこの仕事にあたりました」
弦楽四重奏曲第8番
「やらなくては、と映画音楽のスケッチを書こうと、
いくらがんばっても全然書けないのです。
その代わりに、誰ももとめていない、イデオロギー的に欠陥もある
弦楽四重奏曲を書きました」
弦楽四重奏曲第9番
「創造上の下痢」
(書簡の中で)
「(62歳を迎え、普通の人ならまた、生まれ変わっても
同じ人生を送りたい、と答えるだろうけれど)
ぼくは、こう答えるでしょうね。
「そんなことはありません!千倍も違った生き方をします!」
交響曲第14番
「きわめて迅速に作曲しました。14番の交響曲を書いている間じゅう、
私は自分の身に何か起きるのではないかと持続的に恐れていました。
私の右手が機能しなくなったり、突然目が見えなくなったりということです。
そういう思いで片時も心休まるときがありませんでした。」
「永遠のテーマ、永遠の問題があるということが、頭に浮かびました。
その中には、愛と死があります。
私の詩の選択はきわめて無作為のものです。
でも、私にはそれが、音楽を通して一貫性を与えられているように思えます」
弦楽四重奏曲第15番
「第1楽章は、ハエが空中で死んで落ちるように、
聴衆がまったく退屈してホールを去るように演奏してください」
この最後の弦楽四重奏曲第15番を聴いてみたら、
本当にほぼすべての部分が、深遠で、静的で、やもすると
確かに聴きどころを見失うような楽曲なのだけれど、
旧ソ連であるエストニア出身の
アルヴォ・ペルトの初期の作品に通じるものがあった。
ペルトを好んで聴いていた身としては、結局のところ
絢爛と狂気と沈痛が入り混じったそれまでの楽曲より、
亡くなる直前に書かれた、死にのみ意識が向かっている
ひたすら静謐な音楽が、図らずも気に入った。
レーニンの死、スターリンによる全体主義から
社会主義リアリズムに則り、
「形式においては民族的、内容においては社会主義的」であること、つまり
1;現実を、その革命的発展のもとで、
正しくかつ歴史的な具体性を持って描写すること
2;その描写は、社会主義の精神に則った
思想的改造と教育という課題と結びついていること
を音楽に求められ、文字通りの自分の命、と地位を守るため、
それらの命令に表面上では従っているように見せ、
楽曲の中に忍ばせた内心の裏切りは、近しい人たちにしか明かさなかった。
ショスタコーヴィッチが涙を流したのを
息子が見たのは二度だけだったいう。
一度目は、最初の妻が亡くなった時、そして
二度目は、共産党への入党を余儀なくされた時。
ひたすら交響曲を中心に聴き続けてきて、
正直なところ、少し疲れた。
本にはすでに書かれているのだけれど、
69年の人生で、こんな激しい曲ばかりを作り続ける原動力とは、
途方もない、と呆然とする。
今、まさに交響曲第7番を聴いている。
この楽曲は、レニングラードという名前がついている。
レニングラードでの初演は、
ドイツの包囲が始まって1年近く経った1942年のことだった。
食料もままならない状況でこんな楽曲が演奏できる気力などない、と
不平を口にする演奏家をなだめ、レニングラード出身の音楽家も集めた。
奇しくも、演奏の日は、ヒトラーは同じレニングラードのホテルで
祝賀晩餐会を開催することになっていたので、
戦略的な意味も多分に含まれたことになる。
コンサートが無事終えられるよう、ソ連軍は砲弾3千発を敵陣に打ち込み、
演奏中、砲声やサイレンによる空襲警報は
万が一の時のみとするよう指令が入った。
レニングラードのすべての街頭の拡声器のスイッチが入れられ、
市民は音楽を享受する。
その後、スコアはフィルムに写され、
鉛のボックスに入れられて、テヘランからイラク、
カイロからサハラ砂漠をこえ、アメリカへ渡った。
そんな逸話を読んだら、色々想像して否応なく
音楽の高まりに反応して、何かしらを鼓舞される自分がいたりする。
本のあとがきでは、ロシア文学研究者である著者が
ショスタコーヴィッチの音楽を聴く喜び、について書いている。
「ソヴィエト全体主義との対話が必然的に招き寄せる
ある種のいかがわしさを、一個の「個人文体」として受け入れ、
それを「愛する」ところから始まる。」
「作曲家が受けた長い抑圧を、わたしたちは彼の「異質」な音楽を通して
追体験し、そこに共通の空間が生まれる。
喜ばしいことに、詩神は最後まで彼を見捨てることはなかったし、
彼も見事にその期待に「応え」て見せた。
彼の栄光は、傷だらけというのが正しいだろうが、
21世紀に生きるわたしたちにとって、まさにその傷の共有こそが
かけがいのない価値を帯びているのである。」
私はショスタコーヴィッチの人となりと、音楽を
無条件に享受し、愛するところまで、まだ
辿り着いていない。
ただ、一人の表現者が、究極的な不自由の中で、
最大限自己に忠実でありたいと思いながら、
時に自らを欺き、けれども、在りたい自己の姿を追い求めた
その戦略と姿勢と苦悩、それらとただひたすら向き合ってきた真摯さには、
どこかしら、憧れるものがないわけではない。
(あんなに錯綜した人格は大変そうだし疲れそうだけど)
著者の抜粋にも通じるところだが、ソ連独特の全体主義ほどではなくとも、
今のこの時代、抑圧と抵抗を感じることはいくらでもある。
自己との向き合い方、そして、その表出の方法について
自らを省みるための一つの、そして圧倒的な事例として
随分と、心奪われる人生であることは間違いない。
〜 追記 〜
さんざんショスタコの楽曲を聴いた後、
改めて森の歌を聴いてみると、
特に5楽章目の旋律や盛り上がりには
やはり、社会主義的な、もしくは軍歌的な匂いがしないわけでもないけれど、
総じて、他のショスタコの楽曲に比べて圧倒的に聴きやすいことがわかった。
そして、私がどこか社会主義的な、と感じる音作りそのものが
私の記憶の中のショスタコ経験によるものであり、
自分自身が知らず、ショスタコとソ連を結びつけて聴いていたのだと
気づいてしまった。
本によれば、森の歌を作った頃、ソ連の文化、芸術統制が行われていた。
すでに「ムチェンスク郡のマクベス夫人」で政府からの批判を受けていた
ショスタコーヴィッチは、スターリンの政策に媚び、肯定する楽曲を
作らざるを得ない状況に置かれていた。
迎合の極みのような位置付けの曲が、
結果的に聴きやすかったことは、
自我を入れ込んだ瞬間に混沌とする、という他の楽曲での現象を
裏付けるもののように聴こえる。